poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

イスラエル及びパレスチナ自治区篇 その2

2021年07月04日 | アジア
旅の後半では、下の地図の➍~❾と➊を訪れました(②③は旅の前半で訪れた場所です。地図上で表示が重なってしまうため➎➏➐は複数の箇所をひとつにまとめましたが、それでも数字でガリラヤ湖がほぼ隠れてしまいました)。また、後の下線部の数字にも対応しています。なお、浅葱色の部分がイスラエル、レモンイエローの部分がパレスチナ自治区です。浅葱色の部分はフリーハンドで着色したので、粗くはみ出ていることをご容赦ください m(_ _)m  
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2・4・6・5・6 エルサレム ⇒ベト・シェアン ⇒ヤルデニット ⇒カペナウム ⇒タブハ ⇒ティベリヤ (2012年12月29日)

3晩過ごしたエルサレムを離れ、北部へ向かう日。ドライバー兼ガイドさんが8時にピックアップしてくれることになっていた。
ガラス張りのロビーから何気なく外を眺めていると、視界の右端にシルバーグレーのバンが映った。スキンヘッドにグラサン、迫力ある男性がトランクを閉めている。チャーター車はあーいうタイプなんだよなぁ・・・なおも見ていると、例の男性が扉を開けて入って来るではないか。「あの人じゃない?」ささやく私に、Cちゃんは「まさかぁ~」
そこへ、件の男性が私の苗字を発した。「Yes!」と返す自分。勘は的中したのだった
ある程度予想はしていたが、美しい英語を話すガイドのEさんに対し、自分の英語で大丈夫なんだろうか(Cちゃんは英語アレルギー気味らしく、旅では何となく私が英語担当、Cちゃんが現地の言語担当となっている) 一抹の不安をおぼえつつ、2日間のチャーター旅がスタートした。

最初の訪問地ベト・シェアンへ向かう途中、ヨルダン川西岸地区を通過した。後から思い起こすに、エルサレムを出てトンネルを抜け右手に死海が見えた辺りでイスラエルを出ていたのだろうと思われる。いつのまにかパレスチナ自治区に入っており、右手にヨルダンとの国境、左手にエリコなどを通過しつつかなりの時間北上した(距離にして数十㎞)。そして、イスラエルに再入国なのだった。
車の窓越しにパスポートを渡した女性係官は、肩からマシンガンとライフルを提げている。マズイ対応をしたら撃たれるんだろうか・・・日頃なじみのないものを目の当たりにしてビビる自分 男性係官からの質問には、全てガイドのEさんが答えてくれた。国籍を聞かれたのだが、アメリカと同盟国であることにこれほど感謝したことはかつてなかった。
当然ながら厳戒態勢ではあるけど、車から降りずして終わったことを思えば、審査は相対的に緩いと思う。
エルサレムとベツレヘムの間を往復した時も思ったが、イスラエルからパレスチナ自治区へ出ていくのはノーチェック、逆に入国時は審査あり。去る者は追わず 不思議なシステムだ・・・

ベト・シェアンの遠景【紀元前の文書にも記されている歴史の古い町。交通の要衝で、エジプトへ向かうキャラバンも通過したという。最も古い遺構は紀元前5,000年頃に遡るらしい】。

ローマ時代の円形劇場。

床には文字のモザイクがある。黒いマネキンが雰囲気づくりに一役買っている。

この写真だけ見たら、ここがイスラエルとは思いつかないかも・・・


次はヤルデニット【ガリラヤ湖南端に位置し、湖水がヨルダン川に流れ出すポイント】。水に入れると知って、訪問地に組み込んだ。
白い衣を着た人々がまさに浸水の儀式の最中だった。

水をかぶることはないにせよ手くらいは浸そうと思っていた。が、人工的なゴミや油が浮いている水面がどこも続いていて・・・結局、触れることはしなかった。
浸した後すぐにウェットティッシュで拭うのは何か違う気がして とはいえ、かつてガンジス川に触れた時のことを思い出しつつ、無念ではあった。臆することなく飛び込んでいくことができない・・・これは心が老いたということなのか。

ガリラヤ湖を右手に見ながら、イエスが布教活動をおこなった北西岸へ向かう。
下の写真はカペナウム【ナザレを離れたイエスが拠点とした場所。表面に残るシナゴーグ跡は後世のもので、前代のものは地中に眠っているという】。奥の建物はギリシャ正教会の聖堂。出発前に読んだ本で、イエスがシナゴーグで説教したことを知りたいそう驚いた。が、キリスト教がユダヤ教から分かれ出たことを思えば至極当然なのかもしれない。

