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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝) 序

2019-10-24 18:18:09 | アンヌ・ド・ギニエ

**誤って削除してしまったので再掲します。



愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝)

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Anne de Guine.

1911-1922

アンヌ・ド・ギニエ

マリア、セシリア編
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序文(訳)

 家族の者等からネネットと呼ばれていた、アンヌ、ド、ギニエは1911年4月25日、アンシイで生まれ、1922年1月14日、カンヌで永眠した。彼女の一生は至極短く、僅か12年に満たなかった。
 生前アンヌを親しく知る喜びを味わった人々が、アンヌが此の世を去った時、一斉に叫んだ感嘆詞は、次の一句であった。「これは真に聖人である。」と。実にアンヌは感ずべき幼児だ。
 次に記す言葉は、アンヌが幼な友達に与えた忠言である。「もし働く勇気がない時、仕事が重荷過ぎる時、それを天主に捧げようとお考えなさい。全てを天主に捧げなければならない。愛が有れば何事も苦しくはない。私どもの務めは、愛するイエズスに捧げる贈り物である。」と。また「何事でも出来るだけ一生懸命になさい。」と。これこそが彼女自身の完徳に達する秘訣であったのだ。
 フランスでは、多くの読者が、アンヌの伝記を読んで、すっかり魅せられてしまった。私は日本でも此の伝が読者の意に叶い、子供も、大人も、感心して、愛するようになることを確信している。
 子供達はアンヌに於いて、非常に簡単な、また微妙な、可愛らしい手本を見出すことが出来るであろうい。どんなに沢山、日本にもこのように信心深い、愛らしい、アンヌに似た子供等がいるであろう!。
 キリスト教的教育が、生来の善い性質に加わり、頻繁な聖体拝領から生ずる、聖なる香を放つようにさせた。ピオ十世聖下は「子供等の中に聖人が出るだろう」と、仰せられたが、アンヌはキリスト教徒の子供等が、早くから聖体によって養われる事がよい事を、証拠だてている。また天主の摂理によって託された、子女の教育についての理想を両親達によく悟らせるであろう。
 我が愛する日本の子供達よ、この感ずべきアンヌの伝を読まれよ。彼女より生ずる徳の香は、あなた方を喜ばせ、御国の救いが関わっている、あなた方の全ての義務に対して、よく準備してくれるであろう。

東京大司教 
ジエ、ア、シャンボン



 自序

フランスのあるトラピスト修道院におられる方から、アンヌ伝を邦訳して、故国にある不幸な姉上を助ける為に送ってこられた。その出版方法について相談を受けたのは、もはや数年前になってしまった。そして「よきかな、アンヌを知った事は。」を繰り返すようになった。
 まず認可を願ったところ、あまり簡単すぎた為、「せっかくのアンヌのよい所、教訓的な点が少しも取り入れてないから、出版の意義なし。」という理由で返されてきた。しかしこの動機からイエズス、マリアに次いでアンヌと天を向けて呼ぶ程、アンヌは私にならなくてならぬ代祷者となってしまった。「アンヌ、どうぞ祝日に捧げる為にまた聞いてください。」と心に誦えると、聖主や聖母の祝日に、御前に捧げる善い贈り物がきっと与えられている。アンヌに願って、何人の洗礼が得られたか、ちょっと数を思い出せない。
 せっかく故、第二の試みがフランス語が堪能な、ある方の手によって、ずっと詳しく書かれた。E.M.Lajeunieの著した伝に基づいて出来上がったが、子供にも大人にも興味を示して欲しいのに、これでは一方に難しすぎ、他方には幼稚すぎる憂いがあるので、全然二つの文体にする必要が認められたから、認可を願う前に、第三の試みが始まったのであった。骨組みも出来て、大体の意味も訳してあり、原文も有るから、楽に直ぐ出来上がる筈であった。それが、三、四年も滞った理由は、引き受けた者の未熟なフランス語、乏しい才能、幾多の雑用が邪魔していたからである。しかし、親切な先生や友人の援助と指導、鞭撻でやっと終わったのは昨年の正月であった。その後、原稿の訂正、書き直し等で一年は飛んでしまった。アンヌがいよいよ世界で認められ、列聖運動まで起こって来ているので、二人ほどの司祭から、アンヌ伝の邦訳について問い合わせが有った事は、日本に紹介する望みを持つ者が増した事を証するするのではあるまいか。
「聲」には二度ほど簡単なものが出た事がある。ラジユウニイ(Lajeunie)の伝の最後の二章は省き、題は同じにして、始めの六章に多少の付け加えや省略をして、出来上がったものが四月半ば過ぎ、大司教様の手元に何年か振りで再び提出された。ここまで辿り着いた原稿が案外早く認可の峠越えをして、梅雨明けには出版の運びとなった。梅雨が遅れた為か出版も色々の都合で遅れた。やはり梅雨明けを待っている模様である。
 アンヌが世に出る喜びと、人々の敬愛を望む心の大きいため、今更この拙い試みが不安を呼び起こして止まない。唯ここに一つの事をお勧めして、思い切って「向こう見ず」の補いとする。即ち「アンヌに祈ってください。」アンヌの真価は本が巧みに語らずとも、天主が祈りの結果に依って証明して下さるであろう。「これぞ我が心を安んぜる我が愛子なり。」と。主に一度も拒み奉らなかったアンヌの願いは、主も拒み給えない。
 子供等が初聖体準備の頃、漠然と「良い子にならねば、」「善い事をしなければ、」と自覚しても、さて実行となると、何を改めるか、努めるか、知らぬ子が度々見受けられる。アンヌこそ、これらの子供に光明を与えないであろうか。アンヌ伝のみでも、初聖体準備の教材を得られると言っても、過言とは思わない。何故と言ってアンヌほど立派に初聖体をなし、アンヌほど聖体に在す主を識り、主を慕い、主と一致し、主に仕え、主を喜ばせ奉った者が多くあろうか。
 大司教様も公私共にご多忙すぎる程であるにも拘らず、願った序文を即座に承諾して下さった。ちょうど願いに行って時、アンヌの故郷、アンシイの司教から、各地の司教方に、アンヌ列聖運動の援助と賛同に、署名の勧誘が来たところであると仰せられた。
 大司教様を始め、この度の出版に漕ぎ着ける迄、陰に陽に好意を以って、指導と援助を惜しまず尽くして下さった方々に、厚く感謝の意を表すると共に、今までのご親切に甘えて、子供本位の、次の計画を、また援け導いて下さる様願って筆を置く。

