ヒルネボウ

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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 7 白い手

2020-10-07 15:52:48 | 小説

腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

7 白い手

 

少女は、細い悲鳴を上げた。

弟は、聞こえないふりをした。俯いている。

「これ、だあれだ」

問いかけまでは無視できず、ゆっくりと顔を上げる。

「だれだ、これ」

少女は、人を見下すような表情を作っていた。斜めに顎を引き、その顎を左手で隠す。左腕と胸の間に右手が挟まっている。右手はお椀のようなふくらとした形をしていて、指が少しだけ開いたり閉じたりする。

「だれよ、これ」

「おかあさん」

「どこの」

「サクラミートの前の」

「何してるの」

弟にはわからない。少女にもわからないのだ。

「今晩のおかずのことを考えてる?」

言ってみただけ。

「今晩のおかず、何?」

「知らない」

「何がいい」

「わからない」

二人は黙ってしまった。

少女が細い悲鳴を上げた。

「これ、だれ」

「おかあさん」

「どういう」

弟は少女に顔を向ける。焦点は合っていない。

「どっちの?」

弟は壁を見た。そこに答えを書いた紙でも貼ってありそうだ。

「どっちの。ねえ、どっちの」

「どっちかな」

「もういないおかあさん? まだいないおかあさん?」

弟は首を振って黙り込み、やがて寝転がる。

「飽きた」

「どこか、行きたい?」

「うん」

「どこ」

「どこだっていい」

「遊園地?」

遊園地は恐ろしい所だ。でも、本当はどこでも恐ろしい、黒い雨が降っているから。

「うん。遊園地」

少女は笑う。

「行ったこと、ないくせに」

「あるもん」

その瞬間、遊園地が見えてきた。数々の遊具が並んでいる。派手な色の観覧車。尖った塔の何本か。音楽も聞こえる。楽しげなワルツ。匂うのは焼き林檎か。視点は高い。自分は何かに乗っているのだろう。そして、それはやがてもの凄い勢いで落下するのだ。

少女が悲鳴を上げてすぐに黙った。

弟は「いい。行かない」と言った。それから、不意に立ち上がり、「これ、だれだ」と言った。

姉は、どきんとした。でも、そのことが知られたくなくて、爪を噛んだ。爪はすでに深爪。左の親指だけ、ささくれている。

「だれでしょうね」

弟は深く腰を折り、右手を前に出して浮かせている。よろよろと歩き出した。

「だれでしょうね」と、少女は歌うように繰り返した。歌うような声が次第に高くなる。弟は両手で耳を塞ぎ、本格的な悲鳴に備えた。

長い悲鳴が収まると、少女は何事もなかったように欠伸をした。それから、近くにあった絵本を引き寄せ、開いた。

外階段を上ってくる足音がした。

その頃、医学界では新薬の効能について退屈な問答が続いていた。

チャイムが鳴った。弟は玄関の方を見た。少女は、絵本を自分自身に向って読み聞かせるみたいに、「だあれ」と言った。弟は、口から溢れ出そうになった唾液をごくりと飲みこみ、「おかあさん」と呟いた。答えるという感じではない。少し間をおいて、少女が「ふん」と言った。溜息だったのかもしれない。

少し前、英国では蒸気機関が発明された。

弟は、少女を避けるために立ち上がり、玄関に向かう。扉を開けたが、チェーンは外さない。少女は絵本を抱いて横になり、丸まった。

「やっぱり、おかあさんだ。手が白いもん」

「また騙されてら。あれはチョークを塗ったの」

弟は無視した。扉が閉じる音。チェーンが外れる音。少女は耳を塞いだ。

いつからか、月の裏側ではタンゴが演奏されていた。いくつか、ボタンの甘いバンドネオン。

(終)


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