ガリラヤ湖・・・空とひとつに溶けあうかのように美しい。

たまらず湖畔に降り、ついに手を浸した 先ほど躊躇したのは、ここで初めて触れるためだったんだ・・・などとムシのよいことを思ったりする
思ったほど冷たくはなかったが、ガンジス川よりも水温は低いと感じた。緯度が高いから? いや・・・夏に訪れたらまた違うのだろうか。


次にタブハ村を訪れた。先ほどのカペナウムより約1㎞西の、これまた湖畔にある。
まずはパンの奇蹟の教会【2匹の魚と5つのパンを祝福によって増やしたイエスが、説教を聞きに集まった5000人の人々に分け与えたという奇蹟にちなんで建てられた】。
下の画像、祭壇の下の岩の手前に魚とパンのモザイクがある【岩にはイエスが腰掛けたとされる】。保存のため一帯が立ち入り禁止になっており、ズームで撮ったがピンボケ・・・
ごめんなさい

ビザンツ時代の床モザイクがふんだんに残されていた。モチーフは動物と植物。大小様々な鳥が目立つが、左手前には蛇も描かれていた。

右の動物は何だろう


同じくタブハ村にある、ペテロ首位権の教会【漁師だったペテロとアンデレの兄弟に出会ったイエスが、弟子に勧誘した場所とされる】。
外観はこんな感じ。すぐ横(この画像でいうと手前側)にはガリラヤ湖が広がる。

この教会の祭壇は大きな岩である。十字架上で死して復活したイエスが、弟子の前に現れて食事を与えた場所という(場所には諸説あり、真偽のほどは定かではないが)。

外にはイエスとペテロの像。「私についてきなさい。あなたを、人間を獲る漁師にしよう」だっけか
ところが、よく見ると下に「私の羊を飼いなさい」とプレートが付いていた。これだから中途半端はいけない・・・自分を戒める。


タブハ村近くの、山上の垂訓教会へ【「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」「狭い門からはいれ」等、イエスの著名な説教がこの丘で行われたとされる】。
教会は1930年築、新しくモダン。壁面高くのステンドグラスには、8つの垂訓がラテン語で記されている。

丘を意識してか、うずたかいクリッペの幼子にご注目あれ。ベツレヘムの土産物屋で見かけた彫像と同様に、両手を合掌している。もっというなら、幼子がひときわ大きくて他の人物とサイズ感が違う。

教会の外観。木々の向こう、わずかにガリラヤ湖が見える。

駐車場から見下ろすガリラヤ湖。水彩画のような空と湖面に見とれるうちシートベルトを締め忘れてしまい、ガイドのEさんに注意されてしまった。てへっ


ティベリヤに戻って15時半過ぎ、遅い昼食をとった。名物のSt.Peter's fishにありつく【口に銀貨をくわえた魚をペテロが釣り上げたという伝説に基づく】。フライにされた淡白な白身魚に柑橘を絞って食す。ガイドのEさんによると、ティラピヤだそうだ。
さらに、出発前から楽しみにしていたゴラン高原の赤ワインに遭遇、即注文 魚には白、のセオリー無視はご愛嬌 Golan Sionは口当たりがまろやかで自分好み。植物の枝が描かれているエチケットも美しい。紹介したいのに、どうしたことか全く画像を撮っていなくて・・・ごめんなさい
ここにきて、朝からバックミラー越しの会話だったガイド&ドライバーのEさんと食事しながら会話。色々と聞きたいことはあったのだが、ひとまず年齢をたずねたら52歳と判明。当然ながら、質問返しで私たちも年齢を聞かれる。そして家族の話になり、結婚しているのかどうか・・・いつもの流れになる。あぁ、ヤブヘビだったわ

17時半、ガリラヤ湖畔のホテルにチェックイン。このホテルはリビングルーム付きのジュニアスイートで、自分が海外で泊まったホテルで5本の指に入る豪華さ
温泉のスパとサウナに入り放題。部屋にはカプセル式のコーヒーメーカーが置いてあったし、果物等もふんだんに用意されていた。
下の画像のナッツやドライフルーツも準備されていて驚愕 なお、Yardenの赤は自腹で購入


