旅の第3弾は引き続きブハラからスタートし、途中ヒヴァへ移動します。
下の地図の➌➍をまわりました(①②は旅の前半で訪れた場所です)。なお、後の下線部の数字とも対応しています。
3 ブハラ (2023年8月25日)
Cちゃんは朝が強い。この日も朝活で、朝食前に散歩した。
なお、この宿には猫が棲みついているらしく、エントランスで数匹がくつろいでいた。前日のチェックイン時、フロントにグレーの縞猫もいたしな~
住宅街の小路を数百m歩いて行くと、朝日に輝く4本の塔が出現。19世紀初頭建築のチョルミナルである。
その向かい側には土産物屋。8時過ぎにもうオープンしてるのかぁ、勤勉だな~
この敷地にも猫がいて、Cちゃんの足元でかなりの時間じゃれついていた。
朝だから開いてないな、外観のみかぁと思っていたら、女性がやって来て中に入ることができた。ラッキー
1階はお土産物屋。階上は有料(5,000スム≒60円)だったが、せっかくだからと上ることに。
2階は思ったよりも広々としている。
さらに上へ向かう。
2階から見下ろすとこんな感じ。
屋上に出る。
4本のミナレットのうち、1本にはコウノトリのレプリカが置かれていた。かつては実際に営巣していたらしい。前日、チャシマ・アイユブでも同じようなのを見かけたな~
9時前、ホテルへ戻る。神学校時代の扉だろうか、無造作に置かれている。
欧米人たちは椅子でくつろいでいる。
チャイハナ風小上がりは私たちの貸切状態だった。ん~ 低い場所に座す習慣がないんだろうな・・・
左のお皿、時計でいう6の位置(目玉焼きの下)にあるのがトゥフンバラク【卵液を包んだ水餃子。ホレズム地方(ウズベキスタン北西部)の郷土料理】。
なお、テーブルに敷かれている布はアトラス【手機で織られるウズベキスタンの絣布、シルク100%。ウズベキスタン最東部のフェルガナ地方マルギランで生産される】。
お腹をずっと下していて体調がすぐれないCちゃんは午前中ホテルで休んでいるというので、10時に一人で外出。カラーン・ミナレットを目指す。前夜に市街地図が脳内で仕上がっていたので、迷うことはなかった。
合歓みたいな花だなぁ、素敵
前日も通ったタキ・テルパクフルシャンをくぐる(2枚下の画像は帰路に撮影)。古今にぎわう交差点。入口はラクダに乗って通れる高さなのだという、なるほど・・・
北へ伸びるハキカット通りは200mほど。突き当たり(画像左奥)にはタキ・ザルガロン。
タキ・ザルガロンの西で曲がり、振り返る。小ドームがボコボコ重なる姿、面白いなぁ
100m進むと、左手にカラーン・ミナレットがそびえていた。その横にはカラーン・モスク。
ミナレットの表面は、前日見たイスマイール・サーマーニー廟に似ている。それもそのはず、これも元の攻撃(13世紀)をやり過ごした古き建造物なのだった【高さ46m、下部の直径9m、上部の直径6m。1127年、カラハン朝の王が建てた。この町に侵攻し破壊の限りを尽くしたチンギス・ハンはこの塔の前で帽子を落とし、自分に頭を下げさせたと賛美して手にかけなかったという逸話が残っている。塔の中にはらせん階段があり上ることができる構造になっているが、現在は立ち入り禁止】。
いにしえはカラフルな色タイルを使わず、土色レンガの積み方ひとつで装飾に工夫を凝らしていたんだ・・・乾燥した内陸の地の息吹を感じる。好きだなぁ、私
カラーン・モスクに入る【1万人が礼拝できるというだけあり、だだっ広い。サマルカンドのビビハニム・モスクよりも大きいらしい。そもそも、カラーン=大きい(タジク語)なんだそうだ。16世紀前半築】。
いまでは特別な時しか使用されないとのことで、モスクの中はひっそりとしていた。
横方向に伸びる回廊が美しい。ミフラーブ文様の絨緞もいい。
モスクから中庭を振り返る。勝手ながら、この時間帯・このモスクのベスト撮影スポットはここだと確信
木があてがわれ、構内は目下工事中だった。
タイル装飾をズームアップ。
去ろうとして何気なく横を向くと、エントランスの側廊が凜とたたずんでいた。
最後にモスクを振り返る。
カラーン・モスクの目の前(東)にはミル・アラブ・メドレセがある【カラーン・モスクとほぼ同時期、16世紀前半築。これを建てた王は、イエメンからやって来たイスラム教指導者ミル・アラブに捧げたという】。
大々的に観光客に開放しているわけではないようだが、少しだけ覗くことができた。今も現役の神学校ゆえ、下足箱には靴が並び、何がしかを朗詠する学生たちの声が聞こえてきた。
白い花の装飾が可愛い
てか、天井の装飾が秀逸 地味な色合いにもかかわらず、しみじみと美しい。
帰り際、タキ・ザルガロンの南東にあるアブドゥルアジス・ハン・メドレセに立ち寄った【17世紀半ば、これを建てたアシタルハニー朝の王の名を冠する。二層のフジュラ(学生の部屋)とモスクから成る伝統的な構造の神学校】。
ファサードを彩るタイル。
珍しく暖色系が使われているムカルナス。
土産物(装飾した鉛筆など)を売りに来た少年たちをかわしつつ、宿へ引き返す。正午にチェックアウトしなければならず、若干あわただしかった。
チェックアウト後、目と鼻の先の宿へ移る。この日、0時半過ぎの夜行列車でブハラを発つことになっていたが、時間待ち&シャワーを浴びたいとのことで、急きょ予約したのだった。メドレセを改装した宿に連泊するのは高くて断念 こちらがお部屋。
洗濯を済ませて14時半、Cちゃんと観光に出かけた。まずはラビハウズへ足を運ぶ【17世紀前半、大臣のナディール・ディヴァンベギが造らせた人工貯水池。42m×36m、深さは5m】。この周囲に3つの建造物があり、町の中心となっている。前夜・その日の午前と横を通り過ぎながら、初めて足を踏み入れた。
池の東にあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセ【上記のラビハウズよりも先に大臣ナディール・ディヴァンベギが隊商宿として建設したが、スーフィー派(イスラーム神秘主義)の指導者に神の栄光あれと褒めたたえられたため、メドレセに変更したという】。
