poliahuの旅日記

これまでに世界43ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

アイスランド篇 その3

2025年01月12日 | ヨーロッパ
アイスランドの最終盤では、以下の地図の➊で過ごしました(②~⑦は旅の序盤・中盤に訪れた場所です)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


1 レイキャビク (2023年12月30日)

7時に起床、ホテル1階のレストランへ。ビュッフェで朝からガッツリと食事を済ませる。

元々の予定ではスカイラグーン(レイキャビク近郊の温泉施設)に行く予定だったが、記事「その1」でお伝えしたとおりの体調のため、museum巡りに予定を変更。
結果的に2万2千歩オーバーの移動となった。途中でmuseumの椅子に座りつつ、トイレも利用できたのでカフェに入ることもなく、ほぼ1日歩き通し。解けかけの雪で歩きにくいのに、ようやるわな自分(苦笑)

ホテルを出発し、まずはホフジハウスを目指して大通りを海の方向へ進む。月が天空に輝いているが、これでも午前9時半なのである。

ランニングやら散歩やらで人影はポツポツあるし、車も行き交う。この暗さでも身の危険を感じないんだよな~ この国は相当治安がいいと思う。
ホテルから500mほど、ハウスが見えてきた時は周囲に誰もいなくて近づくのがはばかられるような、泥棒感満載だった。が、ほどなくツアーバスが到着して欧米人観光客がドカドカ降りてきた、ホッ 
こちらがホフジハウス【1909年、フランス領事館として建設。ワシントンとモスクワの中間地点ということでこの地が選ばれ、冷戦下の1986年10月にアメリカ大統領のレーガンとソ連書記長のゴルバチョフがここで会談し、これがもとになって翌年12月のINF全廃条約締結に至ったといわれる】。
中を覗きたくて階段をのぼってみたが、窓の位置が高すぎて自分の身長では見られなかった、残念

銅像あり【Einar Benediktssonという詩人。19世紀末~20世紀前半に活躍し、独立を促すナショナリズムの隆盛に一役買ったという】。


次は海沿いを北西へ進む。

画像左の尖塔はハットルグリムス教会。74.5mとそもそも高いうえ、丘の上に建っているので この町のどこからでも目に入るといっても過言ではない。

1kmほど歩くうち 次第に空が明るくなり、雪をかぶった山影が姿を現しはじめた。

東を振り返るとこんな感じ。

が、西側はまだ夜の雰囲気が濃く漂う。

モダンなモニュメントが登場。両サイドからの眺めを比較してもらえば、東西の様相の違いを感じていただけるだろう。
まずは西側に向かって撮影。

そして、東側に向かってパシャリ【なお、これは「The Sun Voyager」というタイトルの作品で、海に繰り出す人をイメージしているらしい】

水鳥が海上で羽を休めている。

第二の目的地ハルパに着いた時、来し方を振り返る。
この国では夜が明けていく様が実に美しい。えもいわれぬ色彩に移ろいゆく空・・・高緯度地域の夜明けは、朝が弱い自分にはありがたい贈り物だ


こちらがハルパ【2011年にオープンした多目的ホールにして、アイスランド交響楽団の本拠地。金融危機の影響もあり工事は一時中断したが、4年かかって完成】。
柱状節理をモチーフにしたデザインは角度により宵闇でも輝く。ちなみに5枚上の画像左、ひときわ青いのもハルパである。

こちらは別の角度から撮影。

ダメ元で入ってみたら、ごく限られた範囲ではあるが無料で見学することができた。
エントランスの天井。

窓の向こうには旧港が広がる。3日前まであの辺りに滞在していたんだよね・・・もう懐かしくなっている



第3の目的地セトルメント・エキシビションへ向かう途中、チョルトニン湖をかすめた。凍っていないわずかな水面に水鳥たちが集っていた。てか、白鳥って鳴き声が大きいのね、ビックリ【元々は貯水のためにつくられた人工湖。市の職員が湖にお湯を流して全面が凍らないように、鳥たちの居場所を確保しているそうだ。なんて優しいの】。

レイキャビクの街では、所々に不思議な彫像が存在する。画像右はそのひとつ【タイトルは「無名の官僚へのモニュメント」】。

葉牡丹が健気に咲いている。

先日来、市庁舎と思い込んでいたのはドゥムキルキャン教会と判明。閉まっていて、中には入れず
【1796年創立、レイキャビクのカテドラル。国会が開会する際にはこの教会でミサを執り行なった後、会議場に移動するという。現存するのは19世紀半ばの再建】

その横には国会議事堂【アルシングともいう。記事「その1」で言及したとおり、この国では930年からシンクヴェトリルにて毎年議会が開かれていた。ノルウェーの支配下に入っても続いていたが、デンマーク統治下の1798年に中断を余儀なくされた。しかし自治への要求が高まるなか19世紀半ばにアルシングは復活、1881年にはこの議事堂が建てられた。今日に至るまでレイキャビクで開催されている】。
首相官邸を見かけた時も思ったけど、この国ってこういうのが簡素よね。暴漢が突入してくるとか前提にないんだろうな、治安いいもんなぁ。


100mほどでセトルメント・エキシビションに到着【2001年に発掘された、レイキャビクで最古の人工建造物=9世紀後半の遺構を保存している】。

現在の地面より下に遺構があるため、入口を入って目の前の階段を降りるスタイルになっている。エントランスの壁には世界地図が飾られており、横のパネルには「約10万年前にアフリカ大陸でホモサピエンスが出現した。約1万2千年前には南極を除くすべての大陸に人類が住みついた。約1100年前、アイスランドに人類が定住するようになった。」と記されていた。
ここアイスランドは中央上部に赤く示されており、他にも赤く塗られているハワイ(画像左中央)・マダガスカル(画像やや右中央)・ニュージーランド(画像右下)はアイスランドの前後に入植があった場所という比較のようである。

この遺構が西暦871±2年のものであることを強調している。

入館料は2750kr、ガイドブック情報より1000kr(≒1180円)も高くて驚いた。値上げはコロナ禍で観光が退潮した反動、はたまた諸物価高騰、それとも単にガイドブック情報が古すぎただけ まぁ、こういう施設を維持・管理するのに費用がかかることは理解できるし、値上がりを理由に見学をパスする選択肢は自分にはない。
支払いを済ませ、左側の小ぢんまりした空間に足を向けると、人々がこの島に渡ってくるまでの過程を推測し映像にしたコーナーで、彼らが乗ったと思われる帆船のイラストもあった。

メインの展示室に入ると、まず中央の遺構が目に飛び込んでくる。これと同時期、9世紀後半の日本は平安時代の前半で、藤原氏が権力を強めていく時期かぁ・・・
一般的にヨーロッパの文明は日本に先行しているが、アイスランドは入植が遅い。それほど当時の技術レベルでは暮らしにくい気候風土だったのだろう。



入植初期の人々がいかに巨大な集合住宅を建てたかの映像解説もあり、模型もあった。

芝を用いたターフハウスの画像もあった。


館内に掲示されている英文の説明をしこたま脳内で翻訳したが、印象的だったのは以下の3点。
①レイキャビクが良い港であることから、この島の中心地として発展した。
②湿度が高い風土のため、水の確保には困らなかった。当時は石と灰で雨水をろ過していた。
③ゲノム解析の結果、男性のほとんどはノルウェーから、女性の半数はイギリスからしかも奴隷としてこの島にやって来たことが判明している。ただし、言語的あるいは社会制度的な側面を見ると、ノルウェー以外のスカンジナビア半島の国々やアイルランドの影響も多分にあるらしい。

海洋航海をつうじて広汎な範囲で交流がおこなわれたのね・・・
そして確かに・・・気温が低いわりにかさつかないよね。ハンドクリームやリップクリーム持ってきたけど、使わずとも問題ないし。湿潤なんだわ

天気がくずれる前にハットルグリムス教会のタワーに登りたい気持ちがはやったが、アイスランド国立博物館のほうが近そうなので先に向かう。南南西に600mほど、等高線のない地図では気づかなかったが、丘へのぼっていく道程だった。途中、チョルトニン湖越しに教会を遠望できた。

博物館はグレーの壁・シンプルな3階建てで、遠目にそれと示すのは幟くらい(この画像には写っていないが)。
こちらもfeeが500kr(≒590円)上がっていた、ははは

この島に人類が入植した後から時間の経過に沿って展示されている。
いきなり人骨が目を引いた【説明パネルによると、10世紀に40歳くらいで亡くなったと推定される女性の骨という。胸に三つ葉のブローチ(シェトランド諸島[イギリス領]でよく知られる)と、スコットランド風のケルト装飾が施された留め金具を身に着けていた。遺体のそばには木製の柄のついた長いナイフ、櫛、スプーンとして用いたと思われる貝殻、お守りと思われる石などがあった。定かではないが、調理器具が副葬されていることから、来世では家事を果たすよう期待されていたと思われる】。

子どもの骨も展示されていた【8ヶ月の子どもと推定されている。概して子どもの骨は大人の骨に比べて保存状態が悪いとのことだが、これは砂の中に埋められていたのが幸いしたらしい。大人と違って副葬品はなく、来世を想起させるものはない】。

このあと金属器などの道具の展示が続いたが、足早に通り過ぎる。自分が興味あるのはキリスト教を受容した後の文物だった。ハットルグリムス以外の教会に入るチャンスがないまま過ごしてきたので、特に渇望していたのだった。
【9世紀、アイスランドに移住してきた人々のほとんどが北欧にルーツを持ち、異教信仰(北欧神話)を擁していた。しかし彼らが島に到着した時には既に、俗世から離れて求道するためにアイルランドからやって来たキリスト教の修道士たちがいたし、北欧人たちが各地で捕まえて奴隷として島に連れてきた人々もキリスト教徒であったため、初期の定住者の多くはキリスト教徒であったといえる。が、その後のアイスランド社会では北欧人が実権を握ったため、異教信仰が主流となった。
10世紀末になるとデンマークとノルウェーでキリスト教が広まり、995年にはクリスチャンの王オラフがノルウェーで即位した。彼はノルウェー人が入植した地にも宣教団を送り、キリスト教に改宗するよう圧力をかけた。当時、アイスランドで洗礼を受けている者はわずかだったが、1000年にアルシング(アイスランドの議会)ではキリスト教を受け入れることを決断し、この問題で血が流れることはなかった。ただし、従前の異教信仰(北欧神話)を個人がもち続ける権利も得ていた。つまり、ずいぶん以前から私的にキリスト教を信奉する者は存在したが、アイスランドが公式に改宗したのは1000年ということになる】
この国がキリスト教に改宗した初期のころの遺物はあまり残っていないが、異教のお墓からキリスト教のアイテムが見つかることがままあるという。
このペンダントは11~12世紀のもの。その形は十字架であり、また北欧神話のトール神がもつハンマー(ミョルニル)でもある。

宗教画が描かれた木材の一部【11世紀後半の制作。元々は着色されていたかもしれないが、現在その痕跡はなくなっている。アイスランド北部の農家の屋根裏部屋で発見されたが、カテドラルの西壁のものではないかともいわれる】。記事「その2」でも言及したが、高緯度のこの地では希少な木材が使用されている。


全体像はこんな感じだったらしい。モチーフは最後の審判【全体の幅は7~8m。フレスコ画でよく表される題材だが、木彫の作例は珍しいという】。

聖母マリアの石像【高さ2m弱。制作時期については言及されておらず、不明。息絶えて十字架から降ろされた我が子イエスを見て悲嘆にくれるマリア様を表現している。なお、この国で石彫りの作品はわずかだという】。
未踏の地だから知らないけど、アイスランドの南東に位置するフェロー諸島(デンマーク自治領)・シェトランド諸島・ノルウェーなどの石像もこんななのだろうか??
個人的には、かつて訪れたアイルランド北部の石像たちを思い出さずにはいられなかった。ケルトの感じは全然ないけど、像全体の大きさや厚さ、太めの刻線ながら浅めの彫りの感じが似ている・・・海が横たわっているとはいえ、2,000㎞は決して遠くないんだなぁ

キリスト像【1200年前後の制作と推定されるロマネスク様式の彫刻で、かつての彩色の跡が残っている。アイスランド北部の教会に置かれていた】。

角杯【動物の角でつくった杯で、盟約を結ぶなど特別な乾杯の際に使用する。中世の北欧では一般的だが、アイスランドのは精緻な彫刻がほどこされているのが特徴】。

右上のをズームアップ。上段は知恵の木の下に立つアダムとイヴ、下段は磔刑【17世紀制作】。

聖歌が流れる小部屋もあった。薄暗かったので、展示物の写りがイマイチでごめんなさい

細やかな作りの十字架。後ろの壁画は人物の表情がユニーク。

こちらも面白い表情をしている。

ノルウェー王オラフの彫刻もあった。この国を改宗させたから、教会では崇められてきたのだろう。他国ではあまり見かけない、地域色の強いモチーフだなぁ。


小さめの十字架【左はロマネスク様式で13世紀、右は中世末期の制作】。


階段で3階にあがると、刺繍だけが展示されている1部屋があった。
コミカルな表情に魅かれた刺繍作品【アイスランド北部の教会の祭壇正面にあったもので、16世紀はくだらない制作とされる。磔刑の左右に聖母マリアと使徒ヨハネを配する。キリストの両眼が見開かれている表現は珍しいが、13世紀のイギリスの刺繍などに類例が見られる】。

別の部屋に入り、綺麗な色だなと思ったらクジラの骨を彫った作品群だった。大海に浮かぶこの国らしくて素敵

上の画像、一番下の細長い作品をズームアップ【18世紀初め制作の寝台パネル。枕元に刻まれている文字は「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネは私が横たわるベッドを祝福する」】。
う~ん、いい夢見られそう

2枚上の画像、右端の縦長の作品の最下部をズームアップ【息絶えたキリストを十字架から降ろす場面】。

3枚上の画像、右端の縦長の作品の最上部にズームアップ【中央にはキリストの昇天を見上げる人々と、父なる神に抱きしめられるキリスト。左上は磔刑、右上は昇天後 天上と地上の栄光の王として君臨するキリスト。なお、この大作は1600年前後にアイスランド南部の農夫が聖書の場面を彫り出したものという】。

人魚の彫像もあった。作風も素材も全然異なるが、これまたアイルランドはクロンファートの教会の壁にあった人魚像を思い出した。
訪れたことないけどデンマークには人魚姫像があるし、北海やノルウェー海周辺ではポピュラーな存在なのかなぁ・・・

博物館の最後は宝物ではなく、民俗コーナーだった。
最古の婚礼衣装【1859年の秋、レイキャビクで着用された。黒い布のジャケットの縁には銀の糸で刺しゅうを、スカートにも花柄の刺繍をほどこしている。腰にはベルトを巻く。頭飾りとベールをかぶる】。

19世紀の家【中世アイスランドの浴場付き更衣室が長い時間をかけて変化し、今や家族が仕事をしたり食べたり眠ったりする多目的空間となった。中世後期に気候が冷涼化したため、人々がかまどの近くで多くの時間を過ごすようになったのが始まりという】。

中はこんな感じ【裕福な家では、家主とその妻は独立した寝室で眠る。小さな家では家族みんなが同じ空間で眠り、大人と子どもの2人1組でベッドを使うという】。

階段を降りながらステンドグラスを眺めた。

出口へ向かおうとして、トール神の像を見かけていないことにふと気づいた。ガイドブックで推していた宝物、見ないでは去るに去れない。展示の並びからして1階にあるはず・・・
しばらくウロウロしてたどり着いた。かなり最初のパートにあったのだが、完全に見落としていた。
【1000年前後の制作と推定されるブロンズ像。高さ6.4cm。北欧神話に出てくるトール神とされるが、一方で栄光のキリストという説もある。像はトール神が持つハンマーと思われる物を握っているが、その形はキリスト教の十字架にも似ている。北欧神話とキリスト教が平和裏に共存したことを示す作例という(トール神; 北欧神話で雷をつかさどり、農耕の神として崇められる。敵対する巨人と対決し、そのハンマー[ミョルニル]を投げれば必ず敵を倒すという最強の戦神でもある)。
なお、この像は1815年またはその翌年にアイスランド北部で発掘されたが、14世紀末からこの国の支配者となったデンマークの首都コペンハーゲンにまもなく送られた。独立前ではあったが、アルシング(議会)1000周年にあたる1930年に他の宝物とともにデンマーク国立博物館から返還された】
三角形の帽子をかぶっているからか、サンタクロースに見えてしまうのは私だけではないはず


結局2時間で博物館を後にしたのだが、2階はかなりのスピードでまわった。丁寧に見学するならば、半日は必要かもしれない。
14時過ぎ、チョルトニン湖の間を横切る道を通って教会を目指す。下の画像の左右とも湖で、中央奥に教会がそびえる。

湖の北側。凍ってその上に雪が積もった湖面は、滑ったり雪合戦をしたりと格好の遊び場になっていた。なお、画像右の尖った屋根も教会だったが、閉まっていて入れず

歩いていると、ごく近くの上空を飛行機がかすめていった(下の画像、中央やや上)。アイスランド航空は市街の隣接地から地方都市へ飛んでいる模様だが、首都でこんな至近距離を飛行するのは中々ない気がする。

4日前も歩いたスコウラフェルススティグル通りをのぼっていく。今回は吹雪いていないので(笑)、人出は多め。

ふと脇道をのぞくと、下り坂の向こうに海が垣間見えた。

けだるげな午後の空に屹立する教会。

この日はミサだからと追い出されることもなく、祭壇周辺をじっくりと観察することができた。
祭壇はシンプルで、左右に小さなツリーが置かれている。赤い照明はイエスの血を意味するのか??

