この1年、こんなテーマを地方再生のキーワードとして考えてきた。
シンポジウムも様々に企画してみた。
自立なんて抽象的にしかあり得ないと思っていたが、地方の人々が、否が応でも自立を求めるようになった。
「均衡ある国土形成というスローガン」や、「地方交付税」がなくなったら、「格差」が広がると警鐘を鳴らす人がいたが、もうみんなそんなものはない社会へ向かっては知り始めてている。
「格差」を考える前に、「違う」と言うことをもっと考えてみたいものだ。
経済学的に考えても、利潤の源泉も常に「違い」にあるのだから。
違いを違いとして認識できる社会をこそ目指すべきだろう。
いろいろ違っていいんだよ、ということ。
違う中に、自分の幸せを、理性でも感性でも感じ取れる自分がいれば、それが次の社会の考えのベースになる。
しかしながら、私の時代は、違いを極度に許さなかった。皆と同じでなければ、という意識。それが息苦しさを生んでいた。過度の競争もあった。嫉妬もあり、そのあげく犯罪を犯すやつもいた。
しかし、「いろいろ違っていいんだよ」、と本当に心の底から思える社会が来たらどうか。
こんなことを言うと、負け惜しみだと思われがちだった。それが私たちの時代の最大の欠点だった。
が、社会は、本当に心の底からそう思うように成熟してきていると思う。
東京と同じでなくてもいいんだよ。
どんなに地方が東京を目指しても東京にはなれない。
どの様に頑張っても日本人は日本人、アメリカ人にはなれないじゃないか。
おそらく、皆と同じとする発想は、目指すものが違ってたんだろうと思う。
東京と価値観も経済感覚も少しづつ違った社会を作ればそれでいいんじゃないの。
人は自分がそれが幸せと思っていればそれでいいんだ。
ただ、本物であって欲しい。
食文化はうまいものであって欲しいし、観光は、本当の癒しを与えるものであって欲しいし、生活は豊かであって欲しい。
それを格差として認識しようとする学者やマスコミもいるにはいるが、彼らは評論家だ、評論は任せておけばいい。評論家は変革者になることは放棄している。哲学者や思想家にもなれないのだ。
一生懸命やってる人間に「格差論議」はむしろ不要だろう。
しばらくは、大所高所から、格差社会、などとマクロに批判する必要はないと私は思っている。
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