ヒルネボウ

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本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

『赤蜻蛉』を読む

2024-09-29 23:50:33 | 評論

   『赤蜻蛉』を読む

読めたからといって、分かったことにはならない。

 文章の意味・内容の理解はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。

(『広辞苑』「素読」))

暗誦できたからといって、理解できたことにはならない。

   赤蜻蛉(とんぼ)

      詩 三木露風  曲 山田耕筰

夕焼、小焼の

あかとんぼ

負(お)われて見たのは

いつの日か。

 

山の畑の

桑の実を

小籠(こかご)に摘(つ)んだは

まぼろしか。

 

十五で姐(ねえ)やは

嫁に行(ゆ)き

お里のたよりも

絶えはてた。

 

夕焼、小やけの

赤とんぼ

とまっているよ

竿の先

(起)

「小焼」は意味不明。

この曲では「あかとんぼ」の「あ」にアクセントが置かれている。現在では「かと」だ。

「負われて見た」を〈追われてみた〉と誤解している人がいる。

「負われて」いるのは語り手で、当時は幼児だろう。では、誰が背負っているのか。

「いつの日か」という問題に、自分は答えられない。では、背負っていた人は、どうか。尋ねても、答えは得られまい。

いや、そうでもない。幼児が「赤蜻蛉」を指さし、背負う人は耳元で、喃語で囁く。その人は、〈あかとんぼ〉と教えてやった、その「日」のことを、背負っていた人はもしかしたら覚えているかもしれない。その可能性を否定する必要はない。語り手は語りを中断し、背負っていた人に質問したらよかろう。なぜ、しないのか。その人は不在だからだ。会いに行くこともできないようだ。あるいは、そんな他愛もない質問ができるほどには、もう親しくはないのかもしれない。

(承)

「摘んだ」のは誰か。幼児はまだ「負われて」いたのか。「山の畑」に独りで行けるほどには成長してはいないはずだ。記憶が朧なのだから。

「まぼろしか」と疑う。この質問に、答えてくれそうな人は、いない。このときに連れて行ってくれた人を、語り手は思い出せない。あるいは、〈自分と一緒に「摘んだ」人は去った〉という記憶を偽造しようとしてできないでいるのかもしれない。本当は、誰かがいなくなったのではなく、原因不明の淋しさを主題とした物語を空想しようとして、自分から去った誰かの像を作り出そうとするが、できないでいる。あるいは、どちらとも決められない。語り手は、〈思い出せないこと〉と〈作り出せないこと〉を区別できない。そのもどかしさを甘酸っぱく感じる。まるで「桑の実」のような味の思いだ。逆に、甘酸っぱい思いが、〈桑の実を摘む〉という物語を作り出したのかもしれない。

(転)

「姐や」は子守りのこと。彼女に「負われて見た」としても、そんなことを、わざわざ聞きに行くのは変だろう。では、「お里」なら、どうか。

「お里」は乳母の名前だ。ただし、本名ではなく、雇われている間の仮名だ。女中を〈おさん〉と呼ぶようなものだ。

「お里」は「姐や」よりも先にいなくなった。

まず、「姐や」のことを考える。遡って「お里」のことを考える。さらに遡れば、母親だろう。だが、母親にも聞けないらしい。

『赤蜻蛉』の隠された主題は、母親およびその代りをしていた女たちに見捨てられた淋しさなのだ。

(結)

「赤蜻蛉」を見たとき、幼児は〈自分〉という意識を得た。だが、それは自立の始まりでしかなかった。自立を助けてくれた誰かがいた。そんな気がする。その誰かが誰なのか、思い出せない。考え出せない。

「とまっている」のは、語り手の〈自分の物語〉と、その内部の〈自分〉だ。〈自分の物語〉の内部の〈自分〉は、誰に質問してよいのか、分らず、動けないで留まっている。そして、〈自分の物語〉が切れ切れになって、時間的にも止っている。だが、それこそが自分なのだと、悲しく悟る。

この段は、語り手の現在の心境を表わすだけでなく、幼児の心境を表わしてもいる。語り手は、幼児には言葉にできなかった思いを、語りの現在において思い出した。いや、作り出したのだ。

「棹の先」にいるのは、「赤蜻蛉」それ自体であると同時に、過去に見た「赤蜻蛉」でもあり、また、それを個別の存在として認識した幼児の心境の象徴でもある。

すいすい空を飛ぶ虫ではなく、「棹の先」に軽々と留まっている。じっとしていると、鳥などに食われやすい。だが、飛んでいるから絶対に安全というわけでもない。

「赤蜻蛉」は「竿」に「負われて」いるが、虫にそうした認識はない。幼児は女の背に「とまって」いたのだが、そうした反省はできなかった。「赤蜻蛉」も人間も、明瞭には認識できない自然の「先」に留まっていて、そして、止まっている。