明朝には発つので、ティベリヤ探訪はここしかないと街歩きに出かけた。下の画像はジャーマ・アル・バフル【十字軍時代の建物跡につくられたイスラーム寺院】。


私たちが目指したのは、聖ペテロ教会【先述の、ペテロが釣った魚を記念して12世紀に建てられた】。日が暮れているのもあり、入口が分かりづらくて一周してしまった。一般住宅のような、ここか?と思うような入口のベルをCちゃんが鳴らしてくれたので、無事入ることができた。感謝
祭壇の上部には船に乗るペテロ。遠目には砂絵のように見える、不思議な作風だった。

壁の装飾には魚と鍵のモチーフ、ステンドグラスも魚・・・そこかしこにペテロを感じさせる教会である。

中庭に出てブロンズ像を見ていたら、教会の方がさっと灯りを点けてくださった。温かい


6・7・8・9 ティベリヤ ⇒イーガル・アローン・センター ⇒カナ ⇒ナザレ ⇒ツィッポリ ⇒メギッド ⇒ハイファ (2012年12月30日)

目覚めると、隣りのベッドにいるはずのCちゃんがいなかった。私を起こさないようにそっと部屋を出て、撮影に行ったらしかった。
自分も急ぎデジカメをつかんでガリラヤ湖に面するベランダに出ると、まさに陽が昇ろうとしていた。

鳥たちの鳴き声だけが響くなか、迎えた日の出。静謐とはこういうことか・・・


シャクシュ―カ【イスラエルの卵料理】3種類のほか、豪華な朝食ビュッフェに舌鼓をうった(例によって、画像を撮ってなくてごめんなさい)。
ドライバー&ガイドのEさんが9時前にピックアップに来てくれて、この日はまず数㎞北のイーガル・アローン・センター(ガリラヤ湖北西岸)へ向かうことになっていた。
その目的は舟を見ること【1986年にガリラヤ湖底から発見された舟は、調査の結果イエスと同時代=1世紀のものと判明。修復されて展示されている】。
自分が予想していたよりも大きく、十二弟子がぎゅう詰めで乗れそうな大きさだった。木製なのに、2000年近くも水中に眠っていたとはスゴイ


次の訪問地カナは小さくて素朴な村だった。ガイドのEさん曰く、昔はナザレ(父ヨセフと母マリアの故郷であり、イエスが育った場所)のほうが小さかったのに、ネームバリューでいまや逆転したんだそうだ。
教会は婚礼の奇跡を記念して建てられた【イエスが最初の奇跡を起こしたのがここ。母マリアおよび弟子とともに婚礼に招かれたイエスは、祝宴でワインが足りないとなった時、水の入った甕を6つ持って来させて全てを良質のブドウ酒に変えたという】。

日曜礼拝の真っ最中で祭壇には近づけず、讃美歌を心の中でハミングするのみ。礼拝堂以外の場所を見学した。
古い時代の遺構だろうか・・・お金が投げ入れられるのは日本の聖地と同じだな~

ワインに変えられた水はこんな甕に入っていたのだろうか、な~んて妄想に耽りつつパシャリ【この記事を書くにあたり調べたところ、2~3メトレテス(=78~117リットル)入る甕らしい。が、この画像の甕の容量はどのくらいなのか、さっぱり見当がつかない自分である

参道沿いの土産物屋でランプを買った。シンプルな素焼き。使うアテもないが(笑)、先ほどのイーガル・アローン・センターで見かけて影響を受けたのかもしれない。
「カナの婚礼」をうたうワインも置いてあったが、不味いとガイドのEさんが教えてくれたので買わなかった。名前だけのワインは頭痛を引き起こすらしい 

10㎞ほど南下してナザレへ向かう。
受胎告知教会の周辺は、参拝客目当てのレストランや土産物屋でにぎわっていた。美しく積み上げられた果物たち。

ここはイスラエルで訪れた教会の中で最もモダンなデザインだった。
マリアが受胎告知を受けたという洞窟を取り囲むように設計された、3階構造の大きな教会堂。三角屋根は乙女マリアを象徴する百合の花がモチーフとも、アヴェ・マリアのAをかたどったともいわれる。

ファサードには福音書の著者たちが彫られていた。下段左からマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。

