答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

詰める〈考〉その6/6 ~あしたはどっちだ~

2024年08月31日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
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ぼくにとって「なぜ?」は「詰める」の代表選手ですので、問題を「なぜ?」という「詰める」の一手法にしぼってきましたが、そろそろ結論とするために、ここらで「詰める」に戻すこととします。

「詰める」を「責められている」と感受するのには、もうひとつの理由があります。それに思い当たると、「オレはよかれと思っている。そう受け取るのは思いこみにすぎない」とばかりも言ってはおられません。じつはそれは、あながち見当違いではないからです。

「詰める」には権力の行使という側面があり、その根底に支配欲があります。ついつい詰問という形式になってしまうぼくの「詰める」には、たぶんそれがあるのでしょう。それゆえに、多くの場合にぼくの「詰める」は、他者を圧迫し、相手に答えを強制する行為としてあらわれます。であれば、問いを通じて他者を支配し、管理する手段として受け取られても仕方がないでしょう。
ぼくとしてはとても残念なことですが、その「詰める」が他者の自由な思考や行動を制約し、主体性を奪っている事実もあることを認めざるを得ません。

そこはいわば「取調べ室」です。いやいや、そうと意識をしているわけではないのですが、しばしば相手の答えを誘導し、特定の結果を強要していることがあるのは否定することができません。そういう状況で得られた「自白」が真実であると信じこむのは、あまりにも能天気にすぎるでしょう。時としてそれは、冤罪であるかもしれないのですし、そこへ誘導したのは、他ならぬぼく自身なのですから。

しかしそれは、ぼくの本意ではありませんし、ぼくにとっての「詰める」は本来的にはそのようなものではありません(だからなおさらよくなかったりする・・・のではありますが)。「詰める」という行為は、他者との対話を閉ざすためにあるのではなく、むしろその逆に、オープンにするためのものとして存在します。
そしてもうひとつ。ぼくの「詰める」は、成長を促すためのものでもあります。それは、対話を通じて原因を追求し問題解決を図る知的トレーニングであり、外の世界で「詰める」を発動されたときに、毅然として相対することができるためのロールプレイングゲームとしてもあります。

だとしても、そうと理解されていないのが現実だとしたら、その責はぼくに帰せられるべきでしょう。「詰める」が単なる詰問になってしまっているとしたら、それはひとえにぼくの至らなさゆえでしかありません。
「詰める」を詰問としないためには、まずは他者を尊重すること、そして、その成長を助けるための問いかけを行うことです。そうすることで、ぼくの「詰める」は自らの本意に沿ったものとなるはずです。

と、行きがかり上とはいえ、エラそうなことを書いてしまいましたが、事はそれほどかんたんではありません。できるかできないか、どちらの方がより確率が高いかといえば、残念ながら後者なのかもしれません。そう思いながら、書こうか書くまいかと逡巡しつつ、ええいママよと書いてしまいました。

結局のところ、「詰める」という行為は、その背後にある動機と目的を正しく実現するために、相手との関係性を考慮し、相手を追い詰めるのではなく、今そこにある問題を解決すると同時に相手の成長を促すというものでなければ行うに値しないものかもしれません。
それが困難なのであれば「詰める」のを止めるか、はたまた、その困難を承知でさらにソフィストケイテッドされた「詰める」へと進化させて実践するか。
さて、ぼくのあしたはどっちなのでしょうか。


と、思わずそんな問いかけをして、いかにも意味ありげに締めくくろうとしましたが、考えてみれば、そのような二者択一ができるほど人間が達者にできていないからこそ、これほどダラダラと考え、それを綴っているのですし、今も、これまでも、あしたからも、どのみち倒けつ転びつ七転八倒しながらしか進めない身です。ならば、その時々その場合場合であっちこっちとゆらぎながら平衡を保とうと足掻き、他者あるいは自分自身との折り合いをつけていくしかないのでしょうから、自問しても詮無いことではあります。

そう。結局は他者もしくは自分自身との折り合いでありバランスです。それを忘れさえしなければ、「詰める」という行為も捨てたものではないと思うのです。

 ~おしまい~

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詰める〈考〉その5/6 ~ものごとはそもそも複雑である~