自立とは、〈自立などありえない〉と悟ることだ。語り手はそのように達観した。

以上で理解は終わり。

感動は、その次に生まれる。

〈母に見捨てられた〉という物淋しさを抱いている人は、『赤蜻蛉』の隠蔽された主題を感得する。

そんな物淋しさをさっぱりと忘れてしまった人は、元気だから、『赤蜻蛉』を面白がらない。理解で終わる。

どちらでもなくて、抒情を嫌悪し、理解すら拒否する人がいる。物淋しさに耐えられないからだ。臆病なのに、そのことを自覚すまいと強がる。見栄っ張りの憐れな人だ。自分が見捨てられた人間であること、無価値な存在であることを認めまいと、我を張り続ける。そして、虚空を必死になって飛び廻る。狂騒、競争、選挙、占拠、戦争。

なお、理解しないで、ほろりとする人は危ない。彼らは、見栄っ張りが隠している気弱さにも共感するからだ。いつでも掌を返す。

(補足)go to「夏目漱石を読むという虚栄」[2452 母性喪失症候群]夏目漱石を読むという虚栄「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」 2450 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

(終)


笑うしかない友 ~ハラハラ

2024-09-27 20:48:45 | ジョーク

    笑うしかない友

        ~ハラハラ

ハラハラって知ってるよね。

・腹が立つみたいな? 

知ってんだ。

・パラパラとはちょっと違いますよね? 

パラパラもハラハラになるときはあるよ。

・じゃあ、ばらばらでも? 

『バラバラ』でパラパラでハラハラってことはあるんだな。

・今ちょっとそれやってもらっても大丈夫ですか。

それがハラハラ。

・ですよね。

ハラハラって便利だよ。

・大変便利を略して大便って言う人、いますもんね? 

ハラハラを逆ハラと言う人だっているさ。

・もう何でもありなんだ。

自称被害者傲慢時代だから。

・それって、ちょっとモラハラですよね。

だから~それがハラハラ! 

・じゃあ、ちょっと、もう何にも言えませんね。

AIに代弁してもらえばいいのさ。

・スマホが? 

するよ。

・毎日? 

毎日。

・でも、一回でしょう? 

いいや、何回でも。

・へえ。私は三日に一回なんだけど。

人間の時代は終わったのさ。

・合点承知之助。

(終)


(歌) 今日この日に

2024-09-26 22:34:11 | 

(歌)

  今日この日に

今日この日にと カレンダーに

丸く印を付けて おいたから

今日この日こそ やるんだよね

やると決めたからには 明日はない

今日この日に

今日この日に

今日この日に

(終)

 


夏目漱石を読むという虚栄 7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

2024-09-25 23:57:19 | 評論

  夏目漱石を読むという虚栄                                                                                

7000 「貧弱な思想家」 

7300 教育は洗脳                             

7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか  

7311 「身一つ世人行くに無意味違約なく」

 

円周率は3として計算してよいことになるが、これはほとんど犯罪的である。図の円の半径を1とする時、円周率を3として計算すると、円周の長さは6となる。ところがその円に内接する正六角形の周の長さも同じく6となる。(正六角形は正三角形六個でできているから)。これは嘘(うそ)と言ってよい。円周の方が正六角形の周より「少し」だけ長いのは一目瞭然(りょうぜん)で、その「少し」が3・14の小数部分に表われていたのに、と思ってしまう。

(藤原正彦『祖国とは国語』「犯罪的な教科書」)

                                        

「ゆとり教育」に対するありふれた批判。

「円周率は3として計算してよいこと」が「犯罪的」なら、円周率をπとして計算するのはどうなのだろう。

「図」は省略。以下を読んで作図できない人のことは無視する。「半径を1とする」だってさ。弱ったね。どうして直径を1としないのだろう。「円周の長さとその直径との比」(『広辞苑』「円周率」)が定義だろう。2πrに拘り過ぎか。

「正六角形は正三角形六個でできている」は意味不明。

「その「少し」が3・14の小数部分に表われていた」というのは意味不明。〈円周率は3・14で計算してよい〉としたら、もっと「犯罪的」だろう。なぜなら、〈円周率は有理数〉ということになるからだ。つまり、〈円は正多角形の一種だ〉と定義したことになる。

藤原の祖国の国語では「祖国とは国語」という言葉に意味があるらしい。変な国。

私の祖国では、この「少し」を味わうのにいい方法がある。

 

これを覚えるのに「身一つ世人行くに無意味違約なく」「産医師異国に向かう。産後やくなく」など、いろいろな語呂(ごろ)合せが知られている。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「円周率」)

 

さて、暗い知識人の作文は、てんで意味不明。

 

さらに、教科書の内容が三割削減されるとか、円周率を「おおよそ三」として教えるといった話まで飛び交うようになると、文科省へのバッシングは一層激しいものになった。

(石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』「第二章 学校が殺したのか――教育崩壊」)

 

「おおよそ三」なら、「嘘(うそ)」ではない。

「国語力を殺す」は意味不明。〈殺す〉が「おさえて活動させない」(『広辞苑』「殺す」)という意味なら、「国語力」は活動できていたことになる。ところが、この本の主題は違う。生徒の「国語力」が育たない原因を探っているのだ。育っていないのだから、殺せない。

探偵さんよ、犯人は君達なんだよ! 

