poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

スリランカ篇 その4

2022年09月04日 | アジア
旅の最後、下の地図の➑・➓~⓭をまわりました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


8・10・11 キャンディ ⇒カルタラ ⇒(ペラリヤ経由) ⇒ゴール (2011年8月5日)

キャンディを発つ朝、まずは腹ごしらえと朝食会場へ足を運ぶ。
部屋の前の廊下はこんな感じ。

朝食会場は、前夜にディナーをとった場所でもある。

ピッタラ・アーッパ【記事「その1」でも紹介した、ココナッツミルク入りクレープ(アーッパ)に卵を割り入れて焼いたバージョン】に、右端の赤いのがルヌ・ミリス【ミリスはスパイスの意味で、唐辛子・玉ねぎ・塩・ライム・モルディブフィッシュ(いわゆる鰹節を細かく砕いたもの)を混ぜてすりつぶしたもの。これが少量で充分辛い】。


前日はキャンディ市内を観光する時間がなかったので、まずは仏歯寺(正式にはダラダ・マーリガーワ寺院)を目指す。
参道脇に停められていた屋台 仏教色を前面に押し出した絵看板である。

対岸から幾度か眺めてきたが、いよいよ入場である。外観はこんな感じ(仏歯寺を見学後、西に隣接するナータ・デーワーラヤから撮影)。
とかく目立つのが画像右のオレンジ屋根の八角堂だが、仏歯が安置されているのは中央の金色の屋根を持つ本殿である。

入場時には濠を越える。ちなみに、この濠と八角堂は19世紀初頭に増築された比較的新しい部分である。


仏歯寺の入口にあったムーンストーン。記事「その1・2」で紹介したアヌラーダプラやポロンナルワのそれと比べると、四苦を表す動物モチーフが消えてずいぶんシンプルになっている。

こちらはガードストーン。アヌラーダプラやポロンナルワのと違って、コブラを背負っていない。立体感があって荘厳。

赤・黄・白の目立つ壁画のトンネルを通って境内へ進む。


画像右上の悪魔の顔がバリを思い出させた。ポロンナルワでもそうだったが、ここキャンディでもヒンドゥー教との習合が見られる。

仏歯が置かれている本殿は2階建てである。こちらはその1階。
ちょうどプージャー(供物をささげる儀式)の時間だったらしく、青年たちが楽器を奏でるところだった。その衣装は前夜のペラヘラ祭を想起させる。

本殿1階の天井と柱は装飾で埋め尽くされている。眺めていると、なぜだか日光東照宮(17世紀前半)を思い出した。現存する建物は17世紀後半~18世紀初めの再建だから、同時代と言えなくもないのか・・・いや、ムリがあるか



ちなみに、境内の随所で見かけたこちらの旗は仏旗【1950年に開催された第1回世界仏教徒会議で提案・採択され、仏教徒の象徴となった。青=仏陀の髪、黄=仏陀の身体、赤=ブッダの血液、白=仏陀の歯、橙=仏陀の袈裟を表す。ちなみに日本では青に代えて緑、橙に代えて紫を用いることが多いという。確かに、長谷寺そうだったよなぁ・・・】。
旗の両脇に下がる黄色いのは何だろう 折り鶴に見えてしまうのは日本人だからか

本殿奥の建物には仏像が所狭しと並んでいた。世界中の仏教国から寄贈されたものという。ひときわ大きい金色のはタイから。日本(室生寺)が贈ったのは、画像やや左寄りの茶色い仏像(蓮華に座し木製の光背を持つ)である。てか、並み居る象牙が立派

本殿2階へあがる階段は大混雑 1日3回、プージャーの時しか開扉されない仏歯を入れた容器を一目見ようと行列しているのだった

途中、楽屋裏な雰囲気を漂わせていた空間。確証はないが、見た感じペラヘラ祭で練り歩くゾウに着せる衣のような・・・今夜も活躍するのだろう。

外観で最も目立っていた八角堂へ【キャンディ国王が民と対話するために設けられたテラスは、なるほど眺めが良い。イギリス統治時代にはなんと留置所に成り下がったらしいが、現在はライブラリーとして使用】。