ブロンズの扉にはイエスの物語。

正午頃の日射しを受けるステンドグラス。これ、時間帯によって刻々と雰囲気が変わるんだろうなぁ~

正面の人だかりしている所が件の洞窟。その上の回廊は2階部分にあたる。

洞窟に近づくと、こんな感じ。雰囲気のある岩肌。

最上階の礼拝堂、正面が祭壇。

粋なデザインの聖書台。

後ろを振り返ると、こんな感じ。

各国から贈られた聖母画が掛かる一角に、日本のを発見。
ガッチリ東洋風だわー マリア様がお市の方に見えるのは気のせいか


次は、十数㎞西のツィッポリ遺跡へ。事前にガイドブックで見たモザイク「ガリラヤのモナリザ」に魅かれて、訪れることにしたのだった。
遺跡の奥まった所に建てられた保護屋の中にそれはあった。


ちなみに、モザイクの全体はこんな感じ。時計でいう9の位置に「モナリザ」がいる(スポットライトが当たっている部分)。
中央部はギリシャ神話がモチーフだろう。

前日に訪れたベト・シェアン同様、マネキンが立っている。イスラエルの遺跡は他もこんななのかなぁ

先ほどのと作風は異なるが、この遺跡にはモザイク画がふんだんに残されていた。

やぎ座なもので、つい ん、角がない・・・ってことは、違うのか




20㎞ほど南下して、この日最後の訪問地メギッド遺跡へ。
ここまで昼食をとっていなかったので、見学前に遺跡内の食堂で腹ごしらえ。本日の宿泊地ハイファに着いたら、美味しいファラフェル屋に連れて行くとガイドのEさんがはりきっていたので、スープとピタパンだけにした。ダル豆ベースのスープは、ふとトルコを思い出させた(こちらも画像を撮っていません

ここは他の遺跡とともに「メギッド、ハツォル、ベエル・シェヴァにある聖書時代の遺跡丘」として世界遺産に登録されている。
今はのどかに丘が広がるばかりだが、歴史的には軍事的要衝だったらしい【ここメギッドの丘(ハル・メギッド)は「ハルマゲドン」の語源といわれ、ヨハネによる黙示録に記された最終戦争の舞台と信じられている】。


古代につくられた地下水を汲み上げるシステムが評価されて、世界遺産に登録されたという。たしかに、雨の少なそうなこの地域でたくさんの人口を支えるためには不可欠だったんだろうな・・・長~い階段を降りて、地下水路を見学することができる(画像中央でブレているのはガイドのEさん)。

帰り道に見かけたシクラメン。


こちらがガイドのEさんおススメのファラフェルサンド【ファラフェルとは、ひよこ豆のコロッケ】。アボカドが彩りを添えていた。ファラフェルって1個が小さくて、複数個食べるのねー 日本のコロッケとは違う感覚


ハイファ最大の観光スポット、バーブ廟(下の画像の金のドーム)とバハーイー庭園を見下ろすスポットへ連れて行ってもらった【内部の自由見学はできず定時のツアーに参加するしかないが、この日は終わっていた。ハイファは様々な宗教が共存する特殊な町で、19世紀前半に開かれたバーブ教をもとに発展したバハーイー教の聖地でもある】。

東を望むと、湾の向こうまでギッシリと建物が続く【ハイファはテルアビヴ、エルサレムに次ぐ第3の都市であり、ヨーロッパ方面から来る船が到着する現役の港湾都市】。
垣間見えるカンチレバー・クレーンが故郷を思い起こさせた。

ガイドのEさんと記念撮影して、ホテルへ送り届けてもらった。彼は名刺すら残さず颯爽と去った、2日間のわりに強烈な印象だけ残して。
「私はサムライ、あなたたちが親分」「言われるままに、あなたたちを守ります」・・・実際に言われたわけではないが、スタンスがはっきりしていた。サラリとして、観光ガイドというよりボディ―ガードと言うべき屈強な肉体を持つ異色の存在だった。
Eさんによると、厳格なユダヤ教徒の父親に育てられ、疑問を感じて15歳でarmyに入隊。17年間軍隊にいたというから、イラン革命や湾岸戦争当時在職中だったはず。現在は中古の家を改装して転売するのを生業としているらしいが、正体不明。security systemの仕事でチュニジアへ行ったり、十数年前には半年ほど京都にいたり。京都で入れ墨したとか、日本の暴力団のことも口走ったし、いったい何者なんだろう・・・世界各地で様々なガイドさんにお世話になってきたが、これほど不思議な人に出会ったことはない。
Eさんの父親のルーツはロンドン、母親はホロコーストで2年間捕まっていたらしい。
広島出身だと私が言うと、Eさんはもちろん分かっていて、家族はどうだったのかと心配してくれた。
身内がホロコーストに遭った方に直接会うのは初めてだった。Eさんの母親に何かあったなら、目の前のこの人は存在しないわけで・・・
ひとつひとつ命のバトンが受け継がれて人間が在り、歴史が紡がれていく。厳然たるその事実をただただ噛みしめるばかり。
惜しむらくは、自分の英語力 Eさんの英語は本当に綺麗でよく聞き取れたけど、いかんせんこちらの話す能力が追いつかず・・・バリバリ応答できたなら、もっと会話が弾んだに違いないし、なんだか奥深そうなEさんのことをもっと知ることができたかもしれない。残念至極

