*北村想原作 萩京子作曲+音楽監督 大石哲史演出 公式サイトはこちら シアタートラム 12日まで
下北沢本多劇場でプロジェクト・ナビ公演『想稿・銀河鉄道の』をみたのは、もう20年以上も前にある。題名のとおり宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』への憧れと敬愛と夢を、北村想が軽やかに紡ぎ出した物語だ。北村らしい脱線やおふざけも随所にちりばめられているが、最後はまぎれもなく宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』として一本芯の通った作品である。
本作に限らず宮澤賢治の作品に触発された舞台はいくつかみているが、劇作家の思い入れが強すぎてついていけなかったり、劇作家のオリジナル部分と賢治の作品部分がうまくかみ合っていなかったり、「これ!」といったものが案外少ない。「だまされた」とすら思うことがあって、公演チラシに賢治作品をモチーフにする、あるいは賢治へのオマージュという惹句があると、「必要以上に期待すまい」と構えるようになった。
今回は宮澤賢治の原作に加え、北村想の舞台があって、こんにゃく座のオペラ版という、いわば3重構造の『銀河鉄道の夜』になるわけだ。
こんにゃく座の魅力は出演する歌役者(こんにゃく座ではこう呼ぶのだそう)すべてに抜群の安定した歌唱力があることだ。ソロは輪郭がはっきりしたペン画の趣、これがコーラスになると柔らかな水彩画にも重厚な油絵にも変化し、「人の声はこんなにも美しいのか」と驚き、重なり合う歌声に包まれることの至福に酔う。この幸福が味わえなかったことはこれまで一度もない。ピアノとチェロとクラリネットの楽士は歌こそ歌わないが控え目に存在する登場人物のごとく、豊かできっちりとして、音楽性という点においてこんにゃく座は絶大なる信頼と期待を寄せられる劇団なのである。
シアタートラム正面に楽士が位置し、客席が舞台をコの字型に囲むような作りになっている。
ジョバンニとカムパネルラの学校の授業にはじまってからしばらくは、舞台の空気になかなか入っていけなかったが、中盤以降、銀河ステーションの場面からぐいぐいと引き込まれてみることができた。とくにタイタニック号の沈没で亡くなった青年と少女が現れ、讃美歌「主よ みもとに近づかん」の静かなコーラスに、やや不協和音風にピアノが加わり、続いて青年の歌が重なるところは涙が出るほど美しかった。いったいどうやったらあのような音楽を作り出すことができるのか、そしてどうすれば、風合いの異なる布地が少しずつ重なり合って1枚の衣になるかのような複雑な美しさをことばにして伝えることができるのだろうか。
『銀河鉄道の夜』は深遠で哲学的な物語である。雰囲気の部分を楽しく味わうことも可能だが、宇宙的な広がりや謎が秘められていてつかみどころがない。自分は宮澤賢治の熱烈なファンではないけれども、それでもやはり『銀河鉄道の夜』の題名を見たり聞いたりしただけで、特別なものを感じるのである。今回のこんにゃく座のオペラ版は、北村想の戯曲をベースにしたことが成功の大きな要因であったと思う。具体的にどの点がということはまだ書けないのだが、ある原作に自分の筆をのせるのは、原作に縛られたり左右されるという不自由さはあるだろう。しかし何かを突き抜けると、完全なオリジナルとは違う自由な世界が広がるのではないかと想像する。北村想の軽妙な筆致、こんにゃく座の手堅くゆるぎない音楽。いっけん相反するようだが、両者が融合して新しい味わいの『銀河鉄道の夜』が誕生した。演出面においてシアタートラム以外の劇場での上演は難しいようであるが、その土地のその劇場で可能な形でできるだけ多くの人が本作に出逢えることを願う。もっと広がり、もっと深まる作品であると思うからである。
ザネリ、青年役をやった沢井です。
銀河鉄道の夜、その節はご覧頂きありがとうございました。
たくさん観劇されている中で過分の評価のコメントを頂きありがとうございます。
また時期が来たら(次は4月と9月ですね)座の公演を気にして下さればありがたく思います。
今日は雨がぼたん雪に変わり、『銀河鉄道の夜』を拝見したころの猛烈残暑の日々が遠く感じられます。
当ぶろぐへのお越しならびにコメントをありがとうございました。
本作において、なぜザネリと船の沈没で命を落とそうとする青年を同じ俳優さんが演じるのかを改めて考えました。
カンパネルラがいなくなったあとの教室でザネリがつぶやく「おれ、罪なんかないもん」という台詞は、演じ方がとてもむずかしいのではないかと想像します。
ぜひ再演が、何とか地方の劇場での上演がかなうよう願っておりますが、いかがでしょうか。