展示品の中で最も大切にされているのがパンシャ・パナジャータ【ヤシの葉1600ページに刻まれた経文。クルネーガラを都としていた14世紀の制作】。

かつて仏歯を収めていた舎利容器も展示されていた。ガラス石の如くふんだんにはめ込まれてるけど、赤いのはルビーだよねぇ・・・総額考えただけで恐ろしっ

画像中央奥、頭で一部隠れているものの白光りしているのが仏歯の入った容器である。ガイドのΩさんから仏歯そのものが見られるわけではないと聞かされ、行列に並ぶのはやめて遠景の撮影にとどめた。先ほど飾られていた旧容器より明らかにサイズが大きい。

本殿を下りていく。本殿脇の建物に掛かっていたこの絵、ガイドΩさんによるとスリランカの多くの寺で見られるらしい。後光が射す右の人物の頭部がポイントである。
【右の女性はへーマ・マーラ、かつてインドに存在したカリンガ王国の王女。武器を手に持つ左の男性がその夫ダンタ。敬虔な仏教徒であったカリンガ王バーギメイ(ヘーマの父)は周辺国との戦いが続くなか、自分が敗れたら仏歯を持ってスリランカへ逃げるようにと娘に指示していた。果たして父が敗死すると、ヘーマは長い髪を結いその中に仏歯を隠して逃亡。4世紀前半とされるその様子を描いたものである。それを受け取ったのがシンハラ王朝のキッ・スリー・メヴァンナ王、かくして仏歯はスリランカへもたらされた。仏教を国是とする王朝において仏歯を保有することは王の権威を高めたので、各時代の都には仏歯を安置する寺院が築かれた。記事「その2」で紹介したポロンナルワのアタダーゲとハタダーゲはそれであり、(自分は足を運ばなかったが)記事「その1」で紹介したアヌラーダプラにも仏歯寺跡がある。ポロンナルワの後も遷都に伴って仏歯はダンバデニヤ→ヤーパフワ→クルネーガラ→ガンポラと移動、その間 後期パーンディヤ朝(南インド)に奪われたのを取り返し、明の鄭和の艦隊が持ち去ろうとするのを阻止。ついに1590年、王ウィマラ・ダルマ・スリヤ1世によりキャンディへ仏歯が運ばれた。しかしその後も一筋縄ではいかず、16世紀後半にキャンディを一時的に占領したポルトガルが仏歯を破砕しようと試みるも、シンハラ人がレプリカで欺く。更に1815年、イギリスがキャンディ王国を滅ぼし一旦は仏歯を管理下に置くものの、1847年には仏歯寺に返還され、今日に至る】

本殿に隣接するこの建物は、キャンディ王国時代の王の謁見場【国王が閣議を開いた場所で、1815年にイギリスとの戦いに敗れ最後の閣議をおこなったのもここだという。現在も政治的に重視されており、現職のスリランカ大統領がキャンディを訪れた際にはここで演説を行うらしい】。

壁はなく、精緻な木彫の柱が林立している。

出口へと向かう。往きに見かけたのよりも大きなムーンストーン。やはり動物のモチーフは無い。

猿神ハヌマーンだろうか・・・古そうな彫刻。


次に訪れたのは、仏歯寺に隣接するナータ・デーワーラヤ(撮影は仏歯寺の八角堂テラスより)【記事「その3」で触れたとおり、キャンディにおけるエサラ・ペラヘラ祭の起源となったヒンドゥー教の4守護神のひとつ、ナータをまつる寺院。他の3つの守護神をまつる寺院も仏歯寺周辺に存在するが、14世紀に築かれたこちらがキャンディ最古の史跡という。王ウィマラ・ダルマ・スリヤ1世が最初に仏歯寺を建てたのが16世紀末~17世紀初頭なので、ヒンドゥー教のほうが古くからこの地に根付いていたと考えられる】。

壁画は新しそうである。


仏歯寺を後にして、街を歩く。目に入ってきたセント・ポール教会【1848年築、イギリス国教会系。前年にイギリスが仏歯を返還した見返りに建設が許可され、駐留するイギリス兵の礼拝所として使用された】。早稲田大学は大隈記念講堂に似ていると一瞬思ったのだが、気のせいだろう(調べたところ、建築年代が同じとはいえなかったので・・・)

コロニアル風の建物には小さな商店が集合している。看板に踊るシンハラ文字。

お世話になった観覧場所(ピザ屋)の前を通過。

前夜は外観を眺めるばかりだったクイーンズ・ホテルを見学。カッコいいバー コロニアル建築なんだろうけど、どこか南国のリゾート感も漂わせていて、この画像だけ見てスリランカと当てるのは至難の業だろう。

