poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

マレーシア篇 その4

2024年09月29日 | アジア
いよいよマレーシア篇も最後です。この記事では、以下の地図の➍と➊を訪れました(なお、プトラジャヤはクアラルンプールに近いため➊にまとめています)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。

4・1 ジョージタウン ⇒クアラルンプール (2020年1月1日)

前夜は夜ふかし
カウントダウン・パーティーの音が1時過ぎまで聞こえていたので、日記を書いて過ごした。
自前のビールが尽きた後はcomplimentaryのジン、そしてウオッカをトニック・ウォーターで割りながら

8時ころ目覚め、まず窓を開けてみる。ん~ 朝の陽光がさわやか


朝食をとるため、新館(victory annex)のSarkiesへ向かう。白い廊下はピッカピカに掃除されている。



会場の様子などさすがに撮れないので魅力を伝えきれないのだが、たぶんこれまでの人生で最も贅沢な朝食ビュッフェだった
中華料理コーナーでは麺類をオーダーできるみたいだったし、パンや果物も種類が豊富、インド料理コーナーも充実。マレーシアの朝ごはんの定番、ナシッ・ルマはおにぎり2個大の米を葉で包んで蒸してあった。さすがに多すぎるのでパスして、中華式お粥を2杯いただく(画像は撮っていない)。非パン党の自分にとって、お米にありつけるのはホントありがたや~


朝からキッシュ

左端のモルタデッラは柔らかい舌触りに えもいわれぬ香り・・・


部屋に戻りがてら、前夜のパーティー会場の横をかすめる。

椰子の木の合間、道教の赤い祭壇がここはオセアニアじゃないよと主張している

このホテルに滞在した著名人たちの写真が飾られているコーナー(鏡にチラ写りする自分にモザイクをかけた)。
不勉強で大半が誰やら分からないのだが、孫文とチャップリンは認識できた。

ドリアンとマンゴスチンは禁止とな。カンボジアの部屋でドリアンを食べた翌朝、下水道の不調かと思ったら種が異臭を発していたのを懐かしく思い出した。面白すぎる 
てか、マンゴスチンもそうなのか 知らんかった・・・

この日は、夜までにクアラルンプールに戻ればよいという緩~いスケジュールだった。なおもこのペナン島を歩きまわることもできたが、それまでの2日半で充分満ち足りたという思いが強かった。
よって、チェックアウトの12時まで部屋でのんびり過ごすことにした。詰め込み魔の自分にしてはかなり稀有なパターン
前日は全く気付かなかったが、ベッド横の壁に何かを発見。

なんと、呼び鈴 在りし日の宿泊者たちの様子を勝手に妄想する・・・が、人を意のままに操るなど自分には縁遠すぎる異世界

紅茶を淹れて飲みながら、荷物をパッキング ←のんびりソファに座って堪能できないあたりが貧乏性
部屋備え付けのお茶缶たち。ラインナップに煎茶があるとは心憎い。
なお、売っていないかと後で館内のショップに行ってみたが同じのはなかった、残念 (それもそのはず、この記事を書くにあたり調べたところアメリカはニューヨーク生まれのメーカーだった


部屋を出る前、最後に再び窓に近づく。そう、旧館(heritage wing)にはベランダがないのだ。


前日の夕方から刻々と異なる表情を見せてくれたアンダマン海に別れを告げる。

ロビーにはクリスマス感が漂う。

ツリーの奥はこんな感じ。

チェック・アウトを済ませ、フロントにタクシーを呼んでもらう。待つ間も館内をキョロキョロ
その昔このホテルで使用していたと思われるお皿が展示されている(ガラスに写る自分にモザイクをかけた。通常はショッキングピンクで塗りつぶしているが、雰囲気を損なうと思い茶色にしてみた)。

下の画像、右に見ゆるは旧式のエレベーター。

アップで撮るとこんな感じ。

欲を言えば、ユニークなサファリ制服に身を包むベルボーイさんをカメラに収めたかったけど、勇気が出ず

フェリーターミナルへ向かう道中、タクシーのドライバー曰く 正月休みの人々が都会へ戻るから今日は混んでるよ、と。クアラルンプールへ向かう人が多いのかと尋ねると、他にもイポーやジョホール・バルへ行くのだという。日本と同様に、年末年始は帰省する習わしがあるのね。鉄道のチケット取れないはずだよ~
橋が架かる前の島民よろしく、フェリーでバタワースに渡ってクアラルンプールへ向かう。鉄道じゃないのが一抹の心残りではあるけど、古めかしい行程に準じてみた。
混雑の情報を聞いて、ふとマラッカへのバス便を待った数日前の記憶がよみがえる。1~2時間レベルで待たされるのかと思いきや、10分後の便から選び放題だった。供給が潤沢なようでラッキー
30分後発の便をチョイスし、待つ間にバスターミナル併設のショップでお土産のお菓子を購入。シャレで職場向けに買ったドリアンチョコ、さっそく鞄の中でかほりが漂っている感じ
(フラ仲間に買ったスタンダードなチョコは先生がいたく気に入ってくださった。ドリアンのは同僚からさして反応がなく、可もなく不可もなくなのか もし興味を持たれた方がいらっしゃったら、Beryl’sのチョコレートをお試しあれ)

クアラルンプールまでの数時間、この日の夜と翌日の行き先を考えながら過ごす。
なんとなく車窓に高層ビルが増えたなと思ったら、もうバスステーションの近くだった。結局バタワースから所要4時間40分、17時40分に到着。
この当時は19時半くらいが日没。明るいうちの到着でホッ
往きにKTMの遅さに懲りたので、迷わずKILA transitをチョイス。本日から2泊する宿の最寄りはKLセントラル駅。巨大な駅ゆえ反対側に出てしまうとサイアクなのだが、「ヒルトンホテルの反対側」を目指してあっさり解決。NU Sentralという大きなショッピング・モールの中をすり抜けてKLモノレール駅への道の途中で外に出ると、かなり高層のホテルが遠目に見え、いとも簡単に到着。やったね
ネット予約の画面を見せるまでもなく、パスポートのみでチェック・インが完了。
と、そう広くもないロビーで日本語が聞こえてくる。中学生らしき生徒たちを引率している教員が何がしか喋っているようだった。日本から比較的近くて海外経験を積むことができる、修学旅行先にはいいかもなぁ・・・時代だから仕方ないけど、20歳が初海外の自分にとってはうらやましすぎる
この旅最後の部屋は超シンプル。日本でいうなら東京駅付近に泊まるようなもの、狭いのはやむをえない。が、ダブルベッドなので専有面積がハンパない。どうやらこの国ではダブルが基本のようで、1人泊で予約してもシングルやツインの部屋に通されることはなかった。
そしてまた、この国でスタンダードな固定のシャワーヘッドだったが、すぐにお湯に切り替わる。率直に言ってホテルの外観は古びていたが、実利あれば良し

18時半過ぎ、ホテルを出る。マレーシア滞在もいよいよ大詰め、食事もカウントダウンが始まっている。チャイナタウン南のニョニャ料理店を選び、クラナ・ジャヤ・ラインで1駅のパサール・スニで下車。6日前に泊まっていたとはいえ足を踏み入れていないエリアにあるお店に向かう途中、ややさびれている感じがした。暮れかかっていることもあり、時折後ろを振り返りながら慎重に歩く。
遠目にお店はつぶれたのかと思ったほど、アピールはゼロ。でも近づくとopenの札が出ている。恐るおそる扉を開くと、あっさり通してくれた。19時で先客は3組。
店内にはレトロな冷蔵庫があったり、昔の写真が飾られていたり。


迷いつつチョイスしたニョニャ・ラクサは大正解 【海老のスープをベースに、スパイスとココナッツミルクを入れて煮込んだ麺料理】
辛いラクサにココナッツミルクが加わることで、自分好みの味わいになっている。一瞬 油条と見紛った厚揚げ(画像手前)は美味。画像には写っていないが、そのほかに鶏胸肉・カマボコ・モヤシが入っていた。麺は素麵のような極細のと、中華麵の2種入り。このお店にしてよかった

去り際、華人と思しき店員さんがお釣りを渡しにきてカタコトで "ありがとう” と。そっか・・・日本人とばれてたか。心の中でペロリと舌を出す。中国人と間違われることの多い自分、いつの頃からか どう見られるか面白がるようになった

食後はRiver of Life KLを見ようと決めていた。お店から500mほど北の方角を目指して、セントラル・マーケットの中を通って進む。5日前に下見したけど、ここにたどり着くまでの間にマラッカで・ペナンでお土産をほぼ入手してしまったので、結局買わずじまいだった。
パサール・ベサール通りに架かる橋の上から、50m北方を眺める。ここはクラン川(右)とゴンバック川(左)の合流地点で、クアラルンプールという地名由来の場所である。
【19世紀までジャングルだったこの一帯だが、1850年代に錫の鉱脈が発見されると中国人が入植。2つの川の合流地点に最初の集落をつくったらしい。錫を川で洗ったら水が泥のように濁ったといわれ、クアラルンプールとは「泥の川の合流地」を意味する。River of Life KLは、2本の川の浄化プロジェクトの一環として川面をブルーに照らすライトアップと、音楽に合わせた噴水ショーを毎晩実施している】

もう少しズームアップ。三角洲に建つはマスジッド・ジャメ【1909年にイギリス人が建築、市内最古のモスク】。
綺麗だなぁ・・・クアラルンプール最初の夜に失念しちゃったけど、リベンジする機会があったのはラッキー この町の原点を訪れずして去ることになっていたら、無念すぎる。

21時過ぎに始まる噴水ショーを待つのはさすがに難しく、退散することにする。
パサール・スニ駅へ戻る途中の果物屋さん。人通りを当て込んでいるのだろう、付近には他にも露店が出ていた。


例によって、帰り際にコンビニでゲットしたビールでがっつり晩酌。
柑橘の香りが効いてて美味しいな~ 帰国後にリピ買いするほど気に入った1664 BLANC。

この国で何度も口にしたtigerだけど、クリスタルは特別バージョンらしい。ビールの味音痴な自分にはあまり違いが分からなかったけど


1 クアラルンプール ⇔プトラジャヤ (2020年1月2日)

8時過ぎに起きて部屋の窓から外を眺めると、前日に通り抜けた巨大なショッピング・モールと林立するビルに囲まれている。
しみじみ、都会のど真ん中だなぁ・・・

そして、KLモノレールがバッチリ見下ろせる。

朝食は、汁物代わりの温かいビーフンから。青梗菜がうれしい

自分にしては珍しく、朝から肉に手を出す。


この日はまる1日時間があったので、少しだけ遠出することに。KILAトランジットに乗り、クアラルンプールの南25㎞にあるプトラ・モスクを目指す。
30分ほどで最寄りのプトラジャヤ&サイバージャヤ駅に到着。目的地へはさらにタクシーで10分かかる。駅を降りタクシーの表示に従って歩くと、構外にカウンターを発見。
ドライバーらしきインド系のおじちゃんがものすごい勢いで話しかけてきた。帰りのアシを確保しておけとガイドブックにあったので 往復でいくらか尋ねると、まずカウンターで2RM払えという。後はメーター制なんだそうだ。たしかにカウンターの貼り紙をよく見るとそう書いてあったので、素直にカウンターで支払う。受け取ったレシートをドライバーに渡し、乗って到着したら往きの運賃をまず支払い、待っていてもらって最後降りる時に復路のお代を渡すのだという。面白いな~ 
ちなみに、往きは10.2RMだったけどおじちゃんが端数をまけてくれて10RM、帰りは10RMジャストだった。

水辺に構えるピンク色のプトラ・モスク、青空によく映えている

付近は整備が行き届いている感じで、小綺麗。スリランカでいうスリジャヤワルダナプラコッテのように、ここは行政機能が集中している場所らしい。
【1990年代半ばから建設開始。「未来型エコシティ」を標榜し、エリアの38%を公園・湖・湿地帯が占める。人造のプトラジャヤ湖を囲むように、首相官邸をはじめとする行政機関が並び立つ】

いよいよ中へ【事前に調べたところ ムスリムでないと入場できないという誤情報が散見されたが、宗旨は関係なく入れるのでご安心を】。
さて、下2枚の画像をご覧ください。お気づきでしょうか・・・見学時に貸し出されるローブも濃いローズピンクというこだわりっぷり 
私もフードを頭からかぶり、ダルマ はたまた てるてる坊主のようなフォルムで見学しましたとも。恐ろしくて画像など載せられない、トホホ


内部も徹底的にピンク、ピンク、ピンク

観光地としてもメジャーらしく、バスが何台もやってきては中華系の人々を降ろし、賑わっていた。が、タクシー乗り場はない。
【プトラジャヤ&サイバージャヤ駅以外の所からタクシーで来て普通に降りてしまったら、帰りは歩くしかないだろう。最寄り駅を経由せず訪れる場合は注意が必要かも】

同じルートをたどって、正午ころKLセントラル駅に帰着。6日前に休日で振られたマスジッド・ジャメへ急ぐ。中休みがあるため12時半までに訪れないと、次は14時半以降になってしまうのだ。クラナ・ジャヤ・ラインに乗り換えて2つめ、その名もマスジッド・ジャメ駅へ。初めて降りた駅だったが、迷うまでもなく目の前に目的地があった。6日前には閑散として若干治安が悪そうに見えた付近は、モスクが開いているとガラリと雰囲気が変わり明るかった。なお、ここは前夜ふたつの川の合流地点に浮かび上がっていたモスクである。

受付で氏名・国籍・人数をノートに書かされる。書いている最中にJapanかと聞かれ、肯定する。今回このパターンが多かったな・・・華人系が3大勢力を占める国だから、違いが分かるらしい。中国人に間違われることがなかった、自分の旅史上ではレアケース。
ここでもローブをかぶる。ジョージタウンのカピタン・クリン・モスクにて この国に来て初めて羽織る洗礼を受けた際は暑さに閉口したが、もはや慣れてきた。マレーシアのモスクでは着衣指導が厳格。郷に入れば郷に従うまで
壁はレンガ造り。短パンの男性観光客たちは腰にバティック布を巻き付けている。

床は大理石。

装飾は控えめでシンプル。

モスクの北に垣間見えた古そうなドーム。旧連邦調査ビルのようだ。


次はエステに向かう。マレーシアでも体験してみたいと思い、ホテル内のスパに予約なしで飛び込んでみることに。
再びクラナ・ジャヤ・ラインに乗り3つめ、KLCC駅で降りる。首都随一の高層ビル街はさすがに巨大で、初めて踏み込んだエリアにとまどいつつ 地図を見ながら西へ進む。
無事たどり着き、ロビーにいたホテルマンに用件を伝えるとスパまで連れて行ってくれた。親切
スパの受付にはマレー系の男性スタッフ(30代前半くらい)が1人いて、メニューは何にするかと聞かれる。やはり、traditional Malaysianでしょう
すると、エステティシャンは男性しかいないけどいいのか?と問われる。ん そのメニューができるのは男性施術者しかいないということか、そもそもこのスパには男性スタッフしかいないということか?? 一瞬量りかねたが聞き返すほどの英語力もないし、プロであれば性別にこだわりはないので、もちろんYes.
今度は私の方から 何時なら施術できるか?とたずねると、僕は今空いてる、と。
ややっ まさかすぐに可能とは思っておらず、自分としては予約して一旦退くつもりだったので率直にビックリ あ、さっきのは今対応できるのは男性スタッフのみという意味だったか、なるほど・・・ともあれ、暑い中また歩いて戻って来るのも面倒だし、すぐに始めてもらうことにした。 
準備があるからと、プール前のソファでしばし待たされる。竹の装飾がほどこされた空間は、外気が通る構造になっている。


こちらが施術室。

共用の更衣室はなく、施術個室内にクローゼットがあり服と荷物を入れて鍵をかけるようになっている。使い捨ての紙パンツを履き、浴衣のようなものに着替えて待っていると、頃合いを見計らって先ほどの男性エステティシャンが入ってきた。
指示されるがまま、台(上の画像右)にあがって腹ばいになる。"マレーシアに来たのは初めて?” などと穏やかに会話しながら、背面から施術がスタート。
結果的に、お尻の半分まで紙パンツを剝がれた・・・イスラム教徒の女性だったら、ありえないんだろーなぁ。見ず知らずの男性と薄着で個室にいるので、大概恐れ知らずの自分もさすがにどうだろうと思わなくもなかったけど、それも一瞬のことだった。内側からは鍵がかけられない扉だし、ちゃんとしたホテルの中だからねっ ←これが主な理由で、あまたあるスパの中からここを選んだ
時間にして開始20分後くらいか、足の裏側を揉まれている時にうっすら意識を飛ばしかけたけど、最後まで眠ることはなかった。いつもは寝オチするのに・・・なんだかんだいって緊張してたのかな
どのあたりがマレーシアなのか素人にはよく分からなかったけど、力強いプッシュで しっかりほぐしてもらえた。凝り人にはラッキー 60分・238RM(≒7,000円)也。