2024年08月30日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
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かつて、「なぜ?」の発し手であるぼくが抱える最大の問題は、その「善かれの思い込み」にもとづく無自覚かつ脳天気な態度にありました。
そのことについて、薄れかけた記憶をたどり、色々と考えをめぐらせているうちに、あるひとつの、しかし大きな要因であると思しきものにたどり着きました。

TOCとぼくが出会ったのは2006年12月ですから、今から18年も前のことになります。その基本的考え方はこうです。

******
TOC(Theory Of Constrains:「制約理論」または「制約条件の理論」)は、「どんなシステムであれ、常に、ごく少数(たぶん唯一)の要素または因子によって、そのパフォーマンスが制限されている」という仮定から出発した包括的な経営改善の哲学であり手法です。
(中略)
この仮定からまず読み取れるのは、「制約にフォーカスして問題解決を行えば、小さな変化と小さな努力で、短時間のうちに、著しい成果が得られる」という主張です。つまり、冒頭の仮定により、システムのパフォーマンスを決めている、ごく限られた箇所を改善または強化すれば、システム全体としてのパフォーマンスの向上に直接寄与するからです。
******

さらにそれを凝縮して表現したのが、TOC4本柱のひとつとして掲げられている「ものごとはそもそもシンプルである」というスローガンだと言えるでしょう。現実を複雑に考えず、本質的な問題は何であるかを特定し、問題解決を図る。このTOC思考プロセスを解説するために例としてよく用いられるのが、次のような病気に対するアプローチです。

******
本質的な問題とは、目的達成に向かううえで存在する数々の”好ましくない事実”を引き起こしている根本的な原因です。
例えば、病気に対するアプローチを考えてみましょう。
従来、個人で病気になった場合はたとえば、
  • のどが痛いのであればのど飴をなめる
  • 悪寒がするのであれば厚着する
  • 食欲がないのであれば栄養ドリンクを飲む
という風に、病気に対して対処療法での処置がほとんどでした。
ですが今では病院へ行くこと等で、それらの症状を引き起こしている根本的な原因、つまり制約を特定することも可能です。 そしてその根本原因(制約)がインフルエンザであれば、抗ウイルス剤を使用した治療を行うことができます。
このような考え方が、制約条件の思考プロセスによる解決法です。
 組織運営についても同様で、数々の問題が発生していてもその原因はごく少数であるため、同様の解決方法を用いることが可能となります。
******

「ものごとはそもそもシンプルである」
この言葉はぼくに大きな影響を与えました。
因果関係を解きほぐすことで根本原因を突きとめ、「本質的な問題」を特定したうえで問題解決を図っていく。この手法が、組織とその構成員である個人の成長と成熟に寄与するものとなると。確信したわけではありませんが、そう信ずるに値する理論であると感じました。そして、「なぜ?」を問い、それを繰り返すのは、その実践にとって欠かせないものでした。

とはいえ人間世界で起きる様々なできごとや人と人との関係性は、そもそも複雑なものですし、TOCもそれを否定しているわけではありません。TOC思考プロセスが目指したのは、「〈要素感の因果関係〉と根本原因の裏側に潜んでいる〈人間の思い込み〉を同時に認識することを可能にし、人間が介在する複雑なシステムの問題を、一元的に認識する」(村上悟『不確実な時代に残る、ものづくりの強化書』)ことでした。複雑なものは単純なものの集まりであって、複雑そうに見える問題にも法則性があるゆえに、そこにフォーカスすると「複雑なシステムの問題を、一元的に認識する」ことが可能となるわけです。

たしかに、外見の複雑さに惑わされず、複雑だからこそ単純に捉えるという考え方は魅力的ですし、説得力があります。だからこそぼくも、その考えに賛同し、実践をしようとしました。しかし、それが「ものごとはそもそもシンプルである」という断定につながり、その理で世の中で起こるものごとを捉えてしまうと、ある種の思考停止状態に陥ってしまいかねません。

人の世は複雑きわまりない。そしてその複雑さの大部分は人間関係によって占められています。そこにおいて複雑な様相を呈す事象も、解きほぐしてみればじつは単純なのだというのは、いかにも短絡的です。そう考えはじめたとき、複雑という現実から逃避するようになっていった人たちにとって、「ものごとはそもそもシンプルである」というのは魔法の言葉であり、呪文のようなものです。

