答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

四半世紀

2023年03月31日 | 北川村

 

北川村やまなみ太鼓が発足して丸26年になる。

ということは、その数ヶ月あとから参加したわたしが太鼓を叩きはじめて26年だということである。

あした、それを記念してコンサートをひらく。

と言うと、誰しもが「なぜ25年ではないのか?」という疑問を抱かれるだろう。

いや、いくら天邪鬼なわたしとて、あえて26年を狙って開催するわけではない。

昨夏、やろうとはしていたが諸事情で断念。その代わりとしての26年である。

「スゴイ!四半世紀じゃないですか!」

つい先日、同席していた打ち合わせのさなか、コンサートの開催を知らせる村内放送が流れたのをキッカケに知人がそう言った。

「四半世紀」という言葉で表現されると、途端に重みがちがってきて、

「スゴイねぇ」

他人ごとのように感心してしまった。

と同時に、おもしろいものだと思った。

結局、始めた当時はイチバンの稽古ぎらいだったわたしが、唯一残ったオリジナルメンバーである妻の次に古株となってつづけているからだ。

あと何年やることができるのかわからないが、とりあえずは、もう少しつづけてみようと思う。

ということで、わたしの令和5年は、北川村やまなみ太鼓「25プラス1周年」記念コンサートで幕開けである。

 

 

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苗木

2023年03月20日 | 北川村

 

昨日から泊まっていた娘や孫が「モネの庭へチューリップを見に行く」というのを、「あ、そう。ワシら柚子を植えるキ」と軽く受け流したわたしには、池の向こうにある丘に早咲きのチューリップが満開な様を容易に想像することができる。

そう、内心では残念でたまらないのだ。しかし、かねてより予定していた柚子の苗木植えをしておかなければ、このあと3月末から4月中旬にかけては、私用公用ゴチャまぜにした予定がびっしりと埋まっている。泣きの涙で柚子畑へと向かった。

途中、不足だった材料があり、となり町のホームセンターまで買いに行ってくれた妻が帰ってくると、そのクルマには孫1号と2号の姿があった。それから十数分もすると、ベビーカーに孫3号を乗せた娘もやってきて、めでたく全員集合である。こんな機会もめったにあるものではないと、さっそくそこら中を動き回って遊ぶ8歳と5歳を呼び、植え付けを手伝ってもらった。

「植えてるのは何の木?」

「ゆずよ。そこらにあるヤツといっしょ」

「どれぐらいたったらあんなになるが?」

「そうやねえ。あれで40年ぐらいかなあ?」

と言っても40年という時の長さが8歳の子には推し測りかねるのか、なんだかピンと来ないような顔をしている。

「10年ばあ経ったら実をいっぱいつけるぞ。オマエは中学生やな」

「10年っていうたらボク高校生や」

「そうか。どこの高校へ行く?」

しばし無言で宙に視線を泳がせ考えたのち、あきらめたような口調でひとこと。

「そんな先のことわからん」

 

そうか。さすがに40年という時の長さを想像するのはムリだったかと反省し、その四分の一にまで短縮してみたが、考えてみればそれすらも、彼がこれまで生きてきた年月よりも長いのだ、想像の埒外であったとしてもムリはない。

とはいえそれは、じいさんにとってはたかだか10年でしかない。指呼の間と表現してもよいほど短いその時間の先で、たわわに実った黄色い玉をいっしょに採る光景を想像したわたしの顔は、たぶん少し微笑んでいたはずだ。その時が来たら、柚子採りなど手伝ってはくれないかもしれないのに。

ことほど左様に、爺婆にとってちいさい孫の未来風景は、自分にとって都合のよい方にしか向かないが、それを想像させてくれるだけでも、ありがたいというものだ。来るか来ないかわからないその日に向けて、人も木も、精いっぱい世話をしようとココロに誓うじいさんなのである。

 

 

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(悪)あがき(たぶん)

2023年03月06日 | 北川村

 

「かといって、この身体にまったく可能性がないかといえばそんなことはなく、この2ヶ月ほど稽古を増やした結果、スタミナしかりスピードしかり強度しかり、少し回復してきたというたしかな実感がある。となると、まだまだできる(かもしれない)と思い始めるのだから、あいかわらず往生際がわるいことこのうえない。」

 