祭壇横の壁には大天使ガブリエルの壁画。

こちらは大天使ミカエル。

会堂内の座席の全てに飾られている編みレースは雪を彷彿とさせる白

人もまばらだった前回とは異なり、タワーにのぼるために行列して15分待った。のぼったところで足の踏み場もないのではと危惧したが、考えすぎだった。風の強さと気温の前に、そうそう長居もできないのだった
期待通り視界はクリアで、北西に海を見晴らすことができた。天候でこんなにも見え方が変わるんだね・・・あぁ、リベンジできてよかった

西の方角にはおもちゃ箱のようなカラフルな建物もあり、また雪が積もったモミの木すなわち天然のクリスマスツリーがチラホラ見える。

北東には雪をかぶった山が横たわる。

南東を向くと、教会の屋根の存在感大。

教会を出ようとして、扉の彫刻にハッとした。四つ葉の植物はシャムロック アイルランドからこの島に初めてキリスト教がもたらされたことを象徴しているのかも・・・
(この記事を書くにあたり調べてみたが、確たる情報に行きあたらず残念

青みが増し、夜が訪れつつあることを告げる空。


坂道を下りながら、お土産購入タイムに突入。とはいえ、税の関係で空港が最安値という情報を得ていたので、買うのは最小限にとどめようと心に決めていた。
それにしても何にせよ高くて、気軽なお土産にするには引くような価格。これいいなと思うと1800kr(≒2,124円)くらいする。1000kr(≒1,180円)以下はほとんどないし、あったところでマグネット、キーホルダー、石鹸など・・・微妙そうなモノばかり 結局、空港で買うことにした【自分が見た中で安価だなと思った土産物屋は、最後に泊まっていたホテルの向かい側、ロイガヴェーグル通りとSnorrabraut通りの角にあるア〇スランドホテルの1階のお店。そう広くもなくて何でも揃うとまでいかないが、他店と比べて500円くらい安い感じだったので、興味のある方はぜひ】。
あとはハガキと切手を買い足さねば。実は、アイスランドで一度も郵便局に行かずじまいだった。ガイドブックに情報がないうえ、歩いていても見かけなかった。しかし、ハガキを売っているお店ではstampsがあるよと書かれていて、しかも表示がない店でもお店の人に聞いてみたら扱っていたので、充分に事足りた【ただし、1枚が400krと450krのお店があるので要注意 たまたま最初に買ったハットルグリムス教会の売店が400krだったので、450krと表示してあるお店では買わないようにしていた。が、同じ店でも違う日・違う店員だったら値が変わるという摩訶不思議。あちこちで買ってみたが、3ヶ所で400kr・2ヶ所で450krという結果だった】。
たいして買わずとも土産物屋で思いがけず時間を過ごし、とっぷりと日が暮れた。

お土産用のビールを入手するため、アウストゥルストロティ通りのvinbudinへ向かう。好物のワインの棚をついチラ見したら、スペイン産のDiabloが2800kr(≒3,304円)・・・日本で買うより500円くらい高い感じかなぁ。手を出すまでもなく、350㎖缶のビールを5本買って退散。

残すはオーロラ観賞ツアーのみ。バス停でのpick up前に夕食を済ませる必要があった。翌朝は出発が早く朝食をとる時間がないため、最後のまともな食事だった。
ネット情報によるとアイスランド料理推しのレストランがホテルの近くにあり、17時半ころ店の前を通りかかったら空いていた。が、店頭のメニューを見たらラムのスープがなかったのでやめて、泊まっているホテルのレストランへ行くことにした。
ビールにパン(ブリキ缶入り)と前菜。なお、画像中央のはこの国らしい溶岩の上に盛られたバター・・・なんだかオシャレ

ラムのスープ。燻製に比べると羊らしき香りはあったが、サイコロ状の野菜とパセリとあわせて美味しくいただいた。だいぶmodernizeされてるかもしれないけど

メインはタラ(cod)と迷ったが、カリフラワーのリゾット アスパラ添え(ヴィーガン料理)にしてみた。滋味深い、ほっとする味わいだった。

会計はしめて8,630kr(≒10,183円)。最後だからと値段よりも食べたいものを優先したら、それなりの額になっちゃった

さて、いよいよオーロラ観賞ツアーである。記事「その1」で述べたとおり元々は到着した日(12月26日)にツアーに参加する予定だったが、ピックアップ時間前から待てども迎えに来なかったのでtravel agencyにメールして、この日にやり直しさせてもらうことになったのだった。ただし、ホテルを移っているためpick upのバス停を15番から9番に変更したほうが都合がよく、その旨を28日にagencyにメールしたのだが、一向に返信がないのだった。
迎えのバスが来た時に拙いmy英語が通じなかったらメールの文面を見せて説明するつもりだったので、記載通りの15番のバス停で待つことに決めた。同じレイキャビク市内といっても片や外れ、かたや中心部にあり近くはない。40分かかると予測してホテルを出た。
目抜き通りのロイガヴェーグル通り沿いに北西へ進むと、年末のひとときを楽しむ人々でにぎわっている。通りの両側を埋め尽くすショップはきらびやかで、12月25日を過ぎてもクリスマス装飾がスペースを占めているのも欧州ならでは(「欧米」と言いたいところだが、アメリカはトランジットのみ・旅したことはないので、よく知らない)。
下の画像上部、吊るされた洗濯物にご注目あれ。サンタクロースの家かもと匂わせる遊び心にキュン

そして、爆音の方角を仰ぐと個人で花火をあげているのだった。新年のお祝いだとしたら1日フライングだなぁ、あれっ 過去に同じような現象を見かけて、同じことを思った気がする・・・あれはアムステルダムだったか?? 大晦日から元日への切り替わりにこだわりはないのかもしれないなぁ、文化の違いかも。


pick up時間は20時30分だが、30分前にはバス停にいるようにとメールに書かれていたため20時を目指した。が、結局19時45分に15番バス停へ到着。雪道を考慮しての計算だったが、日中に降らなかったので雪が少なくて早めに歩けたらしい。で、結論から言うとバス停で1時間50分待った。25分歩いた身体の熱がおさまると、だんだん強風に体感温度が下がった。さしものユ〇クロ様のインナーといえども、腰にカイロを貼っていようとも 
20時には自分を含めて2組3人だった待ち人は増え続け、20時半過ぎには20人ほどに膨れあがった。そこから2グループに迎えが来て、残ったのは自分を含め4組7人。不安になりお互いに確認し合うと、みんなtravel agencyが異なっていた。
21時15分頃、スマホに着信があった。手袋をはずすのにモタつくうち切れたため、折り返しかけ直す。自分の英語力で通話は難易度高いが、ためらっている場合ではない。
若い女性の声で「どこにいるの?」と聞かれ、15番バス停と答えたら "O.K.” と言われる。念のため “I’m waiting here." と伝えて電話を切った。
そのころ他の2組は各々agencyに電話して、ツアー催行なしと告げられた模様。自分の次くらいにやって来た、すなわち同じくらい長時間ともに待っていたご夫婦の奥様が "Bye." と手を振って去って行った。そこからの15分、1人で待つのがしんどかった。4日前と違って絶対迎えが来ると分かっているのに、である。今思えば、寒さで肉体的にはいっぱいいっぱいだった

21時35分、大型バスが現れた。4WDやワゴンのような車に乗せていく旅行社もたくさんあったが、これは50人以上乗れるようなガチの観光バスだった。先ほど電話で会話したと思われる女性(というより少女、たぶん大学生)のガイドさんに迎えられ乗り込むと、席はギッシリで自分が正真正銘最後の客だった。
バスが出発するとガイドさんが “Thank you for patience." と言っていたので、9番のバス停で長く待っていてくれたのかも・・・
観賞ポイントまで30分かかるとアナウンスされたが、その前にガソリンスタンドでトイレ休憩があった。2ブースしかないのもあって相当時間を要し、かなり長い時間停車していた。
23時、view pointに到着すると若いガイドさん&長髪でややふっくら体型のドライバーさんはhot chocolateをつくって配り始めた。バウチャーに記載されていないサービスに驚いたし、手作り感あふれるat homeさが温かかった
日中の気候は穏やかで、バス停を目指して歩き始めた頃もclearだった空だが、バスを待つうちに雲がかかり始めた。そしてドライバーがwindyと言うとおり、時間が経過するほどに手強くなった。23時から0時半までポイントにとどまったが、オーロラはついぞ拝めなかった
早々に星空撮影に切り替えたツワモノもいたが、風の強さに本気で吹き飛ばされそうで、自分は1時間半のうち15分ほどしか外に出ず、車内でウトウトしていた(同様の人が多数)。
帰り道に、ガイドが「本日の日付とメールアドレスを登録したら、今後2年間は観賞ツアーに参加することが可能です」と告げた。
あぁ・・・そうなのか。4日前にダメもとで送った自分のメールに対し、travel agencyは前倒しでこの権利を私にくれたのね。合点したわ 
それにしても、2年有効のうちにどれほどの人が再訪するのだろう?? 客の多くがリベンジを果たそうとしたら、ビジネスとして成り立たないんじゃないかな。オーロラに遭遇できず、無念の思いでこの国を去る人が多いという厳然たる事実があるのね。自分もその一人にすぎないのか・・・
停車中に隙を見てガイドさんに9番のバス停で降りたいと伝えたら快諾、しかも最初のdrop offが9番というラッキーぶり にもかかわらず午前1時半になっていたので、15番から歩くハメにならなくて重ねがさね幸いだった

1 レイキャビク ⇒ヘルシンキ (⇒帰国) (2023年12月31日)

午前の便に乗るため、7時に空港行きバスに乗ることになっていた。
オーロラツアー後に3時間しか眠れなかったが、帰国便逃すまじという緊張感でガバリと起き上がることができた。
7時少し前にチェックアウトすると、ロビーにスーツケースを放置して外出。ロイガヴェーグル通り沿いの最寄りのポストまで片道数分の距離を往復し、友人たちへのハガキを投函。なお、自分が歩いた範囲ではセンターホテルプラザの北東角のショップ付近にもポストがあった。共通していえることは、差し出し口が1つしかないこと。赤でJAPAN/Air Mailと書いたので、ちゃんと振り分けてもらえると信じるしかない【結果的に友人たちのもとへ無事届けられた】。
戻ってみると、スーツケースは無事だった。24時間出入り自由のホテルフロント(しかもガラス張りで通りから丸見え)を夜中に女性一人で担当するくらいだから、やっぱり治安がいいんだろうなぁ。

バスの到着は遅れ、寒空の下でたっぷり15分待たされた。結構な人数の人々が待っていて、乗りきれるのか不安だった。2台続けて来たバスの1台目に乗り込み、ドライバーに空港へ行きたいと告げたら手元のpadを操作して私の氏名を探し始めた。到着時(往き)とシステムが違っていて一瞬ビビったが、ちゃんと登録されていた。
ほどなくして市内のBSIバスターミナルで降ろされる。人の流れについて行くと、往きに市内drop offバスを待った側から建物に入り、反対側に出ると空港行きバスが待っていた。ふむ、こーいう構造になってるのか。
先着の別のバスの乗客が乗り始めていた1台目には乗ることができず、2台目にまわった。1台目の発車から2分後くらいに出発したものの、乗務員が空席を数えていてelevenと聞こえた気がした。悪い予感は的中、無線で連絡が入って途中2ヶ所に立ち寄って人々を乗せていく。10時5分離陸のフライトなのに、空港到着は2時間前を切るのが確定。満席の1台目だったらこんなロスないのに・・・一体何時にカウンターのチェックインが打ち切られるのだろうとハラハラしながら、バウチャーが送られてきた時にもう1本前のバスに変えてもらうよう交渉すべきだったと自分の落ち度を悔やんだ。
時間つぶしにメールをチェックすると、上司から緊急に対応してくれ案件が舞い込んでいた。最悪の場合、出勤する予定のない日に処理しなければならなさそうだった
いや、それどころではない、空港に到着した。離陸1時間25分前
急いでバスの脇腹の荷物庫前へ向かうと、自分のスーツケースが手前にあったのが幸いした。ダッシュで建物に入り、掲示パネルでカウンター番号を探す。右手へ15m、Fin〇airのカウンターに人は並んでいない。5つのうち3つがclosedとなり、係員が去ろうとするタイミングだった。economyと書かれたカウンターに残るベテランの女性スタッフに、飛行機に乗らなければならないと伝えると、"どこ行き?” ヘルシンキ!!と叫ぶ(後で知ったが、デリーやソウルなど多路線飛んでいるのだった)。 
PCを操作してくれて、どうやら乗れそうと判明。はあぁ・・・オーバーブッキングじゃなくて助かった
boarding timeまで45分、あとはお土産を買うのみ。2階へ上がるとduty&freeがあり、まずバラマキ用のお菓子を買う。友人たちには温泉のシリカパックを目論んでいたが、小袋がなくてあきらめる。一番安そうなのが800kr(≒944円)の塩(小瓶入り)で迷う余地なし、まとめ買いする。

搭乗口付近のベンチで、前日オーロラツアーに行く前にスーパーで買っておいたサンドイッチをパクつく。具はすっかり気に入ったラムの燻製&ビーンズサラダ。

お腹が落ち着いたところで、上司に対応しますとメールを返信。そして担当者に電話してみたが、留守電になってしまった。
そしてふと出国審査がなかったことに気づく。そういえば、入国審査もなかった・・・
搭乗してみると、日本の大手旅行会社の団体一行近くの席だった。添乗員がやおら近づいてきて、私の隣の女性と後ろの男性はカップルだから座席を交換してもらえないかと英語で話しかけられた。“No problem.” と返し、颯爽と交代する。いつものことだが、日本人と見られていないのが印象的だった

3時間でヘルシンキに着陸。乗り継ぎは2時間しかなかったが、遅れないので焦りとは無縁。
出国審査官は「アリガトウ。サヨナラ」と。"Good Japanese." とほほ笑み返す。空港内に日本語表示が多かったし、日本人の利用客が多いのかな。こうして、今回の旅ではパスポートにヘルシンキの出入国のみスタンプが残った。
その後にふらりと入ったムー〇ンショップで2.5€(≒403円)のグッズを見かけ、安いなと思ってしまう。いや、フィンランドの物価が決して安いわけではあるまい。そう思わせるほどにアイスランドのそれが高いのだ。
なにげなくメールをチェックすると、先ほど留守電だった担当者からメールが届いていて、上司から聞かされた日程より4日後の対応で問題ないことが判明。な~んだ・・・
終わりかけとはいえvacation中に仕事に引き戻されたストレス解消、とかこつけて1杯飲んで搭乗するのだった。このさいフィンランド産じゃないことは問題なく、久しぶりのワイン(ロゼのスパークリング)が沁みる、くうぅ 


★ 終わりに ★

帰国後にPCアドレスに届いていたメールをチェックしたら、travel agencyから何通もメールが届いていた。その最初が12月26日のオーロラツアーは中止しますという内容。そして、その次が26日のツアー代替として30日に振り替えますという内容(←スマホにも同じメールが送られてきて、現地で見ることができた)。更にその次が30日のオーロラツアーのpick up場所を調整しますという内容。最後が、30日は希望通り9番のバス停でpick upします、という内容だった。
これを見て、agencyに連絡先として登録したのはPCのメアドだったことを思い出し、いくつかの疑問が氷解した。まず、26日夜に迎えが来ず待ちぼうけをくらったと思い込んでいたが、連絡はなされていたということ。agencyに落ち度はないにもかかわらず、30日のツアーに参加できるよう手配してくれたこと。30日のバス停変更についても連絡が来ていて、おそらくツアーバスは9番のバス停で私を長らく待ったうえで電話がかかってきたこと。
当然ながら、登録したメアドに返信するのがagencyの原則だろう。送信者名を見ると、一連の自分のメールに対応してくださったagencyの担当者は複数おり、26日のオーロラツアーに参加できなかった分を30日に振替できる旨の連絡をPCとスマホの双方に送信してくださったのは担当者の配慮だったと思われる。要するにagencyは瑕疵なく連絡をおこなってくれたし、なおかつ自分の要望にも誠実に対応してくれたというわけ。travel agencyに多大なる感謝の念を表する一方で、9番のバス停で待たせてしまった同乗の方々に伏してお詫びしたい