17時前、一旦チェックインしたホテルを出て街をそぞろ歩く。暮れてブラついていても、何の危険も感じない。出発前の心配は一体何だったんだろうと馬鹿らしくなる。政情を理由に取りやめなくてよかった、後悔するところだった
運よくハーバーviewだったホテルの部屋より。


9・1 ハイファ ⇒テルアビヴ (⇒イスタンブールへ出国) (2012年12月31日)

最終日、12時半離陸のイスタンブール便に乗るべくテルアビヴの空港を目指す。
前日にガイドのEさんが予約しておいてくれたタクシーに乗り、10分ほどで中央駅へ。スムーズに電車に乗り継いだ。
7時過ぎというのに、年末だからか列車は混んでいた。1時間半立つしかないとあきらめたが、1つ目の停車駅で運よく座ることができた。
空港では400NISを再両替し、100ドル戻ってきた。何度も旅してきたが、再両替するほど余らせたのは初めてな気がする。夕食をレストランではなく、赤ワイン片手に部屋飲みで済ませたのが原因ではないだろうか・・・それほどイスラエルの赤は美味しかった

いよいよ恐怖の出国審査。目安とされる3時間前、9時20分に列に並んだ。
女性係官によって質問が始まる。事前情報で得ていた定番の「イスラエルに知人はいるか?」「荷物は誰がパッキングしたか?」「誰かに何か頼まれなかったか?」などと聞かれ、ひたすらNo,Never.を繰り返す。
すると、私のパスポートをめくっていた係官が突如「インドネシアへはいつ行ったか?」と言う。
何それ 過去の旅について聞かれるんだっけ? そんなの聞いてないよぉぉぉ~~~ パニックになりつつ、「覚えていない」と返す。
なおもインドネシアに関する質問攻めが続く。「どこに泊まった?」「誰と行った?」「目的は?」そして「何日滞在したか?」
そんなの、正確に覚えてるわけないじゃん 
いい加減な返答は自分の首を絞めると判断し、観光目的という以外は覚えていないと繰り返す。
それでもなお、「滞在は1ヶ月?1週間?」としつこいので、「たぶん1週間くらい」と言うしかない。
それで攻撃は終わったのだが・・・(ちなみに、2006年8月19日から6日間が「正解」だった。これ、2週間と答えてたらまだ応酬が続いたんだろうか、背筋寒っ
それにしても、なぜインドネシアに引っかかったんだろう シールタイプのビザなので分厚くなり、そのページが開きやすくなってはいるけど。
(イスラエルが緊張関係にある)イスラム教徒の多い国だからとCちゃんは言うけど、そうなんだろうか・・・
ちなみに、手こずる自分と好対照にCちゃんは難なく質問をクリア。インドネシアはCちゃんとの旅ではなかったし、担当係官が別の人だったからかもしれないし・・・要因は不明。
ともかく体験してみて言えるのは、パスポートにビザがある国については答えられるように事前に軽く確認しておいた方がよいかもということ。

その後、荷物のX線検査と開封検査。こちらはわりとマシで、先端に何かが付いている棒で荷物をゴソゴソ探られる。特に引っかからず、5分で終了。
次は搭乗する航空会社のチェックイン・カウンターへ行くように言われるが、荷物を預ける前にお土産用ワインの位置を直さないことには割れてしまう。何処で荷物を開こうかまごついていると、先ほどの女性係官がどうした?と近づいて来る。うわっ 
面倒な場所から一刻も早く離れたかったが、ここで逃げたらもっとヤヤコシイことになるだろうな・・・覚悟して、ワインが入ってるのでと恐る恐る説明する。
と、梱包材を出してくるみ、fragile専用荷物として運んでくれるという。親切すぎる対応にビックリ 
審査をパスした途端に優しくなるんだな・・・ギャップに戸惑いつつも、自分でやるよりはるかに良い状態になったわけで、ラッキー
航空会社カウンターでの手続きはいたってフツー。ここまでで第1次審査が終了、40分要した。

