poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

イタリア(3)&フランス(2)篇 その2

2022年03月03日 | ヨーロッパ
旅の後半は、パリに深夜到着した翌日からスタートです。
地図中の①②は旅の前半に、➌➍は旅の後半に訪れた場所です。また、後の下線部の数字にも対応しています。


3 パリ (2010年8月8日)

この日はパリで1日フリー。まずはルーヴル美術館へ向かった。
泊まっていたオペラ地区からは徒歩数百mの近さ(下の画像は、館内をまわっている途中で撮影)。

1階で出迎えてくれたミロのヴィーナス。

1階もそこそこに2階へ上がる。1階から2階への踊り場にはサモトラケのニケ。

360度グルリまわれるので色々な角度から撮ったが、背後からの画像を載せる。思っていたよりも翼が大きいんだなぁ・・・
その向きぃ?!と作者は驚くだろうか・・・だとしたらゴメンナサイ

2階は、あまり絵画に興味のない自分のような人間でも知っている有名な作品だらけである。
言わずと知れたモナリザ。防弾ガラスで厳重に守られている。人垣を搔き分け、一瞬の隙に撮った。

ラファエロの「聖母子と幼き洗礼者ヨハネ」。

ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」。

2階で相当の時間を費やした後、ロゼッタ・ストーンを見たいというCちゃんの希望で、1階に戻って古代エジプトコーナーへ【1799年、ナポレオンがエジプト遠征した際にフランス軍が港湾都市ロゼッタで発見した石碑。3種類の文字(古代エジプトの知識階級が使用した神聖文字、古代エジプトの民衆が使用した文字デモティック、ギリシャ文字)が記されており、これを機に神聖文字とデモティックの研究が進み、ついに1822年 シャンポリオンが文字の解読に成功した。古代エジプト研究を画期的に促した世紀の大発見】。
現地主義な自分、行ったことないのに美術作品見るのも複雑な気分で・・・あまり撮っていない。

そして肝心のロゼッタ・ストーンは見つからず。他のエリアにあるのかも、ということでまだ見ぬ3階へ上がってみる。
3階から館内を見下ろす。

館外を眺めると、中庭の向こうにエッフェル塔がかすかに覗く。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「羊飼いの礼拝」。光の表現の仕方と、左端の女性の東洋風な拝む手が印象に残った。

フェルメールの「レースを編む女」。

レンブラントの「バテシバ」【旧約聖書に登場する人物。B.C.11世紀、古代イスラエル王ダヴィデは入浴中の彼女を見初め、部下のウリヤから妻を強奪。ダヴィデとバテシバの間に生まれたソロモンはのち王となり、王国の全盛期を築いた】。

やはり3階にもロゼッタ・ストーンはない。もう一度、1階に下りてエジプトコーナーに隣接する古代オリエントコーナーへ。
ハムラビ法典 顕現 四大文明展で2000年に来日した際、一期一会だろうと世田谷美術館へ足を運んだのだが、再度まみえるとは・・・人生予想もつかないなぁ

巨大な彫刻に目をみはるばかり・・・(なかなか無人の状態にならず、痺れを切らして撮影。観光客にモザイクをかけた)。

薄いミントグリーンの色調が綺麗 てか、壁ごと剥がして持って来てるんだなぁ

さてさて、ロゼッタ・ストーンである。見落とすはずないほど隈なく探しても見つからないため、エジプトに返還されたのではないかと推理して断念【しかし、実のところは大英博物館にあるのだった 発見当初はフランスが保管していたが、1801年にイギリスとの戦争に敗れて手放した。エジプトは返還を要求しているものの、イギリスは応じていない。なんのこっちゃ・・・リサーチ不足でお恥ずかしい限り
気を取り直して、隣接するギリシャ・ローマコーナーを見学。

カノーヴァの「アモルの接吻でよみがえるプシュケ」【18世紀末、神話をベースに制作された作品】。

こうして4時間半過ごしたルーヴルを後にしたのだった。

いよいよ本題、ザビエルの足跡を追うことに。地下鉄でモンマルトルへ赴く。
Abbesses駅で降り、テルトル広場へ向かう。まずは腹ごしらえと、目についたビストロに入る。
テラス席は地元民だか観光客だか区別つかない人々で異様に混んでいるのだが、中は空いていた(ヨーロッパあるある)。

