そもそもの始まりは、東方キリスト教美術に関する本を偶然手にしたことだった。エチオピアのキリスト教美術の可愛さ・面白さに魅かれ、他の本も探り・・・ついには旅立つことになった。それにしても、初めてのアフリカ大陸訪問がエチオピアになろうとは予想だにしていなかった・・・人生って面白い
その1とは9日間の旅を3つに分けてその第1弾であり、上の地図➊~➌の都市を訪れた。なお、ティグレでは複数の場所を訪れたが➋として一本化している。
また、➊~➌は後の下線部の数字と対応している。
1 ドバイ乗り継ぎ ⇒アディスアベバ (2012年7月27日)
今回、初めてエミ〇ーツ航空を利用した。
わりと満席に近かったにもかかわらず、3列並びの座席で横に誰も来なかったので、当然のように全て占拠して寝そべった。ラッキー
ドバイ経由で行くと友人のCちゃんに伝えたら、“マルハバラウンジ” なるものを確認してほしいと頼まれた。あっさり見つかったのはいいが、受付スタッフの怒涛のような美しき英語に気圧されつつ、4時間利用+シャワー利用で210ディルハム支払った。そもそも1ディルハムがいくらなのか?? 58ドルと聞こえた気がするんだけど、ヒアリングにいまいち自信がない
横になるスペースはないと受付スタッフから念を押されたが、空いていればカウチソファを占領できる。快適で、ラウンジ外のぎゅう詰めのベンチとは雲泥の差。
ラウンジ内のフードとドリンクは取り放題。こちらがドリンクコーナー、缶ビールもタダとはありがたい ハイ〇ケン、バド・・・と並ぶ中で、ア〇ステルのライトを選択(下の画像で、上から2段目の右端がそれ)。前夜、機内ではクオーターボトルの赤ワインのみで物足りなかったので、これ幸いと飛びつく。3.5%の350mlならトランジット待ち7.5時間のあいだに醒めるよね~と楽天的に
甘党向けのフルーツにケーキ、アルコール好き用のおかず・・・万人向けの配慮がすばらしい
私は下の画像まん中のフムス【ひよこ豆のペースト。イスラエル・モロッコなど地中海沿岸でポピュラーな料理】をいただいた。あっさりしてて美味、アルコールに合う
アディスアベバ到着は13時半だったが、初アフリカの治安を警戒し、空港出迎えを依頼しておいた。が、到着出口にガイドは来ていなかった。これまでの旅で迎えの方に会えないなんて皆無だったので、正直焦った ガイドらしき人を見かける度にあの人こそはと思うが、彼らはみなツアー客と合流するのだった。ホテルのバウチャーがないので賭けになるが、とりあえず両替してタクシー拾ってホテルまで行ってみようかなどと考えつつ、とりあえず1時間は待つことにする・・・そして、無為に50分経過
その間 挙動不審な私の様子から状況を察したらしいホテル客引きのお兄ちゃんが、空港の扉の外で待っていた迎えのガイドに気づき、私に声をかけてくれた。東洋人を1人待っていると耳にしたのだろう。予約してるから客引きに用はないとばかりに邪険な態度とって悪いことしたなぁ・・・一青年の優しさで、早くもエチオピアの印象アップ
しかし、ツアーガイドは空港に入れても個人ガイドは入れてもらえないのね・・・扉の所では、空軍らしき人が出入りする人々に目を光らせている。国によっていろいろなシステムがあるんだなー
そんなわけで市内観光の時間が減り、初日は国立博物館とTrinity Churchで終了。ま、最終日もアディスで時間あるからいいか
曇りつつもなんとか保ってると思ってたら、急に大粒の雨 未舗装の場所も多いから、ぬかるみ覚悟だな・・・
車窓から眺めるアディスアベバの街はカトマンズ(1998年当時)よりにぎやかだけど、ニューデリー(2000年当時)やコロンボ(2011年当時)ほどではない。高層建物もあるにはあるけど、平屋の割合が高い。アフリカ諸国の首都を他に知らないから比べようがないけど、発展途上なんだなぁと実感する。
博物館は予想以上にコンパクトだったけど、展示品は少数精鋭だった。
エチオピアの土偶??(ピンボケでごめんなさい)
レリーフに彫られた人物の髪型が写実的。
エチオピアで発見された猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)の骨。サラリと書いてあるけど360万~300万年前・・・凄すぎる
そして、最も有名な猿人のひとつ、Lucyの化石【1974年に発見。約320万年前のもので、身長105cm・体重25㎏・脳容量400㏄未満。骨格の40%ものピースが発見されたのは当時画期的で、以後の研究に大きく寄与した】。本物じゃなくてレプリカなのが残念だけど
直立二足歩行の骨格図と、化石から想像される猿人の図。
2階の廊下には椅子があり、休憩できるようになっていた。
数日後に訪れることになっているラリベラの教会から運び込まれた絵の一部。聖母子と天使は18世紀初めの作。
民俗的な展示品もあった。色とりどりの籠たち。
見慣れない形の弦楽器だなー
各民族の衣装も展示されていて、興味深かった。2体とも女性用。
アフリカ版のトーテムポール
お次は三位一体教会【対イタリア戦争勝利を記念し、1942年に完成】。
中はこんな感じ。
ステンドグラス、さすがに新しい。
本来なら閉まっている時間にもかかわらず、司祭がわざわざ鍵を開けて見せてくれたことが嬉しかった。
別れ際、恐る恐る“アマサグサラフ”(=ありがとう)と言ってみたら、片言のアムハラ語が通じた 単純に嬉しくて、明日以降も使い倒そうとさっそく調子に乗るのだった
翌日以降に備えて、ホテルへ行く前に両替することになった。てっきり銀行と思っていたら、ヒル〇ンホテル内の両替所に連れて行かれた。でも、下調べしていたレートより随分良いのだ さすが、外貨の飛び交う所だなぁ~
翌朝の出発が早いため、夕食はホテルでとることにして早々に戻った。
予算の関係でアディスのホテルはランクを落としただけあり、ちぐはぐな感じの部屋だった。妙に豪華に見える調度品にカプセル式のユニットバスなのだが、部屋のメインの灯りが点かず薄暗い。欄間の窓越しに漏れてくる廊下の灯りが頼りなのだが、いざ眠ろうとすると今度はその明るさが目障りになり・・・(暗闇で眠りたい性質なもので)
各地をまわって最終日にまたこのホテルへ戻って来るんだけど、違う部屋だといいな~
しかし、レストランは美味しかった 魚のグヤーシュ【ハンガリー発祥の料理。牛肉と玉ねぎを炒めて塩とパプリカパウダーで味つけし、水・トマト・じゃがいもを加えて煮込むスープ。ドイツなど他国では粘性のあるシチュー風となる】とビールを注文。St.Georgeビール、香り高くて美味し
グヤーシュは辛すぎず丁度よく、付け合わせのfried riceには青菜や人参が入っていて理想的。生粋のエチオピア料理ではないだろうが、初日としては大満足
てか、私が日本人と気づいたスタッフは、食べているあいだ演歌のインストゥルメンタル(「道づれ」とか)をBGMに流してくれた。親日的なんだろうか。エチオピアを植民地化したイタリアとかつては同盟国だったんだけどな・・・ちょっぴり申し訳ない気持ちになるのだった
1・2 アディスアベバ ⇒(メケレ経由)⇒ティグレ (2012年7月28日)
この日はティグレの岩窟教会群を訪れるため、朝7時10分発の飛行機でメケレまで飛ぶことになっていた。
5時半のピックアップに10分遅刻してしまった・・・だって、ベッドが寝心地良くてグッスリ眠っちゃったんだもん