一方で、「なぜ?」を繰り返しながら、果敢に複雑さへ挑み、それをシンプルにしようとしていく人がいます。しかし、複雑さを単純にするという試みには限界があります。「単純なもの」に分解できない事象があります。すべての複雑さに法則性が見つかるわけではありません。特に人間関係では、「ほどけない糸」が必ず存在します。

因果関係ですら、すべてに見いだせるというものではありません。
すべての事柄が、原因があって結果があるという順列でつながっているわけではなく、そこにおいて、無理やり因果関係を求め、ものごとを単純化しようとすると、推論から組み立てた仮説にもとづくものとなるしかありません。
仮説を立てること自体はあたりまえのことです。しかし、自説の優位性に執着してしまえば、その仮説は、反証の可能性を閉ざしていき、その正しさに向けた証拠集めに勤しむようになります。

そうした背景をもった「なぜ?」が、詰問になることからが逃れられるはずはないのです。

 ~つづく~

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詰める〈考〉その4/6 ~指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ、自分の失敗。~

2024年08月29日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
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本来、物事をよい方向にみちびき、問題解決を図るための「なぜ?」の使用が、どうしてわるい方向へと行ってしまうのでしょうか。
その要因のひとつに、「なぜ?」を受け取る人それぞれのマインドセットのちがいがあります。

人は失敗を隠します。正しくは、隠そうとするタイプと、オープンにして次へ活かそうとするタイプとがあるのですが、基本的性質は「隠す」だと考えて差し支えないでしょう。理由は、自分の身を守るためです。

人は失敗をします。失敗をしやすい人とそうでない人がいますが、失敗をしない人間なぞは、誰ひとりとして存在しません。
失敗は自分の力を伸ばすうえで欠かせないものとしてごく自然に受け止めることができるマインドセットであればよいのですが、その一方で、失敗は自分の無能力の証拠であり恥であるという思考傾向をもつ人は、失敗を隠そうとします。
ぼくが「基本的性質は隠す」だと断定するのは、後者、つまり「失敗=恥」だと捉える人の方が圧倒的に多いからです。

いや待てよ。ひょっとしたら「基本的性質=生来の質」ではないのかもしれません。
「これをあきらかにすれば責められる」から「包んで隠す」。
この心理と行動は、何も生まれついてから備わっているものではなく、幼少のころからの苦い経験から身についたものかもしれません。さらに言えば、そういう風土がこの国にはある。
そしてそれを身につけた人たちにとっては、親であれ教員であれ先輩であれ上司であれ、「責める側」に立つ人間が発する「なぜ?」は、自分が「責められる」ための言葉としてしか存在しない。そういう場合が多々あるのではないでしょうか。

ここにおいて、「なぜ?」を肯定的に用いているつもりのぼくと、問いかけられている相手のあいだに重大な齟齬が生じます。どころか、ぼくの目論見の対極に位置する「隠す」という行為は、心中に芽ばえたその食い違いさえ外には表出させません(少なくとも言葉としては)。

それが最良の選択だと考え、「隠す」を実行している人は数少ないはずです。繰り返しますが、それは苦い経験の積み重ねから得た行動パターンなのであり、それゆえにそれを突破するのには困難が伴います。

「指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ自分の失敗」

これはぼくが若い時分に「モットー」だとうそぶいて多用していたギャグですが、これが例外なくウケたのは、誰しもが自分の失敗は認め難く、ましてや他者にそれをさらけ出すなど、耐え難いほどの苦痛だからでしょう。
それはことの軽重にかかわりません。ほんの些細な失敗でもそうです。人生にかかわるほどの重要なことならなおさら、それはもう別次元といってもよいほどの難しさになります。

しかし、失敗に対する人の姿勢は矛盾しています。
調子に乗ってふたたび言います。

「指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ自分の失敗」

人は、自分の失敗は隠したり言い訳をしたりするくせに、他者が犯したミステイクは、すぐに責め立てようとする傾向があるようです。そして、犯人を探し出して、それをスケープゴートにしようとします。
その時点ではすでに、多くの人が複雑な背景や原因に想いを至らせようともしません。帰結するのは「失敗隠し」です。