来た道を戻り、スリアKLCC(ペトロナス・ツイン・タワーの6階までを占めるショッピング・センター)に入る。
こちらがクアラルンプールの象徴ともいわれるぺトロナス・ツイン・タワー(往きに撮影)【88階建て、高さ452m。タワー1を日本の企業が、タワー2を韓国の企業が建設した。マレーシア国営の石油会社ペトロナスの本社が入る。41階・42階にスカイブリッジが架かり、86階に展望スペースがある】。

中は吹き抜けになっている。

お正月らしい装飾。十二支は親近感ある、さすが中国文化圏だな~

この国最後の夜は、barで夜景を見ようと決めていた。その下見も兼ねてKLCCに足を運んだのだが、目星をつけていたお店はツイン・タワーの目の前すぎると判明し、他所へ行くことにする。やっぱ下見って大事だなぁ

再びクラナ・ジャヤ・ラインに乗り、途中KLモノレールに乗り換えてブキッ・ビンタン駅で下車。伊勢丹で高級めのチョコレートを買い、お土産をコンプリート。
さらに地下の中華料理フードコート(ロット・テン・フートン)で間食。といっても辛党なので、スイーツではなく牡蠣オムレツ【発祥は台湾とも福建省ともいわれる】。

荷物を置きにホテルへ一旦戻ると、17時前だった。
ツイン・タワーが見えるbarを検索し、18時に外出。再度ブキッ・ビンタンに降り立った。なお、この辺りは日本でいう原宿≒若者が多いスポットなんだそうだ。

伊勢丹とは道路をはさんで逆サイドにあるショッピングモール、パビリオン。アジアンテイストな噴水が素敵

その北にあるホテルの59階が目的地だった。予約なしで入れるかドキドキしつつ、エレベーターで上がる。
「暗くなる前に作戦」が功を奏し、庇の下のテラス席をゲット。際のテーブル席(下の画像)には通してもらえなかったが、途中から雨が降り出したので 結果的には濡れずに空中感を味わえるベストな場所を確保したことになる
日没まで1時間くらいなので、さすがに明るい。ツイン・タワーへの距離感がいい感じ

まずはマルゲリータ。18~21時に半額サービスで27.5RM(≒810円)也

グレーの空に映えるツイン・タワー。

西の方角にはKLタワー【421m、通信塔としては東南アジア1位の高さを誇る】。

迷ったが、2杯目もマルゲリータを注文(まだ半額)。

暗くなるほどに浮かび上がってくるタワー。

なお、東の方角は一転して高層ビルが少なめ。

3杯目はロゼワイン 45RM(≒1,323円)。

いつのまにかKLタワーが青に。

この年齢になったからこそ、こんな楽しみ方ができるんだろうなぁ・・・20代の自分だったら贅沢だと一刀両断、来ないな。
とはいえ昼間歩きまわって汗でベタベタのデニムにTシャツ、当時とさほど変わらない格好なのはこのさい棚に上げておこう

それにしても・・・クリスタルのように内側から放たれるこの透明感
これまで夜景にさほど興味がなく、日本も含め各地で追いかけてはこなかったので比較が難しいけど・・・クアラルンプールに泊まるなら、是非にとオススメしたい。



1 クアラルンプール ⇒出国 (2020年1月3日)

この日14時半過ぎの飛行機で帰国することになっていた。
8時過ぎに起きて朝食。敢えて前日とは異なるメニューを選ぶ。画像左からミー・ゴレン、ナシッ・ルマ、お粥・・・炭水化物のオンパレード

10時過ぎにホテルを出て、宿題のように残っていた国立モスク(マスジッド・ネガラ)へ向かう。何度となく乗ったクラナ・ジャヤ・ラインのホームにて。

たった1駅のパサール・スニへ向かう途次、目を引かれて思わず車窓からパシャリ クアラルンプール駅である【1910年、イギリス植民地時代の建築。2001年、KLセントラル駅が開業するまでは首都の中央駅だった。現在この駅に停車する列車は少ないものの、今なお現役】。

上の画像に引き続き、左はクアラルンプール駅。画像中央奥の水色の屋根が国立モスク【マレーシア独立の象徴として1965年に建設。金属製の屋根は18角形で、イスラムの五行とマレーシアの13州を表す。モスクで一般的なドームを持たず、敢えてモダンなスタイルの屋根にしたという】。

違う角度から、クアラルンプール駅。しつこくてゴメンナサイ

駅を降りて200m強、国立モスクに近づく。

ところが・・・開いていなかった。この日は金曜日、15時オープンなのだった。ガイドブックでは無休となっていたが・・・旅先あるある、縁がなかったと思うしかない

11時半前、ホテルで荷物をピックアップしてKLIA Expressにて空港へ。
正午過ぎに到着、搭乗手続きを済ませてウロウロしていると、前日にスリアKLCCで見かけたニョニャ・クエのチェーン店に再び遭遇【ニョニャ・クエ; 中国人男性移民と現地マレー系女性の子孫であるニョニャによって生み出されたお菓子。カラフルだが ローズシロップ、パンダンリーフ、バタフライピーフラワーなど天然の素材を使って着色】。
色とりどりのショーケースに思わず引き寄せられてしまう。




ちなみに、前日はこちらを食した。左がパンダンクー【亀の形をしたもち米のお菓子は何色かあり、赤いアンクーが最も有名。中には緑豆餡・小豆餡・ピーナッツ餡のいずれかが入っている。緑のはパンダンリーフで色を付けたもの】。右がplutドリアン【plut=もち米。バタフライピーフラワーで青く着色したもち米にドリアンで香り付けした黄色い餡をのせた、日本でいう「おはぎ」のようなもの】。

迷ったすえ、この日はこれらを食した。左がラピスselatan【ラピス=層。赤と白が9層重なるクエラピスが最も有名。ウイロウのような食感】。右は葉にくるまれていて、開くとミニ富士山のような形をしていたが、かじると中にグラムラカ(黒糖)で味付けされたココナッツが入っていた。

お酒を飲むようになってから、糖分は専らアルコールで摂るためお菓子は食べないことにしている自分。が、もともと和菓子好きなのでお餅系のニョニャ・クエは好みのど真ん中 
辛党もまんまと絆されるスイーツの魅力たるや・・・マレーシアを訪れたなら、是非お試しあれ。

★ 終わりに ★

記事「その1」を既読の方々はご存じの通り、マレーシア1・2日目に盛大にやらかした自分。実は、記事その3からその4にかけても2つ抜かった
ジョージタウン内のホテルを移動する際に、シャンプー・コンディショナー・洗顔料を置き去りにした。更に、身の丈に合わない高級ホテルのクローゼットに着古したジップアップパーカーを入れっ放しでチェック・アウトした(それがため、スリアKLCCのユ〇クロで代替の長袖を買うハメに)。そもそもフワ~ッと生きている自覚はあるが、それにしても これほど重なったことはなかった。旅が惰性になってきているのかなぁ、気を引き締めないと次は痛い目に遭うかも・・・反省しきりで旅を終えた。
それから何ヶ月もしないうちに世界は新型コロナウィルスでパンデミックとなり、3年半あまり海を渡ることはなかった。本当に何が起こるか分からない。

今回 マレーシア篇を書くにあたり調べていて、海南チキンライス・ホッケンミー・ラクサ・・・呼び名は同じでも、全然違うテイストの料理が隣国にあると知った。
東南アジアは随分まわってきたものの、未踏のままになっているシンガポール。いつか訪れてみたい、またも新たな炎がともるのだった

 おしまい 




コメント
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マレーシア篇 その3

2024年09月01日 | アジア
旅の第3弾は下の地図の➍、ペナン島の様子をお送りします。なお、①~③は旅の前半に訪れた場所です。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


4 ジョージタウン (2019年12月30日)

7時過ぎに起床、身支度を整えて外出。この宿は朝食がついていないのだ。
朝のムントゥリ通り。

ジョージタウンはストリートアートの街、そこかしこに描かれている。
アーチの上に、バランスをとるバレリーナ。右下は画風が一変して、ガスマスクを着けた人

マレーシアの国花、ハイビスカスが植えられている。

あてもなく通り沿いに東へ進み、マスジッド・カピタン・クリン通りにぶつかってやや南下。カフェの看板を見て入店。

洋風の外観なのに、中華料理屋なのである。オーダーしたのは福建麵【ホッケンミーともいう。中国福建省から移住した人がつくり始めたといわれ、マレーシアではペナン式とクアラルンプール式があり、またシンガポールにも同名の料理がある。ペナン式は蝦麺とも呼ばれ、海老の殻や味噌からとった出汁に唐辛子を加えた赤いスープに、ビーフンと黄色い卵麺をミックスするのが特徴。クアラルンプール式はうどんに似た太麺と具材をラードと中国醤油で炒め、醤油由来の真っ黒な色味が特徴の汁なし麺】。自分が食べたのはペナン式とクアラルンプール式の折衷のようだった。これと温かい中国茶(Cちゃんとシェア)で5.7RM(≒168円)。


一旦ホテルに戻り、9時半過ぎに観光へ出かける。まずはセント・ジョージ教会へ【1818年築、東南アジア最古のイギリス国教会の教会。アジア・太平洋戦争中の日本軍による空襲でほとんどが焼失、司教座と洗礼盤だけ残ったという】。こういうのを “白亜” って表現するんだろうな~

外観に負けず劣らず、内装も白を意識した空間になっている。

生き延びた洗礼盤はモニュメントと化している。


マスジッド・カピタン・クリン通りに沿って南南西へ。が、スリ・マリアマン寺院には入れず、午後オープンのカピタン・クリン・モスクは閉まっていた。
あきらめて、アルメニアン通りへ。このあたりが中心エリアらしく、観光客向けのお店が建ち並び、人出もたくさん。

実物と組み合わせたストリートアートが目白押し。

写っているのは通りすがりの旅人。このアートと撮影したい人がわんさかいて、誰もいない画像を撮るのは至難の業だった

これも大人気で、人が入らないようにギリギリの角度で撮った結果、椅子が見切れている・・・もう少し左後方からがベストなはず。

付近のクー・コンシー【福建系華人の邸(クー)氏による。コンシーとは同姓の協会で、就職のあっせんや争い事の調停等でメンバーを扶助し、また祖先を祀る廟を併設した。福建省から職人を招いて豪華につくったという19世紀後半の建物は焼失し、現存するのは20世紀初頭の再建】。

色彩をおさえているが、実に精緻な装飾。自分好みど真ん中だわ




内部はさすがに金ピカ。

裏手には台所もあった。画像左奥は蝋人形による再現。

鯉も飼われていた。


コンシーを出てフラフラしていると、傘が浮かぶ通りに行きあたった。

異国情緒に酔いしれさせる街並み。

ここからまた、ストリートアートを求めて歩きまわる。
猫が可愛い


今にも飛び出してきそうな姉弟

ポップな眼鏡をかけているのは、もちろん見ず知らずの少年。

遊ぶこどもシリーズ。



気づくと正午を過ぎていて、お腹がすいてきた。海沿いのウェルド・キー(通り)を越えて、クラン・ジェッティーへ【船が発着する埠頭の脇に7つの桟橋があり、一族(クラン)別に水上家屋群が形成されている。かつては治安が悪いエリアで取り壊しの計画もあったが、2008年に世界遺産に指定されたことで保存が進み、今や観光名所となった】。
屋台が集合するジェッティー・フードセンターにて昼食。自分がチョイスしたのはアッサム・ラクサ【ペナン・ラクサともいい、この地を代表する麺料理。サバやアジなどの青魚の出汁にスパイスとタマリンド(アフリカ原産のマメ科の果物)の酸味をきかせたスープ、うどんのような太い麺が特徴。オタ・ウダン(蝦醤=へーコー)というエビを発酵させた甘いタレ(=下の画像のレンゲに入っている黒っぽいペースト)を添えるのが一般的】。朝から二食続けて麺・・・お米好きだけど、同じくらい麺も好きなんだもん

Cちゃんは海南チキンライス【鶏肉のゆで汁で炊いた米に、生姜やニンニク入りのタレをかけた鶏肉を添える。鶏肉はスチームとローストの2通りの処理法がある。マレーシア以外の東南アジアでもポピュラーな料理】。
北の隣国タイにもカオ・マン・ガイという同種の料理があるのだが、米の上に鶏肉が乗っかっているし、こんなにタレだくではない。面白い違いだなぁ

2人でシェアしたポピア【薄餅ともいう、ニョニャ風の春巻き。福建省が起源とされる。クレープ状の小麦粉の薄皮で具を包み、チリソースをつけて食す。具はきゅうり・もやし・甘辛く煮たヒカマ(葛芋ともいうメキシコ原産の野菜。切り干し大根に似ている)など】。
大瓶のビールもシェアして、1人あたり15.95RM(≒469円)。

食後 海沿いをそぞろ歩き、居並ぶ桟橋の中からなんとなく李氏のを見学。ゲートをくぐって進む。

画像左奥は対岸のバタワース。

船も行き交う。

西には他の氏族の桟橋。水上家屋の感じが伝わると嬉しい。


コムタへ向かう途中、なおもストリートアートを探す。東南アジア版ヒナノではないか【ヒナノ; タヒチのブランド、現地語で「かわいい女の子」を意味する。パレオをまとう女性をロゴマークに地ビール会社として創業、こんにちアパレルや雑貨も展開する】

Cちゃんは翌日発つため、コムタに隣接するバスターミナルを下見。
炎天下をゆうに1.2㎞以上歩いて到達したコムタ【ジョージタウンのランドマーク的な高層ビル。1985年築、65階建て・高さ232m】。1階に踏み入ると火照った身体にクーラーが心地よく、生き返る感じ セブ島でも思ったが、ずっと居たら寒いほどにクーラーでキンキンに冷やしているのは暑い中を歩いてくる人に報いるためだろう。
下層はデパートのようなフロアになっているのだが、お洒落すぎて買うものはない(求めているのはガチなお土産)

通りをはさんで向かい側のスーパーマーケットへ向かう。一帯は新しめのショップと、昔ながらの小売店が混在している。店先でパシャリ
青果店と思ったが、よく見るとウエストポーチやベルトが吊り下げられているし、奥にはナマモノ以外のものも置かれている模様。個人的には枝ごとぶら下がっているバナナ(画像中央)が気に入った

スーパーを出てペナン通りを北上。近代的なビルと古風な建物が並立している。

途中で左折してマレーシア全土のお土産を扱うショップに寄り、お買い物 ここはバラマキ用の安価なものからお高めの商品まで、ピンキリな品揃え。
牡丹と鳳凰の陶器が美しくて眺めていたら、お店の方曰くアンティークで、もう数少ないから売り切れたら再入荷はない、と。マラッカのババ・ニョニャ・ヘリテージで見かけた時から気にはなっていたけど、高価なものを大事にできそうもないので 後ろ髪引かれつつあきらめた。参考までに、マラッカで撮った同種の器の画像を載せておく。

マレーシアといえば錫、多少払ってもゲットしようと考えていた。高額帯だからかお店の方の説明にも熱が入り、冷えた飲み物を冷たいまま飲めるよとデモンストレーション用の器に水を注いで飲ませてくれる。結局、自分用のミニタンブラー(2つ)と、叔母に茶筒(華人っぽい装飾入り)を購入。下部に国花のハイビスカスをあしらったタンブラーはビールを飲む際に愛用している。高さ8.8㎝、2つで約6,820円(この記事を書くにあたり撮影)。ちなみに、店内では別々に行動していたCちゃんも同じのを買っていた。お互い呑み助だからなぁ


ホテルに戻ったのは16時半頃。洗濯したりして、部屋でくつろぐ。
20時、夕食のために外出。ムントゥリ通り沿いのストリートアート。実は前日明るい時刻に見かけて撮影したのだが、ライトアップされた方が何倍も素敵なのだった。