事前のガイドブック情報で恐れていたダニにやられた気配もナシ。すこぶる快適な朝
国内線のboarding timeが45分前と早いため、日記を書きながら搭乗口で待つ。
窓の外は雨【エチオピアの中央部は6~9月が大雨季。特に7~8月は1ヶ月の平均降水量が300ミリ近い】。長袖のTシャツにフリースを羽織るのでちょうどいいカンジの気温。昨日から薄々感じているのだが、このぶんだとマラリアは大丈夫かも。日本的な感覚で、大雨=蒸し暑い=蚊が出るとイメージしていたけど、これだけ低温では生存が厳しいだろうなぁ・・・などと呑気にしたためた後、不運に見舞われた私
結論から言うと、3時間待たされたのだ。違う飛行機に乗せられたので機体の不調かと思ったら、メケレで落ち合ったガイドのJさん曰く天候不良が原因らしい。
旅程が狂うであろうことに対する焦り、空港のコンディションの悪さ(下半身が冷えるほど寒かった・・・たぶん暖房は入ってなかったと思う)、朝食抜きによる空腹・・・前日の空港でのすれ違いのように一筋縄ではいかない予感が膨れあがり、とても長い時間だった
delayのお詫びにと配給されたパウンドケーキ1切れにオレンジジュースで当面の空腹をしのぎ、機内では下半身も温まり、行く予定だったマリアム・コルコル【標高2,500mの山頂にある、13~14世紀建造の教会。偶然にも旅の少し前、テレビ番組『イッテ〇』でイモ〇アヤコが登っていた】は無理だろうな・・・と冷静に諦めもついたころ、メケレに到着。
ティグレ州都というメケレの街を丘の上から見下ろす。アディスアベバよりも小綺麗で広々としているな~
道中、お水を買った道端のお店。
前日のドライバー&ガイドさんの方が相性良かったかもと感じつつ、この先3日間は行動を共にするため、少ないボキャブラリーを駆使しつつ不得手な英会話を続けようと試みた。その過程で、ミッションスクールに通っていたからキリスト教の美術に興味がある、と強調しておいた。
【エチオピアがキリスト教を国教としたのは4世紀、アクスム王国の時代。以来、エジプトはアレクサンドリアから主教を迎えていたためコプト教と同一視されやすいが、5世紀末に紅海を越えてシリアからやって来た9人の聖人もこの国での布教に大きな影響を与えたという。彼らはエチオピア北部のティグレに広がる急峻な岩場に教会をつくり、修道の場所とした。】120以上点在しているそうした岩窟教会のうち、今回の旅で5ヶ所を訪れることになっていた。
メケレから1時間余りでアブレハ・アツベハ教会に到着。正面部分は補修してあるため、一見何の変哲もない感じ。
が、側面から見るとこうなっている。後ろの岩のような部分も教会だ。
10世紀創建とされるが、現存する壁画は17世紀頃のものという。ちなみに、真ん中に掛かっている時計はてんで合っていない(訪れたのは14時半)。
昼間だからか、内部に灯りはついていない。扉から入る自然光が頼りで、奥へ行くほど薄暗い。どうか目を凝らしてご覧ください。
布に描かれた絵が柱に巻き付けられている メイキング中のようで面白い。
右側の薄暗い部分にアダムとイブが描かれている。
下の絵は、この教会で自分が最も感銘を受けたもの。聖母に抱かれたキリストの口元にご注目あれ。マリア様のおっぱいが描かれている。乳を口に含ませるこのスタイルはガラクトトロフーサ型と呼ばれ、エジプトの影響を受けた構図という。私をエチオピアに連れ出した東方キリスト教美術の本に同様の作例(9世紀と12~13世紀の)が載っていた。比すればこちらはずいぶん新しい絵であろうが、遥か2,000km南方にまで同じ様式が伝播していることがすばらしい。目の当たりにしてジ~ンとした
アフリカの大地を思わせるような茶系の色調で、壁面を埋め尽くすように描かれている。
教会の隣にはささやかな博物館があり、宝物がガラスケースの中に収められていた。
手持ち用の十字架(高さ30~50cmくらい)。エチオピア正教特有のもので、場所によって形にバリエーションがある。
表面に線刻画のあるタイプ(ガラスの反射で見づらくてごめんなさい)。
こちらは描画のないタイプ。後ろはゲーズ語【エチオピアの古語。10世紀には話し言葉としては消滅したが、教会の典礼用語として生き残った。聖書はもっぱらこれで記述されている】で書かれた聖典。
次はアブナ・イエマタ教会を目指す(予定ではマリアム・コルコル教会だったが、メケレで会うなり開口一番、ガイドのJさんは行く時間がないと私に告げた。予想通りの展開)。
約1時間の道中、我々の車を乗り合いバスと間違え、“止まってくれ”と合図するエチオピア人が多発。個人専用の自動車が走ってること自体が珍しいんだろうか。
ティグレの景観。右に傾く地層がはっきりと見える。
切り立つ山の感じがアメリカはモニュメント・バレーぽくないか (写真で見ただけ、行ったことないけど)
途中雨が降ったり止んだりしつつ、アブナ・イエマタの近くまで進んだが、濡れていて登るには危ないということで、明朝に延期となった。今すぐ見たいのはヤマヤマだけど、地元人の助言には素直に従おう。翌朝が雨だったら、レインスーツで決行するぞ
この日の宿はハウゼンという場所にあるロッジ。手入れが行き届いて小ざっぱりしている。
部屋は撮っていないので、代わりに共用スペースの画像を載せておく(後のライブラリーとともに、撮影したのは翌日午前)。
トイレはすぐ流れるしシャワーは30秒でお湯になるし、水まわり超快適
予定変更で16時半には到着したこともあり、洗濯に着手。湿度が高く気温は低いから期待できないだろうけど・・・12時間でどのくらい乾くのかひとまずチャレンジ。
夕食もホテルにて。夕食前のドリンクサービスは気が利いている。色々選べた中で、ハウスカクテル(ハニーワイン+カンパリ+α)に挑戦。
エチオピアのハニーワイン(タッジ)は結構クセがあり単体では自分はダメな気がするが、カンパリが持つ別な癖と相乗してバランスよい風味をかもし出している。このカクテルは気に入った
食事はラザニア、エチオピア初のパスタ【宗主国イタリアがもたらしたパスタはしっかり根付き、エチオピアでポピュラーな料理となっている】。パスタ好きの自分にとって、今回の旅の楽しみのひとつでもあった。
グラスの赤ワインも注文。外国産のカベルネ・ソーヴィニヨンが60ブルだった。
標高2200mでは酔いがまわりやすく、先ほどのカクテルとあわせて2杯でいつもの2.5倍くらいの感覚。気持ちとしては物足りないけど、肝臓の骨休めとしよう
いつもながら、お料理もドリンクも撮っておらず残念 まさかブログやるとは思ってなかったもんなー
食後、ライブラリーにある岩窟教会の本を手に取った。1冊でいいから、どれか買いたいな~
訪れるはずだったマリアム・コルコル教会の写真が目に入ってくる。ビジュアルの強さったら、ハンパないわ。やっぱり見たかったなぁ・・・とうに諦めたはずの思いが甦る。まだまだ精進が足りないな、自分 ちなみに、翌日チェックアウト前に宿の人にたずねたが、本は売っていなかった。代金を支払うので譲ってほしいと食い下がったが、あえなく玉砕
2・3 ティグレ ⇒アクスム (2012年7月29日)
早朝 ロッジは一面もやに包まれていたが、幸い雨は降っていない模様。7時過ぎ、8㎞南西のアブナ・イエマタ教会へ向けて出発。
途中の村で車に乗り込んできた青年(10代後半~20代前半)は、後にガイドと判明する。