飾られていた、昔のペラヘラ祭の写真。もちろん、これを目にすればスリランカ以外の何物でもないが

ホテルを出てキャンディのメインストリートを西へ進み、岐路で南へ折れると市場に至った。四合院的な構造の2階建てビルで、1階は食料品、2階は服・靴・土産物などを扱うお店が並んでいる。特に果物売り場が圧巻 個人的には、画像右上の赤いバナナが面白かった。

あれれ ゆうパックなわけないよな~ 右下にスリランカの住所を発見。日本を離れ、第二の人生を歩んでいるトラックなのだった。


いよいよキャンディを出て、ゴールへ向けて出発。直線距離だと130㎞南南西だが、単純に南下すると山岳地帯が行く手を阻むため、一旦コロンボまで出たあと 海沿いに100km余り南南東へ。幹線道路づたいのこの行程が手っ取り早いようだ。
備忘録によると、コロンボへ向かう途中でランチをとったようだが、画像がない

道中のカルタラは椰子が生い茂る海辺の町で、この数日間に自分が見知ったスリランカ内陸部とはまた別天地だった。車を降り立つと潮の香りが鼻腔をくすぐり、身体をまとう湿度をたっぷりはらんだ空気に 今さらながらここは島国なんだなぁと実感。
停まったのは休憩のためだけではなかった。ドライバーのΦさんが速度を落とし、ガイドのΩさんと窓の外を見ながら何やら話しているなと思ったら、地酒ラーを売ってくれる人を探していたのだった。原料の椰子の花を採取するには木々を渡り歩くそうで、よく見ると木々の間にロープが張り巡らされている(下の画像にもその片鱗あり)。一本ずつ木を登り下りするより遥かに効率的 上のロープを手でつかみながら下のロープを綱渡りするそうだ。それにしても、かなりの高所 てか、命綱はつけるんだろうか・・・

プラスチックの使い捨てカップに注がれた椰子酒ラーは半透明と乳白色の中間(半透明より白く、乳白色よりは薄い)で、発酵しているのか少し泡立っていた。
ひとくち飲んで目からウロコ、美味しいぃ~ これまで各国で地酒なるものにトライしてきたものの、度数が高く喉が焼けそうとか独特の風味が舌に残るとか、自分の口に合うものに出合ったことがなかったので、いい意味で期待を裏切られた。これなら何杯でもイケると思ったが、残念なことに日持ちしないのだそうで・・・瓶に詰めて売るとか、ましてや輸出するとかできないシロモノという。海辺でつくりたてを味わう、ある種 幻のお酒は1杯Rs100=85円也。自分が飲んだ地酒史上第1位(2022年9月現在、未更新) 連れて来てくれてありがとう、Φさん・Ωさんに感謝 最後に、お酒の画像を撮っていなくてごめんなさい。文字でいくらかでも伝わりますように

道中でガソリンを補給。スタンドには多種多様な乗り物が集結していた。トラックにバイク。

トゥクトゥクに自転車。白い帽子・衣服のムスリム。

日が暮れてきている。


ペラリヤ(ヒッカドゥワの北。ゴールの30㎞北西)では、津波本願寺佛舎に寄った【2004年12月26日、スマトラ沖地震で生じた津波は1,700㎞離れたスリランカ東部~南西部の海岸を襲い、震源地のインドネシアに次ぐ36,000人の死者と12,000人の行方不明者を出した。ペラリヤ村のテルワッタ駅では列車もまるごと吞みこまれて転覆し、乗客1,700名が犠牲となった。本願寺文化交流財団がスリランカ政府との共同事業で、犠牲者の追悼と両国の友好を目的として2006年12月に完成】。

高さ18.5mの仏像は、テロで破壊されたアフガニスタンはバーミヤン大仏を模したという。インド洋に向かって静かに立つ。

雲に隠された太陽はまだ沈んでいない模様。


宿に到着する頃にはすっかり日が暮れていた。ここもスリランカを代表する建築家ジェフリー・バワ作である。
お部屋はこんな感じ。

上の画像右端、ベッド脇の窓から見た光景(撮影は翌朝)。

素敵なバスタブ。

ソファーの上には手描きの地図。

テラスへつながる扉(翌朝撮影)。


11・12 ゴール ⇔バラピティヤ (2011年8月6日)