と一昨日のブログに書いた翌日、村の芸能発表会に出演。わずか一曲の大太鼓にもかかわらず、途中でヘロヘロになってあえなく玉砕した。といっても、ある程度目と耳が肥えたひとならばそうと判別できるが、そうでなければ、それほどには感じられなかったのかもしれない。というのも、ヘロヘロになって苦しみ悶えながら大太鼓を打つわたしの表情は、観客席からは見ることができないからだ。

現代日本における「和太鼓」で大太鼓といえば、台に横向きで乗せた太鼓を正面から打つという林英哲を始祖とするスタイルが一般的で、客席に向かって背中を見せるその姿勢では、どのような顔つきをして演奏をしているかが一切わからない。それが、野外イベントの特設ステージなどの横もまたオープンになっている場所ならともかく、ホールにあらかじめ備えられた壇上であれば、関係者以外にその表情が晒されることはない。まして今回の場合は、その関係者といえば、次の楽曲に備えて待機している子どもたちだけである。ステージの最後尾に陣取って大太鼓を叩くわたしが苦悶の表情をしたところで、そんなところまでは見ることがないだろう。というのが、とんだ見当違いだった。終了後、近寄ってきた子どもたちの保護者のひとりがこう言ったのである。

「センセイ、むちゃくちゃしんどそうでしたね(笑)」

しまった。と思ったが時すでに遅し。子どもたちの面倒を見てもらうため、そこで付き添いをしてもらっていた保護者の存在を、すっかり忘れてしまっていたのである。

そして悲劇はそれだけでは済まなかった。

「子どもらに、ほらセンセイの顔見てみ、って言ってみんなで見てたんですよ」

嗚呼・・・といっても、他の誰の責任でもない。元はといえばあれしきのことでそうなったわたしがわるい。その恥ずかしさは甘んじて受け入れるしかない。

よし、こうなれば・・・4月初めに予定している3年ぶりのコンサートでは、きっと必ずリベンジできるように、この約1ヶ月間を精進鋭意努力するしかない。たとえ悪あがきと言われようと・・・。

そうココロに誓う辺境のシロート太鼓打ち。64歳と2ヶ月の悪あがき(たぶん)。

 

 

 

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現在地

2023年03月04日 | 北川村

 

あるイベントを告知するニュースを見て妻がぽつりとひと言。

「もう呼んでくれんなったネ」

そう。その催しにはかつて何年か連続で出演したことがあった。といってもずいぶん前のことだ。コロナ禍うんぬんには関係なく、わが北川村やまなみ太鼓の需要がなくなったにすぎない。

「旬があるキね」

そう返答したわたしのことばのトーンは淡々としたものだったはずだ。彼女は無言。だが、その顔はたぶん同意したように見えた。

「もう・・・ハードな曲ばっかり・・・」

稽古をしていて、ため息をつきながら彼女がそう言う回数がめっきり増えた(あ、彼女はおなじチームのメンバーです)。

わがチームの持ち曲のうち7割程度はわたしがつくった曲で、その曲調には作曲者の好みが色濃く反映されている。そしてわたしは、いわゆる「打ち込み系」が好みである。そして「舞踏系」の曲を創作するのが苦手だ。そう考えれば、ハードな曲が占める割合が増えたのも致し方がないというところか。

しかし、それをそう感じるかどうかは、奏者の肉体がそれに適応しにくくなってきているところに因る部分が大きい。ひらたく言えば、そしてアッサリと切り捨ててしまえば、「老化」である。それは当然予想されていたことではあるとはいえ、いざ実感しだすとやはり、なんだかなぁとなってしまう。そこへもってきてコロナ禍の影響による稽古不足と本番の激減だ。体力が充実していたころならば、ちょっとしたブランクなどはすぐに取り戻せていたが、年をとるとそうはいかない。身をもってその当たり前を思い知らされたここ数年だった。

かといって、この身体にまったく可能性がないかといえばそんなことはなく、この2ヶ月ほど稽古を増やした結果、スタミナしかりスピードしかり強度しかり、少し回復してきたというたしかな実感がある。となると、まだまだできる(かもしれない)と思い始めるのだから、あいかわらず往生際がわるいことこのうえない。

たぶん、そんなこんなを繰り返しながらリタイアのときへと近づいていくのだろう。そしてそれは、そう遠くはない未来にはちがいない。しかしまだその選択肢はない。ナントカの冷水だと言われようと、もう少しばかり足掻いてみようと思っている。

 

 

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令和5年のお弓祭りを終えて

2023年01月09日 | 北川村

 