むしろ非難するべきは自分の失敗です。それに対して他人の失敗は、笑って誤魔化すぐらいの方が程よいバランスなのかもしれません。

それなのに、人は自分の失敗は隠します。オープンにして自分や他者が批判する対象とすることは多くありません。自ら進んで、となると、さらに数少なくなってしまいます。隠す理由は自分の身を守るためです。それは何も、他者から守るばかりではなく、ひょっとしたら、自分自身からも守っているのかもしれません。

「なぜ?」は諸刃の剣です。それを承知せずに「善かれの思い込み」にもとづいて能天気に発していると、薬になるよりも毒になる方が多いのです。

 ~つづく~

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詰める〈考〉その3/6 ~〈なぜ〉がやめられない~

2024年08月28日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
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たとえば 「なぜ?」
あるいは「なんで?」
ときには「どうして?」

Whyは、かつてのぼくの口癖のようなものでした。過去形にしたのは、意識をしてそれを少なくするようにして今があるからです。
もちろん、悪気はありません。たしかに自分自身に生来備わっている底意地のわるさは認めますが、むしろ善意にもとづいたものであることが多かったはずです。
しかし、こちら側の悪気の有無はことの是非には関係がありません。いやむしろ、「善かれの思いこみ」、しかも〈上〉が〈下〉に対するそれは、考えようによってはタチがわるいとさえ言えます。

「少なくなった」といっても、今でもいつも、心のなかに「なぜ」は芽生えます。それを心中で飼うか殺すか、あるいは口から表出させるか。それだけのちがいであり、数が少なくなったわけでもなければ、一切なくなってしまうこともありません。
表に出すことを控えるようになったのは、先ほど述べたように、相手に心理的抵抗を生み出させないため。ただそれだけのことです。

「問題を発見したら〈なぜ〉を5回繰り返す」という、トヨタ生産方式を代表する手法のひとつとしてあまりにも有名な〈なぜなぜ分析〉の効能については、万人の知るところでしょう。ぼくもまた「〈なぜ〉を繰り返す」派でした。しかもかなりの積極派としてです。

しかし、「なぜ」を個人の内的行為として使うのは別として、そこに相手がある場合のそれは、針にも刃にもなりうることを十分に承知して用いなければ、かえってわるい結果を生み出してしまうことが往々にしてあります。
それが顕著にあらわれるのが、彼我の関係に強弱がある場合です。そして、特に仕事においては、フラットな関係性を見出すのは非常に困難です。つまり、彼我の関係における「強弱」や「大小」は、至極当然のこととして存在しています。

その関係性における「なぜ?」の発露には、2つのパターンが考えられます。
ひとつは〈弱〉が〈強〉に対して使う「なぜ?」で、もうひとつはその逆、〈強〉が〈弱〉に発する「なぜ?」です。
前者の場合には何の問題もありません。むしろ〈弱〉の方は積極的に発するべきであり、それを受ける〈強〉には、それに対して真摯に答える義務があります。
問題となるのは後者です。
そこで繰り返される「なぜ?」は、「〈詰める〉の5分類」のなかでも最もキツイ〈追い込み系〉となり易いからです。しかもそれは〈詰問〉という行為となってあらわれやすいがゆえに、される側にとって心理的圧迫をともなうことが多くなります。
もちろん、いくら立場が「弱い」とはいえ、自身の信ずるところをキッパリはっきりと述べてファイトすればよいだけのことなのですが、そこはそれ、そうすることが出来ない人も多いのが人の世の常というものです。

そういった感情の機微に気づかないか、あるいは感知していても無視するかしたうえで、ぼくはたとえばこう言ってきました。

「オレは単純に疑問に思うから聞いてるだけなのよ」
「ここを素通りしたら問題は解決せんのよ」
「ここで原因を解明しておかんと先へはつながらんのよ」

言っている当の本人は大真面目です。しかし、こちらが真剣であればあるほど、詰問の沼はどろどろとなり足をとられて抜けなくなる一方となってしまいます。
そのことに気づいたぼくが採用した問題解決方法のひとつが、「〈なぜ?〉と問うのをやめてみる」という方法でした。