この日は午前中にゴール旧市街を観光し、午後は遠出した。
まずはジェフリー・バワの晩年の傑作のひとつといわれる、宿ジェットウィング・ライトハウスの共用部を紹介したい(撮影はこの日の朝と昼)。
エントランスは、ゴールの町の象徴である城壁を意識した造り。

起伏や岩、天然の土地の形状を活かした設計という。

上の画像の左端からの眺め。

らせん階段には、シンハラ人とポルトガル人の戦いをテーマとする金属彫刻。記事その2で紹介したヘリタンス・カンダラマのと同じく、ラキ・セナナヤケの作。


館内には蓮の花がしつらえられていた。紫色が美しい

インド洋に向かって設けられたテラス。じっくりと海を眺めることができる。

けっこう波が高くて荒いのだが



宿から旧市街までは東の方向へ車で10分だった。
最初に訪れたのは旧桟橋。明治時代に岩倉使節団の人々が出入りした港のようだ。
【スリランカへ向かう飛行機の中で、岩倉使節団はヨーロッパからの帰国途上でスリランカに寄ったんだったな、どこの港に停泊したんだろうとふと思った。それがゴールだった。使節団の公式報告書『米欧回覧実記』をまとめた久米邦武の記録によると、1873年8月9日の午後3時に入港し「ホテル、オリエンタル」にチェックイン後、チャイナガーデンにあるお寺を訪問・散策したらしい。細かい話になるが、「ニューオリエンタルホテル」の誤りと思われる。チャイナガーデンは旧市街のすぐ北に広がるエリアなので、散策できるそう遠くない距離を逆算すると宿泊地は旧市街ではないかと推察する。なお「ニューオリエンタルホテル」の前身はオランダ植民地時代の軍総司令本部で、イギリス統治時代の1865年からはホテルとして開業。スリランカ最古のホテルという格式を持ち、明治政府の一大事業として派遣された使節団の宿泊所として不足はないだろう。ちなみに2005年からは世界屈指の高級ホテルを運営するア〇ンリゾーツが継承している。ともあれ、訪問時には知らなかったので、リクエストしないにもかかわらず日本ゆかりの場所へ連れて行ってくれたガイドのΩさんに感謝至極

船の残骸と思われるものが放置されていた。

旧城門(オールド・ゲート)から旧市街へ入る。現在は別の場所に大きな城門があるのだが、かつてはここを通って出入りしなければならなかった。
この城門、両側で異なる紋章が付けられている。下の画像はイギリスの。

こちらはオランダ東インド会社の紋章である。もともとは上の画像の場所にあったのだが、統治者がイギリスに交代した後に剥がされ現在の場所へ移されたという。

【旧市街に入る前に、ゴール統治者の変遷について説明しておきたい。インド南西海岸に進出したポルトガルは、16世紀初めにモルジブ諸島へ向かう途中でセイロン島に漂着。当時スリランカには3つの王国が乱立し内戦状態にあったが、そのうちのひとつコーッテ王国と条約を締結し、毎年一定のシナモンの供給と引き換えに、シーターヴァカ王国・キャンディ王国との戦いにおいてポルトガルがコーッテ王国を支援することになった。その後、ゴールではカトリックの布教が進み、シンハラ人の抵抗が強まった。16世紀末、コーッテ国王ダルマパーラが死去しその遺言により王国の領土をポルトガルが引き継ぐと、シンハラ人との戦いは激化。いっぽう、オランダは1602年にセイロン島へ進出。キャンディ国王ヴィマーラ・ダルマ・スリヤ1世と謁見し、シナモンと胡椒の交易権と引き換えに、ポルトガルと戦って奪い返した土地をキャンディ王国に渡すことを約束した。1640年、スペインとの戦争が勃発したポルトガルの隙をついてオランダはセイロン島の攻略を本格化し、18日間の激闘のすえゴールを制圧。あまりにも凄惨な戦いだったため、「マラッカの黄金、ゴールの鉛」という言葉が生まれたほど。この戦いの直後から1658年にコロンボへ移るまで、ゴールにオランダ総督府が置かれた。なお、ポルトガルを撃退した後オランダはキャンディ王国との約束を反故にしたため、セイロン島の内陸部はキャンディ王国が、沿岸部はオランダが支配する状況となった。18世紀後半、フランス革命の余波にヨーロッパが翻弄される中、イギリスは「フランスによるオランダ植民地の併合を阻止する予防措置」を名目にセイロン島沿岸部を支配下に置き、1796年にゴールは血を流すことなくイギリスに占領された。1815年、内紛に乗じてイギリスはキャンディ王国を滅ぼし、以後1948年まで全島統治が続いた】