第2次審査、まずは荷物のX線検査。デジカメは取り出して調べられたが、すぐ戻ってきた。フィルムカメラだったら大変なんだろうなぁ・・・
次のボディーチェックでは音が鳴らなかったので、身体を直接触られることはなかった。
最後にパスポート・コントロール。入国時と同様、緊張感は漂っていない雰囲気。もはやここまでたどり着けばO.Kということなのだろう。
今回はスタンプの有無を聞いてくれたので、ソッコー必要と主張。こうして2012年大晦日の出国スタンプが押され、イスラエルに滞在した痕跡がパスポートに残った。あぁ、嬉しい
ここまでで10分。というわけで、名高い出国審査も3時間前に空港に着けば問題なし これからイスラエルへ向かわれる方、ご健闘をお祈りします

★ 最後に ★

いつもの郵便事情から。最終日、テルアビヴの空港で投函した絵ハガキは10日ほどで友人たちに届けられた。日本への直行便が飛んでいないことを思えば、かなり早い。 
いっぽう、パレスチナ自治区から1枚だけ出したハガキは・・・友人Dちゃんとは旅行後ほどなくして会い、お土産も渡していたのだが、なかなかハガキが来ないなーと不思議に思っていたら2月下旬に届いたという。2ヶ月 ガリラヤとガザから出していたら結果はまた違っていたかもしれないが、今回はずいぶん差があったなぁという印象である。

これまで幾度となく一緒に旅に出かけているCちゃんと出会ったのは、大学1年の4月だった。第2外国語(中国語)のクラスは指定されており、初回の授業時に教室へ行ったら、狭い部屋にぎゅう詰め状態 2人掛けの長机が3つ×数列並ぶなか、Cちゃんの隣しか空いていなかった。最前列真ん中の席である 気後れしつつも、もはや座るしかない。「隣り、いいですか?」「どうぞ」。そうして自己紹介したところ、私の出身高校を聞いてCちゃんが反応。同じ教団に属するクリスチャンであると告げられ、親しみを覚えたのが始まり。
驚くべきことに、Cちゃんはいつも早く赴き率先してアリーナに着席。その所以は、中国語を頑張ると並々ならぬ決意を抱いているのだった。こちらが目を逸らせないほど真面目な人柄にも魅かれた。率直に言うと、自分はそこまで熱心に取り組もうと思っていなかった。が、結果的にCちゃんにつられる形で、週4回の語学の授業に最前列で参加したのだった
そして大学2年から3年にかけての春休み、北京に短期留学したCちゃんから絵葉書が届いた。そもそも初めて受け取るエアメールのうえに、いきいきと近況を伝えてくれる文面 
いたく感銘を受けて自分もと決意、大学3年の夏3週間を北京で過ごした。自分にとって初めての海外生活は毎日が実に刺激的で楽しく、新しい世界が開けた。これを機に中国語を極めるという方向にはいかなかったが、代わりに(?)海外旅行が趣味となった。

Cちゃんとは学科もサークルも異なる。中学・高校時代からギリギリで教室に滑り込むタイプだった自分。もしも初回の授業時にいち早く登校していたら、最前列の真ん中は選ばなかっただろう。更にキリスト教という共通項がなかったなら、2回目以降もCちゃんの隣りで授業を受けることはなかったかもしれない。人生、何が幸いするか分からないとつくづく思う。
弱いくせにお酒が好きな自分は、メチャメチャ強いCちゃんとその点でもウマが合った。大学時代はもちろんのこと、社会人になっても年に何回か宅飲みをしていた私たちだが、一緒に旅に出るまでにはさらに幾星霜かかった。それでもヨッパライの戯言に終わることなく、聖書の舞台への旅が実現して感無量 一人旅もこよなく愛する自分だが、感想を分かち合いながら進み、そして何年経っても共に語り合い振り返ることのできる旅もいい。

 おしまい 




















































































コメント
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