Cちゃんとの最後の晩餐は、ニョニャfusion料理【中国から移住した男性と現地マレー系女性の子孫女子(ニョニャ)に受け継がれた料理と、タイやベトナムなど他のアジア料理を融合】。全6品のコース料理(128RM≒3,763円)を食した。まずはパイティー【カップ状に揚げた器に野菜や海老を詰めた前菜。典型的なニョニャ料理】。

インゲンとヤングコーンの炒め物。

青菜の炒め物。

鶏肉料理。

カレーソースの一皿は、スパイス(レモングラス、コブミカンなど)とココナッツミルクで鶏肉を煮込むカリー・カピタンというニョニャ料理をアレンジしたと思われる。

デザート。

レストランから宿までは400mほど。照らし出されて雰囲気ある街並みを行く。

22時過ぎにホテル到着。一人旅では決して出歩けない時間帯、Cちゃんに感謝

4 ジョージタウン (2019年12月31日)

この日も7時過ぎに起き、朝食のために外出。宿から200mほど東のお店に入った。
店頭の自転車からして計算されているのか?? 映画のワンシーンに出てきそうな店構え。

店内には先客がいて、後にも続いた。それなりに繁盛している。

趣向を変えて洋食。30RM(≒882円)は前日の朝食の5倍・・・全体的に小綺麗に整えている分、ツーリスト向けの値段設定なのだろう。

一旦ホテルへ戻り、13時45分離陸の飛行機に乗るCちゃんに合わせて10時過ぎに宿をチェックアウト。空港へ向かう彼女とバス停で別れた。
一瞬しんみりしてしまったが、気を取り直してこの日の宿へ歩いて行く。自分の旅史上 最高の格式を持つホテル、Eastern & Oriental Hotel【1885年、アルメニア人の富豪サーキーズ兄弟(シンガポールのラッフルズ・ホテルも建てたことで知られる)により創立。かつて「スエズ運河以東で最上のホテル」と称され、サマセット・モームやヘルマン・ヘッセなど数多くの著名人が宿泊したという。大規模な改装を経て、今なお5つ星ホテルとして輝きを放つ。2013年にオープンした別館(ヴィクトリーアネックス)に対し、本館はヘリテージウイングと呼ばれる】。
ガイドブックでチラ見して気になり、ネットで検索したところ運よく値下げセールに遭遇。マレーシアの物価に合わせてそもそもの値段設定がリーズナブルなことも背中を押し、年越しだからと思い切ってポチッたのだった

値段的に別館だろうと思ってそちらの受付に足を運んだら、本館に予約が入っていたようで 長~い通路を歩いて通された。ときに11時前。
荷物だけ預けてすぐに飛び出す。翌日はクアラルンプールへ移動するため、この島でのタイムアップが刻一刻と迫っていた。
まず対岸のバタワースへ渡ることにして、タクシーでフェリーターミナルへ。ホテルからは2㎞もなく、いつもの自分なら苦もなく徒歩圏なのだが、なにせ暑いので横着してしまった 10.4RM(≒306円)也、この国の物価からしたら贅沢な使い方なのだろう。
【バタワースまでは2㎞強、フェリーは20分間隔で出航、所要20分。ペナン→バタワースは無料とのガイドブック情報は半信半疑だったが、本当に支払わずに乗船できた。ちなみに、バタワース→ペナンは1.2RM(≒35円)かかる。飛行機が飛んでおらず 橋でマレー半島とつながっていない時代にはフェリーでバタワースへ渡るのが唯一の手段で、バタワース駅から国鉄(KTM)で先へ進むため国鉄の料金にペナンからのフェリー代が含まれていたという。今や渡った後にバスに乗ったり車に乗ったり必ずしも国鉄に乗るわけではないが、かつての慣習が残っているらしい。この記事を書くにあたり調べて知った】
フェリーの中。

フェリーの上からバタワースを遠望する。

ペナン島を振り返る。画像右、ひときわ高いのがコムタ。

南を向くと、視界にはペナン第二大橋【全長24㎞、東南アジア最長。2014年に完成】。

遠くなりゆくペナン島。

ガイドブックにバタワースのページがなく、フェリーターミナル・バスターミナル・国鉄(KTM)駅がつながっている、というわずかな情報だけが頼みの綱だった。
実際のところ、正しくてホッ 下の画像左がバスターミナル、中央がフェリーターミナル(帰路に撮影)。

バスターミナルから国鉄駅へ向かう通路にて。港の向こうはペナン島、わずかに橋も見晴らすことができる。

人けの少ない細い通路の先にエレベーターがあって、地上へ降りるべく乗る。すると、居合わせたインド系の中年男性が "列車に乗りたいんだけどお金がなくて・・・恵んでほしい” と言ってきた。うげ~っ この国で初めて物乞いされたよ・・・
“いやいや、無理ですって” みたいな反応をしてみせたところ、わりとあっさりあきらめてくれたのは不幸中の幸い。今思えば、二人きりでエレベーターに乗ったのは不用心だったよね。彼が後から乗り込んできて扉が閉まり、あっという間の出来事だったんだけど、一歩間違えば追い剥ぎに遭ったかも・・・気をつけねば 
【バスターミナルは新しく綺麗でショップが並び 人も多くてにぎわっているが、国鉄駅へ向かう通路付近が一転してさびれている。たった数歩で環境が激変、海外あるある 明るい日中でさえこんな状況だったので、薄暗くなったら一層治安がよくないと思われる。これからKTMのバタワース駅を利用される方は、どうかお気をつけくださいね】
こちらが駅の正面入り口。

駅構内から線路を見下ろす。画像右奥がバスターミナル、その奥にペナン島。

反対側はこんな感じ。橋のほか、左手にはモスクと思われるドームがのぞいている。

国鉄の窓口で翌日のクアラルンプール行きのチケットについて尋ねると、朝6時台しか空きがないとの回答。だよね~ 
実は、前日にクラン・ジェッティーへ向かう前に埠頭の一角にあるKTMのオフィスで確認済みで、1日経過したところで状況に変化はなかった・・・年末年始のマレーシア人帰省による混雑を全く考慮していなかったのが大失敗 かくして、国鉄でクアラルンプールへ戻るプランは夢と散った

国鉄駅を後にして、バスターミナルへ向かう。時刻表を見ると、クアラルンプール行きは1時間に1本くらいありそう。一方、ジョージタウンの街中にあるコムタ隣のバスターミナルから乗れば、ペナン大橋を渡ることができる。どっちから乗るか・・・迷ったが、古式ゆかしいバタワース経由に決めた。
13時前、バタワースを発つ。帰りの船内は往きよりも混んでいた。車と一緒に海上を運ばれていく。

午後の行き先について、まずはペナン・ヒルが思い浮かんだ【ジョージタウンの西5㎞にある標高823mの丘。晴れていればジョージタウンだけでなく、海をはさんでマレー半島まで一望できるという。平地より気温が低いことから、マラリアから逃れることができる避暑地としてイギリス統治時代に繁栄】。
しかし、前日に見逃した箇所を切り捨てることができずヒルは断念、暑いのを承知で歩いてまわることにした。
まずフェリーターミナルから北へ数百m進む。ロータリーにそびえるは時計塔【1897年、ヴィクトリア女王の治世60周年を記念して60フィートの高さで建立】。

その先にコーンウォリス要塞が鎮座【1786年、クダ(マレーシア最北西部。島の対岸)のスルタンからペナン島を獲得したイギリス人フランシス・ライトが上陸した地に築かれた(なお、ペナン島はイギリスが領有した東南アジア最初の地)。当初は木造だったが、1810年に現在のようなレンガ造りになった。かつてはイギリス東インド会社の兵舎や弾薬庫があった】。訪問時は修復中で敷地の半分しか見学できなかったが、雰囲気だけでも伝えたい。
非常にさりげない壁。


顏出しパネルがお出迎え。

大砲のスリ・ランバイ【1603年、オランダで製造。ポルトガル人やジャワ人など様々な人々の手に渡った後、最終的にここに落ち着いた】。
砲身にVOC(オランダ東インド会社)のマークが刻まれている。

ここにも大砲たち。

涼みがてら要塞敷地内の土産物屋を冷やかした後、海沿いの道を西へ進むと公園の一角には戦死者慰霊碑。第一次世界大戦(1914年)以降、20世紀末に至るまでの死者を弔っている。

コタ・バル同様、日本軍が遂行した泰緬鉄道(死の鉄道)の建設にかり出されて命を落とした人々がここにもおられる。


マスジッド・カピタン・クリン通りで見かけたトライショー(人力車)。派手に装飾していたマラッカのと違って素朴。

公園から600m南西のスリ・マリアマン寺院【1833年築、ペナン島最古のヒンドゥー寺院】。前日は入れなかったが、今度は入ることができた(撮影は前日)。

信者たちが熱心に寄付をするのだろう。実にきらびやか。

ナンディー像【ヒンドゥー教のシヴァ神の乗り物とされる聖牛】。ちょっぴり逆光気味

通りをはさんで200m、これまた前日に振られたカピタン・クリン・モスクへ【1801年、インド系のイスラム教徒が建立。何度か増改築して今日に至り、インド式のドーム屋根を持つ。1916年には宗教学校を併設】。ここも入れたが、アバヤを着ろと差し出された。髪を結んで帽子をかぶり、半袖に長いスカートでダメか・・・宗教施設ではその宗旨に沿わねばならぬことは理解しつつも、暑い中歩いてきて汗だくのタイミングゆえ 若干ゲンナリ

白が印象的な内部。

祈りを捧げる人々。

ミナレット(上部が切れていて、ごめんなさい

おもむろにモスクの隣の食堂へ入る(下の画像、黄色い看板のお店)。
【この辺りはリトル・インディア(インド人街)と呼ばれる。この島に暮らすインド系の人々は南インド出身者が多く、ヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒も多いのが特徴という】
よって、2つの宗教施設の近くにガイドブックでイチオシのナシ・カンダール【何種類かの肉・魚・総菜やカリーソースをライスの上に乗せたもの。その昔、インド系イスラム教徒が天秤棒をかついで売り歩いた】を売りにするお店があるというわけ

ビリヤーニに魚(画像右)・チキン(画像中央奥)とカリーソースが2種乗っかって、12.8RM(≒376円)。えっ、おかずの種類が少ないって 店頭で注文する方式なのだが、ヒンドゥー語もマレー語も分からないもので・・・not spicyなソースと主張するのが関の山、野菜や卵をリクエストする余力はなかった カタコトの英語が通じてソースは大丈夫だったが、ビリヤーニ【スパイスと肉・魚・卵・野菜などからつくる米料理】が想像以上に辛めだった。白飯が正解だったと気づけど、時既に遅し。
スプーン&フォークを渡されて食しつつ周囲を見まわすと、素手で混ぜながら口に運んでいる人が複数。あぁ、スリランカでもそうだった、懐かしいなぁ


次は、前日にたどり着けなかったストリートアートを探そうと思いたつ。
見つけたはいいけど・・・前日歩いた場所のわりと目と鼻の先だった、やれやれ



こちらを見通すような少年の表情が目に焼き付いた。個人的に最も鮮烈なインパクトを受けた壁画。


前日も立ち寄ったスーパーで買い物した後 ペナン通りを進み、ホテルまでの1.2㎞ほどを結果的に歩き通した。トライショーが通ったら乗りたいと思っていたけど、どうやら定番の観光地が主戦場のようで コムタ付近にはたむろしていなかった
さすがに疲れを隠しきれないまま、ヘリテージウイングのフロントへ行く。ベルボーイ(制服は短パンのサファリ)とフロント嬢に付き添われて部屋まで歩きながら、(たいていはタクシーで優雅に移動だろうから)ここに泊まる客はこんなに汗臭くないよね・ごめんなさい、と心の中で恐縮した。
なお、ベルボーイはポカラ(カトマンズの西200㎞に位置する都市)出身のネパール人だという。思わずテンションが上がり、ポカラからアンナプルナ連峰(7,000~8,000m級)を眺めつつ数日間ハイキングしたよ、と伝えずにはいられなかった。そしてその夜、共にネパールを旅したαちゃんにハガキを書いた。

客室は独立したリビング付きの仕様になっている。

反対側からパシャリ 敷かれているのはペルシャ絨毯らしい。椰子柄の肘掛け椅子がステキ てか、胡蝶蘭が活けられた客室に泊まるの初めてかも。

こちらはバスルームの扉。

左がバスタブ、右はシャワーブース(鏡に映る自分にモザイクをかけた)。

トイレの扉は独特。そして1枚上の画像のとあわせて、洗面台は2つ

お部屋の窓からは、きっちり整備された遊歩道を見下ろすことができる。

西を望む。画像中央奥のビル群はガーニーの町(ジョージタウンから車で10分程度の高級住宅街)。比較のため、ここからは暮れゆく同じ方角の夜景を連投する。




東を望む。画像右奥は対岸のマレー半島。こちらも同方向・異なる時間帯の夜景を連投。



旅はあと2日半。とっくに終盤なのだが、なお洗濯せねば帰国までに着替えが足りない。5つ星ホテルのお洒落なランプの柄にハンガーを掛けながら、鼻で嗤ってしまう。贅沢してみようと背伸びしたものの、貧乏くさくてこの部屋に似つかわしくないなぁ、自分

部屋に置かれた招待状で存在を知ったカウントダウン・パーティーは、別館(ヴィクトリーアネックス)にて22時半~翌1時まで。
こんな素敵なホテルでのカウントダウンなんて最初で最後かも・行ってみたいと好奇心に駆られつつ、部屋で一旦くつろいでしまったら ある種「七人の敵」に向かって「武装」するのが億劫で・・・かなりの葛藤のすえ、パスすることにした。
complimentaryのラインナップ、水はもちろんのことウィスキー、ウォッカ、ジンも無料(念のため、下の画像で空き瓶のように見えるのは撮影角度の問題。いずれも高濃度のアルコールゆえ、そもそも入っていた液体は底から数㎝のみ)。高級ホテルに舌を巻きつつチビチビ舐めながら、漏れ聞こえてくるパーティーの生ライブ演奏をBGMに まったり年が暮れていくのだった


★ 中締め ★

8月に旅に出たこともあり、月をまたいでのアップとなりました。遅くなってごめんなさい

次回はペナン島を発ち、再びクアラルンプールの模様をお届けします。
マレーシア篇のラストをお楽しみに

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マレーシア篇 その2

2024年07月26日 | アジア
マラッカの続きからスタートです。
旅の第2弾では、下の地図の➌➍を訪れました(①②は旅の序盤に足を運んだ場所です)。また、後の下線部の数字にも対応しています。

3 マラッカ (2019年12月28日)

この日はじっくりマラッカを観光。
朝食はナシルマ【ココナッツミルクで炊いたお米。付け合わせの定番は画像右のピーナッツ、イカンビリス(イワシの稚魚を揚げたもの)、画像左のキュウリ。他にゆで卵、サンバル(唐辛子と玉ねぎで作るソース)も一般的だが、自分は取らなかった。肉を添えることもある。朝食の定番メニュー】。

9時にホテルを出て、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をそぞろ歩く。通りの両側にひしめく屋敷は、貿易で財を成したプラナカン(中国から移住してきた男性が現地のマレー系女性と結婚して生まれた子孫)たちの。クリスマス装飾と漢字が共存

窓の下の装飾が細やか。

側壁に祭壇が備えられている。

日帰りの観光客がまだ到着していない時間帯だからか、人影はまばら。

マラッカ川に架かる橋から上流の方向を望む。

橋を渡ると、赤い建物群が印象的なオランダ広場に出る。
さすがマラッカいちの繁華街、華やかに飾ったトライショー(人力でこぐ自転車タクシー)が客待ちをして賑わっている。

まずはラクサマナ通り沿いを進み、教会を目指す。セント・フランシス・ザビエル教会へは300mもない。
が、新郎新婦が到着して、まさに結婚式が始まろうとしている模様。

後にまわすことにして、さらに北上する。東南東にのびる通りを越えベンダハラ通りに入ると、インド人街となる。鮮やかなお花のレイがならび、雰囲気が一変。
そーいえば・・・その昔インドを旅していた時、車のバックミラー周りにお花のレイが下がってたなぁ(もっと短くてお花も小ぶりなのだったけど)。

オランダ広場から1km余り、セント・ピーター教会に到着。1710の数字が目を引く【記事その1で紹介したセント・ポール教会(1521年築)に創立年は遠く及ばないが、オランダ統治時代の18世紀初頭にポルトガル人が建てた由緒をもち、現存するという点では東南アジア最古のカトリック教会のひとつ】。

