腐った林檎の匂いのする異星人と一緒
7 白い手
少女は、細い悲鳴を上げた。
弟は、聞こえないふりをした。俯いている。
「これ、だあれだ」
問いかけまでは無視できず、ゆっくりと顔を上げる。
「だれだ、これ」
少女は、人を見下すような表情を作っていた。斜めに顎を引き、その顎を左手で隠す。左腕と胸の間に右手が挟まっている。右手はお椀のようなふくらとした形をしていて、指が少しだけ開いたり閉じたりする。
「だれよ、これ」
「おかあさん」
「どこの」
「サクラミートの前の」
「何してるの」
弟にはわからない。少女にもわからないのだ。
「今晩のおかずのことを考えてる?」
言ってみただけ。
「今晩のおかず、何?」
「知らない」
「何がいい」
「わからない」
二人は黙ってしまった。
少女が細い悲鳴を上げた。
「これ、だれ」
「おかあさん」
「どういう」
弟は少女に顔を向ける。焦点は合っていない。
「どっちの?」
弟は壁を見た。そこに答えを書いた紙でも貼ってありそうだ。
「どっちの。ねえ、どっちの」
「どっちかな」
「もういないおかあさん? まだいないおかあさん?」
弟は首を振って黙り込み、やがて寝転がる。
「飽きた」
「どこか、行きたい?」
「うん」
「どこ」
「どこだっていい」
「遊園地?」
遊園地は恐ろしい所だ。でも、本当はどこでも恐ろしい、黒い雨が降っているから。
「うん。遊園地」
少女は笑う。
「行ったこと、ないくせに」
「あるもん」
その瞬間、遊園地が見えてきた。数々の遊具が並んでいる。派手な色の観覧車。尖った塔の何本か。音楽も聞こえる。楽しげなワルツ。匂うのは焼き林檎か。視点は高い。自分は何かに乗っているのだろう。そして、それはやがてもの凄い勢いで落下するのだ。
少女が悲鳴を上げてすぐに黙った。
弟は「いい。行かない」と言った。それから、不意に立ち上がり、「これ、だれだ」と言った。
姉は、どきんとした。でも、そのことが知られたくなくて、爪を噛んだ。爪はすでに深爪。左の親指だけ、ささくれている。
「だれでしょうね」
弟は深く腰を折り、右手を前に出して浮かせている。よろよろと歩き出した。
「だれでしょうね」と、少女は歌うように繰り返した。歌うような声が次第に高くなる。弟は両手で耳を塞ぎ、本格的な悲鳴に備えた。
長い悲鳴が収まると、少女は何事もなかったように欠伸をした。それから、近くにあった絵本を引き寄せ、開いた。
外階段を上ってくる足音がした。
その頃、医学界では新薬の効能について退屈な問答が続いていた。
チャイムが鳴った。弟は玄関の方を見た。少女は、絵本を自分自身に向って読み聞かせるみたいに、「だあれ」と言った。弟は、口から溢れ出そうになった唾液をごくりと飲みこみ、「おかあさん」と呟いた。答えるという感じではない。少し間をおいて、少女が「ふん」と言った。溜息だったのかもしれない。
少し前、英国では蒸気機関が発明された。
弟は、少女を避けるために立ち上がり、玄関に向かう。扉を開けたが、チェーンは外さない。少女は絵本を抱いて横になり、丸まった。
「やっぱり、おかあさんだ。手が白いもん」
「また騙されてら。あれはチョークを塗ったの」
弟は無視した。扉が閉じる音。チェーンが外れる音。少女は耳を塞いだ。
いつからか、月の裏側ではタンゴが演奏されていた。いくつか、ボタンの甘いバンドネオン。
(終)