令和5年の「お弓祭り」がつつがなく終了。

といっても開催の有無については紆余曲折がありました。

北川村木積星神社の「お弓祭り」は、醍醐天皇の親政が行われたことにより歴史に名を残す延喜の御代より数えて千百有余年つづく神事で、2年に一度行われますが、前回はコロナ禍の諸事情をかんがみ、やむなく中止。4年ぶりの開催となった今回は、折からのコロナ第8波を考慮し、参加者は必要最小限のごくごく少数にして、あえておおっぴらな告知はせず、「おきゃく」(宴会)はやらない、全員飲酒禁止、設えも簡素なものに、弓引きさんは経験者のみ、などなどという、従来に比べるとかなり大幅な簡素型となりました。兎にも角にもつづけよう、つづけなければならない。そのためには今回も取り止めとするとダメージが大きい。そういった意思の発露として考えると、なによりも開催することそのものに意義があった回だといえるでしょう。

そんななか、ここ十数回は、弓引き、後見、親、おじさん、先生、地区の代表者などなどと、色々さまざま種類は変わったものの、服喪期間をのぞいては何らかの形で必ず参加してきたわたしはといえば、今回は久しぶりに、本当に久しぶりに、的を差配するスタッフとしてその場に連なりました。

そういった経験を踏まえ、いつもの賑わいを知る身としては、やはり一抹の寂しさを感じたのもたしかです。

とはいえ、何よりも第一義に考えなければならないのは、つづけること。「千年」という時の重さと、その間、連綿とつづいてきた伝統という名の贈与のパス&レシーブを、たかだかそのなかの80年ほどしか生きることがないわたしたちが軽々にあつかうことはできません。

そういえば先日、こんなことがありました。村のとあるイベントを開催するか否かを問う会があり、参加者全員が是とするなか、別に天邪鬼を決めこんだわけでもないのですが、気づいてみれば反対意見を述べていたのはわたし独りだったのです。その理由と内訳はここでは書きませんが、とにかく「やめるべきだ」とハッキリ意思表示をしました。結果、見事なまでの少数意見だったのには苦笑いするしかなかったのですが。

世の中にはやめてもよいものと、つづけなければならないものがあります。少なくともストップすることを軽々に判断するべきではないもの、と言い換えてもよいかもしれません。その理由は、その場その時それぞれで変わってはくるのでしょうが、ひとつの判断基準を示すならばそれは、伝統であるか否かではないかと思うのです。

先日、開催の是非を問われたイベントは、はじまってから十年ちょっとの催しでした。自分たちが始めたもの、あるいは、そうではなくてもその歴史が比較的浅いものは、やるかやらないか、つづけた方がよいのかどうかのジャッジメントを常に心に留めながら実行していくべきではないでしょうか。惰性でつづけることよりも、勇気を持って取りやめることの方が、よほど適切だと思えることも多くあります。もちろんその判断も軽々になされてよいというものではありませんが、その重さは、長い歴史と先人たちの積み重ねがあるものと比べれば、おのずからちがってくるはずです。

その判断基準のもとでは、「お弓祭り」はあきらかに、「つづけなければならない」という類に入るものでしょう。将来的には(それも近い未来という意味の将来)、やむなく取り止めという時が来るのかもしれません。どう足掻いても抗しきれない事態に陥ってしまうという可能性は、客観的に考えるときわめて高いと言わざるを得ません。

それでも、精一杯つづけるためにはどうすればよいのか。

祭り(神事)の存続が危機的状況となって久しい今だからこそ、抗いきれない未来を予想するからこそ、真剣に考え、実行に移さなければならないと思います。

そういう意味から言えば今回の簡素型は、今後の方向性のひとつを指し示す例として大きな意義がありました。ひょっとしたら、後々、あれがエポックメイキングだったなと振り返られるものだったのかもしれません。

トカナントカ、さまざな思いを抱えながら令和5年の「お弓祭り」終了。その簡素さに「一抹の寂しさ」を覚えたのは事実ですが、なんとはなしにゆったりとした優しい空気が漂っていたような気もします。

ともあれ皆さん、おつかれさまでした。

また2年後。がんばりましょう。

 

 

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2022年12月07日 | 北川村

 

大太鼓の前にすわり締太鼓のイントロダクションを聞くわたし。示し合わせたリズムフレーズが出たなら立ち上がってドーンといっぱつ。ソーレッと声をかけ曲本番へと移っていく前段だ。そんな写真を身内の知人が撮影してくれたのはひと月半ほど前。その写真はそれから数十分後、身内を経由してわたしの手元に届いた。