 1934年、我が主御変容の記念日 編者記す



  アンヌ、ド、ギニエ

  序言

  
 不信心な現代、腐敗しきった社会に、多くの聖人方を生み出したことは、実に我が公教会の誉れである。私どもは一方各国民間に天主が否まれ給う、悲しい有様を見せつけられているが、一方このような清浄な信仰、天主への信頼、愛深い健気な心を以って超自然界の事柄を悟り得た霊魂の受けた、妙なる聖寵を想わずにはいられない。
 心の中に示された神秘、「王なる神の秘密」は秘め置くべき事柄であるのいん、時に熱心のあまり、或いは幾分の無分別から言い立てられる事がある。しかし聖主は、「光は桝の下に置くべきでない。」(マルコのよる福音書第4章21節)と仰せられたので、光は困難不幸に当たって家の中、即ち心の中を照らし、暖め、私どもを慰むべきである。
 私はこの幼児の生涯が、天主への奉仕への道を容易に教え、天国への道筋を明らかに示すものとして、老若男女の別なく、多くの人々の援け、励ましとなるであろう事を信じ、ここに披歴するのである。
 現代に著しい事実は新時代の風潮と、福音精神の対立が、日毎に目立って来ることである。聖主は二十世紀前、すでに仰せられているではないか。「汝等若し斯かる幼児の如くならずば天国に入るに能わず。」(マタイによる福音書18章3節)と。「成人」の邪悪に陥り、傲慢になった現代人に、天国の門はまことに堅く閉じられている。けれど神は私どもに、御援けの御手を差し伸べられた。
 目の当たり聖なる幼児を模範としてさし示された。長い間ドミニコ会でのみ敬慕されていた福者イメルダが、近年新しい奇蹟を顕して、初聖体準備者の守護の聖人ち仰がれるようになったのも、またカルメル会の単純な一修道女、聖テレジアにしても福音的な幼児の道を示さんが為、特に与えらえれた聖人であって、私どもが永遠の生命に入り、天国の幸福を願うならば、この範に倣うことが必要なのである。幼児の大恩人ピオ十世聖下の「幼児の中に聖人が出るであろう。」という御言葉は、いかにも預言的音調を含んでいるが、これはけだし世人一般にしばしば聖体拝領を許し給い、また幼児にも聖体が何であるかをわきまえるようになれば、従来より遥かに早く、初聖体の幸福を許し給うた教皇聖下が、幼児とイエズスの一致の驚くべき好果、聖体の威力を信じ給うたからであった。「幼児の我に来るを許せ。」(マルコによる福音書10章14節)というイエズスの御言葉を聞いて聖主に近づき奉った幼児の例、またその有難い効果は数えるに暇ないが、いままた更にタルシシウス、イメルダ等の例に、新たに一人の幼児を加え、その模範を以って私どもを教え助けんものと思し召されたに相違ない。
 イエズスの聖心は、この天使のような聖なる幼児を、恐るべき見えざる危害から清浄無垢に守り、己の方に引き寄せ給うた。ここにこの清き健気な霊魂が辿った道を示し、聖寵の驚くべき働きを証し、もし唯一つの霊魂でも援ける事が出来るならば此の上なき喜びである。
 最も心の奥底深く侵む思いをも見通し給う天主は、崇むべき聖体の愛の光栄と、勝利のみを目的として希(こいねが)う、我等の心を嘉(よみ)し祝し給わん事を。



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