アスパラのビネグレットソース。エスカルゴは見聞したれども食すのは人生初 赤ワインはカラフェで注文。

備忘録によれば、duck胸肉ペッパーソースとサラダも頼んだようだが、画像はない
ちなみに この記事を書くにあたり調べたら、ピカソやゴッホ、モネも通ったお店らしいと判明。なんだかすごい

モンマルトルの象徴ともいうべきサクレ・クール聖堂へ向かう途次、近くのサン・ピエール・ド・モンマルトル教会に立ち寄る【1134年に建てられたパリ最古の教会、ただし現存するのは20世紀初頭の再建。20世紀前半にモンマルトルの風景を描いた画家ユトリロの葬儀が行われたことでも知られる】。ヴォールト天井、石造りの小さな教会。


聖アントワーヌ(イタリア語ではアントニオ、英語ではアンソニー)。


人の流れについていくと目に飛び込んできた白亜のドーム、サクレ・クール聖堂【普仏戦争~パリ・コミューン期に亡くなった人々を慰霊するため、19世紀後半から40年かけて1914年に完成。第1次世界大戦のため延期された奉献は1919年に実現、一般に開放された。ロマネスク様式+ビザンチン様式で、フランスでは珍しいドームを持つ】。
1997年、初めてフランスを訪れた際にはエッフェル塔やノートルダム大聖堂などに時間を費やし、足を運ぶことができなかった。
ここもパリを代表する観光地・・・非常に多くの人々でにぎわっていた。狙ったわけではなかったが、18時からミサが始まったので一も二もなく参加した。
内部は撮影禁止のため、画像がなく残念

聖堂前から眺めるパリの街。小高い丘の上に立っていることを実感する。
この記事を書くにあたり調べたところ、有料になるがドームに登ればエッフェル塔も見渡す迫力ある景色を眺められるらしい。

いよいよ聖ドニ記念聖堂へ【3世紀に殉教し、のちパリの守護聖人となったドニを記念して建てられた。1534年、ここでイグナティウス・ロヨラと同志(ザビエルを含む6名)は神に生涯を捧げる誓いを立て、イエズス会を結成。ただし現存しているのはフランス革命で破壊された後、19世紀後半に再建された建物】。

この場所が歴史的スポットであることを示すボード。
残念ながら、閉まっていて入れなかった。時間が遅いからかも・・・
翌日はモン・サン・ミッシェルへ行くことになっていたが、翌々日に戻って来てパリで時間がある。再訪することにして去った。

地下鉄駅のすぐそばにある聖ジャン・ド・モンマルトル教会に寄る。
祭壇の下に水辺の鳩のモザイク・・・先のラヴェンナはガッラ・プラキディア廟と同じモチーフで、キリストによって永遠に魂が癒されることを象徴している。

こちらにも聖アントワーヌ。

パイプオルガン周りがカッコイイ・・・新しくてモダンな教会【この記事を書くにあたり調べたら1904年築、パリ初の鉄筋コンクリート造りの教会と判明。内部はアールヌーボー様式という】 


3・4 パリ ⇒モン・サン・ミッシェル (2010年8月9日)

セーヌ川の南、モンパルナス駅を目指してホテルを出た。最寄りのオペラ駅から地下鉄に乗る前に撮ったパレ・ガルニエ【17世紀後半に淵源を持つフランス王立オペラの公演場所として1875年に完成、建築家シャルル・ガルニエにちなんで称される。オペラ座と俗称されるが、1989年のバスティーユ宮完成以降はオペラ公演の多くを譲り、主にバレエやコンサートを催している】。天気がよかったら、もっと映えてたんだろうなぁ

