アポイントメントを取っていたのに、相手の不注意で会えず、商売をしくじったことがあるとしよう。
そこで、「自分が確認の電話を入れなかったからだ」と、まず自分が責任を感じる人は、ゆくゆく大きな成功を収める可能性がある。
相手に会えなかったのは自分のせいだと思えば、次から事前の確認を欠かさないようになり、そうすれば、二度と同じ不運にめぐり合うことはなくなるからだ。
反対に、「約束を忘れた相手が悪い」と責めるばかりの人は、その先も、繰り返し同じ不運に見舞われる可能性が高い。
責任を自分に求めないために、先手を打っておくという発想ができないからだ。
もちろん、この場合は、約束を忘れる相手が圧倒的に悪い。
しかし、それをいくら嘆いてみたところで、しくじってしまったことに変わりない。
「相手がいけない」と言っても、何の利益も上がってこないのだ。
ならば、たとえ相手が悪かったとしても、「自分でそれを防ぐことはできなかったのか」と考えたほうがよほど建設的ではないか。
だから、つまずいたり、運の悪い状況に陥ったときには、常にそのあらゆる原因を自分に引き寄せて、自分でなんとかできたはずだと考えてみることが大切である。
幸田露伴は、こんなことを言っている。
「成功した人と成功しない人を見ると、成功した人は失敗した原因を自分に求める。
悪い運を引いたのは自分の手であると考えるから、その手は血にまみれている。
ところが、失敗ばかりしている人は、手が痛むようなことをせず、手がきれいだ」
けっして他人のせいにせず、自分の責任で運命の糸を引く人の手は、痛み、血だらけになっている。
何かにしくじるたびに、自分で何か打つ手がなかったのだろうかと、痛いほど自己を省みる。
しかし、あらゆる失敗を人のせいにして知らん顔をしているような人は、手から一滴の血も流していない。
失敗を自分の責任として捉えず、自らの責任において運命の糸を引いていないのだから、痛いはずがないのだ。
どちらがより成功に近いかは、言わずもがなであろう。
《運命の糸を引く人の手は、血だらけである》
:渡辺 昇一 『人生の手引書』
手が血だらけになっただけ成功に近づく。
責任を負った数だけ成功に近づく。