*宮森さつき作 多田淳之介演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 6月2日まで
公演チラシ裏面には「熟年離婚された父親がボケた。新春の空の下、サッシにガムテープが揺れる。」
この箇所を読むだけで、どんな芝居か、少なくともこういう事件が起こるということがわかる。
劇場はいつもと違う作りになっていて、民家の茶の間を三方から階段状の客席が囲む。客席にも舞台の床のカーペットと似たような素材と色合いの敷物が丁寧に敷き込まれていて、ゆったりとしている。開演前には演出の多田淳之介が「明けましておめでとうございます。木村家へようこそ」とご挨拶。開演前から台所と茶の間を行き来する人物は、客席に向かって「いらっしゃい」と声をかけるし、劇が始まってからも登場人物は、客席三方に向かって軽くだが律儀に挨拶をする。観客は新年の木村家にやってきたお客さんたち。本作はそういう見立てで進行する。
要するに長女は認知症の父親の介護に疲れ果てて心中しようとしていたところ、従兄弟だの家族会議と言われて招集された妹や、会議を呼びかけた長男とその妻、別れた母親の恋人らしき男性が次々やってきて、未遂に終わる。そのかわり介護の負担を一身に背負って来た長女と長男を中心に、家族は激しい言い争いを始める。
上演中、自分は一度も時計を見なかった。ほとんど水掛け論のような兄妹の言い争いは結論がでるわけでもなく、ひたすら自分の思いをぶつけるばかりである。冒頭の長女の歌唱が少々長過ぎることや(それだけまだ迷いがあるということか)心中未遂に気づいた家族が、窓は開けても七輪の火を消そうとしないところなど、細かい点に違和感を覚えるものの、この物語ぜんたいを味わうことを妨げはしない。登場人物ひとりひとりの造形が、すべてに実在のモデルがあるのではないかと思えるほど細やかで、長男、夫、父親の立場で苦悩する兄、良識ある賢夫人風だが決してこの件に踏み込まないように細心の注意を払っているかにみえるその妻、堰を切ったように思いの丈をぶつける長女、頼りになるのかならないのかわからない従兄弟、どうしようもなく子供っぽいが、それゆえに絶対必要な末っ子、特に離婚した母の茶飲み友達と自称するホストには、ありきたりな予想を吹き飛ばすまさかの過去があり、そのひとことで家族の対応ががらりと変ってしまうところがおもしろい。
終演後上演台本を買って読んでみた。意外なほどあっさりとすぐ読めてしまう。日常的な会話がさらさらと(内容は大変ヘヴィであるが)流れていくようであり、しかしこれを舞台の会話として成立させるには、薄紙を1枚1枚重ねていくように入念な稽古があったのではないかと想像する。終幕、七輪でお餅を焼こうということになり、帰ろうとする茶飲み友達に長男が怒ったように「食べてけよ」と叫ぶ。どんなふうに言うというト書きや指定はない。小さな声で言ったとしても、きっと別な味わいが生まれたのではないか。
暖かくも重く、辛くもおかしい1時間40分であった。観客を木村家の来客に見立てる趣向は必要だろうか。戯曲の言葉を誠実に話す俳優がいて、見守る観客がいる。ふと客席をみると、辛そうな表情で涙を堪えていたり、ハンカチで顔を覆って泣いている方もあって、その様子は舞台の俳優にもわかったはずだ。舞台のことを他人事でなく、自分のことのように思って一緒に泣いてくれる方がある。足し算も引き算も必要ない、ありのままの表現で充分ではないかと思う。
公演チラシ裏面には「熟年離婚された父親がボケた。新春の空の下、サッシにガムテープが揺れる。」
この箇所を読むだけで、どんな芝居か、少なくともこういう事件が起こるということがわかる。
劇場はいつもと違う作りになっていて、民家の茶の間を三方から階段状の客席が囲む。客席にも舞台の床のカーペットと似たような素材と色合いの敷物が丁寧に敷き込まれていて、ゆったりとしている。開演前には演出の多田淳之介が「明けましておめでとうございます。木村家へようこそ」とご挨拶。開演前から台所と茶の間を行き来する人物は、客席に向かって「いらっしゃい」と声をかけるし、劇が始まってからも登場人物は、客席三方に向かって軽くだが律儀に挨拶をする。観客は新年の木村家にやってきたお客さんたち。本作はそういう見立てで進行する。
要するに長女は認知症の父親の介護に疲れ果てて心中しようとしていたところ、従兄弟だの家族会議と言われて招集された妹や、会議を呼びかけた長男とその妻、別れた母親の恋人らしき男性が次々やってきて、未遂に終わる。そのかわり介護の負担を一身に背負って来た長女と長男を中心に、家族は激しい言い争いを始める。
上演中、自分は一度も時計を見なかった。ほとんど水掛け論のような兄妹の言い争いは結論がでるわけでもなく、ひたすら自分の思いをぶつけるばかりである。冒頭の長女の歌唱が少々長過ぎることや(それだけまだ迷いがあるということか)心中未遂に気づいた家族が、窓は開けても七輪の火を消そうとしないところなど、細かい点に違和感を覚えるものの、この物語ぜんたいを味わうことを妨げはしない。登場人物ひとりひとりの造形が、すべてに実在のモデルがあるのではないかと思えるほど細やかで、長男、夫、父親の立場で苦悩する兄、良識ある賢夫人風だが決してこの件に踏み込まないように細心の注意を払っているかにみえるその妻、堰を切ったように思いの丈をぶつける長女、頼りになるのかならないのかわからない従兄弟、どうしようもなく子供っぽいが、それゆえに絶対必要な末っ子、特に離婚した母の茶飲み友達と自称するホストには、ありきたりな予想を吹き飛ばすまさかの過去があり、そのひとことで家族の対応ががらりと変ってしまうところがおもしろい。
終演後上演台本を買って読んでみた。意外なほどあっさりとすぐ読めてしまう。日常的な会話がさらさらと(内容は大変ヘヴィであるが)流れていくようであり、しかしこれを舞台の会話として成立させるには、薄紙を1枚1枚重ねていくように入念な稽古があったのではないかと想像する。終幕、七輪でお餅を焼こうということになり、帰ろうとする茶飲み友達に長男が怒ったように「食べてけよ」と叫ぶ。どんなふうに言うというト書きや指定はない。小さな声で言ったとしても、きっと別な味わいが生まれたのではないか。
暖かくも重く、辛くもおかしい1時間40分であった。観客を木村家の来客に見立てる趣向は必要だろうか。戯曲の言葉を誠実に話す俳優がいて、見守る観客がいる。ふと客席をみると、辛そうな表情で涙を堪えていたり、ハンカチで顔を覆って泣いている方もあって、その様子は舞台の俳優にもわかったはずだ。舞台のことを他人事でなく、自分のことのように思って一緒に泣いてくれる方がある。足し算も引き算も必要ない、ありのままの表現で充分ではないかと思う。
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