ファサードには1対の鳳凰が躍動する。足で白鹿をつかみ、人面太陽に向かって飛んでいる。これを眺めることのできるベンチに陣取り、前日ボロハウズ・モスクへ向かう途中でたまらず買ったコーラの残りを飲み干す。世界遺産を眼前に休憩・・・なんとも贅沢な時間である。
浅葱色の鳳凰は綺麗だけど、サマルカンドはシェルドル・メドレセの人面太陽と獅子のほうが好きかもなぁ・・・建物の圧倒的なスケールの差は否めない。それとも、鳳凰=金色の平等院刷り込みが入ってるのかなぁ いずれにせよ、個人的な好みの問題か
なお、このメドレセの前で新郎・新婦に遭遇した。
メドレセの中はこれまでの例に漏れず、ショップが並んでいた。ポストカードを売っていたので、目ざとくゲット。結局、この後自分が寄ったブハラのお店では見かけなかったので、迷わず買っておいて正解
池の西にあるナディール・ディヴァンベギ・ハナカ【既出のナディール・ディヴァンベギ・メドレセよりやや早く、大臣ナディール・ディヴァンベギがスーフィー派の滞在所として建設。現在、中は博物館になっている】。
神の彫刻(3~4世紀制作)。
水玉模様が先鋭的な動物像。中には多頭のものも。たしか、こんな感じのを土産物屋でアンティークとして売ってた気がする・・・サマルカンドだっけなぁ。
色鮮やかな壁画もあった。いずこかから剥がしてきたと思われる。
黄緑と朱色が目立つ壁装飾。珍しい色合いだな~
池の北東、通りをはさんでクカリダシュ・メドレセ【16世紀築】。
色タイルにズームアップ。こちらは定番(?)の寒色系。
ここも中は全てショップになっていた。スザニ屋の女性が、自分の母は刺繍を教えていて日本にも販売しに行ったことがある、と日本語で話しかけてきた。
上の画像、中央やや右上にご注目あれ。ムカルナスの装飾がわずかに残っていた(ピンボケでごめんなさい)。
背の低い自分でも頭ぶつけるのではと思うような鴨居の高さ。
急な階段で2階へのぼれるようになっていた。
刃物屋さんも営業していた。入口の奥で作業をしていらっしゃったが、さすがに撮るのは憚られた。
ブハラ名物というコウノトリのハサミに魅かれた。値引きするよ、友達価格と言われたが、すんでのところで踏みとどまった
中庭は観光色が一切なかった【二層のフジュラは160を超え、ブハラで最も大きいメドレセのひとつという】。
前夜、Cちゃんがロックオンしていたラクダのぬいぐるみが気になっていたので、タキ・テルパクフルシャンを通過して向かった。これで3度目。
件のぬいぐるみ屋さんはこちら(他のモノも売っているが)。
ぬいぐるみ売りは前夜いた少年の兄に換わっていて(そばに弟もいたが)、酸いも甘いも噛み分けてきたと思われる10代後半の彼は、弟が前夜口走った値の倍ほどを告げた。昨夜は4,000スムって聞いたよ、と言うことなくCちゃんはあっさり諦め、同様に前夜値段を尋ねた数m先のお店へ向かった。弟の言い値を伝えることで兄弟喧嘩になるのを嫌ったらしい。そして、弟の付け値よりは高いが兄よりは安い値段でラクダを購入
なお、この店は日本語の看板も出していて、女性店員は日本語コンテストで賞を獲得したという。似てるけど違うかも、と思ったら前夜対応してくれたのは妹だったことも判明。お店の主力商品であるスザニの説明をさせてほしいと言われ話を聞いたが、私たちは買わずじまい。過去にインドやペルー等で刺繍物を買ったことがあるが、現地では気に入っても自室のインテリアにはしっくりこず、短期間で結局タンスの中にしまい込んでいる。この世に生み出された品なら使い込まれてナンボだと思うので・・・同じ轍を踏みたくなかった
次はカラーン・ミナレットへ向かう。
光線の加減で、朝とはまた違う表情を見せてくれた。う~ん、好きなものは何度見てもやっぱりイイなぁ
上の画像左下にご注目をば。記事その2で既報のアルク城と同様に、ここも皇帝気分で撮影できるスポットになっていた。
来た道を戻り、タキ・ザルガロンでウィンドウショッピング(窓はないけど)。
迫力ある店構えのスパイス屋。
グリーンペッパーやレッドペッパー。ちなみに、麻袋の手前に置いてあるのはティケッチ(ナンに型押しするスタンプ)。
グリーンカルダモンや八角(スターアニス)。
タキを出て振り返る。左奥にはカラーン・ミナレットと、ミル・アラブ・メドレセの水色のドームが見晴らせる。
再びアブドゥルアジス・ハン・メドレセの前に出たが、土産物売りの少年たちはもういなかった。場所を変えて働いているのだろうか・・・
道をはさんで向かい側のウルグベク・メドレセに入場【サマルカンドのレギスタン広場にも同名の建造物があるが、別モノである。ティムール朝4代君主のウルグベクが15世紀前半に建築。正面ファサードは16世紀末に改装】。(撮影は午前中)
5,000スム払ったが、なんのこっちゃない、ここも内部はショップになり果てていた。
タイルをパシャリ
Cちゃんが値段交渉をしている間、なんとなく商品を眺めていて、埃をかぶった陶器が気になった。が、サマルカンドで既に買っちゃったからなぁ・・・アンティークかもしれなかったが、尋ねようものならその先の展開が目に見えたので、深追いはしなかった
結局3時間ほど街をブラついて、18時前にホテルへ戻った。
そしてCちゃんは夕食を食べられないという。腹痛をかかえながら列車で一晩過ごすと考えたら、賢明な判断だよね・・・
19時前、ひとりレストランへ向かう。前夜から今日にかけて何度も通りかかり、にぎわいを見せていたラビハウズ脇のお店に決めていた。
脇にあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセをちらと見たら、夕映えでファサードがやや赤っぽくなっていた。太陽に向かっていく感じが出てる
さて、この国で初めておひとりさま入店。内心ドキドキしていたが、あっさり席に案内された。
メニューが豊富で何ページもあった。魚(たしか鱒)もあったが、値段は肉の軽く倍だった 内陸国で魚介はあきらめよう、郷に入れば郷に従うのだ。
まずはビール。できるだけまだ飲んでいない銘柄を、とマイナーそうなのを選ぶと"ない”と言われる。で、テキトーに指したのがこれ。ハイ〇ケンに似てるラベルだな~
サラダ。無類のトマト好きなもので