真横から写されたわたしは、片膝を立てアタマを40度ほど下にかたむけている。袖なしの法被から出た首筋と上腕は、いかにもというほど筋張っていて、本来は撫でているはずの肩が少し上がっている。そのすぐ上、張ったエラからは奥歯をかみしめていることが見てとれる。

「もうちょっとリラックスしたらどうなんだい?」

思わず写真のなかのわたしに声をかけそうになり、ココロの内で苦笑い。

リキミは太鼓演奏にとっての大敵である。

和太鼓といえば、ちからいっぱい叩くというイメージをもたれている方が多く、事実それはそのとおりなのだが、だからといって肩に力が入るのは百害あって一利なし。リキムと強い音は出ないし、よいパフォーマンスはできないし、その身体から確実にスタミナを奪っていくことまちがいない。

ところがわたしは、それをわかっていながら、そして子どもたちにはそう教えながら、自分自身の最大の悪癖としてそれを持ち合わせている。その舞台が大事なものになればなるほどそうなのだ。

とはいえ、四捨五入すれば30年のキャリアになるのだもの、ただ手をこまねいていたわけではないし、初期に比べればずいぶん改善されてもきた。しかしその日は、コロナ禍での久方ぶりの演奏という事情も大いに手伝っていたのだろう、写真のなかのわたしはどこからどう見てもリキミ感満載である。

そういえば、村の子ども太鼓教室最年少であるわが孫2歳児は、叩くうちに興が乗ってくると必ずといってよいほど舌を出す。舌出しは、彼がノッているかどうかのはっきりとしたバロメーターなのである。

プレイ中に舌を出すアスリートといえばマイケル・ジョーダンが有名だが、わが敬愛する遠藤保仁が舌を出すこともサッカー好きのあいだではよく知られている。舌を出す行為には、身体の筋肉をゆるめるリラックス効果があるらしい。ジョーダン、遠藤、そしてわが孫。彼らがそれを意識して舌を出しているのか、それともリラックスしているがゆえに舌が出てしまうのか、本人たちに聞いてみないとわからないが、その時の彼らが緊張状態の対極にあるのはまちがいないだろう。

いっそのこと出してみるかオレも。

リキミかえった自らの写真をながめながらそう考え、アタマのなかでその姿を想像し、イヤイヤ・・・とかぶりを振って否定した。

スキンヘッドの65歳が舌を出しながら大太鼓を打つ。その姿はマヌケ以外のなにものでもない。和太鼓は音のみならず、姿カタチもまたその演奏のよしあしの評価の尺度として重要なものだ。それなのに、やるに事欠いて舌を出すとは・・・と、ここでまた考えた。

たいていの場合の大太鼓演奏は、客席に対してうしろ姿しか見せない。ならば、その打ち手が舌を出しているかどうかは客側からは見えないではないか。だったらやってみる価値はある。そう思い直した。

であれば、見本とするべきは誰か。

わが孫2歳がノリノリで太鼓を叩く姿を思い浮かべ、心の内でつぶやく。

師匠・・・

 

 

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慎太郎像を前にして考えた

2022年09月27日 | 北川村

 

 

先週末、ふたりの客人あり。大阪からである。

当然、モネの庭へと案内するべく、睡蓮の咲き塩梅を予想して11時集合とする。

10時半ごろ晴天の空をながめ、少し早くてもよいかなと連絡すると既に来村しているらしい。そしてその所在はというと中岡慎太郎館だという。

モネの庭を案内したあと、時間とその気があれば慎太郎館へと赴くことはよくあるが、自らの意思でそこへ行く人はめったにいない。いや、わたしの記憶にはほとんどない。

だが、なんにしても悪い気はしない。迎えついでに館へと行った。

すると、クルマはあるが、そこらあたりにくだんの人たちの姿はない。余程時間をかけて見ているらしい。待つことにした。

ふと、青い空と白い雲をバックにした慎太郎像が目に入る。当然、撮らなければなるまい。と、もっとも気に入っている角度から一枚。

 

 

 

健脚で知られた慎太郎さんらしく、躍動感があふれるアングルだ。

ついでだ。時間もある。像のまわりをぐるぐると一周し、異なる角度で何枚かをカメラに収めた。

そのなかの一枚がこれだ。

 

 

 