旧城門付近には、オランダ統治時代の名残りを残す建物が多い。マスタード色の壁、船腹に吊り下げる浮き輪のような丸窓が可愛い

オランダ改革派教会へ【1640年創建、スリランカ最古のプロテスタント教会らしい。現存するのは1755年に再建されたもの。なお、オランダの統治が始まるとカトリックの布教は禁じられ、宣教師が追放されポルトガル時代の教会はことごとく破壊されたという】。

教会の敷地内。右に写る壁が教会である。

教会の祭壇を背に入口を振り返ると、パイプオルガンが目に入った。

床には墓石がたくさん埋められていた。髑髏のマークが独特。

1766年の数字を刻む壁面装飾。


次はゴール国立博物館へ【1656年築、旧市街で最も古い建物のひとつという】。

こちらには港湾都市だったゴールに各国から運ばれてきた品々のほか、スリランカの宝物が展示されていた。以下、撮影したモノたちを紹介したい。
まずは陶磁器だが、お気づきだろうか・・・
中央に「福」と書かれている器がオランダと説明されている。産地を特定できるほどこの道に詳しくはないが、素人目にも明らかに違うのでは 
「オランダ船がもたらした」のつもりで表示しているのかもしれないが、英文を読む限り誤解を招きそうな表現である
それをガイドΩさんに伝えたら、博物館にいた人(職員かどうかは不明)と何やらしゃべっていたけど・・・現在はどうなっているんだろうか、より正しい表示に変わってたらいいなぁ



17~18世紀の絵画。仏歯寺にも同じようなのがあったなぁ・・・



椰子の葉に書かれた本。

お皿中央に月と星マーク・・・イスラム文化絡みだろうか。

注口がかなり長い水さし。

ライオンが彫られたタイル。

象牙の工芸品。

キャンディ王国時代の木彫。

オランダ製の皿。

コインにはVOC(オランダ東インド会社)のマークが散見される。


旧市街の南端部にある灯台を目指す。途中で見かけたモスク【1909年創建。インド洋交易にムスリム商人が従事し始めた頃からゴールにはムスリムが暮らしていたが、ポルトガル・オランダによる追放政策の時代を経て、現在では旧市街の住民の半数以上がムスリムという】。

目の前には、ゆったり広がるインド洋。

前方に灯台が見えてきた【高さ18m。1858年にイギリスがつくった初代は火事で焼失、現存する2代目は1938年築】。

灯台が立っているのは、かつてユトレヒト堡塁があった場所。下の画像で、右端は灯台、中央は堡塁の遺構か。

チャーチ・ストリート南端から北方を眺める。

シャッターが下りていたチャーチ・ストリート沿いのお店の軒先。不思議なものが吊るされていたが、魔除け?? まさか新酒あります、じゃないよねぇ

北上しながら、来た道を振り返る。2枚上の画像は、中央奥に立って撮った。このアングルだと、富士フイルムの看板が目立つ。

自転車を押していくムスリムの男性。


旧市街観光の最後、北端の堡塁を訪れた【1589年にポルトガルが築き、オランダの進出を警戒するなかで補強が重ねられた。オランダ植民地時代にも手が加えられたが、基礎はポルトガル時代のもの。3つに分かれていて、東からサン堡塁、ムーン堡塁、スター堡塁(統治者が交代するごとに呼び名も変わったが、ここでは割愛し現在の呼称を挙げるにとどめる)】。
中央のムーン堡塁から眺める旧市街。画像中央奥、白いファサードを持つオレンジ瓦屋根は先ほど訪れたオランダ改革派教会。その右のベージュの三角屋根(このアングルで最も高い)はオール・セイント教会(1871年築、イギリス国教会系)。