ブハラのプロフ【羊肉と赤いニンジンを使うのがポイントらしい】。注文後ものすごい速さで提供されたが、冷めきっていた。人気メニューなので大量に作り置きしておくのだろう。温かかったならもっと美味しく感じただろうに・・・ちょっと残念
途中、ラビハウズの噴水がランダムに飛び出してワクワクした。奥に写るはナディール・ディヴァンベギ・ハナカ。
実はもう1杯ビールを飲んだのだが、おぼんに缶とグラスを乗せて運んできてグラスに注いでくれた直後、缶は持ち去られてしまった・・・撮影できず残念
レストランを辞した後、目と鼻の先にあるクカリダシュ・メドレセへ。昼間迷っていたコウノトリのハサミを購入。ここを去った後、買うんだったと悔やむのはイヤだった。
【ブハラは水の都といわれ、水路や池が多くかつてはコウノトリが繁殖していたという。豊作・幸運をもたらすシンボルとして愛好されている】
自分が買ったのは、メタリックな雄の。頭部が尖っているのが特徴で、メスはそれがなく丸い。もちろんシンプルな色の刀身のもあったが、虹色に魅かれた。
紺色のケースはおまけで付いてきたが、刃先が当たる部分に穴が開いていることに帰国後気づいた。それほどに鋭く尖っている(この記事を書くにあたり撮影)。
昼には「友達価格」で12万スムと言っていたが、15万スムと告げられ1万スム値切るのが関の山だった(≒1680円)。売り子さんが交代していたのもあるが、フラッと寄った感じではなく 買おうと決めて足を運んだ雰囲気を悟られたのだろう。つくづく交渉下手な私
1時間ほどで宿へ戻ると、私の留守中にCちゃんはお風呂を済ませてくれていたので、早速シャワーを浴びる。荷物もパッキングし、準備完了。
別れの盃というわけにはいかないので、ポットでお湯を沸かして紅茶で乾杯した
ブハラ駅は旧市街から遠く、隣り町のカガンにある。何が起こるかも分からないので、2時間くらい前には駅に着くよう逆算し、ホテルを22時過ぎに出ることにする。
朝食を食べられない代わりに詰めてもらった食事boxを受け取り、チェックアウト。
タクシーを呼ぶにあたり、これまではCちゃんに任せきりだった私がヤン〇ックスを利用して呼んでみることに。が、30秒以内に長めのワンタイム・パスワードを入力するよう要求され、結局使うことができなかった。理由はよく分からない。海外のアプリなど普段使用することがないから、セキュリティーが警戒しているのか
Cちゃんに勧められてアプリをダウンロードしたものの使いこなせる感じが全然せず、Cちゃんと別れたあとヤン〇ックスに頼れないだろうことは薄々予想していた。アナクロで頑張るしかない
仕切り直してCちゃんが呼んでくれたタクシーに乗り、22時半過ぎにブハラ駅に到着。ところが単刀直入に言うと、このドライバーが大ハズレだった。
まず、表示されている金額より多く取ろうとする(ヤ〇デックスの趣旨わかってないんじゃないのか)。Cちゃんが いや、この金額でしょと確認しつつ額面の大きいお札を出すと、お釣りがないとキレる始末。結局、2人が持つ小額紙幣をかき集めてなんとか支払いを済ませた、ふぅ
これまでにこのアプリを使って何度も乗車し、わりと良いドライバーさんたちに当たってきただけに、最後の最後は運が悪かったとしか言いようがない。
真っ暗な中にそびえる白い駅舎。
例によって入線ホームを見極めるのが肝だった。せいぜい30分前だろうと思っていたら、夜行だからか随分早かった。Cちゃんが乗るタシケント行きが1番ホーム、ヒヴァへ向かう自分のが2番ホームと判明。
3・4 ブハラ ⇒ヒヴァ (2023年8月26日)
今さらの説明になるが、仕事の都合でCちゃんと自分の出国日・帰国日を合わせることができず、Cちゃんが先に入国してヒヴァをまわり、私が2日遅れてタシケントに到着しサマルカンドで合流、ブハラで別れてCちゃんは先に帰国、自分はヒヴァに向かうという旅程になったのだった。
かくして0時37分と40分、ほぼ同時刻に私たちは逆方向へ出発した ここからまた独り旅である。
自分が乗る号車の入口で乗務員にバウチャーを見せたら、回収されてしまった。昼間の列車はしないのになぁ。
告げられた数字を記憶し、コンパートメントを探す。私の前を歩いていた女性3人家族の右隣りの部屋だった。
始発駅から乗ってきた人々は眠っているであろう真夜中。静か~に扉を引き、廊下からもれる明かりで確かめると二段ベッド×2のうち右下だけが空いていた。どうやら同室の3人は全て男性の模様。自分のベッドの真上と隣りの人は眠っていたが、斜め上の人は暗闇の中でノートPC画面を凝視していた。
おずおずと入室、よく見えなかったがベッド下の空いているスペースにソフトバッグ(もちろん南京錠でロック済み)を置き、スニーカーを脱いでベッドに上がる。枕元の壁側にショルダーバッグを置き(ファスナーの取っ手は壁側)、備え付けのシーツ・枕カバーをセット。枕元の窓に帳を下ろす。これが錆びついていて結構重かったが、真っ暗じゃないと眠れない派の自分、非力なりに力を出して目的達成 そして薄~い毛布をかぶり横たわる。
なんと、真隣りと思われる部屋からは浮かれ騒ぐ男性たちの声が響いてくる。車内での飲酒は禁じられているはずだが、乗車前にしこたま浴びて気持ちよくなっているのか、禁を破っているのか・・・車掌さんが注意しに来るでもない
実は、4人部屋(2等寝台、クーペ)にするか2人部屋(1等寝台、リュクス)にするか迷ったすえの決断だった。男女混合になるという情報は得ていたが、2人部屋で相手がもしもヘンな人だったらと思うと、4人部屋のほうがマシな気がした。Cちゃんのように2人部屋を2人分買い占めるという方法もあったが、せっかくの機会だから現地の人々に混じって旅したいという欲が出たのは確かである。
寝台に揺られながら、様々な思いが頭の中を去来する。うるさい部屋にあたらなくてよかったぁ・・・。でも手前の部屋だったら、女性だけだったかもなぁ。いやいや、イビキをかく人がいるわけでなし、たとえ男性だらけでもこの部屋でよかったと思うしかない。それにしても、この騒がしさの中で果たして眠れるのだろうか・・・。ショルダーバッグ大丈夫かな・・・いくら眠っていても、さすがに頭の付近に手が伸びてきたら目覚めるよね?!