といっても、先述したように、ぼくの内なる「なぜ?」は止まることがありませんし、止める必要もありません。
行おうとしたのは、まず「なぜ?」という問い方、あるいは〈問い〉そのものを禁じ手に近いものとすることでした。そこでは、「なぜ?」によって強化され発展していくクリティカルシンキングは心に留め置き、脳内で醸成させながら、「なぜ?」に代わる言葉を探し出して口から出し、そこからの状況を観察しながら問題解決の道筋を探っていきます。
その代替となる語句は、具体的にはWhenでありHowであるのですが、それはどこかの誰かからの受け売りです。そうではなく、ぼくが考え出したもののひとつに、おなじ「なぜ?」を口にするにしても、それを直接ぶつけるのではなく、いったん独り言めいて発してみるという方法があります。

「なんでそうなったんやろなあ?」

意外なことに、これは効果がありました。といっても、相手にとってどうこうというのではなく、自分自身のマインドセットとしてです。つまり、まずモノローグとして口に出すことで、自分自身の心持ちにワンクッションを置く。そして、そこから別の切り口を探して問題解決につなげていく、これがぼくが採用した「〈なぜ?〉の変形活用法」でした。

とはいえ、ご推察のとおり、事はそれほどかんたんではありません。
「〈なぜ?〉をやめる」というミッションを毎日リマインドし、「〈なぜ?〉の変形活用法」を心がけたところで、脳内にどっかりと居座り、しっかりと根づいたその悪癖(もちろんその根底となる心根も含んでいます)の手強さが、そう易々とそれを実現させてくれるはずもなく、今でも折に触れては「〈なぜ?〉と問う」てしまう自分に気づき、あわてて蓋をしてしまうことがよくあります。

 ~つづく~
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詰める〈考〉その2/6 ~「詰める」は悪か~

2024年08月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
前回は
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皆さんがご想像するとおり、あきらかにぼくは「詰める側」の人間でした。過去形にしたのは、現在は少しばかり様相が異なってきたのではないかという自己認識があるからです。

とはいえ本質的には変わらず「詰める」人間です。気質としてもそうですが、立場もまたそうです。しかもかつてのぼくは、そうすることにまったく悪意がなく、当然罪悪感も感じてはいませんでした。その一方で、立場という側面から見れば、かつてはぼくもまた、多くの場合で「詰められる側」にあったことにちがいはありませんし、なんならば今も、妻との関係では、「詰める」よりも「詰められる」方の比率が高いと言えます(冗談です。内緒にしておいてください)。対して現在の社会的立ち位置は、けっして「詰める」方ではないでしょう。そこに身を置かないようにしているといった方がよいでしょうか。

同様に、ある人が、その人ひとりの身の内に「詰める」と「詰められる」を同時に抱えていたとしても何らの不思議はありません。現在過去未来のどこの時間軸で見るかによってもそれは異なるのですし、仕事と社会、あるいは家庭といった文脈ごとでちがってきたりもします。

いや、それはいいとして、ここはあくまでも会社人としてのぼくの「詰める」に限定して話を進めましょう。
先ほど申しあげたように、ぼくは「詰める」という行為に対してなんの悪気も持ち合わせていませんでした。どころかむしろ、「よいこと」あるいは「やらなければならないこと」としてその行為を捉えていたのです。
その目的は、組織や個人の成長や成熟のためです。それに寄与する手段として日々や折々での「詰める」があります。ぼくがそれをすることで皆がよくなる。これが基本的スタンスです。たしかに、元々そのような性質の持ち主にはちがいないのですが、だからといって無自覚にその質に乗せられているわけではありません。

一方で、「詰められる」側はどうでしょうか。
仕事というものが他者との関係性で成立している以上、そこには必ず自分以外の人間の存在があります。ぼくがどのように考えていようと、その想いだけで是非を判断してよいというものではありませんし、他者を考慮の外におく態度から生まれるのは、独善と呼ばれるものでしかないでしょう。
であれば、「詰める」ぼくと相対している「詰められる」者の存在を抜きにするわけにはいきません。