なお、ムーン堡塁には時計塔がそびえている【1889年に城壁撤去が発表されると、民族・宗教を異にするゴールの16団体が連合して反対運動を展開。城壁は単に軍事的機能だけでなく、サイクロンや洪水などの自然災害から町を守る役割も果たしていると主張し、破壊を免れた。運動の中心人物のひとりピーター・ダニエル・アンソニスを記念してゴール市民が建てた塔である。今や城塞都市として価値を認められたゴールは世界遺産に登録され、また2004年の津波から住民の命を救った】。

西のスター堡塁へ。

ここに来て、かなりの高低差を実感。

来た道を戻り、ムーン堡塁方面へ向かう。画像右側の外に旧市街、左側の外に新市街が広がる。

ムーン堡塁から東のサン堡塁を眺める。

港が垣間見える。

サン堡塁からムーン堡塁を振り返る。


昼食後、ゴールより約40㎞北西のバラピティヤへ向かい、マドゥー・ガンガ・ラグーンでボートサファリ。
マングローブ林を横目に、橋をくぐって進む。

すれ違った地元のボート。

目的地はラグーンの北西部にポツンと浮かぶ小さな島。Kothduwa寺院がある(画像手前。撮影は帰路)【仏歯がもたらされた経緯は先述したが、ヘーマ・マーラとその夫が上陸した場所については諸説あり、ここもそのひとつ。4世紀前半、当時は陸続きだったこの寺院に一時保管された後 キッ・スリー・メヴァンナ王に仏歯が渡されたという伝説を持つ聖地である】。

寺院内を見学していたら、動物が横切った。この記事を書くにあたり調べたところ、シモフリオオリスという南インド・スリランカの固有種と判明。

寺院からラグーンを眺める。

帰路に出会った人々は、とても和やかな雰囲気で釣り中

橋を越えて戻る。しだいに空模様が怪しくなっていた。


ホテルへ戻った後、ガイドのΩさん・ドライバーのΦさんと打ち上げ 
実はこの旅の2日目夜、3人で飲まないかと誘われたのだが却下していた。ダンブッラまでの道中で人柄が悪くないだろうことは感じていたものの 出会って如何せん時間が短すぎるのと、誘われた場所が山の中だった(←Ωさん曰く、山の中で飲むのはスリランカで一般的ということだった)ので、親交を深めたいとは思いながらも否と言わざるを得なかった。
そんなわけで、長旅の最終夜にホテルのプールサイドで打ち上げようと持ちかけられた時、断わる理由はなった
日中にスーパーで買ったつまみを片手に、お酒はアラック(アラビア語の「汗」が語源。西アジア発祥で、西は北アフリカ、東は東南アジアまで広まった蒸留酒の総称。原料は米・葡萄・サトウキビなど各地で異なるらしい。スリランカのは自分が感激した椰子酒ラーを加工するそうだが、度数がかなり上がり味わいも変わっていた)。
これまで各地を旅してきた自分だが、通しで日本語ガイドをつけるのは初めてだった。当初そんなつもりはなかったのだが、スリランカに強い旅行会社のアレンジになんとなく抗わず受容したのだった。一方のガイドΩさんは、「11日間の女性一人旅」は初パターンで重荷に感じ一旦断ったそうだが、エージェントにゴリ押しされたという。Ωさんが日本語を操るので、ドライバーは英語もあまり得意ではない人物に決まったわけで・・・パズルのようにはまって出来上がった3人組。
ドライバーのΦさんは基本的に寡黙な27歳の青年で、パパ〇ヤ鈴木に酷似。まもなく結婚1年になる妻(22歳)が妊娠中で、子どもの誕生を楽しみにしていると話す柔和な表情が印象的だった。運転も穏やかで正確。車窓を撮影しようとしたらウィンドウを開けてくれたり、クーラーが効くなと思い上着を羽織ったら温度設定を上げてくれたり、言われずとも細やかな気配りができる人。ガイドのΩさんは明るくてお茶目。頭髪が薄いらしくスキンヘッドなのだが、エネルギッシュで41歳という年齢を感じさせない。エンジニア、コンサルタントとガイドを兼業して妻・8歳と9歳の娘を養う。2年日本に留学していたため日本語がペラペラで、意思疎通がしっかりできた。
いわば「動」のΩさんが会話をリードしつつ適宜指示を出し、「静」のΦさんが着実に遂行し望む場所へ運んでくれた旅路。絶妙にバランスの取れたコンビだったと思う。偶然の引き合わせに感謝しかない