 

iPhoneのディスプレイをながめながら、お、と新鮮な驚きを覚えた。

「このアングルもええやんか」

思わず知らず独りごちる。

「俺が中岡慎太郎だ」

てな感じで自信に満ちあふれた姿だ。

 

「これがベストだ」と決めるのはわるくない。だが、それが念頭にあるがばかりに、他の可能性を閉ざしてしまうことがある。その執着が虚心さをどこかに追いやってしまうからだ。

それは良い方への評価だけではない。ワーストと断じる場合にも同じことが言える。是非の思い込みである。思い込むことが執着のはじまりだ。執着に堕すれば、是非の判断が一方的なものとなり、別の側面が見えなくなってしまう。もちろん、写真だけに限ったことではなく、物事に対する向き合い方の話である。よくあることだ。気をつけなければ。

慎太郎館の外に腰をかけ、そんな思考をめぐらせていると、館から出てきた客人がコチラに気づいた。

久々にじっくりと慎太郎像と向き合い、よい時をもらった。その余勢を駆って、モネの庭へと赴いたのは言うまでもない。

 

 

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中岡慎太郎マスク

2022年06月08日 | 北川村

 

3年ぶりの札幌だ。

今回の遠征は、中岡慎太郎マスクで勝負しようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

では。

 

 

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路傍の花

2022年04月01日 | 北川村

 

林道工事現場から会社へと帰る道すがら

クルマをとめ外へ出ると

ちいさな花がそこかしこに咲いている

 

スミレ

 

止まらないと見えないものがある

今さらではあるけれど

 

 

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哀愁の大太鼓

2022年03月28日 | 北川村

 

週に一度の太鼓の稽古が近ごろ熱い。

と言っても、あくまでわたし自身の心持ちとして、ではあるが、とにもかくにも熱い。というのも、教え子たちの成長に、たしかな手応えを感じているからだ。

ならば、ときのうは大太鼓を打ってみせた。

いや、いつも打ってはいるのだが、100パーセントではない。音楽にせよ芸能にせよスポーツにせよ、習うということにおいては、それが目で見て盗めなのか、手取り足取りなのか、それぞれちがいはあるにせよ、お手本が目の前にあるに越したことはない。

ということで「ならば」、なのである。

打つにつれ熱くなる。

さあ、よーく聴け、よーく見ろ、てなもんだ。

打つたび叩くたび、アタマと心は次第に自身の盛期とおなじイメージになってくる。

「大太鼓を打つときは、腰を基点として、上半身すべてをバチのようにイメージして打つ」

20年以上も前に地下明美さんに教えられ、そうあらんと努めてきたフォームを意識して打ち出せば、お、まだまだできるじゃないか。心も熱いし身体も熱い。心と身体がシンクロすれば、なおさら熱い。ノリノリになって叩くそのさなか、

あれ?

左腰に感じる違和感ひとつ。

やばい。

このままつづけていては、やってしまいそうだ。

そこは「先生」の権限である。すぐにペースダウンし、打つのをやめた。

稽古のあと、見ていた保護者と妻に、

「腰を・・」

と打ち明けると、憐憫とも冷笑ともつかぬニュアンスを含ませながら大笑いされた。

 

「寝る前に湿布を貼ってね」

妻にそうお願いした数時間後、さあ床に着こうかというそのときまで、腰の違和感を忘れていたのは、心地よい稽古の余韻とともに飲った酒が全身にほどよく染みていたせいだろう。布団に入る直前に気づいたが時すでに遅し。頼みの綱である妻は先に寝ている。当然、起こすなどという選択肢があろうはずもない。

ええいままよ。

そのあと、水棚に映る裸の背中を見ながら、変な体勢でひとり悪戦苦闘していると、

あれ?

今度は別の部位に違和感ひとつ。

なんとか貼り終えて床に着いたはいいが、

「明日はだいじょうぶだろうか?」

その疑念が晴れずなかなか寝つけない。

なんてことはまったくなく、たぶんものの数十秒も立たぬうちに眠りに落ちた。

 

朝、5時にセットした目覚ましに起こされて床を出る。

肩がバリバリである。

なぜだろう?

少し考えて、「ああね」ときのうの大太鼓にその原因があることに気づく。

そういえば・・・

左腰をさする。

軽い違和感は残るものの大事なかったようだ。

これをして、ナントカの冷や水というか言わぬか。

やるけどね、これからも。それなりに。

 

 

 

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