雨季の雨により車が入れない状況になっていたため、予定よりも少し手前で車を降り、麓まで歩く。
下の画像、左前方にかすんでいるのが目指す教会のある山。ちなみに左が先ほど乗り込んできた青年ガイド、右が前日からお世話になっているガイドのJさん。
2人はこの平らな道の時点でフツーに歩いていても私より速く、ついて行くのに気合いを入れねばならなかったし、登り道になっても同じペースで進んで行くので、結構キツかった・・・日本人にとって標高2,000m超の場所は歩くのさえ高地トレーニングなんだから手加減してほしいのよ、ゼェゼェ
事前に見た旅雑誌にも出てきたオリーブの木の所と、岩が険しくなる急坂の手前と、ロッククライミングポイントの手前の3ヶ所で、ガイドのJさんさんから「続けるか?やめるか?」と意志を確認される。まるで私の気持ちを萎えさせて振り落とそうとするかのように、相変わらずペースは遠慮ない。大学時代に多少山に登っていた自分だが、登り始めにどっと汗をかき体力を使うタイプなので、オリーブの木前後の前半地点が個人的には最もつらかった が、私を心配している(と思いたい)ガイドさんたちの思惑をよそに、ここまで来たからにはどんな道でも登頂してやるというのが私のスタンスだった。
その情熱を感じ取ってくれたのか、私のリュックサック(意外に重い)を代わりに背負いながら青年ガイドが手を取りつつ登ってくれた。そして、なぜだか途中から合流した村のおじさんもお尻を押したりしてくれる。
ようやく辿り着いたロッククライミングポイントを見上げたのが下の画像。上部の出っ張った所に教会へつながる通路がある。その下のほぼ90度に切り立つ崖を6mほど直登した。登り始めてすぐに、靴を脱いで素足になれと言われた理由がわかった。命綱はないが、歴代の参拝者たちによって作られたくぼみに手足を掛ければ登れるようになっている。
実は高所恐怖症の私。ロッククライミング以降、とにかく後ろを振り返るのはよそうと決心。教会へつながる通路は地上300mの断崖にへばりつくような幅1mの道だった(←後から調べた情報によると)が、靄がかかってよく見えなかったのも幸いして、足がすくむことはなかった。ただし、教会への道中を撮りたくてもデジカメを取り出せなかった、思いのほか風が吹きつけるので崖づたいの手を離すことができず
途中で合流した司祭さんが開けてくれた部屋にいよいよ入ると、8人の使徒+イエスの弟の天井画が真っ先に目に飛び込んできた。事前に本で何度も目にしてきたけど・・・思わず涙が出そうになった。恐るべし、本物の迫力。あの絶壁をよじ登って来た者のみがこれと直に対峙することを許されるのだ・・・
私はここにいる!!心の中で快哉 いつもいつも私を旅へと駆り立てる原動力がみなぎっていく
青年ガイドの説明によると、上の画像で口に手を当てているのがイエスの弟ヤコブ(時計でいう3の位置にいる、黒いあごひげの人物)。ユダを除く使徒のうちペテロ・トマス・パウロは他の場所に描かれているという。下の画像がそれ(めっぽう暗くてごめんなさい)。
奥の天井にはシリアから来た9人の聖人が描かれている(撮ったものの暗すぎ、ここに載せるのを断念)。奥の壁面には9人のうちの1人、アブナ・イエマタが馬上に鎮座。
隙間に描かれる茶と白の組み紐模様が印象的だった。
内部はそう広くない【ガイドブック情報だと7.8m×9.4m】が、木の道具がたくさんある。下のピンボケ画像で左端の司祭さんが持つのが杖、真ん中に立っているのがキャンドルスタンド、その右の壁に寄りかかっているのが聖書ホルダー。木の杖は、時に8時間も続く礼拝中 決して座ってはならない信者のために寄りかかる目的、ゲーズ語で書かれた賛美歌を歌う時に譜面を読めない信者のために音程の上下を示す目的などで使うそうだ。
若い青年ガイドは説明の要領を得ている。才覚がほとばしっており、いずれ大成するのではと感じさせた。
ゲーズ語で書かれた聖書を見せてくれる司祭さん(人相がはっきり写っているため、塗りつぶしました)と、床に無造作に置かれた聖書たち。それにしても古そう・・・
エチオピア正教を取材した方が本に書かれていたのを思い出す。博物館の展示ケースに入るレベルのものが現役で使用されている、と。
下りて来た後、ひと休みする司祭さん。
つくづく、前日に無理して強行しなくてよかったと思う。雨でぬれていたら、レインスーツを着ていたら、登りにくさは倍増どころではないだろう。地元人の判断に従って正解だった。
教会の鍵を開けてくれた司祭さん、青年ガイド、道中で押してくれたおじさん(←後でガイドのJさんにチップを請求し、ちゃっかりもらっていた)、そしてここまで私を連れて来てくれたドライバーIさん&ガイドJさん・・・その全ての人々のおかげで私はアブナ・イエマタにたどり着くことができた。心から感謝している
たとえこの後何かトラブルなどあって予定通りに見学できないものがあったとしても、これを見ただけでもエチオピアに来た甲斐はあった 興奮さめやらぬ思いで、眼前に広がるティグレの大地を眺めるのだった。
下山後、ホテルに戻って朝食をとる。チェックアウトタイムの10時を15分過ぎていたが、オーナーさんが大目にみてくれた
この日はティグレの他の岩窟教会を見た後、アクスムで泊まることになっていた。ホテルのあるハウゼンから直線距離で30㎞ほど東にあるメダニ・アレム教会とペトロス&パウルス教会を目指したが、これが想像を絶する道のりだった。未舗装の道路は雨季のためドロドロに変形、凸凹しているため車はバウンドしまくり。過去の旅路と比べてみても、カンボジア(1999年当時)やミャンマー(2005年当時)でもこれほどではなかったと思う。自分は座ってるだけだからいいとして、ドライバーのIさんはかなり神経を要しただろう。
前日も感じたが、アメリカはモニュメント・バレーな感じの車窓。雄大な地溝帯が広がっている。
旅の後半は飛行機で都市間を移動するので、ゆっくり景色を愛でるのはこれが最後になるかもな・・・しみじみしつつ。
なんだか地球のエネルギーを感じさせる地形なのよね。大地の茶色に草木の緑。乾季だったらほぼ茶色になるんだろうか としたら、ずいぶん印象変わるなぁ。
雨季に来てよかったな。個人的にはこの眺めが好き
ペトロス&パウルスの看板を見てからがまた壮絶で・・・いわゆる農村のぐねぐね道に突入。それまでの街道沿いの家々とは一段違ってローカル度が上がった。
特にメダニ・アレムへの道が複雑らしく、ドライバーのIさんは途中で行き合った地元の白シャツ青年(19歳、生物が好きで医者になりたいという夢を後で聞いた)を乗せて道案内をさせる。そうして到着したメダニ・アレム教会の麓では、道案内を申し出るちびっ子少年が多数いた。ガイドのJさんが1人選んで、また例の早すぎるスピードでグイグイ山を登っていく。こーいう時、基本的に冷たいんだよなぁ
アブナ・イエマタ再びかとため息ついた頃、あっさり登りは終了。登ったところで、後から追いかけてきた少女に先ほどのちびっ子がど突かれている。まるでサ〇ヱさんとカツ〇のようだ。ガイドさん曰く、姉はこの教会の司祭さんのアシスタントらしい。“まったく、あんたって子は私に抜け駆けして勝手なことをして”といったところか。そっか・・・ガイドJさんはアシスタントの弟と知って、数多の少年の中から彼を選んだんだろーなぁ。