が、ここでも結婚式が執り行われようとしていた きっと佳き日なのね・・・中に入るのはあきらめる。
なお、前庭が広大で現代アート風のオブジェがあった。

舟に漁網・・・イエスの弟子となる前、若き日のペテロを象徴しているのかな。

同じ道をたどり、再びセント・フランシス・ザビエル教会へ(下の画像は後刻、マラッカ川対岸から撮影)。
【1849年、ザビエルの功績を讃えて建設されたカトリック教会】

まだ式は続いているようだったが、入れるようだったのでそ~っと入場。

全体的に白くて新しい感じがするけど、200年近く経過しているわけで・・・信者の方々が大切に扱いつつ 丁寧に補修してきたんだろうなぁ。
左上には聖家族のステンドグラス。

こちらは最後の晩餐。

そして、教会の前にはザビエル(右)とヤジロー(左)の像がある【名はアンジロー説もあるのだが、碑にYajiroと書いてあるのをここでは尊重する】。

両者の出会いについて説明する碑も。
【生没年不詳のヤジローは、薩摩の武士出身といわれる。人を殺し、山川(港)から船で海外逃亡を企てたが、彼の話を聞きいた船長が友人であり高徳の聖職者であるザビエルに相談することを勧めた。1546年にヤジローはマラッカに到着したが、ザビエルはモルッカ諸島へ伝道に出ていてすれ違ってしまう。あきらめてマラッカを離れたヤジローだが、嵐に遭って結局マラッカへ戻り、1547年ついにザビエルに会うことができた。ヤジローと話してみてその礼儀正しさ・勤勉さ・賢さに驚いたザビエルは、ヤジローをゴアへ送り聖パウロ学院で半年間学ばせる。洗礼を受けたヤジローとともにザビエルは1549年8月に来日。歴史を語るうえで「れば」「たら」は御法度とされる。しかし敢えて踏み込むならば、ヤジローと出会わなかったら果たしてザビエルは日本への布教を思いたっただろうか・・・否であろう。それほどに歴史を動かした出会いであった】

なお、ヤジローとザビエルが出会ったのはここではなく、セント・ポール教会である(記事その1で紹介した、今や廃墟となっている丘の上の教会)。正確を期すならば、現地に建立してほしいなと思ってしまうが・・・記念像を残したい日本の団体サイドと、その意を汲んでくれたマレーシアの教会サイドの、いわば大人の事情なのだろう。

オランダ広場まで戻って来て、マラッカ・キリスト教会に入る【1753年、オランダ統治時代に建設されたプロテスタント教会】。
マラッカのランドマークゆえ、前夜にこの前を通った時から気になっていた。教会3連発になるのだが、やむをえまい

木製の梁を渡す平らな天井【梁は接ぎ木せず、1本の木から切り出されたという】。

時節柄、クリッペが展示されていた。

タイル製の最後の晩餐。

次は、南に隣接するスタダイスを見学(下の画像、時計台の奥。撮影はこの日朝)。
【東アジアに唯一現存する、オランダ東インド会社ゆかりの建造物。1641年、バタビア商館(かつてジャワ島にあったオランダ東インド会社の本拠)を模倣し、オランダ総督の邸宅として建設開始。このスタダイスを中心にオランダ広場が形成されていった。なお、オランダ統治時代は漆喰で固めた白い建物だったのが、19世紀前半 当時の統治者イギリスによって赤く塗り替えられた。労働者たちが噛んで吐き捨てるビンロウ(マレーシア原産のヤシ科植物。口内清涼剤として用いる)により壁が所々赤くなったため汚れを隠そうと全部を赤くした等、その理由には諸説ある】

現在は博物館となっていて、広大な館内をまわりながら学ぶことができる。
自分にとって印象的だったのは、こちらの展示。マラッカ王国を破った後、次々とこの地を支配した統治者たちが並ぶ。
奥(画像左端)からポルトガル(1511~1641年)、オランダ(1641~1824年)、イギリス(1824~1957年)、日本(1942~1945年)。
地理的要衝であり、その繁栄ゆえに厳しく複雑な競争に巻き込まれてきたマラッカの歴史が凝縮されている・・・


結婚式を再現するマネキンたち。宗教が異なれば、スタイルも様々なわけで・・・
個人的には、どのマネキンも虚ろな表情をしているのが気になってしまうが



それぞれの民族衣装を身につけたマラッカの人々(記事その1で紹介した国立織物博物館の展示と若干かぶるけど)。ホントに多彩だわ~

「ザビエルの到着」と題する絵。画像中央やや左、黒い衣を身にまとうのがザビエルであろう【説明ボードには、「丘の上の聖ポール教会に隣接する学校でザビエルはカトリックを布教した。1545~1552年の間にザビエルはマラッカを5回訪れたが、期待したほどカトリックは広まらなかった」とあった】。

この博物館、古銭の展示が圧巻
ポルトガル統治時代の貨幣(16~17世紀)。十字架・錨・船・花などが描かれている。

以下は全てマラッカ王国の貨幣たち。動物モチーフが可愛すぎる
ニワトリ、魚ともに13世紀制作。

亀、蟹、ワニのは14世紀制作。




気がついたら12時半をまわっていて、さすがにお腹がすいてきた スタダイスを去り、マラッカ川沿いでお店を探す。
ふと川面を見ると、ワニが泳いでいるではないか。しかも、さっき見たばかりの貨幣のようなフォルム。なんてタイムリー

リバークルーズ船越しにオランダ広場を眺める。

マラッカ川沿いは、観光開発が近年進んでいるエリアのようだ。
エキゾチックな傘と提灯が浮かぶ脇道(写っているのは通りすがりの旅人)。

壁画アートが鮮やかな建物があったり・・・

ランチを食べられるお店も星の数ほどあったが、ちょうど繁忙な時間にあたってしまい、何軒かあきらめた。
そして、一度は通り過ぎた川沿いテラスのお店に決定。
暑いから、休日だから、と昼間からビール。対岸にセント・フランシス・ザビエル教会を拝める絶好のロケーション・・・色々な意味で幸せ
【タイガーはイギリス統治時代に生産を開始したシンガポールの銘柄】

シーフード炒飯。

sabahチキン【ボルネオ島にsabah州があるので、sabah風といったところか。記事を書くにあたり調べてみたが、特に郷土料理というわけではなさそうで・・・不明】。
これらをCちゃんとシェアして、1人あたり22RM(≒647円)。


再び橋を渡り、オランダ広場を横目に海の博物館と海軍博物館へ。入場券が共通になっているため訪れたのだが、いずれも画像を残していない
最後に、サンティアゴ砦へ【1511年にマラッカ王国を破ってこの地を占領したポルトガルだが、その残党の攻撃に悩まされたためマラッカ川の河口に砦を建設した。高さ15~20m・厚さ3~5mの壁がそびえていたという。1641年、オランダは8ヶ月にわたりこの砦を包囲し、ポルトガルを陥落させた。その時はさほど砦に被害はなかったらしいが、1807年にイギリスの攻撃により砦の大半が破壊された】。
残されているものは多くないが、復元された大砲に往時をしのぶ。てか、かつてここが海岸線だったとはにわかに信じがたい(いまや1kmほど内陸になっている)。

門の上部正面の彫刻はヨーロッパ風。男女の間、足元に船を表現しているあたりが大航海時代の覇者ポルトガルっぽい。

帰りがてら、丘に登ってみた。
前日は逆光だったが、マラッカ・タワーの向こうに海を見晴らすことができた【タワーは高さ110m。円盤状の展望台がゆっくり回転しながら80mの高さまで上下する。所要7分・定員66名】。


翌日にはここを発つため、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)とハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)に並ぶショップを往き来して買い物。荷物を置きがてら、18時に一旦ホテルへ戻る。
19時前、夕食のために外出。トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をひたすら北西に進み、これまで全然歩いていないエリアに敢えて踏み込んでみる。
とはいえ明確なアテがあったわけではなく、目についたお店に入ることになった。
前日から気になっていたbeer bucketを注文。


備忘録によると チーズ・スティックなどをつまんだようだが、画像を撮っていない

21時前、宿に帰着。入浴の前後に衣類を洗濯してテラスに干しておいたら、翌朝にはすっかり乾いていた。
後は寝るだけの状態で、テラスにて晩酌。どんだけ飲むんかい
【SKOLはカールスバーグ(デンマーク)からライセンスを受けて、ブラジルで生産が始まった銘柄】


3・4 マラッカ ⇒ジョージタウン (2019年12月29日)

午前中は引き続きマラッカを楽しみ、14時台の飛行機でペナン島へ飛ぶことになっていた。
9時少し前にホテルを出ると、週末に開かれるという蚤の市が通りでお店を広げていた。

何度も歩いてきたハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)を越え、ひとつ北のハーモニー・ストリート(トコン通り)に進む。緑の屋根のカンポン・クリン・モスクが見えてきた【1748年、インドから移住してきたムスリム商人によって建てられた。ひときわ高いミナレットも、お堂の三角屋根も独特のフォルムである。スマトラ様式というらしいが、ミナレットは中国の仏塔のようにも見える。様々な国の影響を受けていて、西アジアで一般的な細いミナレットにドーム状の屋根とは異なるのが特徴】。

履き物を脱ぎ、中へ入ろうとする。

と、この回廊の柱を支える基壇にほどこされたタイル装飾に惚れてしまった
パステルカラーの繊細な花模様。

ピンクのはリボンのように見える。

かと思えば、はっきりとした色づかいのもあり・・・

色ガラスがふんだんに光を取り込む。

木目の天井が重厚感を与えている。

見学しているうちに、Cちゃんは居合わせたオジちゃんからマンゴーを3個もらっていた。Cちゃんといると、こういうことがよくあるので驚きはしない
この日の夜、美味しくいただいた。

次は目と鼻の先のチェン・フン・テン寺院へ【青雲亭ともいう。1646年築、マレーシア最古の中国寺院。本尊は観音菩薩だが媽祖(道教における航海・漁業の守護神)も祀り、仏教・道教・儒教のための施設という】。
門からして装飾に気合いが入っている。

屋根の上を拡大してみる。陶製の装飾は細やか且つ絢爛豪華


こちらが本堂。

中央部はこんな感じ。「慈悲」って書いてあるし、仏教エリアだろうな。

仏様のような気がする(自信はないけど)。そして、漆塗りの装飾だぁ・・・

門から入って、右端のエリア。知識がなさすぎて、道教だか儒教だか分からない むむっ、下段が気になる。

というわけで、ズームアップ。 古くから大切に祀られてきたんだろうなぁ・・・
【この記事を書くにあたり調べたところ、トラの神様と判明。中国では野獣の王として敬われていて、悪事を取り去る・泣く赤ん坊をなだめる・仕事が成功するように助ける、等の御利益があるという】


寺院を出てなおもウロウロしていたら、こんなのを発見。まるでシーサーやないかい
【調べてみたところ、ルーツは古代オリエントにあると判明。百獣の王を権力や聖なるものの象徴とし、獅子像を盛んにつくっていた。これがシルクロードを通じて中国へ、そして沖縄に伝わりシーサーが誕生(ちなみに、中国から朝鮮半島を経由して本州に伝わった流れからは狛犬が生まれた)。マレーシアを含む東南アジアへはインドを経由して伝わったらしい。伝播のルートは違えど、起源は同じなのね~】


付近は雰囲気抜群なのだった。個人的には、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)やハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)よりもこっちの方が好みだな



マラッカ観光の最後は、ババ・ニョニャ・ヘリテージ【プラナカンの男性をババ、女性をニョニャという。1861年、チャン一族によって建てられた邸宅が公開されていて、中国・マレー・西洋を融合したユニークな文化を生み出したプラナカンの生活の一端を垣間見ることができる】。
入口から奥まで見通せる構造になっている。

逆方向(奥)から見るとこんな感じ。

陶器に魅かれてしまう・・・


清潔感ある台所。

大きな陶製の鉢には蓮の花。

階段をのぼって2階へ。見下ろしたアングル。

いや、その狭い所に座らないのでは マネキンの再現が無理め

婚礼衣装らしい(ガラスに写りこんでいる自分にモザイクをかけた)。


手の込んだ細工の寝台。

 花瓶の意匠が日本的・・・


ヘリテージを辞して、最後のお土産タイム。前日からショップで目に入るたび気になっていたレンゲをついに購入(長さ12㎝)。アンティークなど手が出ない値段だし、そもそも大切に扱えそうもないのでザ・お土産用の製品だけど 3つで114RM(≒3,352円)、そう安くはない。でもお花のモチーフがお気に入り、また右端の白いのを漆器に合わせるとしっくりくるのが意外な発見で、愛用している(この記事を書くにあたり撮影)。

そして、ガイドブックでチラ見していたニョニャ・クエに手が伸びてしまった【クエはお菓子の意で、プラナカンの家庭で祝い事やおもてなしのためにつくられるお菓子を指す。シンガポールにもあるらしい(←いつか訪れたなら、ぜひ食べ比べてみたい)】。
日頃は目もくれない辛党のはずなのだが、そのカラフルでポップな魅力たるや
数種類の中から選んだのは、オンデ・オンデ【パンダンリーフで緑色をつけたもち米粉のお団子の中にグラムラカの蜜を包み、仕上げにココナッツパウダーをかける。グラムラカとはマラッカ産のパームシュガーのことで、各地で製造される椰子砂糖の中でも特に質と味が良いという】。
ひと噛みすると、蜜がジュワッと飛び出してくる。黒糖の粒を舐めたことあるけど、やっぱり違うなぁ。これは液体感が強くて、舌触りが全然別モノ。


正午過ぎ、ホテルに戻ってフロントにタクシーを呼んでもらう。単純に空港と言ったら、クアラルンプールの空港と勘違いされて一時的に話が混乱
マラッカ空港っていまひとつマイナーなのかなぁ・・・【この記事を書くにあたり調べたところ、1日に数便しかフライトがないと判明。ペナン島への便とて1日1便なのだった】
ともあれ12時半にホテルを後にして、25分ほどで空港に到着。離陸の1時間50分前に着いてしまった。国内線だからそんなに早くなくてもと思わなくもないが、ギリギリに動いて焦るのは避けたいので、いつもこんな感じになってしまう
マリン〇airに初めて搭乗。

50分でペナン島に着陸。島の南東部の空港からジョージタウンへはタクシーで移動。
ムントゥリ通りの宿は、古い建物を修繕したヘリテージ・ホテル。我々が泊まったのは、階段をのぼって目の前の2階の部屋だった(撮影は後日)。

扉を開くと・・・

上の画像を右に折れると、バス&トイレ。

窓側の一番奥には天蓋ベッドその1。

そこから扉側を振り返ると、天蓋ベッドその2と机。

オーナーがアンティーク家具を厳選したというだけあって、素敵な空間になっている


18時半、夕食のために外出。ターゲットがあったわけではなく、なんとなく人通りがあってお店が多い方向へと歩き、チャイナタウンのお店に入った。
肉骨茶【バクテーと読む。スペアリブなどの骨付き肉を生薬(八角・ニンニク・熟地黄など)と煮込んだ料理。白米にかけたり、油条をスープにひたしたりして食す。発祥はマレーシアとシンガポールの二説あり、それぞれ特徴が異なる。前者はマレーシアの港湾都市クランで荷物運び等に従事する労働者が故郷・福建省の豚肉醤油煮込みに思いを馳せつつ、そぎ落とし切れなかった肉付きの骨と、滋養がつくように漢方スープを合体させてあみ出したといわれ、中国醤油を使用しスープの色は濃い。後者は広東省潮州出身者が考案したとされ、スープの色は薄くコショウが効いている】。赤い皿のが油条。
これ、食べたいと思ってたのよね~ 薬臭くなくて、全然想像とは違う味わい。おまけに身体にいいなんて、最高

魚入りの汁ビーフンも食す。

20時前、ホテルへ戻る。入浴後の晩酌ビールはホテルの近所の小売店でget。この日も大いに飲んで、夜は更けていくのだった。
【アンカーは19世紀末にアメリカで創業した銘柄。2017年に日本のサッポロビールが買収したが、コロナ禍を経て2023年に廃業を発表】


★ 中締め ★

マラッカはセント・フランシス・ザビエル教会のヤジローとザビエルの像は、鹿児島のザビエル公園のそれをもとに造られたそうです。
その像がこちら、左がヤジローで中央がザビエル(2024年3月撮影)。最初から数えて18枚目の画像と見比べてみてくださいね~
ちなみに、右はベルナルド【薩摩出身、本名は不詳。1549年8月、ザビエルが来日した直後に洗礼を受けた。1551年11月、ザビエルが日本を離れる際に行動を共にし1552年にゴアへ到着。ザビエルと別れた後、1553年にリスボンへ到着。1555年にはローマでイエズス会の総長に謁見。その後、ポルトガルに戻りコインブラの修道院で学んでいたが1557年に死去。日本人最初のヨーロッパ留学生といわれる】。
ザビエル像に3羽も鳩がとまっているのはご愛嬌