ふと気づくと、いつのまにか眠りに落ちていたようだった。それでも2時間くらいしか経っていない。さすがに隣室は静かになっていた。
と、突然扉が開いて誰かが覗き込んできた。金目のものを物色しているのか、それとも・・・
こんなこともあろうかと、頭から毛布をかぶっていた。私の体格的に女性と気づかれただろうけど、息をひそめながら強烈に念を送った、私オバサンだから~ 早く立ち去って!
奏功したのかどうか、ともかくそれ以上のことはなく、扉は閉じられた。貧しい持ち物で、フェロモン皆無の人間でよかった、つくづく胸をなでおろしたひとときだった。
が、これだけでは終わらない。その後も2回ほど目を覚ました。列車は途中いくつかの駅に停まっていたようで、ブレーキの振動で起こされたのもある。が、自分の真上のベッドの人がギシギシと階段を降りてきて、たぶんトイレへ行って戻って来た時、先ほどの誰かと同じように廊下から室内を眺めていた時間があったのは緊張した。たぶん1分もなかったと思うが、相当長く感じられた。もちろん何もなかったが
6時半になったので起きることにしたが、上の段の2人は既にいなくなっていた。先に起きていたお隣りさんは、20代後半くらいのウズベク人と思われた。
帳を上げると、車窓は雨だった。
終点のヒヴァ駅に着くまで30分以上あったが、清掃員たちは仕事を始めていて、我々のコンパートメントの扉もガラリと開けられた。どうやらシーツと枕カバーを集めているらしい。慌てて外しキレイにたたもうとすると、お隣りさんがジェスチャーで "やらなくていいよ” と。そのままにしてベッドの隅に置いておいたら、しばらくして回収された。上段の2人はよく分からずじまいだったけど(特に真上の人は顔すらも)、少なくともお隣りさんは良さそうな人でよかったなぁ
コンパートメントの寝台から撮る
トイレに行った帰り、廊下を撮影。
開いていた扉から、他のコンパートメント内部をパシャリ。記録として残したかったが、自分の部屋にはお隣りさんがいて撮れないため、背に腹は代えられず
7時10分、ヒヴァ駅に到着。降りてまず、寒っ 止んでることをうっすら期待していたけど、ガッツリ雨やんけ~
ヒヴァ駅の前から旧市街まで、西へ1kmほど道が伸びている。手前のピッカピカなホテルといい、近年整えた感じだなぁ・・・世界遺産の整備補助金使ったのかな。
ヒヴァ駅舎。
駅構内を出たところで、出迎えのドライバーに会えた。旧市街までそれほど距離はないが、朝の様子が不明だったので送迎を頼んでおいた。たいして眠れていない状況だったので、歩くのも避けたかったし、(いたのかどうかも知らないが)タクシーがいたとして値段交渉の鬱陶しさに耐えられなかっただろう。結果的に正解だった
雰囲気のある城壁をくぐり、タクシーは宿の脇に到着。「明日は朝6時20分にピックアップだよね、ここで待ち合わせ?」とつたない英語でドライバーに尋ねると、「ん~ たぶんね」と頼りない。会社が調整しているから大丈夫、と言い残して去った。違う人が来るのはよくあること。タシケントの送迎とホテル、タシケント~サマルカンドの列車、ブハラ~ヒヴァの列車、アレンジを依頼した旅行エージェントの手配はここまでノープロブレムだったから、たぶん大丈夫・・・と思うしかない
さて、次は宿のフロント。予約していますと言うと、パスポートを請求された。どこかで見たような顔だち(はっきり思い出せないけど、欧米の俳優)&柔道体型のフロントマンは営業がしたたか。チェックインは正午だから荷物を預けて出かけることもできるし、1泊の半額支払うなら今すぐ部屋に入れるし朝食も付いてるよ、と。
夜行列車はこの上なく面白かったけど、肉体的にはボロボロになっていた私には渡りに船だった。ゆったり休息できるのは嬉しすぎる 提案に飛びつき、パスポート預けたままなのは若干引っ掛かりつつ、部屋へ向かう。
ここはヒヴァのメドレセを改装した宿ではたぶん一番有名な場所。宿泊しなくても、中庭は見学できるようになっている。Cちゃんも検討しながら、見学客が騒がしい・見学客に部屋を覗き込まれた、という口コミを見て断念したという。私にあてがわれた部屋は2階だったので、幸いそういった実害はゼロだった。
部屋の扉の前から中庭を見下ろす。
自分が見かけた口コミには部屋が狭すぎるとあったが、それほどでもなかった(1.5泊分支払った効果かもしれないが)。
ブハラの宿に比べるとメドレセ感は薄めだったが、そんなのどうでもいい。コンパートメントからやって来た身としては、1人の空間が保障されているだけで安心できる
湿気の多いバスルームに木製扉は多少違和感あったが、水まわりは快適だった。
朝食会場は宿泊する建物の隣りにある別棟。手が加えられているだろうけど、雰囲気がある(鏡に映った自分にモザイクをかけた)。
ビュッフェ形式の朝食。
時計でいう10~12の位置に鎮座するのがヒヴァのナン【ウズベキスタンの他の地域のとは全く異なり、平べったいのが特徴。ローマ風ピザのように薄い】。
朝食会場の入口から望むカルタミノル【「低いミナレット」の意。19世紀半ば、100m超えの中央アジア最大のミナレットを目指して着工したが、建設を命じたムハンマド・アミン・ハンの死により高さ26mで中断。直径は14.2m】。なお、カルタミノルの左の建物が宿泊棟。
ときに8時前。あいにくの雨だし、すぐに観光へ出かけるつもりはなかった。Cちゃんが手配してくれたWi-Fiの件もあるし、しばらく部屋で待機しようと思った(色々あってWi-Fiの手配をせずに入国した私はCちゃんと一緒にいる時は彼女のを間借りしていたが、別れるにあたりCちゃん経由で申し込んだのだった。チェックイン時にフロントマンに確認すると知らなかったので、少なくとも届いていないようだった。朝早いから、この後届く可能性が高かった)。
そして今しかない、と前夜もらった食事boxに手をつける。菓子パンと果物をムシャムシャ
ここに滞在するのは1泊、しかも明朝の出発は早かったが、これまでの感じからして今干せばチェックアウトまでに乾くのではと思い、洗濯を実行。それを終えると、お腹が膨れたこともあり一気に睡魔に襲われた。昨夜の惨状からすれば、無理からぬこと
★ 中締め ★