メダニ・アレムの門前に到着後、鍵を持つ司祭さんをひたすら待った。標高があるせいか、ジッとしていると次第に肌寒くなり、フリースを羽織る。
Jさんもアシスタントの少女も一向に気にしない様子で、穏やかに喋りながらたたずんでいる。一方、自分はといえば・・・こーいうのにイライラするのがダメなんだろうなぁ
待つこと30分、やって来た司祭さんが持つ木製のクロスに3回ずつキスをしたガイドJさんと少女。なお、彼らは教会に入る前に床と扉にも3回ずつキスをした。所変われば作法も変わるものだ。
木製の小十字架が2つはめ込まれた門の向こうに教会があった。
岩を掘り抜いてつくられている。後世に描かれたのであろう黄色と水色の十字架と人物の絵が目を引く。
教会の入口の扉を開けると、中は暗い。灯りがないため、司祭さんがロウソクに火をともして 天井に存在する様々なデザインの十字架の彫刻を見せてくれた。【エチオピア正教はキリストの人性を否定する非カルケドン派のため、古い時代の教会には人物をかたどるモノがない】。何枚か撮ったうち一番写りのマシなものを載せるが、それすら見にくい画像でごめんなさい
ファサードと扉のあいだの空間。奥のアーチの向こう、天井には一見花のように見える十字架の彫刻がある。
人物は左からちびっ子ガイド、白シャツ青年、ガイドのJさん、司祭さん。
下山前、麓を見下ろしながら佇むアシスタントの少女。今にも降り出しそうな空。
先ほどの司祭さんに加えて何だかよく分からない女性(50代くらいか)が乗り込んで、ペトロス&パウルスへ向けて出発。うん、乗り合いバスっぽくなってきたぞ
14時半前、目的地に到着。ここでもまた駆け寄ってきたちびっ子ガイド2人がラジオをひねって歩き出す。流れ始めた演歌、耳をこらしても聴いたことがないマイナーな曲。日本人の私を慰めるためのサービスなんだろうか。かくして、風景に似つかわしくない曲がけっこうな音量で流れる珍道中がスタート。
下の画像、前方の岩の中腹右寄りに垣間見える白い石の部分が教会入口。
結果的に言えば、岩窟教会ながらかなり楽にアクセスできた。木の梯子が掛かっているおかげで 入口が高所にあるので怖いのは怖いが、前日の崖登りに比べるまでもない。
木製の柱や梁に支えられた教会の内部にはダイナミックな壁画がズラリ。一見してアースカラーの絵は、植物や動物の血など天然の染料を用いているという。
下の画像、アーチの上にはマリア様と天使のガブリエル&ミカエル。その下の狭いスペースには鎖につながれた人物。
動物や花瓶も描かれている。
面白い形の柱に近寄っていくと・・・
上部の壁にはイエスと弟子たちが描かれていた。
お気づきのとおり、各所にひび割れが走っている・・・大きな地震が来たらと想像するだに恐ろしい 手を加えすぎず風合いを残しながら、なんとか補修できないものだろうか。
ティグレの岩窟教会群は19世紀までその存在が広く知られておらず、また政治的情勢により1990年代初頭まで訪れることもままならなかったという。研究が進み宗教的・美術的価値が定まっていくのは今後なのだろうけど、致命的な損傷の前に保存されることを願ってやまない。
農村を抜け出して街道に復帰したものの、今夜泊まるアクスムまで長~いドライブが残っていた。16時のランチを断った自分のせいでもあるけど、結果的にゲラルタのホテルで朝食をとった後8時間余りトイレに行けず 予感がして途中から水分補給をセーブしたから、大して行きたくもならなかったけど。ちなみに、ドライバーIさんとガイドJさんは途中でフツーに車を停めて野原で用を足していた。ちぇ~ 男の人はいいなぁ、こーいう時。
共にする時間が増えるにつけ、ドライバー&ガイドの人となりが少しずつ見えてきた。
ドライバーのIさんはお洒落で、短めのドレッドヘアにグラサン、身なりにも気を遣う若者(たぶん20代)。近寄り難そうな第一印象に反して、旅程の所々で「元気か?」とか「どうだった?」と声をかけてくれる。そして、夜19時過ぎまで運転した後、泥まみれの車体をピカピカにしている、翌朝9時までに。一見チャラそうだけど、ドライバーとしてはプロ。
ガイドのJさんは基本的に寡黙なタイプ。私の英会話力がイマイチゆえそうなるのかと最初は思ったが、いやいや・・・この日の朝7時のピックアップに少々遅刻した私がロビーに飛び出した時、本を読んでいたJさんが静かに顔を上げたのが印象的だった。英語が堪能で、アクスムの史跡説明(翌日)も詳しかったし、勉強が好きなんだなと感じさせた。性格は基本的に穏やか。何というか・・・スルメみたいな人。ツカミは印象薄いけど、つき合うほどに良さがわかってくる。IさんにJさん、前日に会った時は相性がいまひとつと思ってごめんね。前言撤回だわ。
ちなみに、それぞれプロな2人だけど、後部座席で私が聞いてる限りあまり両者は会話を交わさない。合わないのかなぁ レゲエドライバーIさんは音楽好きみたいで、車内BGMにこだわる。そして走行中に携帯電話を使いまくり・・・かけたり、かかってきたり。そんなIさんに電話がかかってきたら、わりとボリュームの大きいBGMをそっと小さくするガイドのJさん。細かい気遣いにIさんが感謝している風でもなく、通話が終わったら再び音量を上げるIさん。また電話かかってきて、Jさんが音量落として・・・の繰り返し。音が大きいぞというJさんなりのアピールかもと穿ってみたけど、表情からしてそうでもなさそう。ヒマに任せて、不思議な関係の2人を観察する道中も楽しかった
少しだけ農村を通り過ぎて思ったのは、もちろん難民キャンプでも何でもない村で、フツーに幼児は栄養失調だということ。汚れ具合などからして身につけているのはたぶん着の身着のままの1枚で、腹部がやや膨れている子たちが多かった。日本でいう小学生くらいの歳の子達はそう見えなかったから、幼い子どもの器官では栄養を吸収しにくい食料事情なのだろうか。都市とまではいかない街道沿いの町と、農村の格差は旅人の目にも明らかだった。
とっぷり日が暮れて19時15分、アクスムのホテルに到着。
あれこれ登って汗かいたのでシャワー浴びたい・・・遅くなるとお湯が出ないかもしれない。でも9時間食べてないから、さすがにお腹すいた
というわけで、先に夕食へ。ホテル内のレストランでメニューもらったところでようやく、(業者を通じて手配していた)予定のホテルではなく別のホテルへ来ていることを知った。暗かったし疲れていたとはいえ、うっかりしすぎだ自分
ガイドJさんの仕業だろうなー なんでだろう このホテルに知り合いがいるのかな? 料金はどうなるんだろう?・・・色々な思いが頭をグルグルしたが、今さら本来のホテルへ移動するのは現実的ではない。案内されてすぐに気づかなかったから仕方ないと腹をくくった。
夕食のスープと、肉入りのインジェラ【テフというイネ科系の穀物を粉にして水と混ぜイーストを入れて2~3日発酵させ、鉄板でクレープ状に焼いたもの。エチオピアの主食】。旅立つ前からガイドブックで目にしていたインジェラに初挑戦 酸味があるふわふわの生地は自分の好みドンピシャで、毎日食べられると思った。実際、この後何度も口にしたのだった
夕食中(たぶん19時半頃)に突如停電。すぐにレストランの給仕が来て、卓上にキャンドルを置いてくれたので事なきを得る。ミャンマーでも体験済みだったが、こちらは時間が長い。
部屋に戻った後、22時から再び停電。自前の懐中電灯で照らしながら歯を磨き、旅先での夜の習慣=日記書きもそこそこに床へ入った。