次回はペナン島の様子をじっくりお届けします。これ以降、ザビエルは出てこないのですが
それではまた~
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マレーシア篇 その1

2024年06月23日 | アジア
ザビエルの足跡をたどるシリーズ第6弾です。
10日間の旅をいくつかに分けてお届けします。序盤は以下の地図の➊~➌をまわりました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・2 クアラルンプール ⇒コタ・バル (2019年12月25日)

クリスマスイブの23時45分に羽田を離陸した飛行機は、翌朝6時45分にクアラルンプールに到着。
到着の時間帯によるのかもしれないが、入国審査で40分ほど待たされた。機内で着ていたセーターを脱いで長袖1枚になったが、そこはかとなく暑い。赤道の近くに来たんだなぁ・・・
審査を抜けると、預け荷物は既にターンテーブルをまわっていた。どこで待つかの違いかぁ

この日はコタ・バルに泊まることになっていて、長距離バスが発着するTBSバスステーションへ向かう必要があった。
バスステーション行きのバスを探そうとしたが、空港が想像以上に広い。立っていた警察官だか警備員だかにたずねると、level1にあるという。怪しいmy英語で通じるんだな、ホッ
かなり歩いてたどり着いた所にはバスとタクシーのカウンターが並んでいて、電光掲示板を見たらバスは8時半発のようだ。下調べによるとバスステーションまでは1時間15分かかり、コタ・バルへのバスは10時発が最終。あっさりバスをあきらめて、タクシーに乗ることにする。
バスのカウンターにはそこそこ人が並んでいるのに対し、タクシーのそれには誰もいない。カウンターにて “TBSバスステーション” と告げると、隣りのカウンターに行けと強い口調で言われる。頭に布を巻いたその風貌は尼将軍政子のようで迫力がある・・・何のこれしき めげずに、タクシーに乗りたいと訴えたらケロッと態度が変わった。84.4RM(≒2,481円)支払ってチケットをもらう。前方を指してoutsideと言われたので、そのとおり出ると係員がいてドライバーを連れて来てチケットをもぎる。うん、白タクじゃないのをgetできた模様。
走り出す前、ドライバーにTBSバスステーションと告げる。だって、チケットに「Bandar Tasik Selatan」と書いてあるんだもん。ドライバーはうん、とうなずいて発車した。ときに8時。後でガイドブックを見たら、駅と直結したから別称でそう呼ばれるらしく・・・勉強不足を恥じるしかない

空港を出てすぐ、車窓に広がる椰子の森に驚く。車中のため画像を残せず残念だが、その情景を決して忘れることはないだろう。
クアラルンプールの郊外から市内へ近づくにつれて、鬱蒼とした緑からビルの林立に変わっていく。ジャングルを切り拓いて開発してきたんだなぁ・・・
タクシーならバスより早かろうというヨミは当たり、40分くらいで到着。降りぎわ、イミグレーションで待たされつつ頭に叩き込んだマレー語で "ありがとう。さよなら” と使ってみる。伊集〇光似のドライバーはニカッと笑って、"Bye-bye.” と去った。どうやら通じたらしい、やったね

バスステーション構内に巨大な電光掲示板があったが、自分の行き先コタ・バルが終点かどうか不明なので、見ても意味ナシ。
見まわすと、チケット・カウンターがある。番号がふられているが、えいやっ! とりあえず、すいている窓口に並ぶ。行き先別に窓口番号が決まっていませんように・・・
祈りは通じた 聞き間違い防止のため、紙片にKota Bharuと書いて出したら、お姉さま係員が反応した。9時半発があるらしい。料金は44.4RM(≒1,305円)。パスポートを出すように言われた。ん 国内のバス乗るために見せるのは初めてかも。去り際、またマレー語で “ありがとう” と言ってみると、ニコニコ笑顔で見送ってくれた。

250㎞北のコタ・バルまでは9時間のはず。日本からの便は朝食なしLCCだったので、腹ごしらえせねば。発車まで40分ほどあったが、日本でいう立ち食い蕎麦的な温かいものを出すお店はないようだ。やむなくコンビニで食料を調達し、ベンチで食す。スモークサーモンのおにぎりと、お好み焼き味()のおいなりさん。


チケットに記されたgate18に行くと、狭い場所に結構な人が集まっている。ひとまず係員にチケットを見せると、首を振られる。いま停まっているのはマラッカ行きらしい。
そうこうするうち発車時刻の9時半になった。不安にかられ始めたところへ、"My Express" の放送が入る。たしかチケットに書いてあったぞ。
バスの座席は飛行機エコノミー席の1.5倍も幅があり、横3列でゆったり。想像よりも全然いい
クーラーは効きすぎなくらいで、長袖1枚でちょうどいい。さっきのタクシーも同様だった。ドライバーの好みかと思ったが、どうやらこの国ではこれが標準らしい。
トイレ休憩がどの頻度なのか不明なので、水を飲むのは極力控えた。結局、4時間半走ったところで40分休憩となった。
ブース1つのみのトイレに行列し、扉を開けると和式かぁ 西洋式が好きなわけでもないけど、和式は床が濡れてるのがちょっとねぇ・・・ま、郷に入れば従うしかないのだが。
トイレを済ませ、脇のショップに入って物色するもアルコールはない。イスラム教の国だからなぁ・・・奔走しないと、お目にかかれないかもな
バスに戻ると、ほとんどの乗客が出払っている。にもかかわらず、バスは移動を始めた。置き去りにされた私物がそこかしこにあり、まさか出発ではあるまい。数十m先のスペースに停まった。こんなことがフツーにあるのか 乗ってなかったら自分はパニックになるだろうと思ったが、他の乗客が平然と戻って来たところをみると、放送を聞き逃したのだろう

待つ間にバスのフロントに掲げられている行き先表示を確認したら、K.Bharuと書かれていた。終点らしいが、モンダイはバスターミナルに着くか、バスステーションに着くかである(ややこしいことに、長距離バスが出入りする場所がコタ・バルには2ヶ所ある)。出たとこ勝負。ホテルは、600m離れている双方の中間を選んである。
ガイドブックを見たり うつらうつらしたりして、3時間余り。18時22分、コタバル・バスターミナルと読める場所に着いたのだが、予定より10分くらい早い。乗客もまだ数人乗っている。終点がバスステーションだと思い込み、そのまま乗っていた。
が、動き出したバスはもと来た道を戻りはじめたのだった え~っ
急いでガイドブックを取り出してmapをにらむ。どうやらタイ国境の町ランタウ・パンジャンに向かうらしい。
ここに至って、自分の選択肢は2つ。①降りた所からコタ・バルへ戻る、②降りた所に泊まって、翌日コタ・バルを目指す。
予約していたコタ・バルの宿は3,500円くらい、no showで取られたとしてもやむを得ないか・・・。しかし、国境付近は治安が良くないと一般的にいうから、急に選ぶ宿のセキュリティーが心配だなぁ・・・
あれこれ考えていると中継地のパシル・マスに到着、コタ・バルから30分くらい。降りたいのはヤマヤマだが、窓からタクシーが目視できない。中途で下車するのはあきらめ、終点まで行く決断をする。

陽はどんどん傾いていき・・・コタ・バルから1時間弱で終点に到着。
目ざとく見つけたタクシー運転手のたまり場に行き、コタ・バルと書いた紙片を見せる。主らしきおっちゃんがtownか?1台50RMだけど、と聞いてくる。もちろんO.Kと返事する(ガイドブックには40分~1時間で50~60RMとあり、適正価格)。
おっちゃんが無線で叫ぶと、タクシーが1台やって来た。ああぁ~ コタ・バルに戻れる しかも、いかにも困っている外国人の足元を見ずにフツーに対処してくれた。マレーシアの好感度、うなぎのぼり
たぶん早く家路につきたいのであろうドライバーは、対向車線にはみ出してビュンビュン追い越していく。ランタウ・パンジャンを出て数分で日が没した。往きに想像していたとおり街灯もない暗さだけど、交通量が多いので恐ろしさは全然感じなかった。
コタ・バルへ近づくにつれ、建物の明るさが増していく。地方都市だけど栄えてるんだなぁ、としみじみ。
結局、45分かかってホテルの前に降ろしてもらった。追加料金を迫られる可能性も覚悟していたけど、50RM(≒1,470円)渡すとあっさり去っていった。

通された部屋はシンプル、1泊に申し分なし。ただしクーラーのリモコンがなく、事実上壊れている。暑いのは得意だから、まぁいいけど
車窓から見かけたセブン〇レブンに行くか迷ったが、断念。見た感じ治安は悪くなさそうだけど、20時をまわっているのでムリは禁物。
念のためにとTBSバスステーションで買っておいた、常温でもつパンで夕食とする。口淋しいので、日本から持ち込んだワイン(アルコールを入手できない時の非常用)を開ける。初日からこんなんで大丈夫なのか・・・キリギリスな自分が心配。そして入国から1日経過しようとしているのに、まっとうなマレーシア料理を未だ口にしていない


2・1 コタ・バル ⇒クアラルンプール (2019年12月26日)

とんでもなく寝過ごした
目覚まし時計を忘れてきたため自力で起きるしかなかったのだが、夜中まで廊下を流れるBGMがうるさくて何度も寝返りを打ち、やっと静かになったと思い時計をチラ見したら午前3時過ぎ。さすがにまだ早いと思って二度寝したら、正午の5分前になっていた・・・
乗る飛行機は15時台後半だったよねと素早く計算し、可能な限り観光しようと急いで荷物をまとめる。各財布へのお金の仕分けを前夜にすませておいたのはラッキー
30分で支度してフロントに荷物を預け、地図を頼りに600mほど歩く。大砲が飾られてるなぁと思ったら、ほどなくして目的地に到着。

戦争博物館の入口には、イギリスと日本の国旗がデザインされている。
パール・ハーバー攻撃の陰に隠れがちだが、ここコタ・バルは太平洋戦争の初戦の地である。マレーシアを旅すると決まった時、ぜひ足を運びたいと思ったのだった。

館内はそんなに広いわけではなく、あまり時間が残されていない身にはありがたい。

遠くに見ゆるマネキンは、陸軍第25軍司令官の山下奉文氏【マレー半島およびシンガポールへの上陸作戦を成功させ「マラヤの虎」と称された、と館内のパネルに記されていた。
その後、1944年にフィリピンへ転戦したがアメリカ軍との戦いに敗れ、1946年2月に戦犯としてマニラで処刑された】。

イギリス人将校と思われるマネキンが対峙する。

太平洋戦争の始まりについて、「コタ・バル沖のKuala Pak Amatにて日本軍がイギリス軍に攻撃をおこなった。その70分後、パール・ハーバーが攻撃された」と記されている。

日本語の解説はないので、英文を読むしかない。曰く、1941年12月7日23時45分 コタ・バル沖に出現した日本軍をイギリス兵が発見。その船団は輸送船3隻・軽巡洋艦・駆逐艦4隻で編成されていたという。
沖合の船から日本兵を運んだ上陸用舟艇【1度に8~10人の兵士を乗せたという。1986年、クランタン川に埋まっていたのが発見されたらしい】。

上陸の模様を伝えるイラスト。

12月8日未明、いち早く日本軍を迎撃したオーストラリア軍およびその戦死者に対する感謝状があった。

12月8日にコタ・バルを完全に制圧した日本軍は、Kuala Krai方面へ撤退したイギリス軍を追って南下。現地の志願兵も含めた激戦のすえ、クランタン州を占領した。重機を移動させて攻撃しようとしたイギリス軍に対し、自転車で物資を運んだ日本軍の戦い方がジャングルの地に適していて、イギリスの初戦敗退を決定づけたらしい。
1940年代に使用されたという自転車が展示されていた。

激戦地に日本軍が据えたという記念碑のレプリカもあった。

日本軍のマレーシア侵攻を示すmap(この記事を書くにあたり、コタ・バルを〇で囲んだ)【日本軍は約2ヶ月で1,100㎞南下し、1942年2月にシンガポールを陥落させた】。

対比のためか、ハワイ侵攻を示すmapもあった(なお、12月7日となっているのはハワイ現地時間のため)。

展示の後半は、日本の敗戦・撤退とその後のマレーシアがテーマになっていた。
日本軍が発行した軍票【占領地で軍の作戦行動に必要な物資の調達・労力への支払い等に用いるために、通貨に代えて発行される手形。原則として終戦後に精算されることになっているが、発行国が敗戦した場合は価値がなくなることがある。日本軍がマレーシアでばらまいた軍票は、戦後処理の過程でイギリスの通達により紙屑と化した】。

日本軍がタイからミャンマーにかけて建設した「死の鉄道」について記すパネル。

その鉄道の一部が展示されていた。また、その建設にかり出されて亡くなった方々の写真もあった。

日本に投下されたリトル・ボーイとファット・マンの模型、その後方には原爆投下直後の広島の写真パネル。

日本の敗戦を告げる新聞。

1945年9月2日、連合国との間に日本が調印した降伏文書の複製。

1時間の滞在中、日本人に会うことはなかった。入館当初は自分を含めて3人くらいだったが、途中で家族連れが入って来て多少にぎやかになった。
折りしも軍票の展示の前で子どもの質問に答えようとしていた父親(と思われる。たぶんマレーシア人)は、すぐ後ろに立っていた私を見ると一瞬憚るような表情をした。日本人と気づかれたのかな、と感じるひとときだった。

ホテルへの帰り道、イスタナ・ジャハールの外観をパシャリ【1887年に建てられた王宮の建物で、現在は王室の伝統を伝える民俗博物館となっている。自分が訪れた戦争博物館も含めて、この一帯はカルチャー・ゾーンと呼ばれ博物館が建ち並ぶエリア】。
フツーに起きていれば、まわるはずだった・・・クランタン州の文化について触れる間もなく去る。残念至極


8㎞離れた空港へはバスで向かうつもりだったが、時刻表の下調べもできておらず時間にそう余裕もなさそうなので、タクシー移動に変更。空港までは20分で17RM(≒500円)也。入国後やたらと交通費が出ていくなぁ、いや、全部自分のせいだけど
結局、離陸1時間半前に空港へ到着。チェックイン後、搭乗までに腹ごしらえをする。1階をうろつく限りサンドイッチとかラップサンドとかで、マレーシア定番料理は見当たらない。朝から何も食べていないので、妥協してクリスピーチキンのラップサンドを買う。テンション低かったからか、画像を残していない。
そして食後にセキュリティーチェックして2階に上がると、ラクサ【地域差の大きい麺料理。共通点は、肉ではなく魚介類から出汁をとったスープであること、ハーブや香辛料を使用すること】を出すお店があった・・・急がば回れとはこれをいう
構内のショップを見るともなしに見ていると、トゥドゥン【ムスリムの女性がかぶるスカーフ。アラビア語ではヒジャブという】を売るお店に遭遇。マネキンの感じといい、なんか新鮮だわ

時間帯と費用の都合により、LCCを利用。飛んできた機体は乗客を降ろすとすぐに我々を乗せる。エンジン休んでないよね・・・単価じゃなくて数で稼ぐのだとしたら仕方ないのかもなぁ、でもちょっと心配

15時55分に離陸した飛行機は50分でクアラルンプールに到着。前日は早朝すぎてまばらにしかオープンしていなかったショップがフルに開いていると、受ける印象は全然違った。さすが首都の空港って感じ。
市内へ向かうためのKLIA Expressの窓口に難なくたどり着き、愛想の良い窓口のお兄ちゃんからチケットを買う。約30分でKLセントラル駅に到着。ホテルの最寄り駅まで運んでくれるLRT(電車)のクラナジャヤ・ラインへの乗り継ぎは表示が明確で迷うべくもなし。が、切符を買おうにも券売機はコインまたはクレジットカードしか使えず、手持ちのコインでは足りない。意を決してタッチ&ゴーカードを購入【いわゆるICカード。LRTのほか、KLモノレール、KTMコミューター、MRT、KLIA Expressなど幅広い電車のほか、一部のコンビニでも利用できる。最初はカード代10RMに加えて、10RMのチャージが必須】。翌日以降郊外へ出かけるが、また戻って来て足かけ5日クアラルンプールにいるから、どうにかなるだろう。
時刻は18時過ぎ、入線してきた電車は激混みだったので1度見送った。車両が短くてキャパが少ない。退勤時間帯なのか?それとも、常に混んでいる路線なのか?? ま、頻繁に(3分おきくらい)運行しているので問題ナシ。

