「関ジャニ∞の、贄の部分」
どうも囲碁アートマニアの関です。
・・・さて、表題の件なんですけれど
皆さん、「囲碁」ってなんでしょうか。
たぶん、一番基本に忠実な答えは
「ゲームです」でしょう。
パズルである、勝負事である、文化である、伝統である
という答えもありそうですが、それらは囲碁が面白いゲームであること
少ない原理で、無限の深みがあるゲームとして成り立っているからこそ言えるものです。
ここ数年、私のなかでそれが揺らいできたことについて書こうと思います。
そう、「無限碁盤」に思い至ったのです。
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こちらが普通の碁盤(19×19)です
広さを無限にすると、こうなります。
端にあった線がなくなって、どこまでも続いていくんですね。
・・・これだけのことですが、ヤバいことになります。
小さい盤です。これは最後まで進んだ形。
囲碁は陣地の大きさで勝負です。
陣地のことを地(じ)といいまして、
もう自分の地が増えない。相手の陣地も減らない。
となったら、やることがないので、終わりです。
〇が、黒の地。14。
▲が、白の地。同じく14。
引き分けです。
地は、石だけで囲うんじゃなくて、端のところを使ってもいいんですね。
前の記事の画像ですが、白の地(赤)とか、黒の右のほうとかがそうです。
端は地ができやすく、たいていの人は序盤から重視します。
さて、碁盤を無限にすると・・・
いかがでしょう。端をなくして無限にしました。
これは、まだ終わりじゃないですよね。
世界がいくらでも広がっているので、いくらでも陣地を作れる。
つまり終わりが来ません。
終わりが来ないということは、勝負がつきません。
囲碁は囲碁だけど、ゲームじゃない状態
を作り出すことができました。
こうなったときに、最も大きな変化は・・・
「地」が無意味になったこと になるでしょう。
目的がないので、一手一手の価値がなくなります。
どんなに広く陣地をとっても、どんなにたくさん石を取っても、そもそも勝負ではないので、価値がない・・・。
(将棋をご存じの方でしたら、「王のいない将棋」をイメージしてみてください。
ほかの駒だけでどんな戦いをしても、勝負に関係ないですね)
これ、楽しいんですかね?
いかに端の線が囲碁というゲームを成り立たせているか、がわかります。
でもなんか、ゾクゾクきませんか?
そもそも、私にとって囲碁はもともと何かを考えるためのツールでもあったのですが、こちらの無限の碁盤のほうが実際に存在する世界により近いかも、と思っています。
宇宙が、端が見えようがない無限の広がりになっていると思われること。
時間も、私がいなくなっても永遠に続いていくであろうと思われること。
しかし、自分の人生や社会の中のもろもろが無意味ということではなく、いろいろな線が人間には引かれており、それによって意味付けが与えられているものなんだと思います。
その線は、誰かから与えられたものかも知れないし、自覚的に引いたものなのかもしれません。
マサラタウンの左右の草むらに恋い焦がれていた少年時代を思い出しますね~。
今後、作品にも生かしていこうと思います。
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