11・13 ゴール ⇒コロンボ (⇒出国) (2011年8月7日)

この日の夜便で日本へ発つことになっていたので、2日前に通った道路をコロンボへ向けて北上。
途中、あちこち車を停めて道端の人に何やらたずねたりUターンしたり・・・何だろうと思いきや、ドドルを売るお店に連れて行ってくれたのだった。カルタラ南駅近くの、鰻の寝床のような食堂に置いてあったスイーツはドドルのみ【ココナッツミルク・米粉・椰子の蜜でつくる羊羹の類。カルダモン等のスパイスを入れることもある】。
切って食べさせてもらうと、食感は硬めでバナナのような香りが強く 予想していたのとは違ったけど、心に沁みた。数日前に軽い気持ちで食べてみたいと言ったら、ハンバントタ(ゴールの東90㎞)が産地だから手に入らないと否定しながら、ひそかにチャンスを探り望みを叶えてくれたガイドΩさんの気持ちが嬉しかった


コロンボに着いてランチ(画像なし)の後、国立博物館へ。
気の向くまま撮影したモノたちを紹介したい。
まずは五鈷杵。密教も伝来したんだなと興味深かった【この記事を書くにあたり調べたところ、インドで仏教の趨勢が衰退していくなか、人気のあったヒンドゥー教や民間信仰などの要素を取り入れて密教が誕生(その時期については7世紀が有力だが、4~6世紀に遡る説もある)。スリランカでは8世紀前後に密教が栄えたという。しかし12世紀、王パラークラマ・バーフ1世の下で上座部マハーヴィハーラ派以外の仏教流派は淘汰された】。

装身具と思われる。独特な形状に魅かれた。

奔放な姿勢が強烈。アヌラーダプラで出土、8~9世紀の作。

仏足石の類。

ムーンストーン。現地から切り離して展示するパターン・・・だから遺跡を巡るだけでは飽き足らず、博物館に足を運びたいと思ってしまう。

穏やかな表情。アヌラーダプラで出土、石灰岩による4~6世紀の作。

ヒンドゥー教彫刻もたくさんあった。今にも飛び出してきそうなシヴァ神像。

ナンディー像。

ガネーシャ像。

各国から運ばれて来たものもあった。青磁??

中国のコイン。

一面を埋め尽くす緻密さ 中央のゾウの背には舎利容器・・・エサラ・ペラヘラ祭を表現しているのだろう。

キャンディ王国最後の王スリー・ウィクラマ・ラジャシンハの玉座。

ポルトガルの紋章が刻まれた石柱。結局、ゴールでは思いのほかポルトガルの面影に触れられなかったなぁ


時間が余れば、とリクエストしたスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ【コロンボの南東十数㎞、1985年から行政上の首都】。だって中学1年の地理学習以来、やたら長い首都名が気になってたんだもん
湖の真ん中につくられた国会議事堂にはこれ以上近寄れない。ちなみにこれもジェフリー・バワの建築。


★ 終わりに ★

趣味を問われて海外を旅するのが好きだと伝えると、「今まで行った中で一番良かった国はどこ?」と質問されることが多い。何がしか心魅かれる国に旅立ってきた身としては、文化や宗教の異なる国々を一律に比べることに違和感があり、本音を言ってしまえば「どの国にもそれぞれの良さがある」。
しかし、それではせっかく踏み込んで関心を示してくれた相手の立つ瀬がない。何度か同じ質問を受けるうち、あえて順位をつけるなら・・・と考えるようになった。
まず、自分は遺跡が好きである。無節操ゆえ時代・場所・宗教は問わないが、歴史を感じられるものがないと物足りない。次に人。旅先で触れ合う現地の方々から受けるインパクトはかなり大きい。そして最後に、上記2点以外の快適な要素である。例えば食事。未知の食材・味付けもあまり厭わない自分だが、辛すぎるのは苦手・肉より魚が好き・野菜多めが嬉しいなど、多少の好みはある。また、マッサージ等の特別にリラクゼーションを得られる機会があれば尚ありがたい。
そうして思い浮かんだのがスリランカなのだが、記事で魅力を存分に伝えることができただろうか。お料理の画像が極端に少なく、心残りは否めないけど

 おしまい 























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