★ 中締め ★
旅の第2弾では聖都アクスム、ポルトガルの影響漂う古都ゴンダールを訪れます。
お楽しみに~
その1とは9日間の旅を3つに分けてその第1弾であり、上の地図➊~➌の都市を訪れた。なお、ティグレでは複数の場所を訪れたが➋として一本化している。
また、➊~➌は後の下線部の数字と対応している。
1 ドバイ乗り継ぎ ⇒アディスアベバ (2012年7月27日)
今回、初めてエミ〇ーツ航空を利用した。
わりと満席に近かったにもかかわらず、3列並びの座席で横に誰も来なかったので、当然のように全て占拠して寝そべった。ラッキー
ドバイ経由で行くと友人のCちゃんに伝えたら、“マルハバラウンジ” なるものを確認してほしいと頼まれた。あっさり見つかったのはいいが、受付スタッフの怒涛のような美しき英語に気圧されつつ、4時間利用+シャワー利用で210ディルハム支払った。そもそも1ディルハムがいくらなのか?? 58ドルと聞こえた気がするんだけど、ヒアリングにいまいち自信がない
横になるスペースはないと受付スタッフから念を押されたが、空いていればカウチソファを占領できる。快適で、ラウンジ外のぎゅう詰めのベンチとは雲泥の差。
ラウンジ内のフードとドリンクは取り放題。こちらがドリンクコーナー、缶ビールもタダとはありがたい ハイ〇ケン、バド・・・と並ぶ中で、ア〇ステルのライトを選択(下の画像で、上から2段目の右端がそれ)。前夜、機内ではクオーターボトルの赤ワインのみで物足りなかったので、これ幸いと飛びつく。3.5%の350mlならトランジット待ち7.5時間のあいだに醒めるよね~と楽天的に
甘党向けのフルーツにケーキ、アルコール好き用のおかず・・・万人向けの配慮がすばらしい
私は下の画像まん中のフムス【ひよこ豆のペースト。イスラエル・モロッコなど地中海沿岸でポピュラーな料理】をいただいた。あっさりしてて美味、アルコールに合う
アディスアベバ到着は13時半だったが、初アフリカの治安を警戒し、空港出迎えを依頼しておいた。が、到着出口にガイドは来ていなかった。これまでの旅で迎えの方に会えないなんて皆無だったので、正直焦った ガイドらしき人を見かける度にあの人こそはと思うが、彼らはみなツアー客と合流するのだった。ホテルのバウチャーがないので賭けになるが、とりあえず両替してタクシー拾ってホテルまで行ってみようかなどと考えつつ、とりあえず1時間は待つことにする・・・そして、無為に50分経過
その間 挙動不審な私の様子から状況を察したらしいホテル客引きのお兄ちゃんが、空港の扉の外で待っていた迎えのガイドに気づき、私に声をかけてくれた。東洋人を1人待っていると耳にしたのだろう。予約してるから客引きに用はないとばかりに邪険な態度とって悪いことしたなぁ・・・一青年の優しさで、早くもエチオピアの印象アップ
しかし、ツアーガイドは空港に入れても個人ガイドは入れてもらえないのね・・・扉の所では、空軍らしき人が出入りする人々に目を光らせている。国によっていろいろなシステムがあるんだなー
そんなわけで市内観光の時間が減り、初日は国立博物館とTrinity Churchで終了。ま、最終日もアディスで時間あるからいいか
曇りつつもなんとか保ってると思ってたら、急に大粒の雨 未舗装の場所も多いから、ぬかるみ覚悟だな・・・
車窓から眺めるアディスアベバの街はカトマンズ(1998年当時)よりにぎやかだけど、ニューデリー(2000年当時)やコロンボ(2011年当時)ほどではない。高層建物もあるにはあるけど、平屋の割合が高い。アフリカ諸国の首都を他に知らないから比べようがないけど、発展途上なんだなぁと実感する。
博物館は予想以上にコンパクトだったけど、展示品は少数精鋭だった。
エチオピアの土偶??(ピンボケでごめんなさい)
レリーフに彫られた人物の髪型が写実的。
エチオピアで発見された猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)の骨。サラリと書いてあるけど360万~300万年前・・・凄すぎる
そして、最も有名な猿人のひとつ、Lucyの化石【1974年に発見。約320万年前のもので、身長105cm・体重25㎏・脳容量400㏄未満。骨格の40%ものピースが発見されたのは当時画期的で、以後の研究に大きく寄与した】。本物じゃなくてレプリカなのが残念だけど
直立二足歩行の骨格図と、化石から想像される猿人の図。
2階の廊下には椅子があり、休憩できるようになっていた。
数日後に訪れることになっているラリベラの教会から運び込まれた絵の一部。聖母子と天使は18世紀初めの作。
民俗的な展示品もあった。色とりどりの籠たち。
見慣れない形の弦楽器だなー
各民族の衣装も展示されていて、興味深かった。2体とも女性用。
アフリカ版のトーテムポール
お次は三位一体教会【対イタリア戦争勝利を記念し、1942年に完成】。
中はこんな感じ。
ステンドグラス、さすがに新しい。
本来なら閉まっている時間にもかかわらず、司祭がわざわざ鍵を開けて見せてくれたことが嬉しかった。
別れ際、恐る恐る“アマサグサラフ”(=ありがとう)と言ってみたら、片言のアムハラ語が通じた 単純に嬉しくて、明日以降も使い倒そうとさっそく調子に乗るのだった
翌日以降に備えて、ホテルへ行く前に両替することになった。てっきり銀行と思っていたら、ヒル〇ンホテル内の両替所に連れて行かれた。でも、下調べしていたレートより随分良いのだ さすが、外貨の飛び交う所だなぁ~
翌朝の出発が早いため、夕食はホテルでとることにして早々に戻った。
予算の関係でアディスのホテルはランクを落としただけあり、ちぐはぐな感じの部屋だった。妙に豪華に見える調度品にカプセル式のユニットバスなのだが、部屋のメインの灯りが点かず薄暗い。欄間の窓越しに漏れてくる廊下の灯りが頼りなのだが、いざ眠ろうとすると今度はその明るさが目障りになり・・・(暗闇で眠りたい性質なもので)
各地をまわって最終日にまたこのホテルへ戻って来るんだけど、違う部屋だといいな~
しかし、レストランは美味しかった 魚のグヤーシュ【ハンガリー発祥の料理。牛肉と玉ねぎを炒めて塩とパプリカパウダーで味つけし、水・トマト・じゃがいもを加えて煮込むスープ。ドイツなど他国では粘性のあるシチュー風となる】とビールを注文。St.Georgeビール、香り高くて美味し
グヤーシュは辛すぎず丁度よく、付け合わせのfried riceには青菜や人参が入っていて理想的。生粋のエチオピア料理ではないだろうが、初日としては大満足
てか、私が日本人と気づいたスタッフは、食べているあいだ演歌のインストゥルメンタル(「道づれ」とか)をBGMに流してくれた。親日的なんだろうか。エチオピアを植民地化したイタリアとかつては同盟国だったんだけどな・・・ちょっぴり申し訳ない気持ちになるのだった
1・2 アディスアベバ ⇒(メケレ経由)⇒ティグレ (2012年7月28日)
この日はティグレの岩窟教会群を訪れるため、朝7時10分発の飛行機でメケレまで飛ぶことになっていた。
5時半のピックアップに10分遅刻してしまった・・・だって、ベッドが寝心地良くてグッスリ眠っちゃったんだもん
事前のガイドブック情報で恐れていたダニにやられた気配もナシ。すこぶる快適な朝