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳

7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

7312 教育は脅迫

 

知識人は知識人の小説を好む。

 

教科書から削除された「三割」の中には中学の国語の教科書の定番だった夏目漱石や森鴎外の作品も含まれていた。『吾輩は猫である』や『高瀬舟』といった作品に触れる機会がごっそり失われたのである。

(石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』「第二章 学校が殺したのか」)

 

『吾輩は猫である』は出鱈目。〔4100 笑えない『吾輩は猫である』〕夏目漱石を読むという虚栄 第二部 恐ろしく恐ろしげな「意味」  第四章 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで 4110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。

「作品に触れる」や「ごっそり失われた」は意味不明。

 

弟殺しの罪で遠島に処せられ、高瀬川を舟で下る喜助の心情を叙して、知足の境地や安楽死の問題などに触れた作品。

(『広辞苑』「高瀬舟」)

 

「知足」は『老子』からだろうから、これを先に読んどかなくちゃ。「安楽死の問題」は、ちょっとやそっとでは解けそうにない。でも、いいか。どうせ、「触れた作品」だからね。「問題などに触れた作品」を読んで、「問題など」が解けた、と思ってしまうのが知識人だ。

この『ルポ』なるものの冒頭で、『ごんぎつね』を誤読する生徒たちが俎上に載せられる。

 

〈よそいきの着物を着て、腰に手拭いを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました〉

新美南吉は、ごんが見た光景なので「何か」という表現をしたのだ。葬儀で村の女性たちが正装をして力を合わせて大きな鍋で何かを煮ていると書かれていることから、常識的に読めば、参列者にふるまう食事を用意している場面だと想像できるはずだ。

教員もそう考えて、生徒たちを班にわけて「鍋で何を煮ているのか」などを話し合わせた。ところが、生徒たちは冒頭のように「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したのである。

(石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』「第二章 学校が殺したのか」)

 

この「教員」は「鍋で何を煮ているのか」教えてくれるのか。狸汁ならぬ、狐汁かもよ。

「消毒している」というのは湯灌からの連想だろう。「煮て溶かしている」というのは『かちかち山』からの連想だろう。そのように推測するのが普通人だ。人肉嗜食について、〔3453 カニバリズム〕夏目漱石を読むという虚栄 3450 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。

この「教員」には、生徒たちの思考について「常識的に」推測する能力が決定的に不足している。何様のつもりか。探偵さん、君も同様だよ。

知識人は、自分の知識や思考の不足などを反省することができない。自分とは意見や感想などの異なる人を嘲笑したり叱責したりする。さらには〈教育してやろう〉と思いあがる。

 

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳

7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

7313 ミッキー・マウスか? 

 

『ごんぎつね』の語り手は非常識だ。真味ない機知。

 

うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首(くび)にまきついたままはなれません。

(新美南吉『ごんぎつね』一)

 

常識では、鰻は巻きつかない。

 

「どこへいくんだか、前へまわって、うなぎに聞いてください」

(古典落語『うなぎ屋』)

 

「ごん」は、ミッキー・マウスみたいに二足歩行するらしい。指もあるようだ。手袋をしているかな。靴だって履いているかもね。口笛を吹きながら船を操縦したりして。

 

はたけへ(ママ)はいって芋(いも)をほりちらかしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ(ママ)火(ひ)をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)の裏手(うらて)につるしてあるとんがらをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。

(新美南吉『ごんぎつね』一)

 

「火」は狐火か。「むしりとって」というのだから、指があるのは確かだろう。「いったり」は〈炒ったり〉か。「ごん」は狐ではなく、不良少年みだいだ。

 

つぎの日(ひ)には、ごんは山(やま)で栗(くり)をどっさりひろって、それをかかえて、兵(へい)十(じゅう)の家(うち)へ行きました。

(新美南吉『ごんぎつね』三)

 

『ごんぎつね』の原典は『ごんべえだぬき』だろう。『ごんべえだぬき』は、突然、終了する。『ごんぎつね』は、お涙頂戴の結末をくっつけただけの出鱈目。作者は〈その後、ごんと兵十は友達になりました〉といったような結末を作れなかった。

 

兵(へい)十(じゅう)は今(いま)まで、おっ母(かあ)と二人(ふたり)きりで貧(まず)しいくらしをしていたので、おっ母(かあ)が死(し)んでしまっては、もうひとりぼっちでした。

「おれと同(おな)じひとりぼっちの兵(へい)十(じゅう)か」

こちらの物置(ものおき)のうしろから見(み)ていたごんは、そう思(おも)いました。

(新美南吉『ごんぎつね』三)

 

知識人は「ひとりぼっち」だ。その事実を隠蔽するために言葉を弄ぶ。致死奇人。

(7310終)