モンパルナス9時5分発のTGVで2時間、レンヌ駅に到着。11時30分発のバスに飛び乗る。
うずたかい小島がいよいよ車窓に見えてくると、たまらなく胸が高鳴る。13時、モン・サン・ミッシェル到着【中世には巡礼地として栄え、今や年間250万人が訪れるこの聖地の始まりは8世紀初め。ここから5㎞離れた町アヴランシュの司教オベールの夢に大天使ミカエルが現れ、あの岩山に聖堂を建てよと告げる。にわかに信じないオベールに業を煮やし、3度目現れたミカエルは彼の頭に指を差し入れる。目覚めて穴に気づいたオベールはついに礼拝堂を建てたという】。

バスは干潟道路を走り、小島の麓にたどり着いたところで降ろされた。
下の画像はモン・サン・ミッシェル側から振り返って撮影したもので、右端に見切れているのが干潟道路。道路の左側(東)は干上がっているが、右側(西)は海水をたたえている。

その夜泊まるオーベルジュに荷物を預かってもらって、すぐに昼食
島内の食堂でシードルを傾けながら、チーズの盛り合わせとムール貝の白ワイン蒸しを楽しんだようだが・・・ピンボケの飲料の画像しかなくてごめんなさい
【ワイン造りが盛んなフランスにあって例外的にノルマンディー地方では特産のリンゴを使ったお酒が発達。シードルはラテン語のciceraを語源とする、果実を発酵させてつくったお酒。4世紀のローマや9世紀のスペインで造られていたことが知られており、11世紀にスペインからフランスのブルターニュ地方に製法が伝わった。ブルターニュとそれに隣接するノルマンディー地方では気候や土壌がブドウ栽培に不向きなため、ワインに代わりシードル生産が進んだ。甘口だけでなく辛口まであり、アルコールは2~8%と低め。なお、この地方ではシードルを蒸留したカルヴァドスも有名で、食後酒として飲まれる。また、ムール貝はフランスの海岸部で一般的に食されるが、モン・サン・ミッシェル付近(サン・マロ湾南東部)で養殖されるものは2006年に海産物として初めてAOC(原産地統制呼称)に認証された逸品。小ぶりで、とろける食感の中に甘みを感じる味わいが特徴。シーズンは7~2月】。

お腹を満たした後、北塔付近までゆるりと散歩する。下の画像、建物の左側まで水が迫っているが、右奥はまだ干潟である。

海のそばゆえ、カモメを見かけた。

潮が少しずつ満ち始めている。

近くから見上げる修道院の壁は、まるで要塞のように堅固。それとも、かつて牢獄として使用されていたと知りながら見るからそう感じるのだろうか・・・
【14世紀、百年戦争を機に閉鎖された修道院は16世紀に復活するものの、フランス革命後から19世紀後半まで監獄となり、のべ1万人超を収容。海のバスティーユと恐れられた】

修道院の入口近くまで足を運びながら、私たちは引き返した。7~8月限定で日没後もオープンしていて音楽演奏の催しありと情報を得ていたので、後で戻るつもりだった。
次に向かった先は干潟道路。車窓から見たとはいえ、モン・サン・ミッシェルをゆっくり遠望したいというわけ。ズイズイ歩き、振り返ってパシャリ

再び島に引き返し、サン・ピエール教会へ。
銀のミカエル像が目を引いた。そのお告げのおかげで発展したともいえるこの島では、随所で彼を見かけた【大天使のリーダー。悪魔を退治した逸話から、武装して右手に剣を持ち竜(サタンの化身)と戦う姿で表される。古い作例では左手に盾を持つという】。

聖母子像はピンボケ・・・ごめんなさい

満足した私たちは、宿へ一旦引き揚げることにした。この日泊まったオーベルジュ・・・部屋の窓を開ければ目の前が海、大当たり

お部屋は限りなく狭く、ダブルを無理矢理ツインにしたようなベッドだったけど、眺め良ければ全てよし

19時からという音楽ショーに合わせて宿を出て、両側にお店が立ち並ぶグランド・リュ(=メインストリート)を歩く。中世そのままなのだろう、道幅の狭い通りに観光客がひしめいている。