国内線のboarding timeが45分前と早いため、日記を書きながら搭乗口で待つ。
窓の外は雨【エチオピアの中央部は6~9月が大雨季。特に7~8月は1ヶ月の平均降水量が300ミリ近い】。長袖のTシャツにフリースを羽織るのでちょうどいいカンジの気温。昨日から薄々感じているのだが、このぶんだとマラリアは大丈夫かも。日本的な感覚で、大雨=蒸し暑い=蚊が出るとイメージしていたけど、これだけ低温では生存が厳しいだろうなぁ・・・などと呑気にしたためた後、不運に見舞われた私
結論から言うと、3時間待たされたのだ。違う飛行機に乗せられたので機体の不調かと思ったら、メケレで落ち合ったガイドのJさん曰く天候不良が原因らしい。
旅程が狂うであろうことに対する焦り、空港のコンディションの悪さ(下半身が冷えるほど寒かった・・・たぶん暖房は入ってなかったと思う)、朝食抜きによる空腹・・・前日の空港でのすれ違いのように一筋縄ではいかない予感が膨れあがり、とても長い時間だった
delayのお詫びにと配給されたパウンドケーキ1切れにオレンジジュースで当面の空腹をしのぎ、機内では下半身も温まり、行く予定だったマリアム・コルコル【標高2,500mの山頂にある、13~14世紀建造の教会。偶然にも旅の少し前、テレビ番組『イッテ〇』でイモ〇アヤコが登っていた】は無理だろうな・・・と冷静に諦めもついたころ、メケレに到着。
ティグレ州都というメケレの街を丘の上から見下ろす。アディスアベバよりも小綺麗で広々としているな~
道中、お水を買った道端のお店。
前日のドライバー&ガイドさんの方が相性良かったかもと感じつつ、この先3日間は行動を共にするため、少ないボキャブラリーを駆使しつつ不得手な英会話を続けようと試みた。その過程で、ミッションスクールに通っていたからキリスト教の美術に興味がある、と強調しておいた。
【エチオピアがキリスト教を国教としたのは4世紀、アクスム王国の時代。以来、エジプトはアレクサンドリアから主教を迎えていたためコプト教と同一視されやすいが、5世紀末に紅海を越えてシリアからやって来た9人の聖人もこの国での布教に大きな影響を与えたという。彼らはエチオピア北部のティグレに広がる急峻な岩場に教会をつくり、修道の場所とした。】120以上点在しているそうした岩窟教会のうち、今回の旅で5ヶ所を訪れることになっていた。
メケレから1時間余りでアブレハ・アツベハ教会に到着。正面部分は補修してあるため、一見何の変哲もない感じ。
が、側面から見るとこうなっている。後ろの岩のような部分も教会だ。
10世紀創建とされるが、現存する壁画は17世紀頃のものという。ちなみに、真ん中に掛かっている時計はてんで合っていない(訪れたのは14時半)。
昼間だからか、内部に灯りはついていない。扉から入る自然光が頼りで、奥へ行くほど薄暗い。どうか目を凝らしてご覧ください。
布に描かれた絵が柱に巻き付けられている メイキング中のようで面白い。
右側の薄暗い部分にアダムとイブが描かれている。
下の絵は、この教会で自分が最も感銘を受けたもの。聖母に抱かれたキリストの口元にご注目あれ。マリア様のおっぱいが描かれている。乳を口に含ませるこのスタイルはガラクトトロフーサ型と呼ばれ、エジプトの影響を受けた構図という。私をエチオピアに連れ出した東方キリスト教美術の本に同様の作例(9世紀と12~13世紀の)が載っていた。比すればこちらはずいぶん新しい絵であろうが、遥か2,000km南方にまで同じ様式が伝播していることがすばらしい。目の当たりにしてジ~ンとした
アフリカの大地を思わせるような茶系の色調で、壁面を埋め尽くすように描かれている。
教会の隣にはささやかな博物館があり、宝物がガラスケースの中に収められていた。
手持ち用の十字架(高さ30~50cmくらい)。エチオピア正教特有のもので、場所によって形にバリエーションがある。
表面に線刻画のあるタイプ(ガラスの反射で見づらくてごめんなさい)。
こちらは描画のないタイプ。後ろはゲーズ語【エチオピアの古語。10世紀には話し言葉としては消滅したが、教会の典礼用語として生き残った。聖書はもっぱらこれで記述されている】で書かれた聖典。
次はアブナ・イエマタ教会を目指す(予定ではマリアム・コルコル教会だったが、メケレで会うなり開口一番、ガイドのJさんは行く時間がないと私に告げた。予想通りの展開)。
約1時間の道中、我々の車を乗り合いバスと間違え、“止まってくれ”と合図するエチオピア人が多発。個人専用の自動車が走ってること自体が珍しいんだろうか。
ティグレの景観。右に傾く地層がはっきりと見える。
切り立つ山の感じがアメリカはモニュメント・バレーぽくないか (写真で見ただけ、行ったことないけど)
途中雨が降ったり止んだりしつつ、アブナ・イエマタの近くまで進んだが、濡れていて登るには危ないということで、明朝に延期となった。今すぐ見たいのはヤマヤマだけど、地元人の助言には素直に従おう。翌朝が雨だったら、レインスーツで決行するぞ
この日の宿はハウゼンという場所にあるロッジ。手入れが行き届いて小ざっぱりしている。
部屋は撮っていないので、代わりに共用スペースの画像を載せておく(後のライブラリーとともに、撮影したのは翌日午前)。
トイレはすぐ流れるしシャワーは30秒でお湯になるし、水まわり超快適
予定変更で16時半には到着したこともあり、洗濯に着手。湿度が高く気温は低いから期待できないだろうけど・・・12時間でどのくらい乾くのかひとまずチャレンジ。
夕食もホテルにて。夕食前のドリンクサービスは気が利いている。色々選べた中で、ハウスカクテル(ハニーワイン+カンパリ+α)に挑戦。
エチオピアのハニーワイン(タッジ)は結構クセがあり単体では自分はダメな気がするが、カンパリが持つ別な癖と相乗してバランスよい風味をかもし出している。このカクテルは気に入った
食事はラザニア、エチオピア初のパスタ【宗主国イタリアがもたらしたパスタはしっかり根付き、エチオピアでポピュラーな料理となっている】。パスタ好きの自分にとって、今回の旅の楽しみのひとつでもあった。
グラスの赤ワインも注文。外国産のカベルネ・ソーヴィニヨンが60ブルだった。
標高2200mでは酔いがまわりやすく、先ほどのカクテルとあわせて2杯でいつもの2.5倍くらいの感覚。気持ちとしては物足りないけど、肝臓の骨休めとしよう
いつもながら、お料理もドリンクも撮っておらず残念 まさかブログやるとは思ってなかったもんなー
食後、ライブラリーにある岩窟教会の本を手に取った。1冊でいいから、どれか買いたいな~
訪れるはずだったマリアム・コルコル教会の写真が目に入ってくる。ビジュアルの強さったら、ハンパないわ。やっぱり見たかったなぁ・・・とうに諦めたはずの思いが甦る。まだまだ精進が足りないな、自分 ちなみに、翌日チェックアウト前に宿の人にたずねたが、本は売っていなかった。代金を支払うので譲ってほしいと食い下がったが、あえなく玉砕
2・3 ティグレ ⇒アクスム (2012年7月29日)
早朝 ロッジは一面もやに包まれていたが、幸い雨は降っていない模様。7時過ぎ、8㎞南西のアブナ・イエマタ教会へ向けて出発。
途中の村で車に乗り込んできた青年(10代後半~20代前半)は、後にガイドと判明する。
雨季の雨により車が入れない状況になっていたため、予定よりも少し手前で車を降り、麓まで歩く。
