ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 2530

2021-04-30 22:03:21 | 評論
   夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2530 和魂洋才
2531 言文二途

「明治の精神」は、明治後期の軽薄才子にありがちなスタイルを指す言葉だろう。

<彼の父は洋筆(ペン)や万年筆でだらしなく綴(つづ)られた言文一致の手紙などを、自分の伜(せがれ)から受け取る事は平生(ひごろ)からあまり喜こ(ママ)んでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮かべながら、苦笑して筆を擱(お)いた。
(夏目漱石『明暗』十五)>

「一致」は初出では「一途」だ。
世代間の思想的対立はなかったから、古い文体が無効になると同時に対立も消えた。

<明治初期の改良運動の一つで、国語・国字改良と類縁をなしている。改良運動とは、日本を急速に西欧近代に接近させるため、日本のさまざまな分野の制度を西欧風に改良していこうとする運動だが、その根幹となったのが言文一致を中心とすることばの組み替えの試みであった。具体的には国民の啓蒙(けいもう)を目的としていたが、結果的には日本人のそれまでの思考の変革を促す一種の精神革命として機能していった。
(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「言文一致」山田有策)>

「明治の精神」は「一種の精神革命」に関わる事だろう。

<平安時代まで言文一致であったが、文に変化が生じなかったのに対し、言は変化し、鎌倉時代以降は言文二途の時代になる。その後江戸時代に至るまで標準的な文章体(和文)が古典的な性格を帯びたものだったために、幕末から明治期にかけて、西欧にならった言文一致の文章が求められた。
(『山川 日本史小辞典』「言文一致」)>

「言文二途」は建前と本音の使い分けと関係があるのではなかろうか。

<社会学者作田啓一によれば、普通、社会体系の外側にある理念的文化(あらゆる状況を通じて意味の一貫性を保持しようとする文化)がタテマエとして尊重されるが、それは、社会体系内の状況からの要請を入れて現実と妥協し、制度的文化となる。生活上の実際の行動を動機づけるのは、ホンネとしての制度的文化のほうである。日本のような後者が相対的に優位を占める社会では、タテマエ・ホンネ間の相互浸透や両者の使い分けが顕著であるという。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「タテマエとホンネ」濱口恵俊)>

こうした「使い分け」に失敗した人の精神状態を指す言葉が「明治の精神」ではないか。

2000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
2500 明示できない精神
2530 和魂洋才
2532 分裂病的

 「明治の精神」という言葉は建前の表現だ。Sは本音を隠している。静に隠しているばかりか、聞き手Pにも隠している。その隠蔽工作に作者は加担している。作者は本音を隠したまま、その気分を読者に伝達しようとしている。鬱陶しい。

<和魂洋才とは外面と内面とを使いわけるということである。これこそまさに精神分裂病質者が試みることである。あるいはこう言った方がよければ、ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機制を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。当人はこの使いわけによってうまく危機的状況に対処しているつもりでも、そのことが彼の人格にぬぐいがたい亀裂と傷痕をきざみこむ。そして、その結果、彼がうまく対処するつもりであった危機的状況はますます危険で脅威的となり、彼はますますこの防衛機制に訴えざるを得なくなり、ここに悪循環が生じる。洋才は外面だけのことであり、内面では和魂を堅持しているつもりでも、そうはゆかない。外的自己と内的自己とが生き生きとした統一的関係にあってこそ、いいかえれば外的自己が内的自己のありのままの自発的表現であり、かつ内的自己が外的自己の行動を自分の主体的意志に発し、自分が決定でき、自分に責任がある行動であると実感していてこそ、人格の統一性、自己同一性は保たれるのである。外的自己と内的自己を使いわけ、外的自己を危機的状況、脅威的外敵に対処するための一時の仮面とするならば、内的自己は外的自己に対するコントロールを失い、そのうち、外的自己は内的自己の意志とは無関係に振舞いはじめ、その行動は自分ではなく他者によって決定されるかのように感じられてくる。つまり、内的自己から見れば、外的自己はむしろ敵の同盟者のようにうつる。他人が自分の内奥まで踏みこんでくるという被迫害感の起源はここにある。
(岸田秀『ものぐさ精神分析』「日本近代を精神分析する―精神分裂病としての日本近代」)>

「和魂洋才」という言葉のもとは〈和魂漢才〉だ。

<日本固有の精神を以て中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう。
(『広辞苑』「和魂漢才」)>

和魂漢才の実態は不明。

<明治の菅原道真ともいうべき和洋の学芸に精通した森鷗外(おうがい)は、平安以来の系統を踏んで「和魂洋才」をすすめた。それは西洋文化の摂取とともに、それと日本文化の融合を説く良識豊かなものであったが、近代日本の激流的な思想界はそれを流布させないで終わった。
(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「和魂漢才・和魂洋才」原田隆吉)>