閑話休題。12月29日、南岸ツアーの最終日にドライバー兼ガイドさんが「明日からブルーラグーンが営業再開するよ」と情報を提供してくれた。過去の記事で既報のとおり、10月に旅の計画を立てた際には温泉好きの血が騒いで 初日(12月26日)にブルーラグーンへ、30日にスカイラグーンへ行く予定だった。しかし、11月に発生した火山噴火の影響でブルーラグーンは営業中止となり、後者に賭けていた。ところが27日から生理になってしまい、いずれにも足を運ぶことが叶わなかった。26日に営業再開していればピンポイントで入れたのになぁ・・・と頭をよぎったのは言うまでもない。

この旅を振り返ると、オーロラを見ることができなかった、自分がアイスランドに初めて興味を持つきっかけとなったセリャランスフォスの滝の裏側にまわれなかった、温泉に一切浸かれなかった・・・客観的に総括するなら 何も果たせなかったのだろう、あらかじめ期待していたことは。
一方で、夜明けの美しさ・日の出から日没までの短さをはじめとする高緯度地域の冬の暮らし、雪原と空の境界が溶けあう白い景色、暗くても危険を微塵も感じない治安の良さ、人種差別なく温かいアイスランドの人柄・・・自分にとって未知の事象にあまた巡り合い、心魅かれた。
此度のようにすげなく振られることがあろうとも 懲りずに自分はまた旅に出る、まだ見ぬ世界を求めて

 おしまい 

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アイスランド篇 その2

2024年12月01日 | ヨーロッパ
【2024.12.15追記; 備忘録が出てきたため、12月29日の文章を少し追加しました(画像は追加していません)。敢えて最初にアップした日時を残しています】
旅の第2弾では、1泊2日で南部の海岸沿い=以下の地図の➍~➐を巡ります。
ただし、セリャランスフォスとスコガフォスは近いため➍に、ブラックサンドビーチとヴィークは近いため➎に、ヨークルスアゥルロンとダイヤモンドビーチとスキャタフェットルは近いため➐にまとめています。さらに 内陸のヴァトナヨークトル氷河に足を踏み入れたのですが、正確な位置が不明のため➐にまとめています。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・4・5・6 レイキャビク ⇒セリャランスフォス ⇒スコガフォス ⇒ブラックサンドビーチ ⇒ヴィーク ⇒ヘプン (2023年12月28日)

6時半過ぎに起床。
メールをチェックすると、12月30日にオーロラ鑑賞ツアーのやり直しがO.Kになったとtravel agentから連絡がきていた。心の中で快哉 が、ピックアップのバス停が15番になっている。30日に泊まるのはここから南東に1.5㎞以上離れた別のホテルなので、9番のバス停に変更してもらう必要がある。その旨を伝えるべくメールを送信。
この日のピックアップは8時半~9時となっていたが、これまでの経験を踏まえて8時半より少し前に着くようにバス停へ向かう。たいした距離はないが、とけ残った雪の上をスーツケース転がすのは思いのほか力が要る。ヨロヨロとバス停を目指す私に近づいてきた男性が、右上がりの疑問形アクセントで私のgiven nameを呼ぶ。Yesですとも 
はぁ、よかった・・・前日同様に人でごった返す停留所で探す手間が省けた。今回のドライバー兼ガイドさんの英語は滑らか。見た感じ30代くらい。7年前からガイドをやっていると後で言っていたから、ドンピシャでなくとも遠からずだろう。
なんでもレイキャビクから拾うのは私だけで、後は30分ほど走った所のホテルから乗ってくるという。車窓は前日と同様にまだ暗い(画像上部の白いのは月ではなくて、車内の電灯が窓に反射したもの)。

大グループにおまけで自分1人入るのかと想像していたら、2~4人グループ16名に自分と同じく1人旅のおばちゃん(欧米系)1名だった。ワゴンは程よく埋まり、にぎやかになった。
10時半前、レイキャビクから100㎞南東のセリャランスフォスの滝に到着。駐車場を降りると、もう視界に滝。

後ろを振り返る。国道1号線のすぐそば。画像手前、滝から流れ出る水が川を成している。画像中央やや左の白いのは正真正銘の月、まだ陽が昇っていない。

今日もツアーで貸し出されたアイゼンをつけて歩く(撮影は後刻)。

人の流れに合わせて滝に近づく。お気づきの通り、この滝は奥が洞窟のようにえぐれており、滝の裏にまわることができるのである。

が、立ち入り禁止となっていた。冬季は凍結のため立ち入れないことがあると事前情報で知りつつも、あわよくばと期待していたのに・・・残念すぎる

実は、この場所は個人的に思い入れ大だった。オーロラを見たいと思うよりもっと以前、ネット上で偶然にセリャランスフォスの滝を裏から眺める画像を目にした時、アイスランドを訪れたいと初めて思ったのだった。
こうなったら、許される限界まで近づくしかない。まずは向かって右手からパシャリ

次は左手へ赴く。滝の落差は60m。

左サイドからは、より近寄ることができた。しぶきを浴びつつ、何度も深呼吸してマイナスイオンをこれでもかと吸い込んだ。

メインの滝の奥にも支流(?)が流れているようだった。集合時間までたっぷりあったので、行ってみることにする。
冬なので水量は激減しているが、水流で大地を穿った痕跡が明らかに見てとれる。

ちなみに、道中はツルッツルに凍っていた。来し方を振り返ると、こんな感じ(画像左端中央がメインの滝)。
借りたアイゼンが役に立った 登山靴の人でさえ滑っていたので、なかなかツワモノな凍り具合である。

さらに奥へ進む。

岩の割れ目に下りてみたい気もしたが、戻る時間を逆算して引き返すことにした。


次は30㎞南東のスコガフォスに向かう。その途中で日が昇った。車窓から気になっていたが走行中に撮った画像は全部ブレブレだったので、ドライバーさんが停めてくれてラッキー
雲間から顔を出す予兆。

ズームアップしてみる。ちなみに、画像右上のは飛行機雲(120㎞北西にケフラヴィーク国際空港がある)。

いよいよ・・・

ついに

一部始終を見届けることができた。朝が弱い自分にはとてもありがたい11時過ぎの日の出。


ちょうど正午にスコガフォスの滝に到着。40分しか時間がなかったので、まず展望台にのぼることにした。その階段(画像右端)はかなり長く傾斜もあり、前日のグトルフォスのそれとは比べものにならないほどハードだった

のぼりきって、駐車場方面を見下ろす。

展望台は網状のスケルトン。人でいっぱい。

展望台から滝を望む。

画像中央が滝壺の真上。

滝の上流へ向かう道が整備されていたので、足を向ける。

上流を眺めるトレイルはここが行き止まりのようだった。

時計を気にしながら、来た道(画像左端)を戻る。

残った時間で滝壺に近づく。
【この地に入植したヴァィキングが10世紀初頭、亡くなる直前に金銀財宝の詰まった宝箱をこの滝の近くの洞窟に埋めたという伝説があるらしい。それを聞いた人々がやって来ては探し、ついにある時発見。宝箱に付いていた金の取っ手をつかんだが、宝箱は滝壺に沈んで行方知れずという。その金の取っ手は付近の教会を経て、現在はスコガル博物館に保管されているという】

ほんのわずかながら、虹色に反射していた。

落差60m、先ほどのセリャランスフォスと同じ。が、幅が25mあるためか大きく見えるような・・・

滝壺付近は白い世界だった


滝のそばのホテルでランチ。テーブル番号を伝えて注文、先に支払うシステムだった。野菜不足にコーヒーを飲んでいなかったのでオーダー。
ところが、ツアーグループの中でわりと早めに注文したはずなのに全然来ない。一行18人のうち皿が運ばれてないのがあと2~3人になった時さすがにと思い、立ち上がってレジへ向かう。その様子を見たらしいウェイターが声をかけてくれたので、たどたどしい英語で事情を説明する。至急確認してもらったら、ツアーグループ内の4人組(たぶん20代、中国人と思われる)がシーザーサラダと間違えて手をつけていた。違うテーブルに運んでしまうお店側も問題アリだが・・・遅れて到着した料理をせわしなく平らげるハメに
直径20cmのお皿に高さ3cmほど盛られていて一見するとボリュームがあったが、野菜なので消化は早かった。


食後は一路、30㎞南東のブラックサンドビーチへ向かう。移動中のワゴン内からパシャリ

この国に来て初めて間近に見る海は、とにかく荒々しかった。波が高いだけでなく激しい。降車前、波打ち際から30m離れるようにとガイドさんは告げたが、たしかに・・・

波に引きずり込まれる事故が起こることから、注意書きや警報灯も厳重。


浜辺の石は白くて丸い【砂が黒いのは、火山活動が盛んなこの島で溶岩が冷えて固まる時に形成された黒い火山岩が削られてできたためという】。

犬に遭遇。近所に住んでいるのか、はたまた犬を連れて旅行中なのか・・・

柱状節理がくっきりと浮かび上がる崖。

遠方に屹立するレイニスドランガル(海食柱)が気になり、ずんずん歩いて行く。

この海食柱には伝説があり、トロール(北欧の神話・民話に登場する精霊)が船にいたずらをするうち夜が明け朝日を浴びて岩になってしまったとか、妻を殺したトロールを探してきた男がこの場所で追いついて岩にしたとか、諸説あるらしい。

横向きの柱状節理 どうやって形成されたんだろう。北アイルランドはジャイアンツ・コーズウェイでおびただしい数見かけたけど、こんなのはなかったような・・・

もう日が落ちてきている、ときに15時前。

早足で歩いて、海食柱のそばまで到達。滑らないようにと注意を払いつつ、岩にのぼってみる。先達ほど前方に行く度胸はないけど

見える範囲に同じツアーの人々はいない。時計を見て踵を返し、帰路を急ぐ。


最初のポイントにやっと帰還。

ビジターセンターの前にさりげなく置かれていた。海の生物の骨かなぁ

駐車場へ向かう。この景色だけ見たら、海のすぐそばとは思わないんじゃないだろうか・・・


ブラックサンドビーチから小さな丘をひとつ越えて、教会のあるview pointへやって来た。先ほどとは異なる角度(東側)から海食柱を眺めることができる。
さっきは2本しか見えなかったけど、もっとあるのね。
てか、今日は日の出も日没も拝めたなぁ、ラッキー 今日は前日よりもさらに天気が良いのかも(いる場所が違うから、単純に比較できないけど)。


白壁に赤い屋根の教会は新しそうだった(この記事を書くにあたり調べたところ、1934年築の木造らしい)。鍵がかかっていて、中に入れなかったのは残念。

未練がましく、外からステンドグラスを撮影してみる。


その後、ほど近くのショッピングモールで買い出しタイムとなった。駐車場から先ほどの教会を見上げることができる(画像中央やや右)。

ガイドさん曰く、今夜泊まる宿の周辺はお店がないから、何か買うならここでねと。この辺りはヴィークという村で、インドでいうカニャークマリ的な最南端である【レイキャビクから180㎞ほど。人口は300人ほどだが、東部と西部を結ぶ交通の要衝のため往来は激しいみたい】。
モール内はいくつかのパートに分かれていて、アウトドア用品や土産物をそろえる店、スーパー、カフェ等で構成されていた。
土産物屋でハガキを物色したがピンとくるものがなく、結局スーパーで水のみ購入。0.5リットルのペットボトルが119kr(≒140円)、レイキャビクの半額以下
そしてキャビアが安い(599kr≒707円)。買ってみたいけど今夜食べきれるはずもなく、ナマモノを明日持ち歩くのが怖いので断念。

16時にモールを出発。ここから宿までが約200㎞の大移動で、1度のトイレ休憩をはさんでワゴンは3時間半くらい北東へひた走る。日頃の5時間睡眠よりも充分足りているからか、一向に眠気をもよおさず ずっと起きていた。さして深く考えず右サイドの席に座ったのだが、基本的に車窓は海である。この海原のはるか向こうはアイルランドかぁ・・・
午前中にセリャランスフォスとスコガフォス間を移動中、かつてアイルランドから移住してきた人々がその辺りに暮らしていたとガイドさんから聞いた。2日前に訪れたハットルグリムス教会のパネルには、アイルランドからやって来た修道士からこの国にキリスト教が伝わったと書いてあった。聖パトリックがアイルランドを教化したのが5世紀、この地に人々が暮らし始めたのが9世紀だから辻褄は合うなぁ。アイスランドとアイルランドが決して酷似しているわけじゃないし、かつてとは全然異なる温度なのだが、思考は取りとめもなく広がっていくのだった。そして、いつのまにやら天空に浮かんでいる月は真ん丸に近い形をしていた

19時20分、今宵の宿に到着。後から調べたところによると、アイスランド東部のヘプンという漁師町の北西30㎞ほどの場所にあるゲストハウスだった【レイキャビクから400㎞超】。
車窓から見る限り付近は暗い。夕食は付いていないけど、温かいものを食べたいなら宿の食堂以外に選択肢はなかった。ランチョンマットがクリスマスバージョン

メインディッシュにはスープとパン、サラダが付いていた。ビールGullは別途注文、500㎖で1050kr(≒1239円)。

数種類のメインから白身魚のフライをチョイス。お皿の中央の白いのはレムラードソース【マヨネーズをベースにマスタード、ケッパー、ハーブなどを混ぜたもの。フランス料理で使用される】。5350kr(≒6313円)、地方都市といえど食費は高い

食堂から部屋に戻る途中、ほんの少し屋外に出る動線だった。外からロビーを撮影。

ゲストハウスゆえ、部屋は素朴。

シャワーはmax38℃、水圧も弱めだった。この寒さの中、水でないだけマシなんだろう。

この夜はオーロラを見られるチャンスがあるかもとガイドさんは言っていたが、22時前に外に出てみたら綺麗な星空が広がるばかり。23時にも出てみたが、しっかり曇っていた。1時間でこんなに空模様が変わるのね・・・念のため0時に部屋の窓から見上げると、空の大半が雲で覆われていた

6・7・5・1 ヘプン ⇒ヴァトナヨークトル ⇒ヨークルスアゥルロン ⇒ダイヤモンドビーチ ⇒スキャタフェットル ⇒ヴィーク ⇒レイキャビク (2023年12月29日)

6時半過ぎに起床。前夜 夕食をとった食堂に行くと、朝食ビュッフェの支度がされていた。
ハムはあるが卵がないのかぁ、仕方ないなと受け流した。が、食べ終えて出る時には卵料理が出ていた。7時過ぎに行くのが正解だったみたい

8時15分にゲストハウスを出発。
前日暗くなってから到着、この日は陽が昇る前に去ったので、宿の外観とか周辺の様子がさっぱり分からないままだった。こんなことってあるのね~

9時、ヴァトナヨークトル氷河の中でワゴンを降り、ジープに乗り換える。除雪車のような外観だなぁ、深い雪をぐいぐい掻き分けて進めそう。
車窓はやはり空と雪原の境界が融け合っている。一歩間違えれば遭難だよなぁ・・・

貸し出されたアイゼンは、前日のよりも本格的なヤツだった(撮影は後刻)。

レイキャビクから同行しているガイドさんとは一旦別れ、現地のガイドさんに導かれるまま薄暗い中を進む。

ヴァトナヨークトル氷河はこの国最大の氷河で、国土の8%を占める。氷河の厚さは400~1000mに達するという。

アイスランド冬の観光の目玉のひとつといわれる、氷の洞窟への入口(帰路に撮影)。
【ice caveに入れるのは11月~3月のみ。気温が上がると洞窟は融け、寒くなってくると形成される。毎年新しく生まれ、消えていく儚いものである】

けっこうな斜面をくだる。下の画像中央やや右、人影の見える箇所がルート。

下りきって右を見ると、こんな感じ。

頭上にはゲートのような氷。

一旦屋外に出る。

氷が透き通っている。

来た道を戻り、再び洞窟の中へ。ガイドさん(下の画像左、黄色いウェアの方)にカメラを預けると、一人一人を撮ってくれた。

その後、かなり暗い洞窟内を歩く。何枚撮影しても全然ダメな画像だらけ・・・でも参考までに載せておく。
cave内に設置されたライトを反射する氷。

洞窟の出口付近で、ガイドさんが再び撮ってくれた(自分にモザイクをかけています)。

最後に斜面をのぼって、外に出る。

往きよりは明るくなっていて、はるか遠くにジープだまりが見晴らせた。

ジープの駐車場に到着してアイゼンを返却したら、金髪で肩にかかりそうな長髪をまとめている渋いイケメンのice caveガイドさん(30代後半?)は私に"謝謝”と。このツアーグループ18名中8名が中国人と思われ、そして間違われがちな自分だから まぁそうなるわな
再びジープに乗り、20分ほどでワゴンの駐車場に到着。下の画像、中央から左にかけて写っている丘が見えるでしょうか? 辺り一面、白い世界


ヴァトナヨークトル氷河を後にして30分余り、ヨークルスアゥルロン湖に到着【気候変動により、氷河の雪解け水がたまって1935年頃に形成された氷河湖。ヴァトナヨークトル氷河の最南端に位置する。面積18k㎡、深さ248m】。
氷山が集結している光景は圧巻。