パサール・スニ駅からマスジッド・ジャメ方面へ300mくらいの場所にあるホテルを予約していた。川のおかげで降りてすぐに進むべき方角は分かったが、駅のそばに予約したのと同名のホテルが建っている。ん 不思議に思ったが、予約サイトのmapを信じてセントラル・マーケットの脇を通り示された場所へ行ってみるも、それらしき建物はない。
ん~ 予約サイトで見たホテルの外観と、さっき駅のそばにあったホテル似てるよね、同じ名前のホテルが2つってありえないかもなぁ・・・
というわけで、来た道を戻って先ほどのホテルへ入る。半信半疑ながら「予約しています」とフロントで告げると、ビンゴだった
狐につままれた気持ちでガイドブックの地図を見ると、自分がチェックインした場所には別のホテル名が記されており、それはサイトから自分が予約したのとは異なるホテル名なのだ。予約サイトと本の両方が間違えるってあるのかなぁ、何なんだろう・・・
ともあれ、一夜の寝床は確保されていた。まぁいいか・・・考えるのをやめるゲンキンな自分

チェックイン時、フロントの横にワイングラスが飾ってあるのをしかと見た。このホテルはお酒を出すってことよね・・・
何となく感じるものがありホテル併設のコンビニをチェックすると、ビールと缶チューハイを売っていた。テンション 実は、昼間にコタ・バルの街中のコンビニや空港でも探したのだが、振られ続けていた。発見に至ったのは もはや執念としか言いようがない。
後で寄ることにして、夕食をとるべくチャイナタウンへ行く。誇張なく、目と鼻の先にある。
ガイドブックを読んで気になっていたお店に行き、ワンタンミー・ドライを注文【オイスター焼きそば+ワンタンスープ】。6.5RM(≒191円)。
とてもローカルなお店で、客層は若い中国系の人たち。折りしも19時の夕食どき、ほぼ席が埋まっていたので端の席につく。卓には去った客が出したと思われる小骨が載っているけど、それも含めて雰囲気を味わおう。下は店内の様子。

しばらくすると、中華系のお兄ちゃん店員が "Sorry.” とテーブルを拭きに来て片付けてくれた。
メニュー冊子などない。斜め隣のテーブルを指すと、“same?" と問い返される。カタコトの英語にて注文完了。
ワンタンスープが最高に美味 そう大きくない器に6つも入っているワンタンは海老のミンチを包んであり つるりと喉越しが良く、胡椒もいいアクセントになっている。
周囲を見まわすと、客の多くがこのドライを食していた。蒸し暑い気候ゆえ、温かいワンタン麺よりも人気なのだろう。


6日後にクアラルンプールに戻ってくるが、別のホテルをおさえた。心おきなく夜のチャイナタウンを堪能しようと、プタリン通りを北から南まで練り歩いた。
南門のそばにあるお店でカメゼリーに挑戦(11RM≒323円)。下の画像左の急須に蜜が入っている。
【カメゼリー; 正確には亀苓膏(キレイコウ)という。亀の腹甲を干して粉末状にし、甘草・仙草・土茯苓などの生薬と蜂蜜を煎じた液を陶器に入れて蒸してつくる。美肌・デトックス・夏に身体の熱をとるなどの効果があるらしい。中国の広西省梧州が発祥というが、こんにち香港を含む広東省でも広く食されている】
本には苦いと書かれていたが、蜜なしで一口・二口・・・全然平気だった。幼い頃から薬草茶を飲まされて、口がなれているらしい。食は習慣だなとつくづく思う。もちろん蜜をかけるとより美味しくなるけど、個人的には素でも全然O.K。さすが漢方、口の中がサッパリして素晴らしい食後のデザートだった

ホテルへ戻る道すがら、スリ・マハ・マリアマン寺院の前を通り過ぎた【1873年創建、クアラルンプール最古のヒンドゥー寺院。マリアマン=雨をつかさどる女神を本尊として祀る。高さ22.9mの塔門(ゴプラム)にはヒンドゥー教の神々・従者228体が彫られている。現存するのは1968年築のもの】。

部屋に戻る前、コンビニに寄ってビール2本とチューハイをget。ビール2本セット19RM・チューハイ8RM・・・食事に比すると、アルコールは割高な設定。ま、イスラームが国教の国で手に入るだけありがたいと思おう 洗濯と入浴を済ませて、おもむろに晩酌。
今日も盛大にやらかしたなぁ・・・毎日こんなんじゃないかと先行き不安かも
明日夕方にはCちゃんと合流かぁ・・・南インド以来、4年ぶりの二人旅に胸を弾ませながら夜は更けていった。


1・3 クアラルンプール ⇒マラッカ (2019年12月27日)

前日の二の舞を避けるべく、スマホの電源を切らずアラームをかけた。日本との時差マイナス1時間なので、メール等の着信で無駄に起こされることもなく、ばっちり目覚めることができた。やったね
朝食のビュッフェは豪華だった。生粋の米派としては、朝からありつけるのは嬉しい。昼・夜は野菜をほぼ摂れないかもと想定し、ガッツリ盛る。

チェックアウトし荷物を預けて、ホテルのほど近くにある中央郵便局を目指す。
陸橋を渡りながら南を眺めると、LRTのパサール・スニ駅(画像中央)とKTMコミューターのクアラルンプール駅(画像右中央)が並んでいた。

ほどなくして郵便局に到着。1階(この国ではGと表す)から入って目についたカウンターのお兄ちゃんに切手が欲しいと伝えると、「2階へ行け、まっすぐ進んで左」と言われる。そのとおり行ってみると、エレベーターで2階に上がることができた。こうしてあっさりと切手を入手。切手代は0.5RM(≒15円)かぁ・・・安いね。

次に、ムルデカ広場へ向かう。200mも北上しないうちに、右手に国立テキスタイル博物館が見えてきた(白いドームを持つ建物)。

噴水の奥には、赤いドームの時計台を擁するスルタン・アブドゥル・サマド・ビル【1897年築の旧連邦事務局ビル。往時はイギリス統治の中心機関が置かれていた】。

なんといっても、広場の芝生が圧巻
【ここは1957年8月31日、マラヤ連邦の独立が宣言された由緒ある場所(広場名のムルデカ=独立の意味)。かつてはクリケット競技場だった。画像中央奥のオレンジ色の屋根はイギリス統治時代の1884年に建てられたロイヤル・スランゴール・クラブで、今日も社交場として使用されているらしい】

式典等の特別な場合を除いて芝生への立ち入りは禁止のため、クラシカルな建物を右目に広場の脇を北進。

セント・マリー聖堂に到着【1894年、イギリスにより建設】。

ムスリムが圧倒的に多いこの国で教会は珍しいのだが【キリスト教徒は9%】、各国で教会を渡り歩いてきたため興味がわいた。
否が応でも屋根の三角形を意識してしまう内観。


クリスマス・シーズンなので、クリッペもあった。

入国3日で既に色々やらかしているが、ここまでの無事に感謝して、この先の平安を祈った。

来た道を戻り、芝生の南エリアにあるクアラルンプール・シティ・ギャラリーへ。予定していなかったが、吸い寄せられるようにフラリと入った。
クアラルンプールの都市開発の過去・現在・未来を展示するモダンな空間だった。
ちなみに、土産物コーナーも充実している。食指が動かなかったが、旅の最後に訪れていたなら違っていただろう。


広場観光の最後は国立テキスタイル博物館へ。下の画像奥がそれ【1905年築の旧マレー鉄道本社ビル。白いドームにインドのムガル様式の影響がみとめられる。なお、画像手前はスルタン・アブドゥル・サマド・ビル】。

染めや織りの作業の様子を蝋人形が再現している。



特色ある民族衣装の展示に先立って、マレーシアの地図が示されていた。
マレー半島に位置する西マレーシアは多くの州に細分化されている。

ボルネオ島に位置する東マレーシアはサラワク州とサバ州で構成される。

多様な民族から成り立つマレーシアの中でも、3大勢力がマレー人・華人・インド人である。
下の画像で左の2つはマレー人、右の2つが華人の衣装。

上の画像は薄暗く見えにくいので、華人に関する写真付きの説明パネルも載せておく。
【プラナカン=15世紀以降、単身でマレー半島にやって来て現地の女性と結婚した中国人男性(多くは商人や船員)の子孫。その2世以降は男性がババ、女性がニョニャと呼ばれる。彼らは中国文化とマレー文化を折衷し、また当時マレー半島に進出していたヨーロッパ諸国の要素もミックスした独自の文化を形成した】

こちらはインド人の衣装。

3000~4000年前、中国方面からマレー半島にやってきた先住民Orang Asliの衣装。東南アジアに分布するterapの木の樹皮からつくった衣、ヤシの葉でつくった腰飾り・髪飾りを身に着けている。

ボルネオ島はサバ州の衣装を説明するパネル。

サバ州のLotudの衣装。男女ともに織り模様が細かい。

ボルネオ島はサラワク州のLun Bawangの衣装。樹皮からつくった上衣に赤いふんどし・・・男性の衣装が印象的だった。

細工の美しい履物たち。


高層ビルの合間に、19世紀の建物がしっかりと根付いているムルデカ広場。都会なんだけど、ひと昔前の面影を残す・・・魅力が詰まったオススメの場所である。

クラン川を渡りつつ100m少々東へ向かう。ここも低い建物の奥に高層ビルが覗く。

セントラル・マーケットに到着。マレーシア各地の民芸品だけでなく、アジア諸国からの輸入雑貨を売るお店が集結している。


いちおう値段調査が目的なので、お土産になりそうなものを物色する。なまこ石鹸は6個で50RM(≒1,470円)か、この国の物価からするとさほど安くはないな・・・
【なまこ石鹸; ナマコをココナッツオイルに浸して抽出したエキスが原料。サポニンを含み、保湿や抗菌などの効果があるという】
インドも中国も旅したことあるので、何となくマレーシアっぽいものを探してしまう。が、インド系も中国系も3大勢力なのよね、その全てがマレーシアなんだよねぇ
輸入雑貨にはインドネシアのアタ製品があり、影絵の人形はその昔カンボジアで見かけたなぁ・・・【この記事を書くにあたり調べたところ、インドネシアやタイ、そしてマレーシアにおいても影絵芝居の伝統が根付いていると知った】
まだ旅の序盤ゆえお土産探しに気分が乗らず、思ったほどこのマーケットで時間をつぶせない気がする。予定より早くマラッカへ発つのも一手だが、Cちゃんの氏名で予約しているのでホテルにチェックインできるか怪しい。荷物すら預かってもらえないと最悪なので、やはりクアラルンプールでゆっくり過ごそう。
国立モスクかブキッ・ビンタンか迷って後者へ。数日後に行く予定だったので、下見がてら。ガイドブック曰く日本でいう銀座のような場所で、確かに栄えていた。
そしてロット・テンの中にある伊勢丹の地階に行ってみると、まるで日本な様子にビックリ
日本の食材がど~んと並び、アサヒやサッポロなど日本のビールも揃う。さらに洋物ワインコーナーも ここに来ればよかったんだあぁ~ 
アルコールに囲まれて、いつも以上に幸せな気分になる。Cちゃんと合流の乾杯用に何か買おうかとボルテージが上がりかけたが、がまん我慢。日本を持ち込むのはなんだか違うか・・・ローカルなお酒で祝おう、やっぱり

MRT(電車)で2駅、パサール・スニに戻る。たった1晩いただけなのに、見納めの気持ちが膨れあがって駅前からパシャリ
画像中央の黄色い建物から奥がチャイナタウンである。

この後Cちゃんといつ合流して、はたまたマラッカでの夕食が何時になるやら不明なため、昼食をとることにする。セントラル・マーケットの2階にあるフードコートにも魅かれたが、お粥をチョイス。せっかくチャイナタウンの目の前だからね、満喫しないとね
前日入ったワンタン屋さんの2軒くらい隣のお店へ。正午過ぎでお店は繁盛していたが、目ざとく私を見つけてオバちゃんが空席に案内してくれた。旅行客らしき華人夫婦と現地人っぽい華人の若者との珍妙な相席。下の画像は店頭の様子(ピンボケではあるけど、念のため顔の部分を加工した)。

着丼の早いことったら、1分もかからないくらい。
鯉の刺身入りを推しているお店なんだけど、食べたことないから興味はあったんだけど、旅序盤のナマモノは避けて肉団子入りをチョイス。
華人だから豚肉を食べるんだよね。トロットロのお粥は胡麻油とパクチーがアクセントになっている。本来ならば熱い食べ物は避けたくなるような気温なのに、汗かきながら箸ならぬレンゲが進むのは絶品ゆえ。


ホテルで荷物を受け取り、陸橋を渡ってKTM(マレーシア国営鉄道)のクアラルンプール駅へ。駅舎に行ってみて分かったことだが、30分に1本くらいしか便がない。既に乗ったLRTやMRTに比べて構内が古めかしいし、タッチ&ゴーカードが反応しにくい改札もあった。国営だから、あまり資金潤沢ではないのだろう。そして、速度が遅い。長距離バスが出るTBSバスステーションと直結する駅はたった5つ先とタカをくくっていたら、1時間かかった。自分にしては珍しく時間に余裕があったので、事なきを得たが
ホームを遠望してみる。

トゥドゥン姿の女性たち。

そして、2日前とは雲泥の差の混みっぷりのTBSバスステーションに面くらう。窓口の行列に並んで10分待ち、50分後(15時20分)に出発するバスのチケットをget。便数はあれど、売り切れなのだ。それとて最後の1席だったので、ラッキーと思うしかない。
そうこうするうち、CちゃんからLINEが来て予定通りのバスに乗れたという。これで自分の後着が確定、チェックイン問題は解決
と思っていたら、なんとマラッカ・セントラル(バスステーション)でCちゃんと合流することができた。4㎞離れているダウンタウンまで個々に向かう予定だったが、なんという幸運
トイレを済ませて路線バスを待つも、来る気配がない。ときに17時半前、さらに待てば来るのかもしれないが、バスを降りてからもホテルまでかなり歩くため、思いきってタクシーに乗ることにした。カウンターで頼んで20RM(≒588円)也。
18時前、ホテルに到着。歴史的な建物を修理した素敵な宿で、部屋はロフト状で屋根裏テラスがあった。



夏なのでまだ明るい。夕食前にマラッカ観光第1弾に出かける。マラッカ川を渡り、丘の上のセント・ポール教会跡へ向かう。
目を上げると、白い鐘楼とファサードが見えてきた。

鐘楼の前に立つザビエル像。よく見ると、右手が欠けている【建立当初はもちろんあったのだが、落雷で木が倒れかかった際に失われた。なお、現在ゴアに安置されているザビエルの遺骸には右腕がない。全く腐敗せず芳香すら漂うといったザビエルの遺体にまつわる奇跡を確かめようとするローマ教皇の命令により死後に右腕を切り離したからなのだが、偶然を超えた何かを感じる人々もいるという】。

教会は廃墟のまま残されている【1641年、オランダがポルトガルからマラッカを奪取した後はプロテスタント教会として使用されたが、1824年以降イギリス統治下では弾薬庫として使用され荒廃した】。画像中央奥が内陣。

内陣には、IHS(イエズス会)と表示する覆われた空間があった。かつてザビエルの遺体が横たえられていた場所である。
【1552年12月3日 明の沖合に浮かぶ上川島で昇天したザビエルの遺体は同地に埋葬されたが、2ヶ月半後に掘り出されてゴアへ運ばれた。その途中マラッカを経由し、このセント・ポール教会で盛大な葬儀が営まれ、1553年3月下旬~12月までここに安置されていた】

ファサードの方向を振り返る。
大航海時代、カトリックの布教活動は海外進出と一体化していた。信者獲得に奔走するザビエルが何度となく出入りした頃、ここは一大宗教センターとして栄華を誇ったのだろう。しかし、いまや昔日の繁栄は見る影もない。
諸行無常・・・教会跡を訪れて、仏教観がこみあげる。自分が特定の信仰を持たないからなのか、宗教の違いはあれど通底する普遍的なものがあるからなのか。