和魂洋才の実態も不明。

2000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
2500 明示できない精神
2550 和魂洋才
2533 造語

和魂洋才の場合、〈開化の漢語による和風の意味の表現〉だったと考えられる。原語のままではなく、「アイスクリーム」(上一)のようなカタカナ語、「印(いん)気(き)」(下十七)のような当て字を用いた。さらには、「アンドレ」(上五)を「安得烈」(上五)と書いて〈安んぞ烈しきを得ん〉などと読ませる気だったのなら、ややこしいことになる。

<アメリカの教科書(きょうかしょ)を、そのままほん訳(やく)して使ったので、かなりむずかしく、おかしな文章(ぶんしょう)が多(おお)くてたいへんでした。
(樋口清之監修『学研まんが 日本の歴史 第12巻 明治維新』)>

「おかしな文章(ぶんしょう)」が明治前期の青年にはハイカラに思えたのだろう。

<文豪・大家たちは、古くから一般的に用いられてきた四字熟語はもちろん、みずからが新たに造語したものも縦横に駆使して、それぞれ独自の文章世界を築いています。
(日本漢字教育振興会編著『知っ得 文豪・大家の「四字熟語術」』)>

漢語による造語は、江戸時代から始まっていた。

<(zenuw(オランダ)の訳語として、杉田玄白が「解体新書」で初めて用いた語。「神気配」「経脈」から造語)
(『広辞苑』「神経」)>

「神経」と「万物を生成する霊妙な力」(『広辞苑』「神気」)や「漢方で、気血が運行する主要な通路」(『広辞苑』「経脈」)の関係は不明。「人体内の生気と血液。血液の循環」(『広辞苑』「気血」)も私にはわからない。「生気」で行き止まり。

<Kの神経衰弱はこの時もう大分(だいぶ)可くなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。
(夏目漱石『こころ』「下二十八」)>

「神経衰弱に罹(かか)っている位」(下二十二)が「神経衰弱」になっている。「らしい」は伝聞か。
「それ」の指す言葉がない。「反比例に」は誤用だろう。
「過敏」を「衰弱」と並べるのはおかしい。二人は、神経質だったのではないか。

<ふつう神経質が体質性であるのと異なり、獲得性のものとされるが厳密な区別はない。
(『百科事典マイペディア』「神経衰弱」)>

何が何やら。こっちの方が「神経衰弱」になりそう。
(2530終)


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夏目漱石を読むという虚栄 2520

2021-04-29 21:58:32 | 評論
  夏目漱石を読むという虚栄 2520
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2520 明治はまだ終わっていない
2521 「天皇に始まり天皇に終ったような気」

「明治の精神」という言葉は、唐突に出てくる。

<九月になったらまた貴方に会おうと約束した私は、嘘(うそ)を吐(つ)いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会う積りでいたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御(ほうぎょ)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まり天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後(あと)に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)かろうと調戯(からか)いました。
(夏目漱石『こころ』「先生と遺書」五十五)>

「九月」の話が、〈十月〉でなく、どうして「冬」になるのか。「冬が尽きて」は意味不明。この後、〈ところが、「嘘(うそ)を吐(つ)いた」ような結果になります〉などといった文が続くべき。
「すると」は〈ところが〉などが適当。この「すると」は不図系らしい。「夏の暑い盛り」に文芸的な効果はない。Pの記憶を呼び覚ます効果なら、あるのかもしれない。
「明治の精神」の典拠は不明。私の知る限り、典拠を挙げた論文はない。「天皇に始まり天皇に終わった」は意味不明。「終ったような気」というのだから、「終わった」わけではない。語られるSの「気」を想像することは、私にはできない。
「最も強く」とする根拠は不明。「私ども」のメンバーは不明。静は含まれるとして、他に誰がいるのか。〈四十五歳以下はみんな死ね〉ってか。「その後」の「そ」が指すものは不明。「生き残っている」は意味不明。勿論、〈生きている〉でも変。「生き残っているのは時勢遅れだ」というのは意味不明。これに「という感じ」が付くと、ほとんど無意味。
「明白(あから)さまに」は意味不明。
静が「笑って取り合」わなかった理由は不明。「何を思ったものか」がわからないのに、どうして「調戯(からか)いました」と言えるのか。Sは「殉死」の静的意味を知っているのか。

<私は殉死という言葉を殆(ほと)んど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見(ママ)えます。妻(さい)の笑談(じょうだん)を聞いて始(ママ)めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新ら(ママ)しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>

「忘れて」は「意識的に記憶から消そうとする」(『広辞苑』「忘る」)という感じを含むか。
「必要」は〈こと〉で十分だろう。「字」を「忘れて」いたってこと? 「記憶の底」は意味不明。〈「言葉」あるいは「字」が「腐れ」〉は意味不明。気障ですらない。つまらん。



2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2520 明治はまだ終わっていない 
2522 死ねば? 