海中の氷が見えるほどの透明度。帽子のような形(画像右上)はどうやって形成されたの それにしても、青くて美しい・・・
そして、お気づきのとおり吹雪いていた

温度の低い海は遠目に灰色に見えるのね・・・


正直に言えば、もっと長い時間眺めていたかった。個人で訪れていたなら、確実にそうしただろう。
が、無情にも与えられた時間は30分のみ。しかもトイレに行列したことで割を食った(宿を出て3時間余り、さすがに行かずにはいられない)。目の端に入った土産物屋にも寄ることができず、後ろ髪引かれる思いで去らねばならなかった

次は、目と鼻の先のダイヤモンドビーチへ【ヨークルスアゥルロン湖から流れてきた氷河のかけらが黒砂の海岸に打ち寄せられている。陽光まぶしき時には氷河が光り輝くことから名付けられた】。前日のブラックサンドビーチほどでないとはいえ、ここも波が高いので近づいてはダメとのことだった。結局、アイスランドでは海水に触れられずじまい



前日来、車窓から気になっていた電柱をパシャリ 画像中央奥、鳥居みたいな形が面白い。豪雪に耐えうる最善のフォルムなのかな。

海とヨークルスアゥルロン湖(画像奥)を結ぶ水路には橋がかかっていた。
救命救急用具が用意されている。見た目以上に流れが速いのか、水温が低すぎて危険なのか・・・どちらもなのかも。


ダイヤモンドビーチを発ち、30㎞西のスキャタフェットルへ。ワゴンはホフスキルキャ教会の目の前で停まった。ツアーの人々はあまり興味がないようで、降りたのは18名中4名のみ。
雪が積もっていて分かりにくいかもしれないが、芝で覆われた造り=ターフハウスなのである【9世紀、ノルウェーからの入植者がもたらしたとされる建築様式。石を積み上げた土台・流木を使用した骨組みの上を芝で覆う。芝は断熱効果が高く、19世紀まで石油ストーブを使用しなかったというアイスランドで重宝された】。

側面はこんな感じ。キリスト教が土着の文化と融合して生み出されるバリエーションに興味がある自分。アイスランドの他の教会ではあるが、わが愛しの写真集『世界の教会』で目にして以来、気になっていた
冬の様子を知ってこれはこれでいいんだけど、夏の青々と草茂る感じがベストなんだろうなぁ、やっぱり

施錠されていて入れなかったが、窓から中を覗くことができた。たったひとつしかない扉の側からの眺め。画像中央奥にささやかな祭壇が備えられている。

逆方向、祭壇側からの眺め。このアングルだと、天井の高さを感じることができる。
なお、設置されていた説明ボードによると この教会は1884年創建、伝統的な様式で建てられた最後のターフ教会で、歴史的建造物として保存されている6棟の教会のひとつという。


ワゴンは20分ほど西へ走り、日本でいうSAのような場所に停車。土産物屋と食堂が併設されている。
ときに13時20分、お腹は空いている。レイキャビクまでまだ遠いし、到着したところで2日前の食事処探しでは骨が折れたし、出発まで1時間もあるし・・・色々考えた末ここで食べることにした。昼どきを過ぎているにもかかわらず激混みではあったが回転率は悪くなく、幸いにも席をゲットできた。
トレーを持って並び、serveしてくれる厨房スタッフにカウンター越しに注文する方式。ホッキョクイワナにクリームグラタンと野菜付きで2995kr(≒3534円)。メインよりも、クリームとチーズが濃厚なグラタンに野菜が美味だった

トイレから出てバスへ戻ろうとしたら、私を探しに来たガイドさんに遭遇。どうやら最後の一人だったらしい。特にとがめられるわけでもなく、“どこで降りるの? 昨日は15番のバス停だったよね。” と聞かれる。なかなか滑らかに英語が出てこず、つい "え~っとぉ” と口にすると、オウム返しされた。耳コピー上手いなぁ。ともあれ、今日は9番と伝えることができてよかった 

さらに西へ2時間進み、前日も立ち寄った南端の町ヴィークのショッピングモールに到着。ドライバーの休憩も兼ねて、ここでも十分な時間が与えられた。
16時なので、もう陽が落ちている。視線を上げると、丘の上には教会。

道路をはさんでモールの斜め向かい側にあるvinbudinへ足を運ぶ。前日から気になっていたのだが、まさか今日もここに停車するとは。
レイキャビクでは前を通り過ぎるばかりだったが、ついに入店。初めてにつき少しドキドキしたが、特殊な雰囲気ではなくスーパーの酒売り場のようにカジュアルな雰囲気だった。
入店直後に私を一瞥したおばちゃん店員から無事にビールを2本購入。350㎖が2缶で988kr(≒1166円)、スーパーで買うライトビールと比べて1缶50円くらいしか違わない・・・だとしたら、通常ビールのがいいな。ホクホクしながらワゴンに戻る

ヴィークからワゴンで約3時間、近づいてくるレイキャビクの街は宝石箱のようにキラキラ 世界最高緯度の首都、14万人が暮らす都市は宵闇に美しく煌めきを放っていた。
レイキャビク市内に点在するバス停に寄るごとに、一人またひとりとツアー客が降りていく。19時40分、自分が降りるべき停留所に到着。スーツケースを下ろしてくれたガイドさんに“Thank you so much.”と言ったら拳を突き出されたので、グータッチ。そして元日もまたツアーでヨークルスアゥルロン湖に行くと言っていた彼の息災を祈りつつ、“Have a happy new year!” と告げて去る。
今夜から泊まるホテルはバス停の真横にあって、迷う余地はなかった。ホッ
荷物を置いてまもなく散策に出かけた。ロイガヴェーグル通りの端に位置する宿は至便で、界隈は人通りも多くにぎわっていた。土産物屋を冷やかし、スーパーで水を買い込んで戻る。
シャワーを浴び、vinbudinで入手したばかりの “ライトじゃない" 缶ビールで晩酌
この銘柄は入国2日目に飲んでいるが、種類が色々あるようでpale aleは初めて。

この数日で何本の滝を見ただろう・・・この国らしいラベルに魅かれてチョイス


★ 中締め ★

次回、旅の最後はレイキャビクを巡ります。
お楽しみに


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アイスランド篇 その1

2024年11月03日 | ヨーロッパ
なんとなくオーロラを見たくなり、自分の旅史上最北の地へ出かけることにしました。3度目のアイルランドかと誤解しないでくださいね~ さらに2,000㎞北西ですよ
足かけ8日間の旅をいくつかに分けて紹介します。序盤には以下の地図の➊~➌を訪れました。正確を期すならば、空港はレイキャビクの西南西40㎞のケフラビークにあるのですが、印をつけると地図上のレイキャネス半島がつぶれてしまうので レイキャビクだけマークしています。また、ゲイシールとグトルフォスは近いため➌にまとめています。
なお、後の下線部の数字にも対応しています。


出国 ⇒ヘルシンキ  (2023年12月25日)

旅の手配を済ませた後、火山が噴火しそうと情報が入り、心が揺らいだ。2010年にレイキャビクの東方125㎞で噴火した時は空港が1週間封鎖され空路移動が不可能となったので、もしもそんな事態になったらと頭をかすめる(しかも、今回の火山は空港の南東15㎞と圧倒的に近い)。そして12月18日、ついに噴火。しかし飛行機が飛ばないレベルではなく、どうすればよいのか ますます混乱
現地の旅行agentにメールを送って確認すると、ツアー開始24時間前までのキャンセルなら全額返金するといわれて、逆に心が決まったのが出国2日前。
1997年のロシア以来久々に寒冷地へ向かうため、服装の準備に想像以上に時間がかかった。最大の誤算はスーツケース。冬物はかさばるので、さすがにソフトバッグはあきらめて久々に出してみたら、ローラーが1つ回らなくなっていた 思い返してみると、2016年のボリビア以来使っていなかった。物って使わなくても(いや、むしろそのほうがより)傷むのねぇ・・・
そんなわけで、ひとまわり大きいスーツケースを急きょ購入。従来のメタル製のに比べると軽いけど、大きさに任せて入れると重くなる。持ち上げて突っかかりそうになりながら品川駅の階段をなんとかのぼった、ふぅ

1列が3連席×3の飛行機だったが、混んでいなかったため真ん中のシマを独り占め
北極圏ルートを飛ぶとアナウンスがあり、ヘルシンキまでは12時間と。かつてロシア→タリン(エストニア)→ヘルシンキ(フィンランド)と旅したことがあり2度目になるのだが、その時はモスクワ経由で帰国した。ダイレクトに飛ぶのは初めて。
フライトマップを見たら、羽田を発った飛行機は太平洋を北上している。この後どうなるんだろうなぁ・・・

機内食の後、わりとすぐに照明が暗くなったので、抗わず眠ることにした。3席分使って横になれるのは本当にありがたい。横に人が座る1席使用と同じ料金で、天と地ほどの差
物音と明るくなった感じで目を覚ますと、食事が配られているところだった。ナイスタイミング
再びフライトマップを見たら、目下スカンジナビア半島を南へ向かっていた。軌跡を見たら、きっちりとロシア上空を避けてアラスカ海峡から北極圏に入り ひたすら西へ、そしてほぼ直角に舵(正確には操縦桿?)をきって南下している。冷戦時代にヨーロッパへ行くにはこんな感じだったのかなぁ・・・自分が旅に出るようになった時にはソ連が崩壊していて、何度もロシアの航空会社ア〇ロフロートにお世話になった身としては なんとも不思議な感じがする

1 ヘルシンキ ⇒レイキャビク (2023年12月26日)

飛行機は予定より1時間も早く到着。逆は多いけど、珍しいこともあるもんだ。
そして降機前に北極点を通過した証明書が配られた(この記事を書くにあたり撮影)。すごいことなんだね、ふむふむ。

到着前のアナウンスで外気は-3℃と。乗り継ぐべく空港内をダラダラ歩きながら窓の外を見ると白い。滑走箇所だけ綺麗に除雪されているのだった。
時刻は夜中の3時過ぎ。手荷物検査が始まるまで水を飲みながら待っていると3時20分に窓口がオープン、難なく通過。やたら広い空港で、お店のシャッター街をグネグネと歩かされ、その先に出国審査があった。日本同様に機械もあったが、EU圏外の人間は窓口がマストのようだった。"どこへ行くの?” “何日間?” と軽く聞かれただけでパス。

搭乗口付近の24時間営業のカフェではアルコールも売っていた。スパークリングワインの小瓶もある。いいなぁ・・・
けど、数時間後にはレイキャビクだしなぁ。バス停からホテルまでたどり着かねばならないので、飲むのは断念
搭乗口では日本からのツアー団体(十数人)と遭遇。日記を書きながら聞くともなしに聞いていると、今日はシンクヴェトリルへ行くらしい。1日ズレてるから、この先会うことはないのかも。どこの旅行会社か不明だけど、催行するってことは噴火が収束しつつある、又は観光に問題ないレベルの噴火と判断してるのかなぁ ま、事態が急変しても あちらは会社ぐるみで守ってくれる。こちとら独り身、自己責任で対応せねば。多少不安はあるけど、団体行動苦手だからなぁ・・・幾度も海を越えてきて、初めて登録した「たびレジ」(外務省海外安全情報配信サービス)に用がないことを全力で祈るほかない
1時間ほどして小用に立つ。閉まっていた多くのショップが朝5時をめどに開店し、にぎやかな雰囲気になった。フィンランドの著名キャラクター ムー〇ンのグッズ店や免税店をひやかして時間をつぶす。

9時半過ぎ、ケフラビークに着陸。レイキャビクへはバスで向かうことになっていた。なんとなく空港の外に出たらバスが目に入ったので、バスの外にたたずんでいた係員らしきお兄ちゃんにバウチャーを見せたら即O.K。乗り込んでドライバーにバス停15までと告げたら、blue lineと書かれた青い紙片を渡された。自分が乗ってわりとすぐに動き始めたので、発車間際だったのだろう。座席はほとんど埋まっていた。
空港に降り立った時から感じていたが、午前10時をまわっているのにまるで暗く、夜みたいなのである。車窓は雪山と家々の灯、時折左手に海が見え隠れする(通路席だったので、車窓を撮影できず)。調べると日の出は11時過ぎ、日の入りは15時過ぎという。11月中旬のサンクトペテルブルクでもこれほどではなかった。
高緯度の冬ってすごいわ・・・こんな世界にいると、物の見方というか人生観が変わる気がする。
約45分後、レイキャビク市内のBSiバスターミナルで降ろされると、乗車時に渡された紙片の色のカードを掲げるミニバスに乗り換えるという仕組みになっていた。同乗者たちは三々五々散っていく。待つこと5分くらい、blue lineがやって来た。
バス停をいくつか経由しつつ、20分ほどでバス停15に到着。降りたはいいが、ホテル探しに迷った。海を左手に少々東へ進むことは分かっていたものの、それらしき建物が見当たらない。意を決して怪しい英語で子ども連れの夫婦に尋ねたら、"たぶん向こうだと思う、よくわからないけど” と。お礼を言って東へ歩くが、海から離れるばかり。地図を見直し、進みすぎていることに気づいて戻ってみると、ホテル名の一部を表示する建物を発見。なんと、さっき道をたずねた時に自分が背にしていたのだった。アホらしっ 言い訳をするならば、ホテルの入口が通りに面しておらず無機質な灰色の壁と化してたんだもん。ともあれ、雪が降ってなかったのが不幸中の幸い。

部屋の使用は15時からと聞いていたが、正午前にもかかわらず即入れたのはラッキー
モダンな壁紙、窓の下のヒーター脇にベッドと、コンパクトにまとまっている。

荷ほどきしてしばしリラックス、1時間後に部屋を出た。レイキャビクで一番見たいと思っていたハットルグリムス教会を目指す。
海沿いの道を500mほど東南東へ進むと、前方にハルパ(コンサートホール)が見えてきた。

突き当たりには小さな丘。雪遊びには格好の傾斜だけど、夏には緑生い茂る公園なのかな。

道なりに200mもしないうちに、首相の執務室。質素なうえ警備は軽そうで、驚くばかり。治安の良さの裏返しだろうか・・・

首相官邸の角を曲がり、振り返ってパシャリ 中央奥はオイストゥルストライティ通り。

ロイガヴェーグル通りから南東にのびるスコウラフェルズスティグル通りに入ると、教会を指し示すかのように虹のロードが描かれていた。

政治的なメッセージを発する壁画も。

お気づきでしょうか・・・実は、ホテルを出てまもなく雪が降り始めたのだが、40分後 教会に着く頃にはぼた雪になっていた。
雪の日生まれの自分、つくづく縁があるのかな。シーズンと言ってしまえば身も蓋もないが


教会に到着 聞きしに勝る独特のフォルム(レンズが濡れていて、ごめんなさい)。
【ハットルグリムス教会; 高さ74.5m。この国に点在する玄武岩の柱状節理と、北欧神話の雷神トールが持つハンマーの形をモチーフに1937年から設計したという。1945年に着工、完成は1986年】

中に入り、振り返ると立派なパイプオルガンが鎮座していた【ドイツ人職人ヨハンネス・クライスにより1992年に制作】。

さらに祭壇に近づこうとした時、司祭さんがやってきて「観光は終わり、ミサをやるから」って追い出される。宗教施設だから仕方ないけど、ものの5分とは トホホ
めげずに併設のショップでチケットを買い、エレベーターで展望スペースに上がる。エレベーターをおりて多少階段をのぼると、鐘が備わるスペースに到着。

来し方(北西)を眺めるも、吹雪いていて海は見えず・・・

反対側(南西)はこんな感じ。手前中央の三角屋根はこの教会の。

数日後に再訪決定かな・・・抜け目なく教会のショップでハガキと切手を入手しつつ、去る。
教会前広場に屹立する像にも雪化粧【レイブル・エイリクソン; アイスランド生まれの探検家。10世紀末、大西洋を横断して北アメリカ大陸に到達。コロンブスより500年も早くヨーロッパからアメリカ大陸に渡った人物で、1930年にアメリカから像が寄贈された】。


やおら教会の前にあるカフェへ向かう。ときに14時、通し営業なのでピークを外して訪れたのだが、扉を開けてみてギョッ。人でいっぱい・・・入れないかもと一瞬思ったが、2階へ上がってと告げられる。2階もそれなりに賑わっていたが、少女の店員は愛想よく席に案内してくれた。
外は雪だというのに、冷えたビールを注文。

名物を少しずつ味わえるアイスランディック・プレートが目当てだった。何種類かあるのだが、No.2をチョイス。

スモークサーモン(上の画像左下)は燻製の香りが素晴らしい。鱈のクリームグラタン(画像右下)で身体が温まる。干し鱈(画像中央手前)はまるで日本の居酒屋のよう、2本のうち1本はツマミに持ち帰りたい気持ちをおさえて完食。ラムの冷燻(画像中央奥)、美味っ これまで自分が口にしてきたラム料理の中で一番好きかも。ラムの風味というか特徴は全く消えてるけど、こんなのもあるのかと アイスランドに行ったら是非試してみてほしいな~
最も印象的だったのはハウカットル(画像中央、旗の立つ器入り)【数ヶ月発酵させたサメ肉】。5mm角の立方体ながら強烈。口に入れてブヨブヨした白身ねぇと思っていたら、3秒後に鼻と舌に刺激がツーンときた。生臭い感じではなく、ブルーチーズに似ている。提供された3片のうち2片は普通に食し、最後の1片は実験してみたら、口内の刺激は10秒ほどで消えた。
なお、スモークサーモンとタラのグラタンの下に敷かれているのはチョコパウンドケーキ。辛党としては黒パンがよかったな~ でも、このお店はカフェだしね
カフェの窓から望む教会。自分の席は窓際ではなかったが、お客が退出した後に撮影。