下の画像、左前方にかすんでいるのが目指す教会のある山。ちなみに左が先ほど乗り込んできた青年ガイド、右が前日からお世話になっているガイドのJさん。
2人はこの平らな道の時点でフツーに歩いていても私より速く、ついて行くのに気合いを入れねばならなかったし、登り道になっても同じペースで進んで行くので、結構キツかった・・・日本人にとって標高2,000m超の場所は歩くのさえ高地トレーニングなんだから手加減してほしいのよ、ゼェゼェ
事前に見た旅雑誌にも出てきたオリーブの木の所と、岩が険しくなる急坂の手前と、ロッククライミングポイントの手前の3ヶ所で、ガイドのJさんさんから「続けるか?やめるか?」と意志を確認される。まるで私の気持ちを萎えさせて振り落とそうとするかのように、相変わらずペースは遠慮ない。大学時代に多少山に登っていた自分だが、登り始めにどっと汗をかき体力を使うタイプなので、オリーブの木前後の前半地点が個人的には最もつらかった が、私を心配している(と思いたい)ガイドさんたちの思惑をよそに、ここまで来たからにはどんな道でも登頂してやるというのが私のスタンスだった。
その情熱を感じ取ってくれたのか、私のリュックサック(意外に重い)を代わりに背負いながら青年ガイドが手を取りつつ登ってくれた。そして、なぜだか途中から合流した村のおじさんもお尻を押したりしてくれる。
ようやく辿り着いたロッククライミングポイントを見上げたのが下の画像。上部の出っ張った所に教会へつながる通路がある。その下のほぼ90度に切り立つ崖を6mほど直登した。登り始めてすぐに、靴を脱いで素足になれと言われた理由がわかった。命綱はないが、歴代の参拝者たちによって作られたくぼみに手足を掛ければ登れるようになっている。
実は高所恐怖症の私。ロッククライミング以降、とにかく後ろを振り返るのはよそうと決心。教会へつながる通路は地上300mの断崖にへばりつくような幅1mの道だった(←後から調べた情報によると)が、靄がかかってよく見えなかったのも幸いして、足がすくむことはなかった。ただし、教会への道中を撮りたくてもデジカメを取り出せなかった、思いのほか風が吹きつけるので崖づたいの手を離すことができず
途中で合流した司祭さんが開けてくれた部屋にいよいよ入ると、8人の使徒+イエスの弟の天井画が真っ先に目に飛び込んできた。事前に本で何度も目にしてきたけど・・・思わず涙が出そうになった。恐るべし、本物の迫力。あの絶壁をよじ登って来た者のみがこれと直に対峙することを許されるのだ・・・
私はここにいる!!心の中で快哉 いつもいつも私を旅へと駆り立てる原動力がみなぎっていく
青年ガイドの説明によると、上の画像で口に手を当てているのがイエスの弟ヤコブ(時計でいう3の位置にいる、黒いあごひげの人物)。ユダを除く使徒のうちペテロ・トマス・パウロは他の場所に描かれているという。下の画像がそれ(めっぽう暗くてごめんなさい)。
奥の天井にはシリアから来た9人の聖人が描かれている(撮ったものの暗すぎ、ここに載せるのを断念)。奥の壁面には9人のうちの1人、アブナ・イエマタが馬上に鎮座。
隙間に描かれる茶と白の組み紐模様が印象的だった。
内部はそう広くない【ガイドブック情報だと7.8m×9.4m】が、木の道具がたくさんある。下のピンボケ画像で左端の司祭さんが持つのが杖、真ん中に立っているのがキャンドルスタンド、その右の壁に寄りかかっているのが聖書ホルダー。木の杖は、時に8時間も続く礼拝中 決して座ってはならない信者のために寄りかかる目的、ゲーズ語で書かれた賛美歌を歌う時に譜面を読めない信者のために音程の上下を示す目的などで使うそうだ。
若い青年ガイドは説明の要領を得ている。才覚がほとばしっており、いずれ大成するのではと感じさせた。
ゲーズ語で書かれた聖書を見せてくれる司祭さん(人相がはっきり写っているため、塗りつぶしました)と、床に無造作に置かれた聖書たち。それにしても古そう・・・
エチオピア正教を取材した方が本に書かれていたのを思い出す。博物館の展示ケースに入るレベルのものが現役で使用されている、と。
下りて来た後、ひと休みする司祭さん。
つくづく、前日に無理して強行しなくてよかったと思う。雨でぬれていたら、レインスーツを着ていたら、登りにくさは倍増どころではないだろう。地元人の判断に従って正解だった。
教会の鍵を開けてくれた司祭さん、青年ガイド、道中で押してくれたおじさん(←後でガイドのJさんにチップを請求し、ちゃっかりもらっていた)、そしてここまで私を連れて来てくれたドライバーIさん&ガイドJさん・・・その全ての人々のおかげで私はアブナ・イエマタにたどり着くことができた。心から感謝している
たとえこの後何かトラブルなどあって予定通りに見学できないものがあったとしても、これを見ただけでもエチオピアに来た甲斐はあった 興奮さめやらぬ思いで、眼前に広がるティグレの大地を眺めるのだった。
下山後、ホテルに戻って朝食をとる。チェックアウトタイムの10時を15分過ぎていたが、オーナーさんが大目にみてくれた
この日はティグレの他の岩窟教会を見た後、アクスムで泊まることになっていた。ホテルのあるハウゼンから直線距離で30㎞ほど東にあるメダニ・アレム教会とペトロス&パウルス教会を目指したが、これが想像を絶する道のりだった。未舗装の道路は雨季のためドロドロに変形、凸凹しているため車はバウンドしまくり。過去の旅路と比べてみても、カンボジア(1999年当時)やミャンマー(2005年当時)でもこれほどではなかったと思う。自分は座ってるだけだからいいとして、ドライバーのIさんはかなり神経を要しただろう。
前日も感じたが、アメリカはモニュメント・バレーな感じの車窓。雄大な地溝帯が広がっている。
旅の後半は飛行機で都市間を移動するので、ゆっくり景色を愛でるのはこれが最後になるかもな・・・しみじみしつつ。
なんだか地球のエネルギーを感じさせる地形なのよね。大地の茶色に草木の緑。乾季だったらほぼ茶色になるんだろうか としたら、ずいぶん印象変わるなぁ。
雨季に来てよかったな。個人的にはこの眺めが好き
ペトロス&パウルスの看板を見てからがまた壮絶で・・・いわゆる農村のぐねぐね道に突入。それまでの街道沿いの家々とは一段違ってローカル度が上がった。
特にメダニ・アレムへの道が複雑らしく、ドライバーのIさんは途中で行き合った地元の白シャツ青年(19歳、生物が好きで医者になりたいという夢を後で聞いた)を乗せて道案内をさせる。そうして到着したメダニ・アレム教会の麓では、道案内を申し出るちびっ子少年が多数いた。ガイドのJさんが1人選んで、また例の早すぎるスピードでグイグイ山を登っていく。こーいう時、基本的に冷たいんだよなぁ
アブナ・イエマタ再びかとため息ついた頃、あっさり登りは終了。登ったところで、後から追いかけてきた少女に先ほどのちびっ子がど突かれている。まるでサ〇ヱさんとカツ〇のようだ。ガイドさん曰く、姉はこの教会の司祭さんのアシスタントらしい。“まったく、あんたって子は私に抜け駆けして勝手なことをして”といったところか。そっか・・・ガイドJさんはアシスタントの弟と知って、数多の少年の中から彼を選んだんだろーなぁ。
メダニ・アレムの門前に到着後、鍵を持つ司祭さんをひたすら待った。標高があるせいか、ジッとしていると次第に肌寒くなり、フリースを羽織る。