「明治の精神に殉死する積り」云々の場面を、人々はどのように思い描くのだろう。

S (読んでいた新聞を膝に置いて)明治の精神が天皇に始まり天皇に終わったような気がする。最も強く明治の影を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じがする。その感じが烈しく私の胸を打つ。
静 (笑)では、殉死でもしたらよかろう。
S 殉死という言葉をほとんど忘れていた。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものとみえる。お前の冗談を聞いて初めてそれを思い出した。もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ。(笑)何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持ちがする。

こんな会話は、ありそうにない。

S (新聞を畳み)明治の精神が天皇に始まり天皇に終わったような気がする。最も強く明治の影を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じがする。その感じが烈しく私の胸を打つ。
静 (笑)では、殉死でもしたらよかろう。
S もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ。(笑)

 静の返事が欲しくなる。

S (新聞を見ながら)天皇陛下がお亡くなりになったね。
静 ええ。これからどうなるんでしょう。(針仕事の手が止まる)
S 封建時代に戻るのかな。社会主義国になるのかな。いずれにせよ、そんな社会に自分が適応できるとは思えない。俺たちも死んだ方がいいんじゃないか? 
静 死ねば? (作り笑い)じゃあ、殉死でもしてみます? 
S ジュンシ? ああ、殉死ね。いや、勝手に殉死なんかできないんだよ。だから、もし俺が殉死するとしたらだな、ううむ、明治の精神に殉死するつもりにでもなってみるかな。(すすり泣きのような含み笑い)
静 (溜息のように)イミフ~。(反応がないので)略してIMFナンチャッテ。
S (静の声が聞こえているのか、いないのか。ぎらぎらした目で中空を仰ぐ)
静 (Sを不必要に長く見てから針仕事に戻ろうとするが、手は動かない)

静は、夫婦(めおと)心中の誘いを拒絶するために、Sに自殺を勧めた。本音が漏れたわけだ。自分でも気づかなかったSに対する疎ましさを、静は露呈してしまった。静の害意を感知して、Sは慌てて嫌味で返す。同時に自殺願望が募る。静がSを殺したようなものだ。
女に対する不満や恨みなどを、作者は露呈している。文芸的に表現しているのではない。




2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2520 明治はまだ終わっていない
2523 ボッチの夢

語り手Sは「明治の精神」という言葉を不意に持ち出す。語られる時点において、明治はまだ終わっていないから、「明治」限定と断言できる「精神」など、あるわけがない。

<すると、漱石が「明治の精神」と呼ぶものは、明治二十年代において整備され確立されていく近代国家体制の中で排除されていった多様な「可能性」そのものだった、といっていいのではないでしょうか。つまり僕がいおうとする「歴史」とは、今や隠蔽され忘却されてしまったもののことです。
(柄谷行人『漱石の多様性』)>

「漱石」ではない。Sだ。「明治の精神」という言葉は、「体制」によって「隠蔽され忘却され」るように暗示された不可能性のモザイクといってもいいのではないか。私のいおうとする〈歴史〉とは、軽薄才子の発信するフェイク・ニュースのことだ。
「明治」の真意は「自由と独立と己れとに充(み)ちた現代」だろう。この「明治」は、単なる元号ではない。「精神」も、漠然とした〈物質や肉体でないもの〉とは違う。これは「向上心」のことだが、「向上心」はKの自分語であり、Sに真意は知り得ない。
「明治の精神」はSの自分語だろう。自分語を共通語に偽装したがるのが「明治の精神」の症状だ。ボッチを恥じるボッチは、自分が虚構の共同体に属しているように装う。そこは、軽薄才子の集うクラブハウスだ。家族やリアルな友人などから排除され、また、新しく親密な人間関係を構築する夢も希望もないとき、〈自分を「受け入れ事」のできるは少なくない〉という夢を見て不安を解消しようとあがく。この夢を共有する人がいたとしても、当人を「受け入れる事」はできない。できるふりをするのが夏目宗徒だ。
『こころ』の作者がSの自己欺瞞を文芸的に表現している様子はない。作者が自身の言語技術の限界を露呈しているだけのことだ。言うまでもなく、「先生」は漱石先生ではないが、両者の言語能力の性格は同質だ。また、柄谷のような夏目宗徒の言語技術も同質だ。意味不明の言説を理解したふりになりたがる軽薄才子がいるだけのことだ。
「明治の精神」は明治限定の心的現象ではない。現在も継続中の何かだ。だからこそ、『こころ』は今も読まれている。Sにとって、「明治の精神」は「明治」限定の「精神」のように思われる自分の精神状態の仮称でしかない。それを「殉死」の対象とみなしたとき、ようやく意味ありげに思われる気分でしかない。ただし、「殉死」もSの自分語であり、確かな意味はない。ありそうでなさそうな「殉死」の「意義」も明示できないでいる。
「明治の精神」とは、意味ありげなだけで確かな意味のない自分語、他人に通じることがないばかりか、自分でも共通語に仕立て直せない、自分でもどんなことを指しているのか、明白でないような精神状態、朦朧とした、混乱した、曖昧な、矛盾だらけの悲痛な気分の仮称だ。「明治の精神」とは、「明治の精神」などといったレッテルを貼って粋がるしかないような深刻な憂鬱な精神状態を指すが、同時に、ご大層なレッテルを貼ってしまえば悶々をお蔵入りにできてしまいそうに思ってしまいがちな軽薄さの仮称なのでもある。つまり、無知な人間でさえ免れない「神経衰弱」を、自他に対して隠蔽する言葉だ。
(2520終)


