昔、アマゾンで買った本です。
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ」。原始仏典のうち、ブッダが神々と対話した記録集。無作為に選んで記していきます。読みやすいよう、多少アレンジしています。(読めば短いお経ですが、書き写すと長いお経に感じますので、書き写すのに「目が」コリます)
「咎 (とが) め立てする神々」・・・
ある時お釈迦さまは、サーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独なる人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。
その時多くの〈咎め立てする神々〉は、夜が更けてから、容色麗しく、ジェータ林を遍く照らして、お釈迦さまのもとに赴いた。
近づいてから、お釈迦さまに挨拶して、空中に立った。空中に立った或る神は、お釈迦さまのもとで次の詩をとなえた。
「自分が実際にあるのとは異なった風に自己を誇示する人にとっては、自分の享受するものは、盗みによって得たことになる。 詐 (いつわ) りをなす賭博師のように。自分の為すことを語れ。自分のしないことを語るな。彼らが実際に自分で為さないのに、〈口先だけで〉語っていても、賢者はそれをよく知りぬいているのだ」と。
ブッダ曰く、
「安定している堅固なこの道は、ただ〈口先で〉語るだけでも、あるいはまた一方的に聞くだけでも従い行くことはできない。心を修めて、〈この道を歩む〉思慮ある人々は、悪魔の束縛から脱するであろう。
思慮ある人々は、世のありさまを知って、実に業をつくることがない。思慮ある人々は、よく理解して、縛 (いまし) めを解きほごし、世の中にあって執著をのり超えている」
そこで神々たちは、〈空中から下って〉地上に立って、ブッダの両足に、頭をつけてひざまずき、ブッダに次のように言った。 (尊敬する人のおみ足に額をつけるのは、インドの風習です。日本では、古代から、目上の人に接する際は、「ぱんっ」と手を打ちます。これが現在の神道の作法になっているそうです・・・)
「尊いお方よ、罪過が我々に打ち克ったのです。・・・中略・・・私たちの罪過を罪過として、懺悔 (ざんげ) するのをお受けください。 未来に、こういう過ちが起るのを防ぐために」
ブッダは微笑された。
ときに、それらの神々は、ますます咎め立て (不平・文句のこと) を言いながら、空中に登っていった。
或る神は、ブッダに、
「罪過を告白する人々の懺悔を受け入れない人は、内に怒りをいだき、憎悪で重く、怨恨をまとう、と。
もしも人に罪過が存在しないならば、この世で過失 (道から外れること) が存在しないならば、そうして怨恨を静めないならば、何によってこの世に善き人が有り得るであろうか、と。
誰に罪過がないであろうか。誰に過失 (道から外れること) がないであろうか。
だれが迷妄に陥らなかったであろうか。だれが思慮深きものとして常に気をつけているであろうか」と。
ブッダ曰く、
「一切の生けとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。彼に過失 (道から外れること) は存在しない。彼は迷妄に陥ることがなかった。彼は、思慮深き者として、常に気をつけている。
罪過を告白して〈懺悔 (ざんげ) するのを〉受け入れない人は、内に怒りをいだき、憎悪で重く、怨恨をまとう。その怨恨を、私は喜ばない。
そなたの罪過〈の告白〉を、私は受け入れる。」
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