はなはだ中途半端なのですが、この後のヒヴァ観光を載せると文字数がオーバーしてしまうので、ここで切り上げます。
次回は「屋外博物館都市」と称されるヒヴァの模様をお届けします。お楽しみに
下の地図の➌➍をまわりました(①②は旅の前半で訪れた場所です)。なお、後の下線部の数字とも対応しています。
3 ブハラ (2023年8月25日)
Cちゃんは朝が強い。この日も朝活で、朝食前に散歩した。
なお、この宿には猫が棲みついているらしく、エントランスで数匹がくつろいでいた。前日のチェックイン時、フロントにグレーの縞猫もいたしな~
住宅街の小路を数百m歩いて行くと、朝日に輝く4本の塔が出現。19世紀初頭建築のチョルミナルである。
その向かい側には土産物屋。8時過ぎにもうオープンしてるのかぁ、勤勉だな~
この敷地にも猫がいて、Cちゃんの足元でかなりの時間じゃれついていた。
朝だから開いてないな、外観のみかぁと思っていたら、女性がやって来て中に入ることができた。ラッキー
1階はお土産物屋。階上は有料(5,000スム≒60円)だったが、せっかくだからと上ることに。
2階は思ったよりも広々としている。
さらに上へ向かう。
2階から見下ろすとこんな感じ。
屋上に出る。
4本のミナレットのうち、1本にはコウノトリのレプリカが置かれていた。かつては実際に営巣していたらしい。前日、チャシマ・アイユブでも同じようなのを見かけたな~
9時前、ホテルへ戻る。神学校時代の扉だろうか、無造作に置かれている。
欧米人たちは椅子でくつろいでいる。
チャイハナ風小上がりは私たちの貸切状態だった。ん~ 低い場所に座す習慣がないんだろうな・・・
左のお皿、時計でいう6の位置(目玉焼きの下)にあるのがトゥフンバラク【卵液を包んだ水餃子。ホレズム地方(ウズベキスタン北西部)の郷土料理】。
なお、テーブルに敷かれている布はアトラス【手機で織られるウズベキスタンの絣布、シルク100%。ウズベキスタン最東部のフェルガナ地方マルギランで生産される】。
お腹をずっと下していて体調がすぐれないCちゃんは午前中ホテルで休んでいるというので、10時に一人で外出。カラーン・ミナレットを目指す。前夜に市街地図が脳内で仕上がっていたので、迷うことはなかった。
合歓みたいな花だなぁ、素敵
前日も通ったタキ・テルパクフルシャンをくぐる(2枚下の画像は帰路に撮影)。古今にぎわう交差点。入口はラクダに乗って通れる高さなのだという、なるほど・・・
北へ伸びるハキカット通りは200mほど。突き当たり(画像左奥)にはタキ・ザルガロン。
タキ・ザルガロンの西で曲がり、振り返る。小ドームがボコボコ重なる姿、面白いなぁ
100m進むと、左手にカラーン・ミナレットがそびえていた。その横にはカラーン・モスク。
ミナレットの表面は、前日見たイスマイール・サーマーニー廟に似ている。それもそのはず、これも元の攻撃(13世紀)をやり過ごした古き建造物なのだった【高さ46m、下部の直径9m、上部の直径6m。1127年、カラハン朝の王が建てた。この町に侵攻し破壊の限りを尽くしたチンギス・ハンはこの塔の前で帽子を落とし、自分に頭を下げさせたと賛美して手にかけなかったという逸話が残っている。塔の中にはらせん階段があり上ることができる構造になっているが、現在は立ち入り禁止】。
いにしえはカラフルな色タイルを使わず、土色レンガの積み方ひとつで装飾に工夫を凝らしていたんだ・・・乾燥した内陸の地の息吹を感じる。好きだなぁ、私
カラーン・モスクに入る【1万人が礼拝できるというだけあり、だだっ広い。サマルカンドのビビハニム・モスクよりも大きいらしい。そもそも、カラーン=大きい(タジク語)なんだそうだ。16世紀前半築】。
いまでは特別な時しか使用されないとのことで、モスクの中はひっそりとしていた。
横方向に伸びる回廊が美しい。ミフラーブ文様の絨緞もいい。
モスクから中庭を振り返る。勝手ながら、この時間帯・このモスクのベスト撮影スポットはここだと確信
木があてがわれ、構内は目下工事中だった。
タイル装飾をズームアップ。
去ろうとして何気なく横を向くと、エントランスの側廊が凜とたたずんでいた。
最後にモスクを振り返る。
カラーン・モスクの目の前(東)にはミル・アラブ・メドレセがある【カラーン・モスクとほぼ同時期、16世紀前半築。これを建てた王は、イエメンからやって来たイスラム教指導者ミル・アラブに捧げたという】。
大々的に観光客に開放しているわけではないようだが、少しだけ覗くことができた。今も現役の神学校ゆえ、下足箱には靴が並び、何がしかを朗詠する学生たちの声が聞こえてきた。
白い花の装飾が可愛い
てか、天井の装飾が秀逸 地味な色合いにもかかわらず、しみじみと美しい。
帰り際、タキ・ザルガロンの南東にあるアブドゥルアジス・ハン・メドレセに立ち寄った【17世紀半ば、これを建てたアシタルハニー朝の王の名を冠する。二層のフジュラ(学生の部屋)とモスクから成る伝統的な構造の神学校】。
ファサードを彩るタイル。
珍しく暖色系が使われているムカルナス。
土産物(装飾した鉛筆など)を売りに来た少年たちをかわしつつ、宿へ引き返す。正午にチェックアウトしなければならず、若干あわただしかった。
チェックアウト後、目と鼻の先の宿へ移る。この日、0時半過ぎの夜行列車でブハラを発つことになっていたが、時間待ち&シャワーを浴びたいとのことで、急きょ予約したのだった。メドレセを改装した宿に連泊するのは高くて断念 こちらがお部屋。
洗濯を済ませて14時半、Cちゃんと観光に出かけた。まずはラビハウズへ足を運ぶ【17世紀前半、大臣のナディール・ディヴァンベギが造らせた人工貯水池。42m×36m、深さは5m】。この周囲に3つの建造物があり、町の中心となっている。前夜・その日の午前と横を通り過ぎながら、初めて足を踏み入れた。
池の東にあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセ【上記のラビハウズよりも先に大臣ナディール・ディヴァンベギが隊商宿として建設したが、スーフィー派(イスラーム神秘主義)の指導者に神の栄光あれと褒めたたえられたため、メドレセに変更したという】。