ところが、それを考慮に入れてしまうと、ぼくの想いとは裏腹に状況は一変してしまいます。
そこでは、それに真っ向から反駁するか黙ってうつむくかのちがいはあるにせよ、相手の心中には、必ずといってよいほど、「詰める」という作用に対する反作用が起こります。
そう、多くの場合でそれは、「詰められている」という圧迫感が先立つゆえに、心理的抵抗を起動させてしまいがちなのです。そうなると、感情がこちらの行ってほしくはない方向へと逸れてしまい、なぜそれをするかについての「ぼくの想い」などに思いを至らせてくれはしません。
と、ついつい例外を切り捨てて断定をしてしまいましたが、とにもかくにもそれはぼくの体験からの分析です。

思うにそれは、ぼくの「詰める」が〈詰問〉という形態で行われることがほとんどであることに起因しているのでしょう。

 ~つづく~
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詰める〈考〉その1/6 ~鬼詰め~

2024年08月26日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
「鬼詰め」なる言葉があるそうです。
「そうです」という以上、もちろん、つい最近知りました。

昨夜、『隠し剣鬼の爪』という映画をテレビで観たのですが、もちろんあの美しいドラマとは何の因果も関係もない「鬼詰め」です。
といっても、一般的に流布されているとは言い難い語句のようです。
なんとなれば、Google日本語入力で「おにづめ」と入力しても変換されて出てくる感じは「鬼爪」ですし、「鬼」と「詰め」に分けて「鬼詰め」と変換した上で検索しても、まともな情報はヒットしません。
しかし、次のような記事があるにはあるので、やはり使われていることにちがいはないのでしょう。

******
私が社会人3年目、初めて営業部長になった時
毎週月曜日の11時が大っ嫌いでした。
なぜなら、鬼詰めされるからです。笑
 
目標が達成できていないなら
当然のように、「何故だ」と
数字の細かい部分まで
詳細に上司から詰められる。
達成していても、何故出来たんだ
と変わらず、詰められる。笑
 
日曜日の夜からだんだん胃が痛くなり
月曜日の朝は布団から出られなくなったことが
何度あったことか。。

******

入社3年目で営業部長・・・という箇所に引っかかる気持ちはさておいて、この文章からは、どうやら「鬼のように詰める」態度や姿勢をあらわして「鬼詰め」と表現するらしいことがわかります。この場合の「鬼」は、人を苦しめる恐ろしい存在としての比喩と考えてまちがいないでしょうが、「詰める」という語句にはさまざまな意味があって、すぐさまこれと断定するのは危険です。
ではどのような意味があるか、ざっと並べてみましょう。

衣装を「詰める」(隙間がないようにぎっしり入れる)
虫歯を「詰める」(物を入れてふさぐ)
長さを「詰める」(短くする。縮める)
生活費を「詰める」(節約する)
指を「詰める」(切り落としてけじめをつける)
(ちなみに土佐弁で「指を詰める」とは「指を挟む」の意ーーex.オレきのう指をつめてねえーーなどとぼくのような風体の人間がそう言ったのを予備知識のない他県民が聞けば思わずゾッとしてあとずさりするかも)
根(こん)を「詰める」(かかりきりになって事をつづける)
息を「詰める」(止める)
持ち場に「詰める」(待機する)
話を「詰める」(決着がつくようにする)
部下を「詰める」(追い込む)
敵を「詰める」(逃げ場がないようにする)

以上は動詞としての用い方ですが、動詞の連用形に付いた使用例としてはこのようなものがあります。

追い「詰める」(身動きできなくする)
問い「詰める」(行きづまらせる)
通い「詰める」(休みなくつづけて~する)
敷き「詰める」(一面に~する)

いやあ、あらためてこうやって見てみると、じつに多くの意味や使われ方をしていることに驚きます。なので、整理するために独断で区分けしてみます。
まず〈圧縮系〉。これには、「衣装を詰める」「虫歯を詰める」と「敷き詰める」が入ります。
次に〈短縮形〉。「長さを詰める」「生活費を詰める」「指を詰める」がこれに相当します。
3つめは〈継続系〉で、「根を詰める」と「通い詰める」。
「息を詰める」と「持ち場に詰める」は〈待機系〉と名付けてみました。
残るのはひとつ。「話を詰める」「部下を詰める」「敵を詰める」「追い詰める」「問い詰める」などを総じて〈追い込み系〉とします。「詰め将棋」もここに分類されます。