Jさんもアシスタントの少女も一向に気にしない様子で、穏やかに喋りながらたたずんでいる。一方、自分はといえば・・・こーいうのにイライラするのがダメなんだろうなぁ
待つこと30分、やって来た司祭さんが持つ木製のクロスに3回ずつキスをしたガイドJさんと少女。なお、彼らは教会に入る前に床と扉にも3回ずつキスをした。所変われば作法も変わるものだ。
木製の小十字架が2つはめ込まれた門の向こうに教会があった。
岩を掘り抜いてつくられている。後世に描かれたのであろう黄色と水色の十字架と人物の絵が目を引く。
教会の入口の扉を開けると、中は暗い。灯りがないため、司祭さんがロウソクに火をともして 天井に存在する様々なデザインの十字架の彫刻を見せてくれた。【エチオピア正教はキリストの人性を否定する非カルケドン派のため、古い時代の教会には人物をかたどるモノがない】。何枚か撮ったうち一番写りのマシなものを載せるが、それすら見にくい画像でごめんなさい
ファサードと扉のあいだの空間。奥のアーチの向こう、天井には一見花のように見える十字架の彫刻がある。
人物は左からちびっ子ガイド、白シャツ青年、ガイドのJさん、司祭さん。
下山前、麓を見下ろしながら佇むアシスタントの少女。今にも降り出しそうな空。
先ほどの司祭さんに加えて何だかよく分からない女性(50代くらいか)が乗り込んで、ペトロス&パウルスへ向けて出発。うん、乗り合いバスっぽくなってきたぞ
14時半前、目的地に到着。ここでもまた駆け寄ってきたちびっ子ガイド2人がラジオをひねって歩き出す。流れ始めた演歌、耳をこらしても聴いたことがないマイナーな曲。日本人の私を慰めるためのサービスなんだろうか。かくして、風景に似つかわしくない曲がけっこうな音量で流れる珍道中がスタート。
下の画像、前方の岩の中腹右寄りに垣間見える白い石の部分が教会入口。
結果的に言えば、岩窟教会ながらかなり楽にアクセスできた。木の梯子が掛かっているおかげで 入口が高所にあるので怖いのは怖いが、前日の崖登りに比べるまでもない。
木製の柱や梁に支えられた教会の内部にはダイナミックな壁画がズラリ。一見してアースカラーの絵は、植物や動物の血など天然の染料を用いているという。
下の画像、アーチの上にはマリア様と天使のガブリエル&ミカエル。その下の狭いスペースには鎖につながれた人物。
動物や花瓶も描かれている。
面白い形の柱に近寄っていくと・・・
上部の壁にはイエスと弟子たちが描かれていた。
お気づきのとおり、各所にひび割れが走っている・・・大きな地震が来たらと想像するだに恐ろしい 手を加えすぎず風合いを残しながら、なんとか補修できないものだろうか。
ティグレの岩窟教会群は19世紀までその存在が広く知られておらず、また政治的情勢により1990年代初頭まで訪れることもままならなかったという。研究が進み宗教的・美術的価値が定まっていくのは今後なのだろうけど、致命的な損傷の前に保存されることを願ってやまない。
農村を抜け出して街道に復帰したものの、今夜泊まるアクスムまで長~いドライブが残っていた。16時のランチを断った自分のせいでもあるけど、結果的にゲラルタのホテルで朝食をとった後8時間余りトイレに行けず 予感がして途中から水分補給をセーブしたから、大して行きたくもならなかったけど。ちなみに、ドライバーIさんとガイドJさんは途中でフツーに車を停めて野原で用を足していた。ちぇ~ 男の人はいいなぁ、こーいう時。
共にする時間が増えるにつけ、ドライバー&ガイドの人となりが少しずつ見えてきた。
ドライバーのIさんはお洒落で、短めのドレッドヘアにグラサン、身なりにも気を遣う若者(たぶん20代)。近寄り難そうな第一印象に反して、旅程の所々で「元気か?」とか「どうだった?」と声をかけてくれる。そして、夜19時過ぎまで運転した後、泥まみれの車体をピカピカにしている、翌朝9時までに。一見チャラそうだけど、ドライバーとしてはプロ。
ガイドのJさんは基本的に寡黙なタイプ。私の英会話力がイマイチゆえそうなるのかと最初は思ったが、いやいや・・・この日の朝7時のピックアップに少々遅刻した私がロビーに飛び出した時、本を読んでいたJさんが静かに顔を上げたのが印象的だった。英語が堪能で、アクスムの史跡説明(翌日)も詳しかったし、勉強が好きなんだなと感じさせた。性格は基本的に穏やか。何というか・・・スルメみたいな人。ツカミは印象薄いけど、つき合うほどに良さがわかってくる。IさんにJさん、前日に会った時は相性がいまひとつと思ってごめんね。前言撤回だわ。
ちなみに、それぞれプロな2人だけど、後部座席で私が聞いてる限りあまり両者は会話を交わさない。合わないのかなぁ レゲエドライバーIさんは音楽好きみたいで、車内BGMにこだわる。そして走行中に携帯電話を使いまくり・・・かけたり、かかってきたり。そんなIさんに電話がかかってきたら、わりとボリュームの大きいBGMをそっと小さくするガイドのJさん。細かい気遣いにIさんが感謝している風でもなく、通話が終わったら再び音量を上げるIさん。また電話かかってきて、Jさんが音量落として・・・の繰り返し。音が大きいぞというJさんなりのアピールかもと穿ってみたけど、表情からしてそうでもなさそう。ヒマに任せて、不思議な関係の2人を観察する道中も楽しかった
少しだけ農村を通り過ぎて思ったのは、もちろん難民キャンプでも何でもない村で、フツーに幼児は栄養失調だということ。汚れ具合などからして身につけているのはたぶん着の身着のままの1枚で、腹部がやや膨れている子たちが多かった。日本でいう小学生くらいの歳の子達はそう見えなかったから、幼い子どもの器官では栄養を吸収しにくい食料事情なのだろうか。都市とまではいかない街道沿いの町と、農村の格差は旅人の目にも明らかだった。
とっぷり日が暮れて19時15分、アクスムのホテルに到着。
あれこれ登って汗かいたのでシャワー浴びたい・・・遅くなるとお湯が出ないかもしれない。でも9時間食べてないから、さすがにお腹すいた
というわけで、先に夕食へ。ホテル内のレストランでメニューもらったところでようやく、(業者を通じて手配していた)予定のホテルではなく別のホテルへ来ていることを知った。暗かったし疲れていたとはいえ、うっかりしすぎだ自分
ガイドJさんの仕業だろうなー なんでだろう このホテルに知り合いがいるのかな? 料金はどうなるんだろう?・・・色々な思いが頭をグルグルしたが、今さら本来のホテルへ移動するのは現実的ではない。案内されてすぐに気づかなかったから仕方ないと腹をくくった。
夕食のスープと、肉入りのインジェラ【テフというイネ科系の穀物を粉にして水と混ぜイーストを入れて2~3日発酵させ、鉄板でクレープ状に焼いたもの。エチオピアの主食】。旅立つ前からガイドブックで目にしていたインジェラに初挑戦 酸味があるふわふわの生地は自分の好みドンピシャで、毎日食べられると思った。実際、この後何度も口にしたのだった
夕食中(たぶん19時半頃)に突如停電。すぐにレストランの給仕が来て、卓上にキャンドルを置いてくれたので事なきを得る。ミャンマーでも体験済みだったが、こちらは時間が長い。
部屋に戻った後、22時から再び停電。自前の懐中電灯で照らしながら歯を磨き、旅先での夜の習慣=日記書きもそこそこに床へ入った。
★ 中締め ★
旅の第2弾では聖都アクスム、ポルトガルの影響漂う古都ゴンダールを訪れます。
お楽しみに~