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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒  16 筆跡

2021-04-28 13:23:30 | 小説
   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒
         16 筆跡
お礼をしなければなりませんね。
萎えた。
紙幣の柄が透けて見える封筒。
張りつめた絃が響いた後の長い余韻のような何か。どこかで花弁が落ちたか。
雨が砂漠を濡らし、灰色から草色が細く芽吹き、茶色が立ち上がり、緑色が支配し、黄色が開き、黄色が実ると、雷が落ちて、炎の舞姫たちが笑いながら旋回し、残った斑が吹きやられて砂漠に戻る夢。
眠っている間に、そっと誰かが帰って行った、遠くへ。
雨が岩を削り、岩は砂になり、川を下る。川は干上がり、地球が燃える。炎の上の鍋で人類が煮られる夢。
夢か。夢だと思う。誰が思うのか。
複製を複製し、さらに複製し、原形を推量することさえ困難になった何か。焦慮。だが、沈滞した焦慮。忘却。憧憬に似た忘却。微熱。
遅い朝の光が閉め切ったカーテンを温めている。
誰かが枕元に紙片を見つける。見慣れない筆跡。読めない。
この紙片も夢になってしまうのだろうか。
遠雷。
老いの目が潤む。
誰かが戻って来そうな朝、誰かの元へ。
(終)



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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒  15 惑い

2021-04-26 11:13:36 | 小説
   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒
         15 惑い
昨日や今日に始まったことではない。さっき、数時間前にも起きたようだ。
代理人が膝を揃えて、「できますれば」で、片膝をわずかに進め、硬い語句を並べてから、「当方といたしましては」で、一旦切った。
「ううむ」と、依頼人は、容認とも忌避とも取れる唸りを漏らす。
彼らは忘れたがっている。だが、忘れたくても忘れられない。ここは、ここではない。今は、今ではない。自分たちはヒトではない。だからと言って、サルやアシカでもない。ましてや、異星人でもない。
依頼人が次々に問いかける。ここは、どこだ。今は、いつだ。君は誰だ。私は何者だ。代理人は、うまくあしらえない。何が起きたのだ。いつ? 何が起きるべきだったのか。いつ? 何が起きるのか? いつ、どこで、なぜ? 
私が本当のことを教えてやろう、美しい声で、歌うように。だが、彼らは聴こえないふりをする。
彼らは私を消したがっている。私が本当のことを告げるからだ。そうでなければ、私であれ、誰であれ、消したがるわけがない。
「あの声だ。聞こえよう。聞こえるな。何とかならぬか。あの響き。それに匂い。そうだ。あの匂いときたら。なあ」
「むべなるかな」
彼らには何もできない。おとなしく佇んでいることも、項垂れて腰を折ることも、膝を抱えて坐ることも、諦めて横たわること、死ぬことさえできない。黙っていることはできないが、したい話はできない。おほん。えへん。ふむふむ。
彼らは宙に浮いている。そして、無暗に手と足と、そして口を動かす。ばくばく。生きているふりをする。生きているくせに。ふがふが。
ここは、どこでもない。今は、いつでもない。彼らは、彼らではない。
無限のシーソー。見つめ合うだけ。わかりあえない。
私は本当のことを語り続ける。だから、消される。
「何卒。何卒」
「さもありなん」
消された。
静寂。一瞬の、あるいは数世紀の。そして。
「できますれば」
「ううむ」
またもや、私が吹き出す。
{終}



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備忘録 ~帯電体

2021-04-24 01:43:40 | ジョーク
   備忘録
     ~帯電体
位階ない内科医
歓迎会 わいわい 戒厳か
帯電体 痛んでいた
手ぶらなら ぶて
(終)

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