では、令和6年現代日本のビジネス界で「詰める」という語句はどのように使われているのでしょうか。一例を、これまたGoogle検索のトップ記事から引用してみます。

******
ビジネスにおける「詰める」という言葉は、不自由な2択を迫ることで、主に自分より下の立場の人間を追い込む行為を指します。コンサルの業界では「焼く」というようです。(「詰める 焼く」と検索すると、ピーマンの肉詰めのレシピが出てきますw)
******


ここからも、「鬼のように詰める」という行為における「詰める」が〈追い込み系〉であることを、あらためて理解することができます。

それにしても、ふたつの引用から受ける印象は、ネガティブなものでしかありません。それに対し、ぼくの考える「詰める」は、たとえば計画やプロジェクトの詳細を具体的に検討したり、最終的な調整を行ったり、交渉の重要なポイントを議論し、結論を出すこと、あるいは、失敗や上手くいかなかったことをそれだけで終わらせず、その後の糧とするために原因を探したり因果を推定したりすること、を指します。ぼくの感覚では、ネガティブな要素などみじんもありません。

では、なぜ「詰める」がそれほど悪者にされてしまうのでしょうか。
 
~つづく~
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もうひとつの〈2024年問題〉

2024年08月05日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
 のつづき

さて、そこでぼくは、とても大事なことに気づいてしまいました。
(というか、けっこう以前からもやもやとしていたことが、ハッキリと形をもって脳内にあらわれたというのが正しいのですけど)
ポイントはここです。

******
ところが、如何せん能力がない。いや、そうは認めたくないが、そう認めざるを得ない現実に、何度も天を仰いで嘆息したものです。しかし、あきらめ切れなかった。その経緯の一つひとつを詳らかにするほど覚えてはいないのですが、牛のように、ゆっくり歩いては立ち止まり、立ち止まってはまたゆっくり歩きをつづけているうちに、気がつけば、「なんとかまあまあ」というぐらいのレベルにはたどり着いたようです。ところがこれは、何より効率を重んじるビジネスの世界では非常によくない。〈時間対効果〉を指標にすれば、自慢げに語るような資格はまったくありません。
******


このような例は、ぼくのようないささか薹が立ちすぎた人間ならば、自慢どころか、むしろ恥じ入ってしかるべきことでしょう。
しかしそれが、まだ仕事を覚えたて、あるいはこれから第一線に立ってバリバリとやろうとする若人ならどうでしょうか。
ぼくは胸を張ってよいと思います。たとえそれが牛の歩みだったとしても、ロング・アンド・ワインディング・ロードだったとしても、はたまた一日一歩三日で三歩そこから二歩下がって合計五日で一歩しか進まないような道程だったとしても、けっして恥じることはありません。
ある意味ではそれが仕事を覚えるということであり、凡人は皆、そうやって一人前になっていくのです。特に〈技術〉や〈技能〉を習得するということは、多かれ少なかれそういうことだとぼくは思っています。

それが、ぼくが気づいた大事なことです。

あら、アナタ、「なんだそんなことかよ」と笑いましたね。
そう、「そんなこと」です。
しかし、ぼくが気づいたのは、考えようによっては背筋が寒くなるような話です。けっして笑いごとなどではないのです。


〈建設業の2024年問題〉が喧しい昨今です。既にみなさんご存知のように、直接的な要因は、建設・運送・医療の3業種に限って一部の施行が猶予されていた働き方改革関連一括法の全面施行が今年度から開始されたことです。
かつては美風とされていたこともある長時間労働が完全アウトとなりました。はたらくことより休むことの方がランクが上です。寝食を忘れてはたらくなど以ての外です。
それらに反するものは、すべて〈ブラック〉の烙印を押され、悪と決めつけられてしまいます。