1時間余りで暗くなってきている(9枚上の画像と比較してみてください)。

歩いてきた通りを逆戻りしながら くだる。市内随一の観光スポットだけあって土産物屋が軒を連ねていたが、さすがに入国初日に眺める気はせず、目を楽しませるだけとする。

美しい霧氷。

オイストゥルストライティ通りの途中で左折。市庁舎はタリンのそれを思い出させた(後日、市庁舎ではなく その手前の教会と気づくのだが)。

再び通りに戻り、酒専門店vinbudinをチェックしたが、閉まっているようだった。

というわけで、スーパーでライトビール(2.25%)とナッツ、水をゲット【アイスランドでは1915年から禁酒法が敷かれ、1922年にワイン、1935年に蒸留酒、1989年にビールと段階的に解禁された。その名残でアルコール類の販売が現在も厳しく制限されている。禁酒法の対象外だった2.25%以下のものしかスーパーでは扱えず、それ以外は国営のvinbudin(日曜は休業)で買うしかない】。ビールの度数にこだわりがない自分、全然問題ない
16時前、ホテルに帰着。窓の外は暮れてきている。


オーロラツアーのピックアップは20時半だった。それまでにシャワーを浴びたいと思いつつ、眠気にやられてベッドの上で2時間ウトウト
入国初日に夜遅いイベントはキツイなぁ・・・機内で横になれて、わりと眠れたからよかったものの。
氷点下の世界で髪が濡れていたら大惨事になるので、ドライヤーで丁寧に乾かす。身体のあちこちにカイロも貼って準備万端。しかし、あまり早く行くと待つ間に身体が冷えるから、5分前でいいや・・・とホテルのロビーで時間をつぶす。すると、同じバスで空港からやって来た女子2人組(華人系と思われる)が先に出ていった。15m先で彼女たちを乗せてミニバンが走り去るのを見て、嫌~な予感がした。15番のバス停には誰もいない。時計を見たが、20時半にはなっていない。置いていかれたのかもと思いつつ、一縷の望みをかけてしばし待つ。
15番のバス停はレイキャビク湾のそばに位置し町外れなこともあり、周囲は静かな雪の世界が広がるばかり。怪しい人など通らず、治安が良いのがせめてもの救いだった。
20分ほど待って、やって来たdrop off(客を降ろす)バスのドライバーにバウチャーを見せながら声をかけると、“会社が違うよ” と言われる。気が動転して、それすら頭から飛んでいた 一旦ドアは閉まったが、すぐに開いて "今夜は天気が良くないから、たぶんキャンセルになるんじゃないかな。旅行社に連絡してみなよ” と言ってくれた。全然違う会社なのに、優し~い なんだか救われた気持ちになる。
そういえば、教会前のカフェで食べている途中でウェイターが "味はどう?” って聞いてくれたし、私の右隣りの席のプエルトリコ人と会話が盛り上がってたしな~ あまり人種差別がないのかな。だとしたら、アイルランドに似てるかも。

ホテルへの帰りがけにパシャリ

部屋に戻り、晩酌に先立って旅行社にメールを打つ。自分の英語力では、電話で会話するのが難しいので 日本で予約等のやり取りをしていた時からそうなのだが、このtravel agentは日本語でメールを送ってもアプリで翻訳をかけて理解し、返信をくれるから楽で助かる。ピックアップ時刻前から待っていたけど迎えが来なかった旨を伝え、今後どうなるのか、自分は12月30日に再度鑑賞に行く時間があるがアレンジしてもらえるのか?と送った。
ひとまず、今宵やれるべきことはもうない。賽は投げられた気持ちでさっぱりとして、先ほど入手しておいたアイスランド産のライトビールに口をつける。


1・2・3・1 レイキャビク ⇔(シンクヴェトリル ⇒ゲイシール ⇒グトルフォス) (2023年12月27日)

前夜は予定より早く23時過ぎに消灯。夜中の物音も皆無で、しっかり眠れた。
起きてすぐメールを確認するとtravel agentから返信が来ていて、事情は分かったから30日にツアー参加できるように交渉してみるとのことだった。ホッ ただし、決められた時刻の30分前にはpick upポイントにいることを勧めています、とな。え~っ 事前に送られてきた書類にはそんなの書いてなかったと思うけど。
てことは、今日のゴールデンサークル日帰りツアーも9時じゃなくて8時半にはバス停にいなきゃってことね 急がねば。
朝食バイキングは野菜も果物も摂れて、うれしい

卵のタルタルにツナ。ジャムやバター以外のパンのおともがあるとは、辛党には最高

支度を整えて8時20分にロビーで時間をつぶしていると、昨日も見かけた2人組女子が現れてすぐに出ていく。え~っ
慌ててコートを着て、追いかけるようにホテルを出る。レイキャビク湾(旧港)はまるで夜な光景だが、確かに朝なのである。


8時半より前に15番のバス停に到着すると人であふれかえっていて、前夜とは比較にならない混み様だった。はあぁ・・・これがバス停の待ち合いなのね。たしかに、早めに来ないと はぐれてしまうかも 
次々とワゴンがやってきては、ドライバーがペーパーを見ながら名前を読み上げる。前日、私も連呼されてたんだろうか(冷や汗)
片手では足りないほどワゴンを見送った頃、バウチャーに書いてあるtravel agent名を書いたワゴンが来たのでドライバーに尋ねたら、目的地が違うようで “後から来るよ” と。
結局、9時2分に迎えが来た。件の2人組女子とは全然違うツアーだった、思い込みって怖いねぇ
15番のバス停を発った後、市街のバス停をさらに3ヶ所まわって客を乗せ、数が合わないからとあらためて点呼された。総勢19名のうち、名字からして日本人はイトウ君と2人の模様。結局最後まで喋ることはなかったけど、20代後半~30代前半の小柄な男性だった。
車窓を眺めていると、ほんのわずかではあるが明けてきた。

光る物体を発見(ピンボケでごめんなさい)。本物の木にクリスマスツリーのイルミネーションをほどこしているっぽいなぁ。

空と大地が見分けもつかない道を進んで行く。暗さのせいばかりではないだろう、全部が白いのだ。


1時間20分ほどで、最初の訪問地シンクヴェトリルに到着。第1駐車場で降ろされて、 "11時に第2駐車場に集合”と告げられる。予想通り、運んではくれるけど現地は自由見学のスタイルなんだね。なお、ドライバー兼ガイドのおじいちゃんは母語じゃないのかもと思うくらい英語がたどたどしい。流暢なのは耳トンネルしてしまう自分にはちょうどいいんだけど 
貸し出された簡易アイゼンを装着し、歩き始める。下の画像奥、明るいのは土産物屋を併設するビジターセンター(物色したかったが、時間がなくスルー)。

湖の向こう側から明けてきている。画像奥がユーラシアプレート側。

大地は雪で覆われている。

高所から見下ろす景色。この地で世界最古の議会(アルシング)が開かれたとは・・・
【アルシング; ノルウェーから入植したアイスランド各地の人々の代表(30名程)が集まった全島集会。930年から1798年まで続いた。毎年夏に数週間開かれ、法の制定や裁判がおこなわれた。西暦1000年、ノルウェーの圧力によりキリスト教の受容を決定するなど重要な判断をした。1798年にデンマークの支配下に入ると中断したが、1944年に独立を果たすとこの地でアイスランド共和国の樹立を宣言し、以後は議会の場をレイキャビクに移した】

両側を崖に囲まれた通路を降りていく。この崖がギャウとよばれる大地の割れ目【ここシンクヴェトリルはユーラシアプレートと北アメリカプレートの2つの境目に位置し、1年に2~3cm各プレートが東西に広がっているという。画像左が北アメリカプレート側】。

通常ギャウは海底にあり、地表に現れているのは世界で2ヶ所のみ(あと1つはアフリカの大地溝帯)。非常に稀有ということで、世界遺産に登録されている。ただし、自然遺産ではない。既述した世界最古の議会開催の地ということも踏まえて、文化遺産である。


可愛い5連の家と教会にズームアップ。

水溜まりは凍っている。

よく見ると、中が凍っていない箇所もあった。


次は東北東40㎞ほどのゲイシールに向かう。その途中、えもいわれぬ色の空と月を車窓に見た。

正午過ぎに到着。駐車場を出て近づくにつれ、硫黄のにおいが漂ってくる。

地熱で雪が解け、土が現れている箇所もある。


かと思えば、雪の中から蒸気が立ち昇る所も。

間欠泉の前には人だかりができていた。

なんとも不思議な光景・・・

なお、コインを投げ込まないでと注意書きあり。水(この場合はお湯か)に投げ入れたくなるのは人類共通の傾向なのかなぁ・・・

地熱蒸気の雲海の向こうで、間欠泉が上がった(下の画像、中央奥)

素敵な手描きのサインボードを発見【細かい話になるが、以前は頻繁に噴き上がっていたゲイシール間欠泉は活動が緩慢になった。現在5~10分に1度、20~30mの高さで噴出しているのはそのすぐ傍のストロックル間欠泉である。1枚上・4枚上・3~4枚下の画像はそれ。一帯をゲイシールと総称することもあるようなので、この記事ではそちらを採用した】。

この国に来て初めて、青空を垣間見た。

違う方角を見ると薄暗い。

最後、間欠泉を近くで撮影しようと人だかりに加わり、今かいまかと待つ。

結論から言うと、寒さのため手袋なしでカメラを構えているのがつらくて、吹き上がる瞬間の画像は撮れずじまい 一番マシな画像がこちら。

足元の装備は自前でね、の看板。

雪原なのに、下に脈々と熱きマグマが流れているのが不思議。見えぬものでも あるんだよ・・・金子みすゞを地で行く世界。

レストハウスでポストを発見。前日到着したばかり、さすがに書けてないので葉書は投函せず。

1時間10分後の集合で、わりと時間があった。昼食休憩を兼ねているのだろうけど、12時台のレストランは人であふれかえっていて、順番を待つ間にタイムアップになるのは明白だった。腹ごしらえは早々にあきらめて、広い土産物屋をひやかして時間をつぶす【シーズンの夏はもちろんのこと冬も観光客が多いので、チョコバーやクッキーなどの非常食を鞄にしのばせておくとよいかもしれません】。

第3目的地に向かう途中、アイスランディック・ホースにまみえる。どっしりとした体躯に比して、足は短い。体温を奪われないよう超寒冷な環境に適応した結果がこれなのだろう。
【9世紀後半~10世紀、入植者によって持ち込まれた。982年、アルシングにおいて他の馬の輸入を禁じたため長らく交配せず、血統を守っている。体高は135cm~】

車窓の端に滝の上部がチラリと見えた(下の画像の右中央)。

と思ったら、グトルフォスに到着した。ゲイシールからは10㎞ほどで、拍子抜けするほど近かった。
バスから1歩出て風の強さにたじろぐ。帽子を飛ばされるのではと、入国以来初めて危惧した。
人だかりの向こうが景勝ポイント。

さらに上から眺めようと高台にのぼる。滝の反対側、来し方はこんな感じ。

グトルフォスの滝。夏は渓谷の緑が美しいんだろうけど、雪の中を滝が流れ落ちている・・・これはこれで絶景。いい意味で期待を裏切られ、結構気に入った


高台の奥に土産物屋が目に入ったが、ここでの滞在時間は45分しかなく、あきらめるほかなかった。コンパクトさの一方で、こーいうところがツアーの残念な部分
後ろ髪引かれつつ滝を後にして、30分ほどで牧場に到着。ここでのアイスクリームがツアーに含まれていた。外観はシンプル。

が、扉を一歩くぐると愛らしいインテリアの空間だった。

座布団1枚な一言も掲げられている。

辛党の自分だが、昼食抜きの身ゆえ美味しくペロリ 
自分にとって初めての氷点下の体験、11月中旬のロシアはサンクトペテルブルクにてアイスクリームをなめる子どもを見た時も思ったけど・・・震えるほど寒いのに、アイスの需要があるのが不思議でならない

ここから1時間半、西南西のレイキャビクに向かってワゴンはひた走る。午前中からちょいちょい思っていたのだが、極北の空はひたすら美しい。今日はちらとも雪が降らなかったから、昨日よりも天気が良いのだろう。空と雪原の境界が溶け合うような光景を初めて見た(空と海のそれは他国で何度も目にしてきたが)。その名のとおり雪深い国なんだなぁ・・・

そして、明日同じ道を通ったとしても同じ景色が見られるわけではないだろう。本来の使い方とは違うかもしれないが、Tomorrow is another day. 大自然に囲まれていると、同じ日の繰り返しなどないのだと思わずにはいられない。眼前に広がる一期一会を目に焼きつけて進む。

16時半、15番のバス停で降ろしてもらう。バス停から望む旧港には月が出ている。

ガイドブックに載っていた地ビールのお店が近いので、その足で向かう。が、つぶれてオーロラ館になっていた。
その付近で見かけた犬。

出鼻をくじかれ、港沿いに南東に歩いてこれまたベイエリアのお店をのぞくが、思いのほか客がいて入りにくい。
港の夜景をカメラに収める


最終手段は泊まっているホテルのレストランかもと思いつつ、やはりまたガイドブックにあった伝統料理のお店へ向かう。が、これもパン屋に変わっていた。さっきのお店といい、コロナの影響で閉めたのかなぁ(自分が持っていたガイドブックは2019年2月発行。これより新しい本は当時売られていなかった)
レストランを求めて、オイストゥルストライティ通りまで来ていた。道を左に折れてうろついていると、クリスマスカラーなライトアップが目を引いた。


この日は酒専門店vinbudinが開いていて人も入っていたが、なんとなく素通り。前日も入ったスーパーでライトビールを入手。重くなったので、ビールを置きに一旦ホテルへ戻ることにする。ついでにトイレで用を足して、衝撃の事実が判明。生理が始まってしまった 3日後に訪れる予定だったスカイラグーン、無理だ【レイキャビク近郊のコーパヴォグルに2021年オープンした地熱スパ】。マジか・・・こんなに予定がズレるなんて滅多にないのに。信じられない
落ち込んでばかりいられない。ナプキンの用意がなかった。翌日から1泊2日のツアーに出かけると自由時間は少ないし、地方都市がどんなだか不明だし、今買っておかないとマズイ。
心当たりのドラッグストアへ急ぐ。レジにいた若い店員(20代と思しき女性)にsanitary napkinsと伝えるが通じず、何だろう?とキョトンとされる。スマホで検索するのもかったるく、お腹に手を当てて下へ移動しつつbloodと言うとピンときたようで、売り場に案内してくれた。ふぅ、通じてよかった 
このお店、先ほど地ビールのお店を探していた時にたまたま目に入っていた。ダウンタウンでは同種のお店を見かけていなかったので、存在を知らなかったら困り果てただろう。そして、自分が商品を選んでいるとオーナーらしき女性がやってきて私を一瞥した後、openと表示する電光掲示板(下の画像、中央)を消した。18時閉店か・・・色々な意味でラッキーだった(その後、何度も出入りしているスーパーにも売っていることに気づいたが、圧倒的に値段が高いのだった。なお、自分が思いつかなかった英単語の正解はfemale hygiene itemsだった。アメリカでは自分の言いまわしでも通じるようだが、ナプキンよりもpadsのほうがベターみたい)


次は夕食である。出がけに見たホテル内のレストランは混み始めていて、避けたい感じがした。前日来 幾度となく前を通り過ぎ、気になっていたお店に足を運ぶ。
それなりに客は入っていたが、空席もあったので意を決してドアを押す。窓越しに目が合いイカツイと思ったお兄ちゃん店員(短髪にヒゲがたくましい)は意外に愛想がよかった。
ローカルビール(1,400kr≒1,652円)を飲みながら料理を待つ。

フィッシュスープはクリームベースにレッドカレーペーストを混ぜたような味わい。具はムール貝2個に白身魚。パンが付くとはいえ、これで2,600kr(≒3,068円)は正直高いなぁ 【この記事を書くにあたり調べたところ、レイキャビクは生活費の高い都市ベスト10に入っており、中でも外食代が高いらしい。その理由は、寒冷地ゆえ食料品の多くを輸入していること、人件費が高いこと(アメリカに次ぎ世界2位)等が挙げられる】

食事中、アイスランド人と日本人と思われる夫婦が娘連れでやって来て、会話が聞こえる距離に座った。日本人妻と娘はガッツリ日本語でしゃべっていた。夫のほうは私をジロリと見たのだが、はて何人と思っただろうか。この国に来て国籍を問われた際に日本人と答えてもさほど驚かれないので、気づかれたかもしれない