そもそも前へ進めないほどの状況に、ごみ収集の台車が通ろうとして混雑に拍車をかけていた
かなりの時間身動き取れないだろうと予想し、目の前の土産物屋に入った。店員のお姉さんはここぞとばかりに名産品を売り込んでくる。商売上手だわぁ
ま、明朝は出発早いから時間ないしな・・・とはいえ、まんまと踊らされてる感が否めないまま家族や友人たちへのお土産を入手、もちろんポストカードも忘れない
さすが一大観光地、お土産には事欠かない。現代のジャポニスムみたいなイラストが面白かった。

いよいよ修道院に入場。さっそくピアノ演奏で出迎えてもらった。これが建てられた頃には世に存在しなかったピアノだけど、雰囲気にしっくり

模様ガラスの向こうは海。

青空の下ではないけど、天使の梯子(薄明光線)が見える・・・この時間に来てよかった

今度はチェロ。そっか・・・一堂に会して合奏じゃなくて、構内に点在しているのね。

真っ暗な中、煌々とライトアップされた大天使ミカエル【時代が下ると、左手に秤(魂の公正をはかる)が描かれるようになるらしい】。

こちらはフルートの演奏。

マリア様のような、そうでないよーな・・・剥がれかかった彩色がロウソクの灯りに照らし出され、雰囲気抜群。

首が痛くなるような高い所に磔刑像あり。

ゴシックのドームの下でハープを奏でている。

帰りがけに通ったら奏者がいなくなっていたので、これ幸いにと撮影。

院内では彫刻も散見された。
真ん中より左にアダムとイブ、右は冥府降下【十字架上で死したイエスは死後の世界へ降りて行き、冥府の王に扉を開くよう命じる。王がこれに応じないでいると、冥府の扉を壊して捕らわれていた人々を救い出す。イエスは右手でアダムをつかみ、左手にイエス自身を象徴する十字架を持つ。この出来事はアナスタシスともいわれ、アダムが犯した罪により人類が宿命づけられた死から解放されることを意味する】。下が地獄、上が天国という構成の作品。

楽園から追放されるアダムとイブ。その右で剣を振り上げ、両者を追い立てる大天使ミカエル。

イエスが処刑される前後の5場面。左から、ユダの接吻=イエスの逮捕→ 嘲られるイエス→ 磔刑→ 死して十字架より降ろされる→ イエスの復活。

福音書を著した4人の聖人。足元のアトリビュートから、左からマルコ→ヨハネ→ルカ→マタイ。左端の動物が獅子に見えないと思うのは私だけかなぁ 他は分かるんだけど・・・

西側テラスから見上げる修道院の尖塔。この島の一番高い場所で金色に輝くは、やはりミカエル。さすがに遠すぎて見えない

テラスから外を眺めると、太陽は光線を緩やかにしながら ずいぶん下りてきている。
歴史の荒波に翻弄され続けたこの島の過去などは何処吹く風・・・ゆったりとした風景が広がる。




ついに干潟道路の左側(東)も潮が満ちた。画像の左端を、32枚上の画像の左側と比べてみてくださいね。

修道院北側の最上階、13世紀の回廊へ【そもそもこの修道院は増改築が繰り返され、様々な建築様式が混交。オベールの後、10世紀後半にノルマンディー公リシャール1世がベネディクト修道院を築いて発展。当時はロマネスク様式だったが、のちにゴシック様式を採用。中でもこの回廊は、短期間に完成したことからラ・メルヴェイユ(驚異)と称される】。


柱上部のアーチとアーチをつなぐ部分には彫刻が施されている。

修道院に附属する聖堂の外観。あ この角度からだと、てっぺんのミカエル像が羽を広げているのが目視できるな~

一瞬 聖ゲオルギウスかと思ったが、羽があるし馬に乗ってないし、これもミカエルだろう。ハート形の盾とは珍しい。

帰りがてら再びテラスに寄ると、まさに陽が沈もうとしているところだった。

修道院の出口付近で紫のガクアジサイを発見。ヨーロッパの気候だと、8月でも咲いてるのか・・・


この日の最後・・・夕食で頼んだサーモンのマリネとロゼワインは画像なし 
豚肉のパテはいかにもフランス料理っぽい。

ラムのパイ【ここモン・サン・ミッシェルは羊肉が名物。海風を受けた草を食べて育つため、塩気を感じる味わいらしい】。パイなので、肉にあまり塩味を感じなかった・・・いや、料理法の問題じゃなくて、酔いのせいで舌がバカになってたんだろーな