ファサードには1対の鳳凰が躍動する。足で白鹿をつかみ、人面太陽に向かって飛んでいる。これを眺めることのできるベンチに陣取り、前日ボロハウズ・モスクへ向かう途中でたまらず買ったコーラの残りを飲み干す。世界遺産を眼前に休憩・・・なんとも贅沢な時間である。
浅葱色の鳳凰は綺麗だけど、サマルカンドはシェルドル・メドレセの人面太陽と獅子のほうが好きかもなぁ・・・建物の圧倒的なスケールの差は否めない。それとも、鳳凰=金色の平等院刷り込みが入ってるのかなぁ いずれにせよ、個人的な好みの問題か
なお、このメドレセの前で新郎・新婦に遭遇した。
メドレセの中はこれまでの例に漏れず、ショップが並んでいた。ポストカードを売っていたので、目ざとくゲット。結局、この後自分が寄ったブハラのお店では見かけなかったので、迷わず買っておいて正解
池の西にあるナディール・ディヴァンベギ・ハナカ【既出のナディール・ディヴァンベギ・メドレセよりやや早く、大臣ナディール・ディヴァンベギがスーフィー派の滞在所として建設。現在、中は博物館になっている】。
神の彫刻(3~4世紀制作)。
水玉模様が先鋭的な動物像。中には多頭のものも。たしか、こんな感じのを土産物屋でアンティークとして売ってた気がする・・・サマルカンドだっけなぁ。
色鮮やかな壁画もあった。いずこかから剥がしてきたと思われる。
黄緑と朱色が目立つ壁装飾。珍しい色合いだな~
池の北東、通りをはさんでクカリダシュ・メドレセ【16世紀築】。
色タイルにズームアップ。こちらは定番(?)の寒色系。
ここも中は全てショップになっていた。スザニ屋の女性が、自分の母は刺繍を教えていて日本にも販売しに行ったことがある、と日本語で話しかけてきた。
上の画像、中央やや右上にご注目あれ。ムカルナスの装飾がわずかに残っていた(ピンボケでごめんなさい)。
背の低い自分でも頭ぶつけるのではと思うような鴨居の高さ。
急な階段で2階へのぼれるようになっていた。
刃物屋さんも営業していた。入口の奥で作業をしていらっしゃったが、さすがに撮るのは憚られた。
ブハラ名物というコウノトリのハサミに魅かれた。値引きするよ、友達価格と言われたが、すんでのところで踏みとどまった
中庭は観光色が一切なかった【二層のフジュラは160を超え、ブハラで最も大きいメドレセのひとつという】。
前夜、Cちゃんがロックオンしていたラクダのぬいぐるみが気になっていたので、タキ・テルパクフルシャンを通過して向かった。これで3度目。
件のぬいぐるみ屋さんはこちら(他のモノも売っているが)。
ぬいぐるみ売りは前夜いた少年の兄に換わっていて(そばに弟もいたが)、酸いも甘いも噛み分けてきたと思われる10代後半の彼は、弟が前夜口走った値の倍ほどを告げた。昨夜は4,000スムって聞いたよ、と言うことなくCちゃんはあっさり諦め、同様に前夜値段を尋ねた数m先のお店へ向かった。弟の言い値を伝えることで兄弟喧嘩になるのを嫌ったらしい。そして、弟の付け値よりは高いが兄よりは安い値段でラクダを購入
なお、この店は日本語の看板も出していて、女性店員は日本語コンテストで賞を獲得したという。似てるけど違うかも、と思ったら前夜対応してくれたのは妹だったことも判明。お店の主力商品であるスザニの説明をさせてほしいと言われ話を聞いたが、私たちは買わずじまい。過去にインドやペルー等で刺繍物を買ったことがあるが、現地では気に入っても自室のインテリアにはしっくりこず、短期間で結局タンスの中にしまい込んでいる。この世に生み出された品なら使い込まれてナンボだと思うので・・・同じ轍を踏みたくなかった
次はカラーン・ミナレットへ向かう。
光線の加減で、朝とはまた違う表情を見せてくれた。う~ん、好きなものは何度見てもやっぱりイイなぁ
上の画像左下にご注目をば。記事その2で既報のアルク城と同様に、ここも皇帝気分で撮影できるスポットになっていた。
来た道を戻り、タキ・ザルガロンでウィンドウショッピング(窓はないけど)。
迫力ある店構えのスパイス屋。
グリーンペッパーやレッドペッパー。ちなみに、麻袋の手前に置いてあるのはティケッチ(ナンに型押しするスタンプ)。
グリーンカルダモンや八角(スターアニス)。
タキを出て振り返る。左奥にはカラーン・ミナレットと、ミル・アラブ・メドレセの水色のドームが見晴らせる。
再びアブドゥルアジス・ハン・メドレセの前に出たが、土産物売りの少年たちはもういなかった。場所を変えて働いているのだろうか・・・
道をはさんで向かい側のウルグベク・メドレセに入場【サマルカンドのレギスタン広場にも同名の建造物があるが、別モノである。ティムール朝4代君主のウルグベクが15世紀前半に建築。正面ファサードは16世紀末に改装】。(撮影は午前中)
5,000スム払ったが、なんのこっちゃない、ここも内部はショップになり果てていた。
タイルをパシャリ
Cちゃんが値段交渉をしている間、なんとなく商品を眺めていて、埃をかぶった陶器が気になった。が、サマルカンドで既に買っちゃったからなぁ・・・アンティークかもしれなかったが、尋ねようものならその先の展開が目に見えたので、深追いはしなかった
結局3時間ほど街をブラついて、18時前にホテルへ戻った。
そしてCちゃんは夕食を食べられないという。腹痛をかかえながら列車で一晩過ごすと考えたら、賢明な判断だよね・・・
19時前、ひとりレストランへ向かう。前夜から今日にかけて何度も通りかかり、にぎわいを見せていたラビハウズ脇のお店に決めていた。
脇にあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセをちらと見たら、夕映えでファサードがやや赤っぽくなっていた。太陽に向かっていく感じが出てる
さて、この国で初めておひとりさま入店。内心ドキドキしていたが、あっさり席に案内された。
メニューが豊富で何ページもあった。魚(たしか鱒)もあったが、値段は肉の軽く倍だった 内陸国で魚介はあきらめよう、郷に入れば郷に従うのだ。
まずはビール。できるだけまだ飲んでいない銘柄を、とマイナーそうなのを選ぶと"ない”と言われる。で、テキトーに指したのがこれ。ハイ〇ケンに似てるラベルだな~
サラダ。無類のトマト好きなもので