19時前、ホテルに帰着。翌朝発つと思ったらにわかに名残惜しくなってきて、ロビーを撮影。

ツリーに吊り下げられているオーナメントは手編みで温かみがあった。国旗のモチーフ、意外に珍しいのでは。

暖炉の前に陣取るは等身大に近い木製人形。

可愛いサンタクロース


★ 中締め ★

次篇ではレイキャビクを離れ、1泊2日でアイスランド南部をまわります。
今篇以上に雄大な景色をお届けしますので、お楽しみに
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スペイン(2)&ポルトガル篇 その3

2023年08月06日 | ヨーロッパ
いよいよ旅もラストスパート。最終盤には下の地図の➎・➐を訪れました。ただし近いため(中盤で訪れた)オビドスと、ナザレ,バターリャは➐に集約しています。①~④・⑥は序盤・中盤に訪れた場所です。


7 オビドス ⇒ナザレ ⇔バターリャ (2008年8月11日)

13時頃、中世の面影を宿していたオビドスに別れを告げ、前日も経由したカルダス・ダ・ライーニャへバスで向かう。さらに乗り換えて、この日泊まるナザレを目指す。北北東へ40㎞、40分ほどの道のり。

ホテルにチェックインしたあと街歩き、ではなく再びバスに飛び乗ってバターリャへ向かう。実は、ナザレの周辺には世界遺産を擁するなど魅力ある町が点在する。アルコバサ、トマール、ファティマの4択から選んだ。Cちゃんはあまり乗り気ではなかったのだが、ここでも世界遺産ハンターの自分がゴリ押しした。ホント貪欲なもので
ナザレの北東35㎞、所要40分。バス停からほどなくしてバターリャ修道院にたどり着いたのは15時頃。
【バターリャ=戦い。14世紀前半から王位をめぐってポルトガルはカスティーリャ(現スペイン)と戦争中だった。ポルトガル王フェルナンド1世は男子に恵まれず、その娘ベアトリスは王位の譲渡を条件にカスティーリャのフアン1世と結婚したが、カスティーリャを厭うポルトガル貴族たちがジョアン1世(フェルナンド1世の異母弟)を推して対立。1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍6,500人がカスティーリャ+同盟軍31,000人を撃退し、独立を守った。その歴史的な戦いがバターリャ近郊で行われ、聖母マリアに感謝をささげるためにジョアン1世が建立したという由緒を持つ。14世紀後半に始まった工事は16世紀前半まで続き、その間7人の王が君臨し15人の建築家が携わったという。ゴシックとマヌエルが融合した様式】。

ファサードに近づいていく。これでもか、という彫刻の嵐。

彫刻をズームアップ【アーチ・ヴォールトという様式。旧約聖書に出てくる王・預言者、天使など78体の彫像が6列に並ぶ】。

入場してすぐ右手は創設者の礼拝堂で、この修道院を建立したジョアン1世とその妃ドナ・フィリパ・デ・レンカストレが眠る棺がある。
 手を取り合っている・・・仲睦まじい夫婦だったのかなぁ。

横の角度から、こちらがジョアン1世【台座側面には、ジョアン1世のモットー(英訳)"For the better”と妃フィリパのそれ"I’m pleased.”が繰り返し刻まれているという】。

周囲には夫婦の子どもたちの棺も安置されていた。こちらはエンリケ航海王子 =スペイン(2)&ポルトガル篇「その2」で言及した発見のモニュメントの先頭に立つ人物【ジョアン1世の第5子・3男。船酔いがひどかったともいわれ、自らは長距離の航海に挑んでいないが航海者を支援し、アフリカ西岸に幾度も艦隊を派遣して探検させた。1434年、当時 世界の果てとされその先に煮えたぎる海が広がると航海者たちが恐れたボジャドール岬(カナリア諸島の240㎞南)を越えたことで迷信を打破。存命中(~1460年)はシエラレオネまでの到達だったが、その死後にバルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達(1488年)、さらにヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓(1498年)。大航海時代に先鞭をつける功績をあげたと評価されている】。

この縦長な感じ、ゴシックだなぁ・・・【1430年代、ドイツからここにステンドグラスが持ち込まれた。ポルトガルの教会で初めて使用されたという】

磔刑図、肝心な部分が剥げている。

こちらは原形をとどめているような。てか、誰だろう・・・光輪があるけど左手に剣を持ってて、背景は牧歌的、この付近を表現してるのかなぁ。素直に考えるなら、献堂したジョアン1世か


北へ進み、王の回廊に出る。柱にほどこされた彫刻が同一じゃないんだなぁ・・・手が込んでる
【当初ゴシック様式でつくられた後に、マヌエル様式が加えられた。なお、柱の上部のレース編みのような彫刻は狭間飾り(トレーサリー)という】


ひっそりと噴水もあった。


その昔、教会のファサードを飾っていたと思われる彫刻が展示されていた。入ってくる時、どうりで新しいと思ったわ~ 
こちらは11枚上の画像に出てくる十二弟子(入口上部の脇に6体ずつ並ぶ)だろう【この記事を書くにあたり調べたところ、この教会は1755年のリスボン大地震だけでなく、19世紀前半のナポレオン軍侵略により大きく損壊したという。その後修復されて今日に至る】。

こちらは10枚上の画像、タンパン(三角形の部分)の右下にある福音書記者だろう。左に獅子を従えているので、右の人物はマルコと思われる。顔が失われているのが気の毒

こちらと同一の彫刻は残念ながら発見できなかったけど、口から水を吹き出す形状・・・樋嘴(ガーゴイル)かなぁ


最後に、未完の礼拝堂へ【ドゥアルテ1世(ジョアン1世の子)が自分の子孫の霊廟として建築に着手し、100年ほど工事したものの遂に完成しなかった。建築に欠陥があったためとも、ジョアン3世の方針によりジェロニモス修道院(リスボン)の建設に注力するべく建築家が去ったためともいわれる】。
ねじった柱に魅かれる

内側から見ると、こんな感じ。

未完成ゆえ、天井がない。

別の角度からパシャリ

この礼拝堂の施主、ドゥアルテ1世とその妃レオノール・デ・アラゴンの棺。このご夫婦も仲良しみたい。てか、当時流行ってた作風なのかなぁ・・・

こっちの棺は、丸くデフォルメされた動物たちが可愛い


再びバスでナザレへ戻った私たち。旅もあとわずかとなり、手持ち資金のメドが立ったので、夕食は久々に外食
海辺はシーフードでしょ とこの国の名物海鮮料理、イワシの塩焼きとカルディラーダを注文【ポルトガル風ブイヤベース。魚介(数種類の白身魚や貝)と野菜(ジャガイモ・玉ねぎなど)をトマトソースで煮込む。塩,オリーブオイル,ワインのほか、ハーブ(コリアンダー,パセリ,パプリカ,オレガノ,胡椒など)で味付けする】。白ワインのデキャンタも頼んで、2人で合計€17.1。例によって、お料理の画像を撮ってなくてごめんなさい
晩酌用の赤ワインも購入、余裕が出てきた

7・5 ナザレ ⇒リスボン (2008年8月12日)

前日はナザレ観光できなかったので、市街に出かけた。まずは、ここの地名の由来となっているマリア像に会うため、シティオ地区を目指す。
【ナザレの町は3地区に分かれている。かつて役場があり最も歴史の古いぺネルデイラ地区(丘の上)、そこから北に向かって海岸沿いに広がるプライア地区、そこから北西の崖の上にあるシティオ地区。かつては海だったというプライア地区は新興地帯だが、今や町の中心として最もにぎわっている。プライア地区とシティオ地区はケーブルカー(片道€0.9)で結ばれている】
泊まったホテルはプライア地区にあったので、ケーブルカー乗り場へ向かう。その途中で遭遇した教会。この国らしく、青いタイルが美しい。

右上のアズレージョ(ポルトガルのタイル)にズームアップ。左に立つ人物のもとに魚が集まっている・・・聖フランチェスコ【13世紀前半、イタリアのアッシジを拠点に活動した修道士。清貧を旨とするフランシスコ会を創設。自然のあらゆる存在への愛にあふれ、小鳥や魚に説教したり、狼を回心させたりしたという】 
カトリックが圧倒的に優勢なこの国にフランシスコ会の教会があっても不思議ではないが、確信はない ちなみに、一時期この画像を職場PCの壁紙に設定していたくらい、気に入ったのだった


ケーブルカーはぐんぐん高度を上げていく。車窓からパシャリ

そう、かなり傾斜が急なのだった(こちらは帰路に撮影)。

崖の上からナザレの街並みを見下ろす。砂浜は綺麗な弓なり。

90度視線を転じ、岬の先端方面(西)を望む。

いよいよノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会へ【8世紀、西ゴート王ロドリゴとともにこの地へやって来た僧ロマノは、現イスラエルのナザレからマリア像を携行していた。ロマノは死ぬ前に像を洞窟に隠したのだが、四百数十年後に羊飼いが発見。その後 聖母マリアの奇跡が起こって一躍有名になり、町はナザレと呼ばれるようになった。巡礼者が押し寄せるようになったため、像をまつる聖堂を14世紀後半に建設したのに始まる。現存する会堂は17世紀のもの】。

現代的なステンドグラス。

壁面の多くの部分はアズレージョ。


件のマリア像にまみえるには、祭壇の左横から裏へとまわる。その通路もアズレージョで覆われている。
お花、小動物、ヨット・・・可愛いなぁ


アズレージョに取り囲まれる磔刑像。

最後に階段をのぼると、目の前にマリア様が現れた・・・王冠を戴く幼きイエスを左腕に抱き、授乳している。私をこの地へ導いた、そのもの。
ポルトガルを旅することが決まり、ガイドブックで訪問地を物色していたとき第二のナザレがあることに驚いた。その由緒も知り、ここまでやって来たのだった。
その素朴な顔だちに何ともいえぬ古めかしさを感じ、しみじみとした。はるか地中海の東からユーラシア大陸のほぼ西端までやって来たと言い伝えられ、こんな立派な教会が建てられて篤く信仰されてきたのだから、すごい・・・。会いたいと焦がれる一方で、この像がかつて西アジアにあったという科学的な根拠は如何に とか頭をよぎっちゃう20世紀生まれの自分は何かに毒されているんだろーな


教会のすぐそばに、メモリア礼拝堂がある【聖母マリアの奇跡が起こったという伝説の場所に建てられた。1182年、貴族のドン・フアスが狩りの最中に岬まで追いかけて行った鹿は姿を消した。濃霧で視界が悪く、崖から落ちたのだ。フアスの馬は後ろ足のみ岩の上に残していたものの、今にも海に落ちるかという時に聖母マリアが現れて馬は戻され、命を救われたという】。

礼拝堂の背面。屋根のアズレージョ、青と黄色のコントラストがいい

近寄ると、ドン・フアスの伝説がアズレージョで描かれている。

ちなみに、先ほど訪れた教会にもこの伝説を描いた絵があった。


入場する。4m四方もない小ぢんまりとしたサイズの礼拝堂なのだが、中はアズレージョで埋め尽くされている。こちらが天井。

実はこの礼拝堂、崖に沿って建てられていて地下も存在する。地下へ続く空間も全てアズレージョ(Cちゃんに撮ってもらった自分にモザイクをかけた)。

個人的には、このメモリア礼拝堂に心奪われた スペイン(2)&ポルトガル篇「その2」で既に紹介してきたように、シントラの王宮でもオビドスのサンタ・マリア教会でも、そして先ほどのノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会でもアズレージョを目にしてきたが、なんというか、かなり狭い空間にギュッと凝縮されているのが自分好みだった

外に出ると、いつのまにか晴れてきていた。
メモリア礼拝堂の裏から海を見下ろす。う~ん、ここから落ちるのは怖いなぁ

南西に目を向ければ、ロカ岬に負けず劣らずの大海原が横たわっている。


再びケーブルカーで崖を下り、プライア地区へ戻る。その中でも、漁師とその家族が暮らすというペスカドーレス地区の路地をぶらぶら歩く。
白い壁に洗濯物が映える。

家の前に腰掛け、ご近所さんとおしゃべりしているようだ・・・時間がのんびり流れている。

実は、ここナザレでは伝統的な衣装を身にまとう風習が残っている【女性は7枚重ねの短めのスカートの上に刺しゅうをほどこしたエプロン、頭にスカーフを巻くというスタイル。7枚の根拠には諸説あり、「1週間の7」でスカートを1枚ずつ脱ぎながら漁に出た夫が戻って来るのを数えたという説、(旧約聖書『創世記』で神は6日で天地を創造し7日目を安息日としたことから)西洋における7は聖なる数であり7つの波が過ぎると海が穏やかになると言い伝えられ 漁に出た夫の安全を祈願したという説などがある】。

もっとも、スカーフの巻き方は色々あるようで。

一方、夫に先立たれた女性は黒づくめという決まりなんだそうだ。

ちなみに男性はチェックのシャツ、幅広のズボン、腰に黒い帯を巻くスタイルらしいが、今やほとんど見かけないという。女性も若い人々は身に着けなくなっているらしく・・・そのうち廃れていくのかもしれない。

こちらは市場の様子。地元の方々に混じって、自分含め外国人観光客もウロウロしていた。

ビーチは海水浴客であふれかえっていた。画像中央の岬の上がシティオ地区。


11時頃 ナザレを後にして、バスでリスボンへ戻る。カルダス・ダ・ライーニャ経由で2時間弱の道のり。
2日前までお世話になっていた、ポンバル侯爵広場付近のホテルに再び投宿。この日は20時からファドを聴きに行くことになっていた。翌夕の出国まで滞在時間がまだ残されているとはいえ、ホテルで休むのはさすがに勿体ない。

というわけでしばし休憩した後、2日前にも足を運んだリスボンの西郊外はベレン地区へ向かった。お目当てはジェロニモス修道院。
【エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して、マヌエル1世が1502年から建立開始。大航海時代で繁栄するポルトガルが贅を尽くしてつくりあげたマヌエル様式の最高傑作とされる。マヌエル様式とは、ゴシックの影響を受けつつポルトガルで独自に発達。マヌエル1世(在位1495年~1521年)の頃に流行したため、その名を冠する。当時のポルトガルの国勢を反映した過剰な装飾、および世界を船で往来したため海洋にちなんだ装飾(船・ロープ・珊瑚・海藻・異国の植物など)を特徴とする。1755年のリスボン大地震で被害を免れた数少ない建造物。なお1541年4月、フランシスコ・ザビエルはここでミサをあげた後、テージョ川を下って海外伝道に旅立った。 ←勉強不足で、訪問当時はその事実を知らなかったけど
さすがこの国の黄金時代のシロモノ、半端ない。素人のデジカメでは画角に収まりきらないほど巨大なのである。一説には一辺が300mとか。
というわけで、パーツをご覧ください。 画像右下、錨が横並びに彫られているように見えるのは気のせいか??