レストランと宿は目と鼻の先だった。が、夜景を見たいよねとほろ酔い()の私たちは再び干潟道路へ向かった。
2台前のデジカメでいまひとつな写りだが・・・少しでも雰囲気を感じてもらえたなら嬉しい。


4・3 モン・サン・ミッシェル ⇒パリ (2010年8月10日)

朝、得体の知れない音で眠りから覚めた。窓の外に目をやると、夜が明けたばかりの干潟にものすごい勢いで潮が流れ込んでくるところだった。

水音で起こされたのか・・・古来、潮の流れが激しく干満差15m以上と聞いてはいたが、想像以上である。
上の画像と比べると、海水が入り込んできていることが見てとれる。

流れの速い潮をパシャリ(ピンボケ気味だが
日帰りで訪れていたなら、決して見届けることはできなかった。ここに泊まるよう計画してくれたCちゃんに心から感謝 


朝の景色を鑑賞するため、干潟道路へ向かう。途中、ヒツジの標識を発見。北海道のシカのように、飛び出し注意なのか・・・ほっこり

あいにくの曇り空で、遠景はイマイチ

気を取り直し、来た道を戻る。奥に見えるのが王の門【百年戦争の時、イギリスに抗戦するため築いた。島内に残る唯一の吊り橋を擁する門】。
昼間はごった返す道も朝は人影がまばらで、全然様子が違う。訪問客のほとんどは日帰りか、島の対岸に泊まるのだろう。そういう意味でも、島内に泊まることをオススメしたい。

郵便局の看板が可愛い 昔はあんなふうに配達していたのだろうか・・・中世を意識した建物の雰囲気と相まって、思考が遥か彼方へ飛んでいく。


9時半発のバスで発ち、10時50分にレンヌ駅到着。11時過ぎのTGVに乗り継いで、モンパルナス駅に13時25分着。宿は2日前と同じ場所、よって地下鉄でオペラ駅へ。
さて、先日入れなかった聖堂を訪ねるミッションが残っているが、その前にしばし別れて行動することになった。母から財布を頼まれていたのでシャ〇ルに行かねばならなかったが、関係ない買い物にCちゃんを付き合わせるのは気が引けた。ステンドグラス好きのCちゃんはノートルダム大聖堂やサント・シャペルを目指してシテ島へ向かい、モンマルトル近くの地下鉄Abbesses駅で待ち合わせることにした。
途中で迷ったCちゃんとなんとか巡り合い、再び聖ドニ記念聖堂へ。先日載せたのとは異なる外観画像を敢えてチョイス。

壁面の頭部彫刻を拡大すると、こんな感じ。

聖ドニ殉教の地と彫られていた。

結論から言うと・・・やはり開いていなくて、入ることができなかった。翌日は出発が早いため、これが最後のチャンスだったのに
仕方ないな、わりとあっさり諦めようとした自分。対してCちゃんは納得がいかないと食い下がった。付近を通行していたフランス人中年カップルをつかまえて事情を説明し、聖堂に電話をかけてもらったところ、留守番メッセージが流れて「テアトロ」ですと言っていると 万策尽き果て、モンマルトルを去ったのだった。

最後に、ザビエルとロヨラが出会った学生街へ向かうのだが、その途中 私のリクエストでキッチン用品店に寄った。旅の前に買ったパリのガイドブックですっかりヤラレてしまっていた。しかもお店は予想以上の品ぞろえで、自分好みのグッズに囲まれて幸せな時間を過ごした
戦利品はいずれもこの記事を書くにあたり撮影したものである。チーズ用のナイフは刃渡り13cm、全長23cm。流線形のグリップが握りやすい。€4也。