ブハラのプロフ【羊肉と赤いニンジンを使うのがポイントらしい】。注文後ものすごい速さで提供されたが、冷めきっていた。人気メニューなので大量に作り置きしておくのだろう。温かかったならもっと美味しく感じただろうに・・・ちょっと残念
途中、ラビハウズの噴水がランダムに飛び出してワクワクした。奥に写るはナディール・ディヴァンベギ・ハナカ。
実はもう1杯ビールを飲んだのだが、おぼんに缶とグラスを乗せて運んできてグラスに注いでくれた直後、缶は持ち去られてしまった・・・撮影できず残念
レストランを辞した後、目と鼻の先にあるクカリダシュ・メドレセへ。昼間迷っていたコウノトリのハサミを購入。ここを去った後、買うんだったと悔やむのはイヤだった。
【ブハラは水の都といわれ、水路や池が多くかつてはコウノトリが繁殖していたという。豊作・幸運をもたらすシンボルとして愛好されている】
自分が買ったのは、メタリックな雄の。頭部が尖っているのが特徴で、メスはそれがなく丸い。もちろんシンプルな色の刀身のもあったが、虹色に魅かれた。
紺色のケースはおまけで付いてきたが、刃先が当たる部分に穴が開いていることに帰国後気づいた。それほどに鋭く尖っている(この記事を書くにあたり撮影)。
昼には「友達価格」で12万スムと言っていたが、15万スムと告げられ1万スム値切るのが関の山だった(≒1680円)。売り子さんが交代していたのもあるが、フラッと寄った感じではなく 買おうと決めて足を運んだ雰囲気を悟られたのだろう。つくづく交渉下手な私
1時間ほどで宿へ戻ると、私の留守中にCちゃんはお風呂を済ませてくれていたので、早速シャワーを浴びる。荷物もパッキングし、準備完了。
別れの盃というわけにはいかないので、ポットでお湯を沸かして紅茶で乾杯した
ブハラ駅は旧市街から遠く、隣り町のカガンにある。何が起こるかも分からないので、2時間くらい前には駅に着くよう逆算し、ホテルを22時過ぎに出ることにする。
朝食を食べられない代わりに詰めてもらった食事boxを受け取り、チェックアウト。
タクシーを呼ぶにあたり、これまではCちゃんに任せきりだった私がヤン〇ックスを利用して呼んでみることに。が、30秒以内に長めのワンタイム・パスワードを入力するよう要求され、結局使うことができなかった。理由はよく分からない。海外のアプリなど普段使用することがないから、セキュリティーが警戒しているのか
Cちゃんに勧められてアプリをダウンロードしたものの使いこなせる感じが全然せず、Cちゃんと別れたあとヤン〇ックスに頼れないだろうことは薄々予想していた。アナクロで頑張るしかない
仕切り直してCちゃんが呼んでくれたタクシーに乗り、22時半過ぎにブハラ駅に到着。ところが単刀直入に言うと、このドライバーが大ハズレだった。
まず、表示されている金額より多く取ろうとする(ヤ〇デックスの趣旨わかってないんじゃないのか)。Cちゃんが いや、この金額でしょと確認しつつ額面の大きいお札を出すと、お釣りがないとキレる始末。結局、2人が持つ小額紙幣をかき集めてなんとか支払いを済ませた、ふぅ
これまでにこのアプリを使って何度も乗車し、わりと良いドライバーさんたちに当たってきただけに、最後の最後は運が悪かったとしか言いようがない。
真っ暗な中にそびえる白い駅舎。
例によって入線ホームを見極めるのが肝だった。せいぜい30分前だろうと思っていたら、夜行だからか随分早かった。Cちゃんが乗るタシケント行きが1番ホーム、ヒヴァへ向かう自分のが2番ホームと判明。
3・4 ブハラ ⇒ヒヴァ (2023年8月26日)
今さらの説明になるが、仕事の都合でCちゃんと自分の出国日・帰国日を合わせることができず、Cちゃんが先に入国してヒヴァをまわり、私が2日遅れてタシケントに到着しサマルカンドで合流、ブハラで別れてCちゃんは先に帰国、自分はヒヴァに向かうという旅程になったのだった。
かくして0時37分と40分、ほぼ同時刻に私たちは逆方向へ出発した ここからまた独り旅である。
自分が乗る号車の入口で乗務員にバウチャーを見せたら、回収されてしまった。昼間の列車はしないのになぁ。
告げられた数字を記憶し、コンパートメントを探す。私の前を歩いていた女性3人家族の右隣りの部屋だった。
始発駅から乗ってきた人々は眠っているであろう真夜中。静か~に扉を引き、廊下からもれる明かりで確かめると二段ベッド×2のうち右下だけが空いていた。どうやら同室の3人は全て男性の模様。自分のベッドの真上と隣りの人は眠っていたが、斜め上の人は暗闇の中でノートPC画面を凝視していた。
おずおずと入室、よく見えなかったがベッド下の空いているスペースにソフトバッグ(もちろん南京錠でロック済み)を置き、スニーカーを脱いでベッドに上がる。枕元の壁側にショルダーバッグを置き(ファスナーの取っ手は壁側)、備え付けのシーツ・枕カバーをセット。枕元の窓に帳を下ろす。これが錆びついていて結構重かったが、真っ暗じゃないと眠れない派の自分、非力なりに力を出して目的達成 そして薄~い毛布をかぶり横たわる。
なんと、真隣りと思われる部屋からは浮かれ騒ぐ男性たちの声が響いてくる。車内での飲酒は禁じられているはずだが、乗車前にしこたま浴びて気持ちよくなっているのか、禁を破っているのか・・・車掌さんが注意しに来るでもない
実は、4人部屋(2等寝台、クーペ)にするか2人部屋(1等寝台、リュクス)にするか迷ったすえの決断だった。男女混合になるという情報は得ていたが、2人部屋で相手がもしもヘンな人だったらと思うと、4人部屋のほうがマシな気がした。Cちゃんのように2人部屋を2人分買い占めるという方法もあったが、せっかくの機会だから現地の人々に混じって旅したいという欲が出たのは確かである。
寝台に揺られながら、様々な思いが頭の中を去来する。うるさい部屋にあたらなくてよかったぁ・・・。でも手前の部屋だったら、女性だけだったかもなぁ。いやいや、イビキをかく人がいるわけでなし、たとえ男性だらけでもこの部屋でよかったと思うしかない。それにしても、この騒がしさの中で果たして眠れるのだろうか・・・。ショルダーバッグ大丈夫かな・・・いくら眠っていても、さすがに頭の付近に手が伸びてきたら目覚めるよね?!