南門を横から撮影。レースのように繊細な彫刻


この修道院のイチオシは回廊【55m四方、2階建て。1階はバターリャ修道院の王の回廊も手がけた建築家ボイタックによる。2階はその死後に建築家ジョアン・デ・カスティーリョが引き継いで完成。イスラム建築の影響も受けているという】。

回廊の壁に彫刻あり。エルサレムで逮捕されたイエス・キリスト(左)とローマ兵(右)かな・・・。画像中央上部の丸いのは、たぶん天球儀【B.C3世紀のギリシャおよびB.C2世紀の中国で発明されたといい、前者をアーミラリ天球儀、後者を渾天儀という。水平線・子午線・赤道・黄道などを示し、天球上の天体の動きを模した。世界を股にかけたマヌエル1世治世下のシンボルであり、ポルトガル国旗にも取り入れられている。マヌエル様式の意匠のひとつとして知られる】。

かつてはライオンの口から水が噴き出していたのだろう。

画像中央上部にご注目あれ。マヌエル様式らしい帆船の彫刻である。

あの噴水は現役だわね。中央にのぞくドームは、併設のサンタ・マリア教会。

柱の彫刻が精緻なこと

こちらは食堂。

壁の絵をズームアップ。手前中央の幼な子イエスを拝んでるってことは、マギの礼拝かなぁ・・・

腰壁にはアズレージョ。その上を装飾するロープ様の彫刻、これまたマヌエル様式の典型。


回廊の2階とつながっているサンタ・マリア教会へ。林立する柱は椰子の木をモチーフにしているという。
【教会は無料だが回廊は有料(€6)、よって支払わない場合は教会の2階にあがることはできない。なお、この建築は20世紀のモデルニスモに影響を与えたといわれ、ガウディのサグラダ・ファミリアにその痕跡を感じることができる。スペイン(2)&ポルトガル篇「その1」の13枚目の画像をご参照ください】

石造りの壁面が年月の経過を感じさせ、重厚感を加えている。

ヴァスコ・ダ・ガマの棺【こちらもれっきとしたマヌエル様式。帆船・ロープ・植物などで彩られている】。
インド航路の開拓によってアフリカから金、アジアから香辛料を集め巨万の富を得て、ポルトガルは世界に君臨したんだもんね・・・この国で尊崇されるわな


私たちはパステイス・デ・ベレンに寄ることなく去った【ジェロニモス修道院の近くにあるパステル・デ・ナタの有名店。19世紀前半の自由主義革命で修道院が閉鎖される中、収入を得るためにジェロニモスの修道士たちが売り出した。その秘伝のレシピを受け継ぎ、1837年に創業。パステル=菓子パン、ナタ=クリームの意で、パイ生地に卵ベースのクリームを詰めて高温で焼きあげる。当時、洗濯した修道服ののり付けに卵白を使用しており、余った卵黄を活用して誕生したともいう】。Cちゃんからも行こうと誘われることはなかった。ともに辛党だからなのか、1日に万個単位を売るという行列に並ぶのを避けて先を急いだからなのか・・・。が、早くもこの翌年に後悔するのだった マカオ旅行中に有名なお店でエッグ・タルトを食べたのだが、本家本元のを口にしてないから味が比較できなくて
閑話休題。リスボン中心部へ戻るため、修道院の目の前で市電15番を待った。観光シーズンなので、停留所は大混雑していた。押し合いへし合いしながら乗り込もうとしていた時、ふと違和感を感じた。肩からたすき掛けしていたショルダーバッグの外ポケットに指を突っ込もうとする輩がいるのに気付き、顔を上げると目が合った男(20代くらい、くせ毛でフワフワの髪型)はす~っと遠ざかっていった。人ごみを器用に掻き分ける身のこなしからして、常習なんだろう。事前のガイドブック情報でスリには気をつけるよう注意喚起されていたし、そもそもポルトガルに限ったことではなく異国を旅する時は外ポケットに貴重品など入れるはずもない(ボールペンと紙ナプキンくらい)。被害はゼロだったけど、何年経ってもその顔を忘れることはない。あふれかえる人の中で、自分がターゲットとして狙われたことがショックだった。隙があると思われたことが一介の旅人として只々悔しく、もっと気を引き締めなければと心に誓った

市電を乗り継ぎ、カ―ザ・ド・ファド(ファドのお店。ファドハウスとも)付近にあるカテドラルへ向かった【イスラム教徒からリスボンを奪還した直後の1147年、アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世とも。初代ポルトガル国王)がモスクの跡地に建てた。リスボン最古の教会。当初はロマネスク様式だったが、13世紀後半にゴシックに改築。14世紀以降たびたび地震に見舞われ、特に1755年のリスボン大地震で大きく損壊。20世紀初めに修復され今日に至るため様々な建築様式が混交しているものの、ファサードは創建当初の雰囲気を残す。要塞のようにいかつい外壁、薔薇窓の左右に備わる銃眼はレコンキスタ後の建造物が有する特徴という】。
立っていると、市電が次々と通り過ぎていく。ご覧のとおり、傾斜がきつい場所である。

入場したのだが、自分が撮ったのはこれだけ。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるイエスのアズレージョ。

狭い道ではバイクや歩行者がギリギリの距離で市電とすれ違う。

カーザ・ド・ファドで食事もとると割高というので、レストランで腹ごしらえすることにした。
金銭的な事情により、この国の前半ではまともなポルトガル料理を食べられなかった。今宵は最終夜、心おきなく堪能したい
アローシュ・デ・マリスコス【アサリ・エビ・イカ・カニ・白身魚などが入ったシーフードリゾット。魚介の出汁・白ワインの風味が豊か。刻んだコリアンダーをトッピングして食す】と、バカリャウ・アサード【干し鱈のオーブン焼き。肉厚のタラの切り身・ジャガイモ・玉ねぎなどにパプリカパウダー、オリーブオイルをかけてグリルする】を注文。本当はバカリャウ・ア・ブラス【細くほぐした干し鱈・玉ねぎ・極細フライドポテトを卵でとじる。極細フライドポテトはスーパーで売っているらしい】を食したかったのだがお店にないと言われ、バカリャウ料理ならこれ と勧められたのにした。ポルトガル5日目にして初めて口にするバカリャウ【塩漬けにした干し鱈。日持ちするため、船上で摂取できる貴重なタンパク源として大航海時代に普及。ポルトガルの国民食で、365日出せるほどレシピが豊富という。水を替えながら最大で数日間塩抜きして使用するが、大きさによって時間を調整しなければならず、それ次第で味が決まるため腕が問われるらしい】 ともあれ、白ワインのデキャンタで乾杯 
例によって画像を残してなくて、ごめんなさい

ファドの画像もないため、ここからは文章のみで・・・
Cちゃんは音楽が好きで造詣が深い(現在進行形でパイプオルガンを習っている)。翻って自分は音楽の才能が壊滅していて、音がとれずリズム感もなし、幼少から習ったピアノは苦い思い出だけを残して弾ける曲は皆無 そんなだが、ポルトガルを訪れるなら是非ファドを聴いてみたいと思ってCちゃんを誘い、一も二もなく了承を得たのだった。
【ファド; ポルトガルの民族歌謡。ラテン語のfatum(=運命・宿命)が語源という。歌の起源は諸説あるが リスボンのモディーニャ(都会的で叙情的な歌謡)と、かつてポルトガルの植民地だったブラジルのルンドゥー(アフリカ人奴隷の軽快な踊り歌)が融合したという説が有力。船員・港湾労働者・奴隷・売春婦たちが住むリスボンの下町(アルファマ地区など)で歌い出され、19世紀前半に形式が確立されていった。楽器ギターラ(6組の複弦をもつ、リュート属の弦楽器。その起源は曖昧だが、いわゆるギターとは異なるという。14~15世紀にはポピュラーだったようだが、詳細不明な部分が多い)とクラッシックギターを演奏に用いる(他の楽器が入ることもある)。ポルトガル中西部の大学都市コインブラのファドと、港町リスボンのそれの2系統がある。前者は大学生が愛を告白するために始まったとされ、コインブラ大学の学生・OBの男性複数名が明るくロマンティックに歌う。後者は女性の独唱が多く、人生の喜怒哀楽をsaudade(=サウダーデ。胸にこみあげてくる思い)豊かに切々と歌う。ファドを世界的に有名にした歌手アマリア・ロドリゲス(1920~1999年)は、エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマと並んでポルトガルの英雄10傑に選出された。また2011年、ファドはユネスコの世界無形文化遺産に登録された】。

€20のチャージで、お酒は飲み放題だった。夕食時に白ワインを飲干したにもかかわらず、ここぞとばかりにポートワインを飲む。リストを見てもよく分からないので手当たり次第に頼むと、褐色・えんじ色・琥珀色・・・とりどりの液体がショットグラスに注がれて提供され、自分はTawnyが気に入った
【ポートワイン; マデイラ、シェリーと並ぶ世界3大酒精強化ワイン(=ブランデーを添加したワイン)。発酵中にブランデーを添加することで酵母が殺菌され、糖分がアルコールに変換されなくなるため、ブドウ果汁の甘味が残る。深いコクと濃厚な甘さが特徴で、主に食後酒とされる。レッドポート(黒ブドウが原料。RubyとTawnyに大別される)とホワイトポート(白ブドウが原料)がある。14世紀半ばにはポルトガル北部のドウロ地区で生産されていた。17世紀末、第二次百年戦争の際に敵国フランスからのワイン輸入を禁止したイギリスは、ドウロ川沿いのシトー派修道院がワインにブランデーを添加しているのを知り、広めたという。現在もイギリスへの輸出が最多】

眉根を寄せて苦しそうに歌いあげる女性の声に耳を傾けながら、酔いも手伝って、しだいに思考は大航海時代へタイムスリップしていくのだった。
陸の上にいる今生きているのは確かだけど、ひとたび海に出れば明日の命は保証されない。生活するにはそれでも出航しなければならなくて、一か八かで航海から戻って来ることができたらとても嬉しくて、それを繰り返すのが人生と腹を括っていて。一方でそれを見送ったり迎え入れたりする人々は、その都度痛切な気持ちを抱いていたんだろうな。
かつてカーザ・ド・ファドに集った人々は、未来への漠然とした不安を抱きつつも、ひとまず命あることを喜び、感傷的なファドの旋律に身をゆだねながら、ひとときの時間を共に過ごしたのだろうか・・・

一般的に、遅い時刻になるほど上手な歌い手が登場するというが、決して治安が良いとはいえない地区で、そうそう長居はできなかった。軽く真夜中を越えて続くショーの序の口で中座し、フィゲイラ広場から地下鉄でホテルへ戻った。とはいえ一人だと こんな遅い時間に出歩くことすらできないから、友との旅は本当に心強くありがたい

5 リスボン (⇒出国) (2008年8月13日)

この日、18時半の便で経由地のパリへ出国することになっていた。見納めのリスボンに繰り出す。
前日同様、この日も乗り放題券をゲット【正確にはセッテ・コリナーシュ。地下鉄・(カリス社が運営する)バス・市電・ケーブルカー・サンタジュスタのエレベーターに乗り放題で、1日なら€3.7】、地下鉄に乗る。
まずはケーブルカーのビッカ線へ赴く【リスボン市内にはケーブルカーが3路線ある。19世紀後半に運航開始。2002年には国定記念物に指定された。非常に短いが、勾配がきつい丘の町ならでは】。この路線、テージョ川を遠望するのがイイんだよね~ リスボンのランドマークとなっている風景。乗らずに、パシャリ
ちなみに15分おきに発車、下の駅から3分で上の駅まで運んでくれるらしい。

こちらは後刻(帰り際)に撮影。


次に、300m北東のサン・ロケ教会を目指してバイシャ・アルト地区を散策
前日のカテドラル周辺と同様、素敵なタイルで外装された建物が目につく。

サン・ロケ教会の外観【マヌエル1世が建てた聖ロケ(ペストから守ってくれる聖人)をまつる礼拝堂の跡地に、イエズス会が16世紀後半に建てた。1584年、はるばる日本からたどり着いた天正遣欧使節の一行が約1ヶ月滞在した(イエズス会の巡察使ヴァリニャーニの呼びかけで、キリシタン大名3人が関わって4人の少年(伊東マンショ、千々石ミゲルら)を派遣)。1755年の大地震でファサードが倒壊し、現存するのは再建後のもの】。

画像左にご注目あれ。IHS =イエズス会のマークがアズレージョで示されている。

右端にいますはフランシスコ・ザビエル像、左端はイグナティウス・デ・ロヨラ像。

天井はこんな感じ。アーチではなく平らで、木造。


北北西へ100m余り進み、サン・ペドロ・アルカンタラ展望台へ。7つの丘を持つというリスボンには展望台がたくさんあるが、そのひとつ。
右(南東)にテージョ川を見晴らすことができる。

正面(東)にはサンジョルジェ城【カエサル帝の時代(紀元前1世紀)、ローマ帝国がつくった要塞に始まるという。その後、西ゴート族・ムーア人・・・と支配者が変わり、13~16世紀にはポルトガルの王宮が置かれた】。
4日前、エヴォラからの帰路にリスボンは丘だなぁと思ったけど、やっぱりねぇ・・・
夕暮れ時はオレンジ色に染まった街が美しいとガイドブックに書かれていたが、他所見学の都合でその時間帯に訪れることは叶わなかった 
もしもこの後リスボンを目指される方がいらっしゃるならば、是非おすすめしたい。


最後に、国立古美術館へ【建国(12世紀)から19世紀までの作品、また大航海時代にアフリカ・インド・東洋などから集めた品々を擁するポルトガル屈指の美術館。17世紀の貴族邸宅を改装して19世紀末に開館】。ベレン地区ほど外れてはいないが、市の西部に位置する。丁寧にまわるならばかなりの時間を要するだろうが、東洋美術(2階)に狙いを絞っていた。
帆船を描く有田焼。

南蛮屏風は何枚もあり、圧巻だった【落款は狩野内膳(1570年生まれ、1616年没。豊臣家に仕えた狩野派絵師。秀吉の7回忌臨時大祭(1604年)を描いた「豊国祭礼図屏風」は近世初期風俗画の代表作といわれる。神戸市立博物館所蔵など南蛮屏風の作品を数点残す)。ただし、これらの作品は作風などから別人の作かともいわれており、今後の研究が待たれる】。


いかにも異国の衣装を身にまとった上陸者が描かれている。

かと思えば、着物の日本人と犬(?)も登場。


★ 最後に ★


この旅が実現するずいぶん前から、ポルトガルを訪れたいと考えていた。かつて日本と交流があった点に面白さを感じたのもあるが、何よりもアズレージョに魅かれた。雪降る日に生まれた自分は、パーソナルカラーなるものがあるとしたら寒色系だと常々感じている。深い青色を見つめていると、とめどなく心が安らぎ落ち着いていく。特に外壁がアズレージョで覆われている建物に憧れ、北部のアヴェイロやポルトに関心を持った。しかし、スペインからの夜行列車が着くのはリスボンであり移動時間の関係から、またポサーダに泊まりたいという欲も出たため、結果的に旅程に組み込むことが叶わなかった。今回の記事で紹介したとおり、訪れた範囲でもアズレージョを愛でることができたが、もっと触れてみたいという思いが残る。

この記事を書いている時、ポルトガルに思いを馳せながら 久しぶりにヴィーニョ・ヴェルデを飲んだ。完熟前のブドウを用いるため、スパークリングワインではないのだが軽く発泡している。アルコール10%未満と軽く、酸味がありさわやかな味わいが特徴で、自分の好みどストライクなワインである
併せて、ポルトガルの料理が美味しかったことも思い出す。自分の計算ミスにより期せずして食費節約旅行になってしまったが、なんとか終盤には郷土料理に舌鼓を打つことができた。それまで苦手だったコリアンダー(パクチーまたは香菜とも)が美味しいと感じられるようになったのもポルトガル料理のおかげである。大学時代、学生街のタイ料理屋でトムヤムクンにトッピングされていたパクチーを口に入れたのが最初だったと記憶しているが、元来辛いものが得意でないうえに 見ず知らずの香草を嗅いでゲンナリしてしまった。1999年にタイを旅して本場で何を食べても、パクチーだけは好きになれなかった。ところがどうしたことか、オリーブオイル香る魚介料理に合わせると、ピタリとはまるのだ。例えばフランス料理だったらパセリをトッピングするところに、ポルトガルではコリアンダーを刻む。大航海時代に持ち帰って取り入れた歴史香る味だなぁ、としみじみする。そして勝手なもので、一旦美味しいと感じるとポルトガル以外の料理にのっかっているのも平気になったのだ。パクチーが苦手という方、ポルトガル料理で克服できるかもしれないので、ぜひ挑戦してみてほしい なお、お店に用意がなくて食べられなかったバカリャウ・ア・ブラスは、代々木八幡にあるポルトガル料理店で機会に恵まれたのだが、同席したAちゃん・Bちゃん(ワインスクールで知り合った友人)はものすごく美味しいと喜んでくれた。
ただし、タコ料理をついぞ口にする機会がなかったのは残念だった。食べる習慣のある国が少ないなかポルトガル人は好んで食すと知り、タコ食に慣れ親しむ日本人として大いに興味あったのだが アズレージョも探訪したいし・・・今度はポルトガル北部に足を運びたいと考えてしまう、いつもの悪い癖で。一度訪れた国の再訪よりも新規開拓を優先する傾向にある自分なので、いつになるやら甚だ心もとないが、実現した暁には道行きを紹介したい。

 おしまい 



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スペイン(2)&ポルトガル篇 その2

2023年07月09日 | ヨーロッパ
ここからポルトガルに突入 リスボンを拠点に、西へ東へ北へと出かけます。
旅の中盤には、以下の地図中の➎~➐を訪れました。ただし、近いためリスボンとシントラ,ロカ岬は➎に、オビドスと(旅の終盤=その3で足を伸ばす)ナザレ,バターリャは➐に集約しています。①~④は旅の序盤に訪れた場所です。


4・5 (マドリード ⇒)リスボン ⇒シントラ ⇔ロカ岬 ⇒リスボン (2008年8月8日)

一夜明け、食堂車にて朝食をとる。いかにも眠たそうな顔をしている自分にモザイクをかけた。

前夜23時前にマドリードを出た夜行列車は、翌8時にリスボンのサンタ・アポローニア駅に到着。タクシーをつかまえて、ポンバル侯爵広場付近のホテルへ。チェックインできない時間なので、荷物だけ預けてすぐに観光へ出発。列車やホテルの手配をお願いした旅行社を通じてあらかじめホテルに話を通してあったので、実にスムーズだった 
滞在中、何度も行き来したポンバル侯爵広場(撮影は後日)。


この日の目的地ロカ岬行きのバスが出るシントラを目指す。まずは地下鉄のイエローラインに乗り4駅、降りてエントレ・カンポス駅から国鉄に乗り換える(当時、ロシオ駅は改装工事中で閉鎖されていた)。
西北西へ28㎞、40分ほどで到着。ロカ岬とシントラを結ぶバスは1時間15分に1本のため、まずはシントラを観光して向かうことにした。
大西洋を望みたい、とムーアの城跡へ【ムーア=アフリカ大陸北西部に住むイスラム教徒。スペイン語でMoros、Moorは英語読み。ムーア人は8世紀にイベリア半島に侵攻し、標高450mのこの山頂に9世紀までには砦を築いた。12世紀半ばにアフォンソ・エンリケス(のちのアフォンソ1世、初代ポルトガル王)が攻略、1755年のリスボン大地震で多くが崩壊、19世紀の補修を経た城壁のみ現存する】。