ナイフ&フォークレストは1つ€2。ダックスフントは全長9cm。シルバーなので、錆が出てるけど


いよいよ旅のクライマックス。歩いてカルチェ・ラタンへ向かう。リュクサンブール公園を右手に見ながら通過し、パンテオン前までやって来た。
そこから北上し、まずはパリ大学の中庭へ。噴水が印象的だった。


落ち着いて学問に没頭できそうな雰囲気漂う界隈を歩きながら、ザビエルが学んだ聖バルブ学院を探す。

意外にもはっきりと書かれていた。もちろん建て直されたものなのだろうけど、数百年経っても学校が存続していることがスゴイ・・・



【ナバラ王国の重臣を務める貴族の家に生まれたザビエルだが、幼くしてナバラがスペインに占領され家族は離散。ナバラ復興に奔走する父や兄が敗れ去る中、1525年にパリに留学。いっぽう、イエズス会発起の核となったイグナティウス・ロヨラは当初別の学院(聖モンテーギュ)に属していたうえ、ザビエルはロヨラを苦手にすらしていたのだが・・・最終的にはロヨラの情熱に突き動かされ、1534年の会結成へ発展していく。ロヨラとて、最初から聖職者を志していたわけではなくバスクの騎士だったが、1521年にフランスとの戦いで足を負傷したことから転換を余儀なくされた。スペイン、フランス、バスクの複雑な争いに否応なく巻き込まれ故国を去ることになった両者が異国の地で巡り会い、同志になるとは・・・数奇な運命としか言いようがない。】ここが始まりの地なんだなぁ・・・

サン・ジェルマン・デ・プレ方面へ、閑静な石畳の道を行く。

歩いていてたまたま目に入ったビストロは、司馬遼太郎氏の『街道をゆく 南蛮のみちⅠ』に出てきたお店だった。司馬さんは気後れして辞去したが、図々しく入った私たち

本格的なフレンチ料理店だった。こちらはテリーヌ。

ハウスワインの白。これまたピンボケ

備忘録によると、他にタラゴン風味のクリームグラタンと白身魚の照り焼き風を食したようだが、画像がない・・・
会計を終えてお店を出る際にフランス語で “さよなら” と言ったら、ちゃんと通じて嬉しかったのを記憶している。付け焼刃で発音など怪しいものだが、この3日間で少しはサマになったのだろうか

3 パリ (⇒出国)(2010年8月11日)

4日前と同じく、オペラ地区からバスで空港へ向かった。
往路はKLM航空のアムステルダム経由だったが、帰りはエールフランスの直行便だった。
エコノミー席にもかかわらず、機内サービスでシャンパン(メゾンはJACQUART)がふるまわれたのには驚いた。さすが


★ 終わりに ★

結局、2度も振られた聖ドニ記念聖堂 帰国後に調べたら、金曜15時~18時しか見学できないと判明した。なんという初歩的な不手際 
この旅の大目的だったというのに、そこを怠るとは。不真面目で軽薄さながらの下調べ不足・・・馬脚を現したり

さて、私たちが訪れた2010年当時のモン・サン・ミッシェルは悪名高き道路で陸地とつながれていて、この記事を書いている2022年現在とは異なる様相であった。
干潮の時だけ渡ることのできる神秘の巡礼地、潮の変化の速さゆえ渡る途中で激流に呑まれて命を落とす危険さえあった聖地は、19世紀後半に築かれた堤防と橋により いつでも・手軽に行ける場所となった。しかし、後付けの人工物が潮をせき止めるせいで年々滞留した砂は2mにも達し、環境破壊が取り沙汰されるようになった。
工事は遅れたものの、堤が撤去され潮流に大きく影響を及ぼさない構造の橋が2015年に完成し、いにしえに近い姿を取り戻したモン・サン・ミッシェル。もはや自家用車や観光バスで直接乗りつけることはできず、橋を3㎞ほど歩くか、5~15分間隔で発車するシャトルバスに乗るか、観光馬車に乗るほかない。ここ数年で頻繁に耳にするようになったSDGsの先駆けといえる取り組みだろう。直近の利便性を最優先する開発から、遠い未来を見据えた共生を模索する時代へ・・・歴史のうねりの中に自分は生きているんだなぁ

 おしまい 

























































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