丘をくだり、オランダ広場を通過。

再び橋を渡ってチャイナタウンに戻り、ハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)とトゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)に挟まれた小路のお店にて夕食。特に目当てがあったわけではなく、観光客で繁盛する食堂が並ぶなか、なんとか空いていた所に入ったのだった(そのお店とて、客が去ってもすぐに席が埋まる盛況ぶり)。迷ったすえに3品注文。まずはオムレツ。

蒸し餃子。

待ってました、名物料理のオタオタ【魚のすり身・ココナッツ・ウコン・生姜・レモングラス・コリアンダー・唐辛子などを練り込み、バナナの葉・パンダンリーフなどで包んで蒸し焼きにする】。辛めで日本の練り物とは違う風味なんだなぁ、面白い


★ 中締め ★

次回はマラッカ観光の後、ペナン島へ飛びます。
お楽しみに
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ウズベキスタン篇 その5

2024年05月22日 | アジア
旅の最後は、以下の地図の➍・➊での模様をお送りします(ヒヴァとウルゲンチは近接しているため、➍に統合しています)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


4・1 ヒヴァ ⇒ウルゲンチ ⇒タシケント (2023年8月27日)

この日、8時20分発の飛行機でタシケントへ飛ぶことになっていた。5時半に起床、6時20分のピックアップに余裕をもってフロントへ。前日にチェックインした時と同じく、柔道体型な俳優顔フロントマンだった。きっと夜~朝担当の人なんだな。
冷蔵庫の支払いなど無いので、ただ鍵を返すだけ。"朝食はいらないの?” “タクシーを呼ぶ?” と聞かれたが、勿論いらない。
チェックインの時に日本語で挨拶してくれたよな~なんて思い出しながら、ウズベキスタン語で"さよなら” と伝えて歩き出す。
宿のエントランスを出て西を見ると、こんな感じだった。左が我が宿、中央が西門、右がクフナアルク。

身を翻すと、東にはカルタミノル。

時間を持て余して少々南へ足を向けると、パフラヴァン・マフムド廟とイスラーム・ホジャ・ミナレットのシルエットが浮かんでいた。

前日タクシーを降ろされた場所で待っていると、きっかり6時20分にタクシーがやって来た。やっぱり前日とは別のドライバーで、伊吹〇郎のようなイカツイおっちゃん。道すがら、ハンドル片手にナッツらしきものをひたすら口に運んでいた。時間が時間なだけに、朝食もとらずに迎えに来てくれたのかもなぁ・・・

35㎞北東のウルゲンチへは45分で到着。

ウズベキ〇タン航空の公式サイトから購入した航空券は問題なく有効だった、ホッ
小さな空港で、チェックイン・カウンターのすぐ左手がX線手荷物検査場、そしてそのすぐ奥が待合室、とコンパクトだった。
トイレを済ませた後、喫茶コーナーでblack teaを購入。5,000スム(≒60円)也。
到着は3時間後。食事が出るかが微妙で、食べ物を買うか迷ってやめておいた(結局、ドリンクが2杯出たきりだったが)。

機体に乗り込む。

3時間といってもブハラまで45分、そこからタシケントまで45分のフライト。残りの1時間半はブハラで機内待ち。降機しなくてよかったのは面倒なくてよかった。例によって、ハガキを書いたりして過ごす。

タシケント空港からホテルまでのタクシーは自力で探す必要があった。記事「その3」で既述の通り、ヤ〇デックスを使えないことが判明している自分。声をかけてくるドライバーと直接交渉するしかなかった。最初に15万スムと言われたのを10万スムまで下げるのが関の山だった。翌日ホテルのフロントを通じて頼んだタクシーは4万スムだったので、6万スム(≒720円)上乗せされたことになる。旅行エージェントを通じて送迎を手配する(25ドル)よりは安いと心を慰めるしかない

空港を出てわりとすぐに渋滞につかまり、10分以上動かず。明らかにイライラし始めたドライバーは途中でUターンして一旦空港付近まで戻り、別の道を進んだ。大規模な橋の工事をしているのが原因のようだった。なお、このドライバーも結構いいかげんで、交渉の最初にホテル名を告げたら さも知っているかのように振る舞っていたのに、乗車したらホテルの住所を見せろと言い出す。これって、サマルカンド駅から乗ったタクシーのおっちゃんと同じパターンだわ・・・他のドライバーに客を横取りされないための処世術なのかなぁ。ま、無事に送り届けてくれたからいいけど

45分かかり、ホテルに着いたのは12時半過ぎ。さすがにお腹がすいたので、サマルカンドの朝食ビュッフェで取っておいたパッケージ入りのパンケーキを食す。部屋のポット及び紅茶・コーヒーなどの粉モノが充実していたので、ホクホクしつつ
2022年に開業したばかりとのことで、新しく機能的な部屋だった。

そして、この旅最後の洗濯にいそしむ。これまでの感じからして、干して出かければ翌朝までには明らかに乾くはずだった。

14時過ぎ、観光に出かける。最寄りの地下鉄駅まで迷わずにたどり着いたが、その500m弱の道のりは夜になったら寂しそうでヤバイと思われた。暗くなる前に戻らねば・・・
プリペイドカードを買うのはギリギリ損になると計算し、切符を都度買うことに。券売機はなく、有人窓口(KASSA)にて現金でやり取り。
最寄り駅の構内。

青ライン(ウズベキスタン線)に乗り1駅、赤ライン(チランザル線)に乗り換え1駅で下車。
途中の駅で思わずパシャリ どの駅も意匠が異なっていて、素敵な地下空間が広がっていた

地上に出て一瞬方角を見失ったものの、目ざとく標識(青看板)を発見。南南西に500m歩くと、ガイドブックにて外観知ったるウズベキスタン歴史博物館が見えてきた。

入場券売り場にて “~階は工事中でclosedである” などと言われ、それでも入るかと確認されたが、ここまで来て入場しない選択肢はない。
こちらがエントランス。両サイドに古き柱が展示されていた。

ヒヴァから運ばれた16世紀の柱。場所の詳細は記されていなかったので、ジュマ・モスクだろうかと妄想がふくらんで面白かった

土器や剣など、フロアには紀元前からの発掘品が並べられているのだが、お目当てのコーナーめざして自然と足は先を急ぐ。てか、なぜに兵馬俑風な彫刻

これもその類の彫像なのだろうか。が、この記事を書くにあたり調べたところ、クシャーナ朝の高官と判明。謎が深まった
【クシャーナ朝; 1~3世紀、アムダリア川流域~ガンジス川流域を支配したイラン系民族の国。ローマ帝国と後漢を結ぶシルクロード貿易に携わり繁栄】

自分の関心はただひとつ、テルメズ周辺の仏教遺跡関連だった【テルメズ; 首都タシケントから南南西に500㎞、アムダリア川をはさんで対岸はアフガニスタンというウズベキスタン最南部に位置する。ガンダーラ美術の影響を受けながら、1~3世紀にクシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えた。カラテパ(8haを誇る岩窟僧院跡で、中央アジア最大級の仏教遺跡)、ファヤズテパ(カラテパの北1㎞にある。寺院・修道院・食堂を擁する)、ズルマラ(2世紀築、中央アジアに残る最大の仏塔。日干しレンガ製、高さ13m)はその古代仏教遺跡である。なお、7世紀に入るとアラブが侵入しイスラーム化が進んだというが、7世紀前半にこの地から川を渡ってインドへ向かった玄奘は『大唐西域記』に「伽藍が十余箇所、僧徒は千余人」と記した。廃れつつありながらそれほどならば、古の繁栄は想像を絶するものであろう】。

いよいよ件のコーナーである。カラテパからの出土品、3~4世紀制作。しっかりとヘレニズムなお顔だちだぁ
【ヘレニズム; アレクサンドロス大王の東征を機に、オリエント文明と融合して超民族的・普遍的な性格をもつようになったギリシャ文明。B.C.4世紀後半~B.C.30年(プトレマイオス朝の滅亡)までの約300年間栄えた。元来は偶像崇拝をしなかった仏教にヘレニズムが大きな影響を与え、ガンダーラ(インダス川上流域。クシャーナ朝の都周辺)で仏像が制作されるようになったという】

彫像のかけらが残る。


漆喰の構造物。ファヤズテパで発掘、1~3世紀の作。

ドーム部には蓮の花などが描かれている。

足を組む仏像はカラテパから出土、2~4世紀制作。

こちらもテルメズ関連のコーナー。

お気づきでしょうか、上の画像中央のガラスケースは空。そこには、こんな注意書きが貼り出されていた。

そう、この博物館の白眉であり、ガンダーラ様式の傑作と名高い仏像が他所へ出張中なのだった
前日にここを訪れたCちゃんからその旨知らされていたので、気持ちに整理はついていたものの、残念としか言いようがない
発見当時の写真がパネルになっていたので、代わりにそちらを掲載する。僧侶を両脇に従え、菩提樹の下に座す釈迦如来像である【1968年、ファヤズテパから出土。高さ72cm・幅63cm・奥行き28cm、石灰岩製。脇侍の両手が失われている以外はほぼ完全な形で出土。制作の時期は1~2世紀あるいは3~4世紀など諸説ある】。


1~3世紀のファヤズテパの想像復元図。手前の仏塔入口に、インドはサーンチーのような門(トラナ)があるな・・・
【サーンチー; デリーの南方580㎞にある仏教遺跡で、世界遺産に登録されている。B.C.3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王がつくらせたという第1ストゥーパは高さ16m・基壇の直径36mのドーム状。その周囲の東西南北に備わる塔門(トラナ)には精緻な彫刻がほどこされている】

壁画も展示されていた【ファヤズテパにて、壁から剥がれ落ちて堆積した状態で発見された断片を復元したという】。

顔だちがはっきりとわかる。

仏陀の顔の部分をズームアップ。

3枚上の画像右上に見切れている、帯状の壁面装飾。

彩色が一部残っている。

向かい側の壁にも同様の帯状装飾。ファヤズテパから出土、1~3世紀制作。


ファヤズテパから出土した菩薩像(1~3世紀制作)。

手のひらに線描あり。

左脇からのショット。

目当ての仏像には会えなかったが、今やムスリムが席巻しているこの地に かつて仏教が伝わり、栄えて通り過ぎていった痕跡を確かに感じ取ることができた。
満足したところでテルメズ・コーナーを脱し、他の地域の特集へ。
こちらはブハラからの出土品、6~7世紀制作。



ブハラのカラーン・ミナレット&モスクの模型もあった。

衣装もたくさんあったが、これまでの記事で扱ってきたので割愛。
こちらはカラカルパクスタン共和国の民族衣装(19~20世紀)。これまで見てきたのと違うなという直感だった。この記事を書くにあたり調べたところ、なるほどと思わされるものがあった。
【カラカルパクスタン共和国; ウズベキスタン北西部にある自治共和国で、この国の面積の37%を占める。独自の国旗・国歌・国章・憲法を有する。首都はヌクス。紀元前から栄えた古代ホレズム王国の領域にあたり、アムダリア川の流れが変わるたびに造り替えたという都城跡(カラ)が点在する。1925年、ヒヴァ・ハン国の一部と旧ロシア帝国の一部が合体して現領域が確立。紆余曲折を経て1936年、ソ連に属するウズベク共和国内の自治共和国となる。1991年にウズベキスタンがソ連から独立すると、翌年に改組され今日に至る。人口の3割がチュルク系カラカルパク人だがウズベキスタン人も多く、カラカルパク語とウズベキスタン語が通る。北部に広がるアラル海は隣国カザフスタンにもまたがり世界4位の広さを誇っていたが、ソ連時代に綿花づくりの用水として過剰な灌漑が行なわれた結果 アムダリア川が細り、半世紀で5分の1に縮小。かつて盛んだった漁業は振るわず、米やメロンづくりに転換している】


最後、エントランスの脇に「返還された文化財」というミニコーナーがあるのを発見。

19~20世紀に制作されたものという。



博物館を出て、300mと離れていないナヴォイ劇場へ向かう途中、ふと筋肉痛を感じる。あ、イスラーム・ホジャ・ミナレットにのぼったからか。翌日にくるとは、まだ若いかも・・・浮かれながらのし歩く
噴水越しに望むナヴォイ劇場【ロシア革命30周年記念事業の一環として1947年11月の完成を目指し着工したが、第二次世界大戦の影響で工事が遅れた。1945年、ソ連軍に捕らえられた日本人捕虜のうち457名がその建設に携わり、予定期日までに完成。1966年4月の直下型地震では市内の多くの建物が倒壊するなか、ほぼ無傷であった。地上3階・地下1階建て、1400名を収容するバレエとオペラの劇場。なお、ナヴォイは15世紀(ティムール朝)の詩人】。

正面入口前と北壁付近にスクールの子どもたち・教員と思われる集団がいて、踊っていた。

公演チケットを買わなければ中に入ることはできないらしい。正面入口付近を撮影して、そそくさと退散。

北壁のレリーフ。第二次世界大戦末期に強制連行された日本人数百名がこの劇場建設に携わった、と刻まれている。


劇場を後にして、ティムール広場を目指して北上。通りを越える。

広場へつながる道に子ども向けのアトラクションあり。

両側には屋台が並んでいる。この辺りが繁華街のはずで、土産物屋を期待していたが、それらしきものは見当たらない

面白い形のゴミ箱。

広場に到着。周囲のベンチで人々がくつろぐばかりで、売店などない。

土産物探しは翌日に延期して、中央郵便局を下見することに。
Wi-Fiを入手したおかげで、ガイドブックに記載のない情報はスマホでどんどん検索していたのだが、空港のポストはあてにせずタシケント市内でハガキを投函したほうが安全そうだった。で、タシケントを紹介する個人の記事とそこに載っていた地図を頼りに探したのだが、示された位置にたどり着いても廃墟しかなかった。
結論から言えば、地図上のマークが間違っていて通り1つ分南になっていたのだった。そう気づいたのは後になっての話であって、当時の自分は焦りつつナヴォイ大通りを越えてアミール・ティムール通りを北進。アブドゥラ・コディリ駅まで到達してキョロキョロ 勿論なくて、あきらめて来た道を引き返す途次、もしやと思ってナヴォイ大通りを東へ進んだら、あったのだった はぁ~ 簡単にあきらめなくてよかった

残すは夕食のみ。先ほど通り過ぎたお店へ向かう。わりと広いお店で、先客2組から離れた場所に腰を下ろした。最後の夜なのでボトルを頼みたいのはヤマヤマだったが、この日チェックインしたばかりのホテルまで戻ることを思うと さすがに手が出ず、グラスにとどめておいた。

サラダはこれまでチョイスしなかった組み合わせで、セロリときのこのにした。一口食べると不思議な、でもホッとする味わいだった。メニューを読み返すと、醤油が使われているようだった。コリアンダーやオリーブオイルも入っていて不思議な味わいなのだが、どこか懐かしい感じがするのは醤油に馴れ親しんだ身ゆえか。
【なお、ウズベクで醤油を使用するサラダは一般的なのか疑問に思い今回調べたところ、ヤポンスキー(日本)サラダなるものが存在することが判明。牛肉・トマト・きゅうり・コリアンダーにレモンや胡麻、醤油だれで味つけているらしい。自分が口にしたのは、それを洋風にアレンジしたメニューだったのかも・・・】

この日のメインは、食べてみたいと思っていたマスタバ。トマトベースの野菜スープwith米を期待していたので、個人的にはコマ切れ牛肉の香りが引っかかったが、好みの問題だろう【調べたところ、肉が入るのはマストのようだ。小さく切った肉を炒めてニンジン・ジャガイモ・玉ねぎとともに煮込んだ、米入りのトマトベースのスープ=マスタバの定義。なお、米は少量である】。

この赤ワインが超絶美味だった たぶんピノノワール。

サマルカンドでも見かけた類のお人形たちがお店の出口で見送ってくれた。


往きと逆の経路で地下鉄の最寄り駅を降りたはいいが、異なる出口から地上に出たようで、どの方向へ進めばよいのか分からなくなってしまった。
改札へつながる階段はホームの両端にあるのだが、往きにはオープンしていたはずの片方が下の画像のように閉鎖されていたので、否応なく誘導された模様(画像は翌日撮影)。

幸い周囲はにぎわっていて危なさは感じないが、なにせ往きに見かけていない景色。ワイン2杯飲んでるしな、自分に自信もない
藁にもすがる思いでヤン〇ックス・マップスを見たところ、ちゃんとホテルの位置を覚えてくれていた。チェックイン後しばらくとどまっていたので、宿を認識してくれたのだろうか。ともあれ、大通りをはさんで反対側にいるとあっさり判明。文明の利器ってやっぱ侮れないわ(ちなみにタクシー配車とは別のアプリで、これもCちゃんに薦められてダウンロードしておいたのだった)