シントラの町の奥に大西洋を見晴らす。天気が良すぎて、空と海の境界が判然としないとは

Cちゃんに振り返ってとリクエスト、そしてパシャリ

ポルトガルの旗、目立つなぁ~


数百m南にぺーナ宮殿がそびえる【フェルナンド2世が16世紀の修道院を改築させて、19世紀後半に完成。標高528mの山頂にそびえ、20世紀初頭までポルトガル王家が使用】。


お次は王宮へ【ムーア人による建築物をジョアン1世が改築して礎が築かれ、15世紀から王家が夏の離宮として使用。特にマヌエル1世が16世紀に改築した箇所は、大航海時代に繁栄したポルトガルの国勢を反映している】。Cちゃんはあまり乗り気ではなかったが、せっかく来たんだからと押し切った。我ながら、世界遺産に貪欲だなぁ
しかし、ここら辺りからデジカメのバッテリーが怪しくなり・・・撮影をケチったため画像が少ない この記事を書くにあたりCちゃんに相談したら、好きな画像を使っていいよと言ってくれたので、所々で掲載する。

右の壁、顔にビックリ

白鳥の間。天井に広がる白鳥は各々異なるポーズをとるという手の込みよう。

動物の頭を模した調度品は何だろう (Cちゃんが撮影)

カササギの間の天井はこんな感じ。

壁面はアラブっぽいタイルで装飾されている(Cちゃんが撮影)。

右の入口の奥には・・・

葡萄の葉のタイル。

人魚が登場する部屋もあり。

半円状の天井には帆船が描かれている。このあたり、大航海時代を牽引したポルトガルっぽい雰囲気だな~

ふと窓の外を見ると、先ほどまでいたムーアの城跡がかすかに見える(Cちゃんが撮影)。

紋章の間の天井。

壁はアズレージョ(青が印象的なポルトガルのタイル)、斬新な組み合わせ (Cちゃんが撮影)

小さな礼拝堂(Cちゃんが撮影)。

キッチン。


数百m東のシントラ駅に戻ってバスに乗り、30分余りでロカ岬に到着。
ポルトガルに来たなら絶対に訪れようと決めていた場所。北緯38度47分・西経9度30分、まぎれもなくユーラシア大陸の最西端。


詩人ルイス・デ・カモンエスの石碑(Cちゃんが撮影)。「ここに地果て、海始まる」の一節に、否が応でも郷愁がそそられる・・・
【カモンエス; 叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1571年)で歴代の航海者を賛美し、ポルトガル最大の詩人と謳われる。従軍中に片目を失明、投獄やインド,マカオでの軍務など、その生涯は波乱に満ちていたという】

岬の観光情報所(Cちゃんが撮影)。壁の赤いのはポストだが、切手は売ってない・・・。この国に到着したばかり、さすがに備えがなく諦める。

予定通り、最西端到達証明書はゲット(€5也。€10のもある)。蝋印(中央右の赤いヤツ)が押されていて、本格的(この記事を書くにあたり撮影。右下の日付と同様の独特の字体で書き込まれた自分の氏名にモザイクをかけた)

他にも観光客がいなくもなかったが、全体的にのんびりとした時間が流れていた。犬もまったり・・・(Cちゃんが撮影)


来た道を再びバスと国鉄でたどりリスボンに戻った私たちだが、この日の夕食はレストランではなく部屋食となった。残りの滞在日数と手持ちの現金を計算すると心もとなく、外食をセーブしてお金を極力温存せざるを得なかった。よって、スペインでもお世話になったエル・コルテ・イン〇レスの地下にあるスーパーへ(私たちの宿から北に1㎞、地下鉄ブルーラインで2駅のサン・セバスティアン駅直結)。黒パン・ハム・チーズとパテの缶詰を入手、2人分でしめて€10.84

5・6 リスボン ⇔エヴォラ (2008年8月9日)

この日はエヴォラへ日帰り旅。
地下鉄のブルーラインに乗り4駅、市の北西部にあるセッテ・リオス・バスターミナルへ向かう。110㎞東南東へバスはひた走り、2時間ほどで到着。

エヴォラのバスターミナルは町はずれにあるため、1㎞ほど東へてくてく歩いて行く。
【エヴォラ; 旧石器時代前期には人が暮らしていた痕跡があるという。B.C.10世紀以降、移住してきたケルト人と先住民ルシタニア人の混血が進む。B.C.57年にはローマ帝国の軍門に降り、交易路の中継地として繁栄。8世紀以降はムーア人に支配されるが、レコンキスタの中で1166年に解放される。大学も開設され、15世紀後半からはポルトガル・ルネサンスの中心地として、芸術・学問・宗教が隆盛】
表札がいいなぁ

教会


Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた。南欧の多くの街がそうなのかもしれないが、強い日射しのもとでは白い建物が目に涼やか


お目当てのカテドラルに到着【12世紀後半~13世紀、ロマネスクからゴシックへの移行期に建設された。その後も14世紀・16世紀・18世紀と断続的に手が入ったため、マヌエル様式やバロックの影響も受けている】。

入口はゴシック様式で、十二使徒の彫像が並ぶ。

向かって左を拡大すると・・・

お次は右のほう。

さらに中央扉寄りの彫刻をズームアップ(退出時に撮影)。しつこくてごめんなさい・・・好きなもので


この教会の屋根の一部はテラスになっていて、のぼることができる。下の画像中央に写る円の下が階段になっている。他の観光客が記念撮影しているのを背後から撮った

中庭を囲むようにつくられているテラス屋根。

中庭を見下ろす。

カテドラルの頂上部はテラスよりはるかに高い。三角のウロコ屋根が可愛い

テラスから教会の外を眺めると、のどかな光景が広がっている。ここがアレンテージョ地方の中心都市と言われなければ、気づかないかもしれない。

中庭に下りて、回廊の柱。

シンプルだけど重厚な回廊【14世紀に完成、ゴシック】。

金属製レリーフの右端にはこの教会。てか、面白い形の木だなぁ【この記事を書くにあたり調べたところ、コルク樫と思われる。ポルトガルはコルクの生産量が世界一(31万t、シェア52%[2018年])なのだが、中でもこのアレンテージョ地方が一大産地という。なんでも、十分な雨量と湿気があり、夏は乾燥して日照時間が長い気候が適しているらしいのだ】。

回廊には棺のある空間も。

画像中央左寄りの彫刻をズームアップ。

別の角度から、他の彫刻にも寄ってみる。


いよいよカテドラルの中へ。このパイプオルガン、日本にも多少縁がある【1584年、リスボンに到着した天正の遣欧使節はエヴォラまで足を伸ばし、伊東マンショと千々石ミゲルがこのオルガンを演奏したと伝えられる】。

側廊脇を彩る聖母マリアの祭壇は金ピカ。

その向かい側には天使ガブリエル像。足元にご注目あれ、鷲が黒ウサギを抱えている。珍しい意匠ではないか

正面の祭壇。この辺りはがっつりバロック様式だなー

振り返るとこんな感じ。

下段のアズレージョは新しそうだけど、上段の絵は雰囲気あるような・・・


カテドラルを出て数十m北西へ。ローマ帝国時代に建てられたというディアナ神殿【1世紀、ローマのアウグストゥス帝を祀るため建てられたが、2世紀末~3世紀に改築され月の女神ディアナに捧げられた。コリント様式の柱14本が残る】。

別の角度から。垣間見える三角屋根が先ほどまで居たカテドラル。
左端に写る低い建物は旧ロイオス修道院、現在はポサーダとして人気がある。実は宿泊をちょっとだけ検討したのだが、旅程全体を鑑みて断念したのだった【ポサーダ; 古城・修道院・貴族の館などの歴史的建造物を改修した宿泊施設。1942年に1軒目がオープンし、いまや35軒を数える(2022年6月時点)。当初は国営だったが、現在は民営】。

神殿付近は高台に位置するため、街を見晴らすことができる。


再びバスターミナルへ戻り、リスボン行きのバスに乗った。2時間飽くことなく車窓を眺めていると、最後に予想外のサプライズが待っていた
あれ、キリストの像だよね・・・(以下2枚、車窓から撮影)

角度的に正面はムリだったが、少しだけ尊顔を仰ぐ。

存在は認識しつつも、訪れる予定のなかったクリスト・レイだよね【ブラジルはリオデジャネイロのコルコバードのキリスト像を模して、1959年に完成。台座75m・本体28m】。
と、いうことは・・・期待ふくらむ私の眼前、テージョ川を隔てた対岸にリスボンの街が飛び込んできた。
たしかに事前のガイドブック情報で、エヴォラ ー リスボン間のバスは南北2つのルートをとると書かれていた。たぶん往きは北のルートでヴァスコ・ダ・ガマ橋を経由し、復路は南のルートで4月25日橋を通ったのだろう。こんもりとした丘のようなリスボンの街を遠望してみたいと密かに思っていた、フェリーや列車に乗ればクリスト・レイまで足を伸ばすのは可能ではあったが 時間の都合で割愛するしかなかった、それをバスが実現してくれるとは 狙って南ルートのバスをつかまえたわけではなく、ただただ観光を終えて飛び乗ったのがそれだったので、本当に幸運としか言いようがない

閑話休題。
この日パンとビールを買い足して、前夜の残り物のパテで夕食を済ませた私たち。トホホ

5・7 リスボン ⇒オビドス (2008年8月10日)

オビドスへ移動する前に、リスボン中心部から6㎞西のはずれにあるベレン地区へ寄った。
地下鉄を乗り継いでカイス・ド・ソドレ駅まで行き、市電に乗り換えてベレン駅付近で下車。テージョ川を左に見ながら、数百m西へ向かう。ふと振り返ると、前日に通過した4月25日橋とクリスト・レイが目に入った。

まもなくすると、前方にお目当てのモニュメントが見えてきた。この辺りはリスボン郊外に暮らす人々の良き散歩道になっているようで、ゆっくりと時間が流れている感じだった【ガイドブック情報によると、市内を観光した人々が押し寄せる午後は激混みらしい。落ち着いた雰囲気を味わいたいなら、朝早めに訪れることをオススメしたい】。

ヨットハーバーが水辺の雰囲気を醸し出す。目指すは、帆船をかたどった発見のモニュメント【高さ52m。1960年 エンリケ航海王子の500回忌を記念して、ヴァスコ・ダ・ガマがインドへ向けて船出した地に建てられた。近代のものゆえコンクリート製で、内部にエレベーターを有する】。

先頭に立つエンリケ王子の後ろには航海士・天文学者・宣教師・地理学者など、ポルトガルを大海原へと押し出した職業の人々が続く。

わが愛しの(?)ザビエルは最後尾付近に控えている。

反対側(西)の彫刻。

東西総計32名のうち、唯一の女性はエンリケ航海王子の母ドナ(ジョアン1世の妃)。

モニュメント脇の広場、床には大理石モザイクの世界地図が広がっており、大航海時代の立役者だったポルトガルが各国を何年に「発見」したかが刻まれている。
日本の部分はこちら、1541年となっている【種子島での鉄砲伝来より遡って、豊後の神宮寺浦にポルトガル船が漂着した年。このときカンボジア原産のかぼちゃの種が持ち込まれ、領主の大友宗麟に伝えられたという】。


川沿いをさらに西へ数百m進む。先ほどのモニュメントがみるみる遠ざかっていく。

ベレンの塔に到着【高さ35m、地下・地上合わせて6層。16世紀前半、マヌエル1世の命令によりテージョ川に出入りする船を監視する目的でつくられた。1755年のリスボン大地震では被害を免れ、当初の面影を残す】。

さっそく入場。目についた大砲にぎょっとするが、河口警備の塔だもんなぁ・・・

南の方角、対岸のアルマダを眺める。

西に広がる河口までは5㎞ほど、その先は大西洋に出る。

上層から見下ろしてみる。

遠く東には件の橋とキリスト像が垣間見える。欄干の十字架がいいなぁ

下りて、塔の南面を見上げる。


再び市電に乗車し、リスボン中心部へ戻る。泊まっていたホテルに預けていた荷物を引き取り、地下鉄でセッテ・リオス・バスターミナルへ。
90㎞ほど北のカルダス・ダ・ライーニャへは1時間余りで到着、バスを乗り換えて10分ほど南下しオビドスに到着。
【オビドスはローマ帝国の時代(B.C.300年ころ)に築かれた砦に歴史がさかのぼるという。西ゴート人やムーア人による支配を経て、12世紀半ばにアフォンソ1世が奪回後、再建された。13世紀後半に王妃イザベルがこの町を気に入って以来、19世紀前半まで代々王妃の直轄領となり、中世の面影をよく残し「谷間の真珠」と称えられる。現在の人口は約800人】
門(?)をくぐって、バスは到着。(以下2枚、撮影は翌日)

バスを降りると、もう城壁が見える。

町の入口、ポルタ・ダ・ヴィラから入る。(以下2枚は一旦チェックイン後、城壁を歩いている時に撮影)

18世紀のアズレージョが美しい【この城門、14世紀後半のムーア人支配下に築かれた。中央扉の内側は、聖母マリアとオビドスの守護聖人ピエダデに捧げられた祈祷室という】。

ポルタ・ダ・ヴィラから北東へ400m、今夜の宿はこちら。そう、お城なのだった。(撮影はチェックイン後、城壁を歩いている時)
ポルトガル行きを決めた時、どこかでポサーダに泊まりたいと思った。既出のエヴォラのと迷ったが、やはりお城の魅力には勝てず・・・
だって、こんな機会でもなければ夢のまた夢だもんね

敷地に入るだけでドキドキ、否が応でもテンションが上がる

通された部屋の窓を開けると、そこは城壁。

バスルームにはアズレージョ風のタイル。

トイレの水にお花が浮かんでたのにはビックリ 色々泊まり歩いてきたけど、こんなサービスは初めて。

ウェルカムドリンクはジンジャ【ジンジーニャとも。サクランボを漬けた果実酒、アルコール20%前後。特産品というわけではないが、この地のは良質らしい】。


お城を出て、城壁の南東部分を歩く【一部途切れており1周することはできないが、5ヶ所ある階段から城壁にのぼり、1.5㎞歩くことができる】。
町の西側を見晴らす。画像左の白い三角屋根がサンタ・マリア教会。

城壁の外、南東部は緑が多い。

来た道を振り返ってみると、お城がで~んと存在する。画像左寄りの白い建物、サンティアゴ教会は終始閉まっていて見学できなかった

城壁にへばりつく自分にモザイクをかけた。

馬車が通りすがる。


城壁を下り、町の中心部サンタ・マリア教会へ向かう【8世紀にモスクとして建てられたものを12世紀にロマネスク教会へと改築、この町最古の教会。1448年、アフォンソ5世(10歳。父の急死により6歳で即位)がいとこのイザベラ(8歳)とここで結婚式を挙げたという】。

ファサードにズームアップ。

内部の壁面はビッシリとアズレージョ 他の国の教会では見られない光景だろうな・・・


板に描かれたと思われる天井の絵も独特。

教会を擁するサンタ・マリア広場の北に建つペロリーニョ【罪人のさらし柱。見せしめのため、籠に入れられてこの柱に吊るされたという。かつてこの広場に、裁判所の機能も持つ市庁舎があった名残り】。

街をぶらぶらしていると、廃教会のような空間に現代的なオブジェを発見。救いを求めている構図か?

街の建物に青と黄色が用いられているのは、町旗にちなむという。陽が翳っていて映えない画像になっているが、ブーゲンビリアが咲き誇っていた。

さっき下りたところから再び城壁にのぼり、そぞろ歩く。中央奥にわずかに見ゆるは我らが(?)お城。

城壁の外、西には水道橋が見える【全長3㎞。16世紀、カタリナ王妃(ジョアン3世の妻)がオビドスに水を供給するためにつくらせたという】。

風車も見えちゃったりして。

ついにお城へ帰還

次は城内探索 雰囲気あるダイニングルーム。

窓の外の景色も抜群

テラスに腰掛け、気取ってみる


金欠気味の私たちは、素敵なダイニングルームでディナーと洒落こむ余裕はなく・・・。居酒屋風バーにて ソーセージ、チーズ、パン、ビール(2人分で€17)が関の山だった カウンターに立つマスター(?)はなんだか元横綱(ハワイ出身。貴乃花とともに一時代を築いた)に似ていた
翌朝 出立時にお店の前を通りかかったので、外観をパシャリ 壁面、3行目に「オビドスのジンジーニャ」と書かれている。たしかに前夜、あけ〇のは何度も瓶から注いでサーブしてたな~


★ 中締め ★

旅の終盤にはさらに北へ進み バターリャ,ナザレを訪れた後、リスボンへ戻ります。
お楽しみに
コメント
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