ふと気づくと、いつのまにか眠りに落ちていたようだった。それでも2時間くらいしか経っていない。さすがに隣室は静かになっていた。
と、突然扉が開いて誰かが覗き込んできた。金目のものを物色しているのか、それとも・・・
こんなこともあろうかと、頭から毛布をかぶっていた。私の体格的に女性と気づかれただろうけど、息をひそめながら強烈に念を送った、私オバサンだから~ 早く立ち去って!
奏功したのかどうか、ともかくそれ以上のことはなく、扉は閉じられた。貧しい持ち物で、フェロモン皆無の人間でよかった、つくづく胸をなでおろしたひとときだった。
が、これだけでは終わらない。その後も2回ほど目を覚ました。列車は途中いくつかの駅に停まっていたようで、ブレーキの振動で起こされたのもある。が、自分の真上のベッドの人がギシギシと階段を降りてきて、たぶんトイレへ行って戻って来た時、先ほどの誰かと同じように廊下から室内を眺めていた時間があったのは緊張した。たぶん1分もなかったと思うが、相当長く感じられた。もちろん何もなかったが
6時半になったので起きることにしたが、上の段の2人は既にいなくなっていた。先に起きていたお隣りさんは、20代後半くらいのウズベク人と思われた。
帳を上げると、車窓は雨だった。
終点のヒヴァ駅に着くまで30分以上あったが、清掃員たちは仕事を始めていて、我々のコンパートメントの扉もガラリと開けられた。どうやらシーツと枕カバーを集めているらしい。慌てて外しキレイにたたもうとすると、お隣りさんがジェスチャーで "やらなくていいよ” と。そのままにしてベッドの隅に置いておいたら、しばらくして回収された。上段の2人はよく分からずじまいだったけど(特に真上の人は顔すらも)、少なくともお隣りさんは良さそうな人でよかったなぁ
コンパートメントの寝台から撮る
トイレに行った帰り、廊下を撮影。
開いていた扉から、他のコンパートメント内部をパシャリ。記録として残したかったが、自分の部屋にはお隣りさんがいて撮れないため、背に腹は代えられず
7時10分、ヒヴァ駅に到着。降りてまず、寒っ 止んでることをうっすら期待していたけど、ガッツリ雨やんけ~
ヒヴァ駅の前から旧市街まで、西へ1kmほど道が伸びている。手前のピッカピカなホテルといい、近年整えた感じだなぁ・・・世界遺産の整備補助金使ったのかな。
ヒヴァ駅舎。
駅構内を出たところで、出迎えのドライバーに会えた。旧市街までそれほど距離はないが、朝の様子が不明だったので送迎を頼んでおいた。たいして眠れていない状況だったので、歩くのも避けたかったし、(いたのかどうかも知らないが)タクシーがいたとして値段交渉の鬱陶しさに耐えられなかっただろう。結果的に正解だった
雰囲気のある城壁をくぐり、タクシーは宿の脇に到着。「明日は朝6時20分にピックアップだよね、ここで待ち合わせ?」とつたない英語でドライバーに尋ねると、「ん~ たぶんね」と頼りない。会社が調整しているから大丈夫、と言い残して去った。違う人が来るのはよくあること。タシケントの送迎とホテル、タシケント~サマルカンドの列車、ブハラ~ヒヴァの列車、アレンジを依頼した旅行エージェントの手配はここまでノープロブレムだったから、たぶん大丈夫・・・と思うしかない
さて、次は宿のフロント。予約していますと言うと、パスポートを請求された。どこかで見たような顔だち(はっきり思い出せないけど、欧米の俳優)&柔道体型のフロントマンは営業がしたたか。チェックインは正午だから荷物を預けて出かけることもできるし、1泊の半額支払うなら今すぐ部屋に入れるし朝食も付いてるよ、と。
夜行列車はこの上なく面白かったけど、肉体的にはボロボロになっていた私には渡りに船だった。ゆったり休息できるのは嬉しすぎる 提案に飛びつき、パスポート預けたままなのは若干引っ掛かりつつ、部屋へ向かう。
ここはヒヴァのメドレセを改装した宿ではたぶん一番有名な場所。宿泊しなくても、中庭は見学できるようになっている。Cちゃんも検討しながら、見学客が騒がしい・見学客に部屋を覗き込まれた、という口コミを見て断念したという。私にあてがわれた部屋は2階だったので、幸いそういった実害はゼロだった。
部屋の扉の前から中庭を見下ろす。
自分が見かけた口コミには部屋が狭すぎるとあったが、それほどでもなかった(1.5泊分支払った効果かもしれないが)。
ブハラの宿に比べるとメドレセ感は薄めだったが、そんなのどうでもいい。コンパートメントからやって来た身としては、1人の空間が保障されているだけで安心できる
湿気の多いバスルームに木製扉は多少違和感あったが、水まわりは快適だった。
朝食会場は宿泊する建物の隣りにある別棟。手が加えられているだろうけど、雰囲気がある(鏡に映った自分にモザイクをかけた)。
ビュッフェ形式の朝食。
時計でいう10~12の位置に鎮座するのがヒヴァのナン【ウズベキスタンの他の地域のとは全く異なり、平べったいのが特徴。ローマ風ピザのように薄い】。
朝食会場の入口から望むカルタミノル【「低いミナレット」の意。19世紀半ば、100m超えの中央アジア最大のミナレットを目指して着工したが、建設を命じたムハンマド・アミン・ハンの死により高さ26mで中断。直径は14.2m】。なお、カルタミノルの左の建物が宿泊棟。
ときに8時前。あいにくの雨だし、すぐに観光へ出かけるつもりはなかった。Cちゃんが手配してくれたWi-Fiの件もあるし、しばらく部屋で待機しようと思った(色々あってWi-Fiの手配をせずに入国した私はCちゃんと一緒にいる時は彼女のを間借りしていたが、別れるにあたりCちゃん経由で申し込んだのだった。チェックイン時にフロントマンに確認すると知らなかったので、少なくとも届いていないようだった。朝早いから、この後届く可能性が高かった)。
そして今しかない、と前夜もらった食事boxに手をつける。菓子パンと果物をムシャムシャ
ここに滞在するのは1泊、しかも明朝の出発は早かったが、これまでの感じからして今干せばチェックアウトまでに乾くのではと思い、洗濯を実行。それを終えると、お腹が膨れたこともあり一気に睡魔に襲われた。昨夜の惨状からすれば、無理からぬこと
★ 中締め ★
はなはだ中途半端なのですが、この後のヒヴァ観光を載せると文字数がオーバーしてしまうので、ここで切り上げます。
次回は「屋外博物館都市」と称されるヒヴァの模様をお届けします。お楽しみに
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