かくして19時半、無事にホテルへ帰着。
フロント脇のbarコーナーでビールをtake out、風呂あがりの晩酌にもありつけた。銘柄はブハラでも飲んだSARBASTだったと記憶しているが、画像を撮っていない
ハガキ書きに忙しく、日記を書く暇が一切ないまま夜は更けていった。

1 タシケント ⇒出国 (2023年8月28日)

22時離陸の便なので、最終日ながらのんびりできるスケジュール
汁ありラグマンを食したいと希望しつつも、時間が押せば食事は割愛になる可能性大だったので、朝食ビュッフェはしっかりと取った。
下の画像中央、茶色いのは馬肉ソーセージ。セージを効かせて臭みなく仕上げてある。これまでに馬刺しを口にしたことはあったが、勿論ソーセージは初めて。何肉か知らずに口に入れたら、馬とは思いもよらないだろうな・・・何にせよ、食べる機会を得られてよかった【中央アジアの国々では馬肉をよく食すが、ウズベキスタンは例外的に全土では見られず、タシケント周辺のみという】

おかわりしたお皿。画像左半分を占めるのは、ピロシキの具をクレープで包んだようなお料理。

そして、店先やビュッフェで目にしては心魅かれつつ ある種断腸の思いでパスし続けてきたメロンを遂に食す。
雪のように白い果肉を口に含むと、日本のとは全然異なる芳香 気品あふれる高貴な香りが鼻孔いっぱいに広がる。あぁ・・・シーズンの夏に訪れながら これを食べずして帰国の途につけようか、否である。

本当はもっとたくさん食したかったが・・・ハライタが怖いのでやめておいた。惜しいくらいで丁度よい
実は、メロンを食べて水を飲むと腹痛を起こしやすい、と列車の手配等をお願いした旅行エージェントからアドバイスを受けていた。暑さの中そう何時間も水を飲まないではいられないので、恐れをなしてここまで先送りしてきた。もはや最終日、後は野となれ山となれとトライ
とはいえ、しばらくは水を飲まないつもりだった。その代わりに、部屋に戻ってポットに湯を沸かし、チェックアウトまでに熱いteaを2杯飲んだ。

パッキングした荷物をチェックアウト時にフロントに預け、10時過ぎにホテルを出た。
地下鉄青ライン(ウズベキスタン線)で1駅、アリシェール・ナヴォイ駅の装飾は涼やかな水色。

さらに赤ライン(チランザル線)に乗り換えて4駅。前日とは逆方向へ。パフタコール駅の壁面装飾は綿花がモチーフという【パフタ=綿の意】。

ミルザ・ウルグベク駅から地上に出ると、立派なスタジアムがど~んと鎮座していた。この国でサッカーはポピュラーなスポーツなんだろうか・・・

【この記事を書くにあたり調べたところ、このミリー・スタジアムはウズベキスタンのFCブニョドコルの本拠地。チーム自体が2005年創設と若く、スタジアムは2012年築、3万4千人収容。なお、ウズベキスタンでサッカーは圧倒的に人気のスポーツらしい。1991年に独立という歴史の短さもあり、過去にワールドカップ本大会に出場したことはないが、ワールドカップ2026アジア2次予選ではE組の2位につけている。FIFAランキング64位、アジアで8位(2024年4月時点)。ちなみに1枚上の画像、パフタコール駅の近くにもスタジアムがあり、2009年6月6日にここで日本代表がウズベキスタン代表に勝利してワールドカップ南アフリカ大会出場を決めた(1-0、前半9分 岡崎慎司)。なお、ここを拠点とするFCパフタコール・タシケントは、ウズベク国内リーグで何度も優勝している強豪チームという】

ここから目指すはヤッカサロイ墓地。チャパナータ通り沿いに南東へ2㎞、さらに500mほど南下すればたどり着くはずだった。ホテルでタクシーを呼んでもらい、帰路だけ歩くのもテだったが、心もとなくなってきたスムの現金を温存したかったので、往復とも徒歩にチャレンジ
かなりの大通りをひたすら歩く。途中、メロン&スイカ売りに遭遇した。

サマルカンド以来、久々に酒屋を見かけた。お土産に買いたいが、重くなるのでひとまず先を急ぐ。

ヤンデッ〇ス・イーツの配達員と行き交う。タクシー配車以外にも手広く事業展開中、ホントすごいな~


南下のため大通りから右折するポイントは間違わなかった。が、ヤッカサロイという地名表示に安心した直後、ほんの数十m手前で東へ進んでしまい、住宅街のような袋小路に入り込んでしまった
これはやむを得ない・・・前夜の速攻解決を思い出し、ヤ〇デックス・マップスを開いてみる。表示された画面に導かれるまま戻ると、墓地の通用口にたどり着いた。小さな間口だったので、アプリでなければ通り過ぎてしまっただろう。つくづく文明の利器は偉大 (下の画像は帰路に撮影。右奥が通用口)

墓地内を当てずっぽうに歩くうち、存外敷地が広大なことに気づく。案内板などないし、たどり着けるのか 心配の的が変わっていく。

なおもガツガツ参道を歩いていると、清掃員の方々3名に出くわした。その中の年配男性が、日本人か?と声をかけてくれたので "はい” と返すと、日本人墓地はあっちだよ、と教えてくれた。英語ではなくウズベク語かロシア語だったが、場面の状況からそう言ってくれていると理解した。お礼を言って奥へ進む。

50mも進まないうちに、それまでの林立する墓地とは明らかに異なる一区画に行き着いた。碑に日本語らしきものが書かれている。
あぁ、たどり着いたんだ・・・そう思った瞬間、万感胸に迫るものがあった。
長い距離歩くとなると行き着けない可能性もあると予想していたし、実際に小路に迷い込んだ時はダメかもと思った。時間に余裕がなかったら、あきらめていたかもしれない。が、ついに探り当てることができた。不安から一気に安堵したのと、断念しなくてよかった・目的を果たせたという達成感、この旅のフィナーレの高揚感・・・

折り鶴が捧げられている。

日本でも時折見かける、「世界人類が平和でありますように」と記された標柱。

タシケントで亡くなった方々のお墓。

上の画像の中央奥にご注目あれ。大写ししたのがこちら。ウズベキスタン全土で亡くなった日本人を共同で慰霊するモニュメントがある。
【第二次世界大戦末期、ソ連軍に捕らえられた日本人捕虜は57万5千人という。そのうち2万5千人がウズベキスタンに移送されて強制労働に従事し、死亡した800名余の方々はウズベキスタンの13ヶ所に葬られている】

その周囲の壁には、各地での死没者数が刻まれている。

歴史学を専攻した自分が大学時代に読んだ本の一節が印象に残っている(残念ながらタイトルも著者も思い出せず、確証に乏しいのだが)。
人は望むと望まざるとにかかわらず、過去からの恩恵に浴し、一方で負の遺産を背負わされる。自国の先達たちから正のバトンと負のバトンを受け取って生き、また次の世代へとバトンを受け渡していくのだ、と。
十五年戦争以降、どれほどの人命が失われただろう。様々な感情を抱きながら自らの命を賭してくれた人々が存在したから、ボロボロに敗れても日本は残った。それがなければ、戦後の復興はあり得ない。
先人たちのおかげで 自分は戦後日本でのほほんと生きてくることができた。本当にありがとうございました・・・慰霊碑に手を合わせる。
一方で、自分は日本の後輩たちに一体何を残せるのだろう。日ごろは頭をよぎりもしないくせに・・・いつになく感傷的になっている自分を嗤う。

ひとしきり過ぎた頃合いに、スーツ姿の日本人男性がやって来た。日本語を操るウズベク人と思しき人を伴っている。色々と説明を受けた後、タシケントだけでなく各地に戦没者が眠っているとは、お参りに行かなければ、と喋っているのが聞こえてきた。外務省または日本・ウクライナの親善に関わっている方なのだろうか。

日本人墓地を離れてなおもウロウロしていると、正規の入口にたどり着いた。通用口と違って、堂々としてるわぁ~

喉の渇きをおぼえて時計を見ると、朝食から5時間経っていた。そろそろいいかなぁ・・・ペットボトルの水をゴクゴク。途端に腸がグルグルッと動く。幸いそれ以上のことはなかったが、ギョッとした。これはメロン食べてすぐに水飲んだらダメだと思う、体感として
同じ道をたどって地下鉄駅へ戻りながら、この後の動きを考える。お土産探しは気になっているが、目当てのお店はこれまた地下鉄駅から歩かねばならず、迷ったならどれほど時間がかかるやら未知数・・・先に郵便局へ行くことにする。赤ライン(チランザル線)で6駅、緑ライン(ユーヌサバッド線)に乗り換えて1駅、アブドゥラ・コディリ駅で下車。こちらは駅構内の乗り換え表示。

最後に1枚残ったハガキを書くため、目についた食堂に入る。あまりお腹が空いておらず、メニューがモダンで魅かれるtraditional dishがなかったのと、スムの残金が気になったので、コーヒーだけにした。しかもウズベク語のメニューを指してテキトーに注文したら、トルココーヒーが来る始末 少量かつドロリとしているので長居には向かない飲み物だったが、30分以上粘り、ちゃっかりトイレも利用。感謝至極


前日に探し出した郵便局へ向かう。

館内は天井が高く、広くて静か~な空間だった。

窓口がたくさんあり、近づいて表示を見てもウズベク語なので何が何やら 
窓口とは別に何がしかを売るブースがあった。そこにいたおじいちゃんにハガキを見せてジェスチャーで “どこ?” と聞くと、10番を指差された。

が、1人待って窓口の女性係員にハガキを見せると、ポストに入れろとジェスチャーされる。気づいていなかったが、11番窓口の脇に青い箱があった。ポストの投函口はひとつなので、国内便と国際便を一緒くたに集めた後仕分けしてくれるようだ。切手貼りまで済んでると楽ちんだな~


せっかくだからと、前日は踏み込まなかったオロイ・バザールに足を運んでみる。
【付近に高級ホテルが建ち並ぶことから、質が高く値段も高めな品ぞろえらしい。なお、タシケントで最も有名なチョルスー・バザールは質も値段も中庸らしい。チョルスーに近いホテルに泊まりながら、訪れたい場所&時間の関係で縁がなかった

入ってすぐは時計や電気製品などのアーケード。

そこを通り抜けて屋外に出ると、食品を扱っている。

時間帯のせいかもしれないが、人でごった返すでもなく、小綺麗な感じ。




緑鮮やかな香草たち・・・シュヴィト・オシュを思い出す。

脇に大手スーパーマーケット・チェーンもあった。これまでmini marketで用を済ませてきたので、興味津々。が、先を急がねばならず・・・後ろ髪引かれつつ去る。


地下鉄の緑ライン(ユーヌサバッド線)で2駅、オイベックで下車。東京でいう表参道のようなオシャレなエリアを1㎞ほどずんずん歩いて土産物屋を目指す。
最後の詰めは またしてもヤン〇ックス・マップスに頼り、無事に到着。
卸がメインなのだろう、店内は商品が雑然と並んでいた。お店の方が自分についてまわるので、ゆっくり選べる感じじゃなかったのが残念だったが、スザニのような刺繍がほどこされたポーチを6つ購入。スムは残金わずかなため、ドルの現金で支払った。この国ではドル払いにも好意的なお店が多かった。両替すると得なのかなぁ・・・

来た道を戻りながら、往きに発見したリカー・ショップに意を決して入った。地上はディスプレイのみ、お店は地下にあった。


前夜飲んだ赤が美味だったので、狙いを定めてお店のお姉さんにオススメをたずねた。3本紹介してもらったが、エチケットに記されたウズベク語が読めるはずもなく・・・勘でフルボトルを1本選ぶ。175,000スム(≒2,100円)也(帰国後に撮影)。

オイベック駅の300m向こうに気になるレストランがあった。通し営業なので開いているはず。が、注文から品出しまでどのくらいかかるか全然よめない。頭の中で計算してみると、サイアク空港までギリギリの時間になる可能性もあった。夕方は道路が混むだろうし。
結局、ホテルへ戻ることにした。幻の汁ラグマン・・・いや、行ったところでお店に用意があるか知らんけど

地下鉄の青ライン(ウズベキスタン線)で4駅、17時過ぎにホテルへ到着。
最寄地下鉄駅のそばで遭遇した猫。

フロントがヤ〇デックスで呼んでくれたタクシーで空港へ向かう道中、たしかに車は多かったけど前日のように混むことなくスムースに到着。
ときに18時前、離陸4時間以上前につきチェックインの手続きが始まっていなかった。一度バッグを開けてパッキングを最終的に確認し、19時前にカウンターへ行ったら1時間前とはうってかわって長蛇の列ができていた。何がしかの団体が搭乗する模様で、ものすごい人数に膨れあがっていた。体格も大きいし荷物も多かったから、スポーツ選手の対外試合はたまた合宿だろうか?? 
結局1時間近くかかってチェックインが完了。20時~20時半に指定場所で返却することになっていたWi-Fiルーターも無事に返すことができた。

出国審査を終え、残る時間を現地通貨の消費を兼ねたお土産の最終調整に充てた。そもそも4万スム(≒480円)弱しか手元に残っていなかったのもあり、空港値段の前に大したものは買えず、2,200スム(≒26円)は持ち帰りとなった。
売店で見かけて即買いしたのは、ブハラはラビハウズほとりのレストランで開栓直後に持ち去られた銘柄のビール。叙情的なイラストがお気に入り。


仁川への便は30分遅れで22時半に離陸。案の定到着も遅れ、なんと乗継便の出発時刻に着陸するありさま
それでも同じアシ〇ナ航空のtransferだから置いていかれることはなく、係員に "急いで” とせかされながら空港内を爆走した。自分はかなり先頭についていき、ドカドカ走れて私ったら元気じゃんと能天気に思ったが、普段はかないランニングシューズのおかげと後ではたと気づいた なお、乗り継ぎ客の多くは航空会社のオペレーションが原因なのに走らせるのか?って感じで腰が重そうだった。
こうして40分以上delayして仁川を離陸。成田到着もやはり遅れた。この航空会社の便で帰国するなら、前後の予定に余裕をもたせないとマズイだろうな・・・

★ 終わりに ★

記事の中にたびたび登場したヤン〇ックス。配車アプリは確実に安くタクシーをつかまえることができるし、地図アプリの現在地情報には何度も助けられた。ヤン〇ックスに限らずとも、翻訳アプリでタクシー運転手との関係を持ち直したりもした(記事「その2」)。これからは海外放浪旅もデジタル化が進んでいくのかもしれない。はたして自分はついていけるのだろうか

ヒヴァの雨と寒さ、タシケントの涼しさに季節の移ろいを感じて面白かった。自分の5日前にヒヴァを訪れたCちゃんからは好天で暑いと聞いていたが、この旅で初めて傘をさし半袖では肌寒いような気温だった。ヤッカサロイ墓地への往路2.5㎞を水1滴も飲まず、また土産物屋への往復2㎞を難なく歩き通せたのは湿度が低く快適な気候のおかげだったと思う。ブハラで経験した39℃を考えあわせると全体を通して大きなギャップがあり、同じく旅の最中に夏から秋へ変わっていったトルコを懐かしく思い出した。

旅を計画しはじめた当初、テルメズまたはヒヴァのどちらを訪れるか悩んだ(旅程の都合上、両方は無理)。テルメズの観光向け整備があまり進んでいないようなのと、テルメズで発掘された仏像の傑作がタシケントのウズベキスタン博物館にあるのが決め手となり、ヒヴァを選んだ。そして休館日の月曜(8月28日)を避けて博物館を訪れるため、ヒヴァの滞在を最短にとどめてタシケントに戻るスケジュールとした。が、既報の通り肝心の仏像には出合えずじまいであった・・・。1日早く博物館に足を運んだCちゃんからドイツへ出張の旨を聞いた時はさすがにガッカリしたが、思いのほかヒヴァを気にいってしまったので、テルメズに足を運べなかったのはどうでもよくなっていた。なんてゲンキンな私
対してCちゃんはよほど悔しかったとみえて、2024年1月初めにベルリンに飛び、出張先で件の仏像にまみえたのだった。自分にはその発想は全然なかった・・・つくづく性格の違いが浮き彫りになるエピソードである。
 おしまい 







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