といっても、ぼくは基本的にそれがわるいことだとは思っていません。原則論で言えば、あきらかにソッチの方に歩があることも、じゅうぶん承知しています。

わるくないと考える理由はふたつあります。
ひとつは、これまでの業界の労働環境が他産業に比べてよくなかったこと。端的に言うと休みが少ない。とはいえそれはあくまで相対的なものですので、それのみをもって一概にわるいと決めつけるのも乱暴な話ではあるのですけれど、その比較が単なる統計上の数字にとどまることなく、建設という仕事そのものの評価となって表れている以上、せめて他産業並みにしなければ土俵に立つことができません(ご推察どおり、ぼくはそれに対して異論を持つ者です。さはさりとても・・です)。

ふたつめは、きのうも書いたように時間対効果です。端的に言うと、”Time is money"=〈時は金なり〉。時間を効率的に使うことで生産性が向上し、収益は上がります。その理を無視していたずらに長い時間を費やすことは、そこにあるはずの収益や利益の損失を意味します。残業フリーで休日出勤もオッケーとなれば、少くない数の人たちは、なぜだかついつい時間を浪費してしまいます。ですから、上手に時間を使うためにはある程度の規制を設けた方がよい効果をもたらす場合があります。与えられた時間が限られていれば、必然的に短い時間で効率的に仕事をしなければならなくなるからです。効率を優先的に考えるならば、それが正解でしょう。
それが前提です。


しかし、あくまでもそのロジックは、〈利益の追求を使命とする企業活動〉における〈仕事〉についてのものです。
とはいえ、それだけが〈仕事〉と呼ぶものでしょうか。
わかりやすい例が、まだ仕事を覚えたて、あるいはこれから第一線に立ってバリバリとやろうとする若人でしょう。そこにおいては、知識の学習があり、技能の習得があり、感覚の練磨がありと、様々なものを学び鍛錬することもまた、〈仕事〉の範疇に入れるべきでしょう。

そこでは、常には重要な物差しであるはずの時間対効果を、そのまま当てはめるわけにはいきません。なんならばそれは、そもそも時間がかかるものであり、それ相応の時間を積み重ねなければ得るものも得られないからです。
であれば、そこに時間を費やすのを規制するという行為は、「そんなにがんばって仕事を覚えなくてもよいのだよ」と宣言しているに等しいのです。
言い換えればそれは、組織の未来へとつながる投資です。であれば、時間対効果や費用対効果という物差しではなく、別の基準で考えるのが筋というものでしょう。
ただでさえぼくたちの仕事である建設業は、それが技術であれ技能であれ、基本的に時間がかかるものなのです。

だからといって時間がかかってそれでよし、と言っているわけではありません。人より早く覚え、他者より早く習得することは、組織のなかの個人にとって大きなアドバンテージとなりますし、そうすることによって、その先もより多量でより多岐にわたる知識や技術を自分のものにする可能性が広がります。
また、自分ひとりの経験には限りがあるため、1は1でしかありませんが、既に先達が取得済みの経験や知識を学べば、1が2にも3にもなり、〈学習の高速化〉を図ることができます。
「時間がかかるもの」などと言って、それにあぐらをかいている人のその先は推して知るべしでしょう。

いやいや、だからこそデジタルテクノロジーではないか。と言われれば、まことにもって仰るとおりかもしれません。たしかに、IoTやAIといったあたらしいテクノロジーにその役割の一端を担わせて、時間を短縮するのはアリでしょうし、今という時代に生きて土木という仕事をしているのですから、その方策は探っていくべきだと思います。

かつて羽生善治は、ITとインターネットの進化によって、将棋が強くなるために必要なことを誰もが共有し学ぶことができる時代が訪れたことを「学習の高速道路が敷かれた」と表現しました。それは何も将棋の世界だけではなく、ビジネス、趣味、遊びなどなど人間がからむあらゆる分野に共通することとして、今という時代が成り立っています。
そこで羽生がもち出した「ITとインターネットの進化」は、たしかにその当時はそのものズバリをあらわしたのでしょうが、今となっては、羽生善治の〈学習の高速道路〉理論の要点をあらわした言葉となって、学習の高速化にデジタルテクノロジーが果たす役割を象徴しています。

しかし、それはあくまでも習得時間の短縮であり〈高速化〉です。ショートカットではありません。技術者の道にも職人の道にも、残念ながら〈近道〉はありません。ぼくが言う「基本的に時間がかかるもの」というのは、そういう意味であり、それを言い換えれば「時間をかけなければ得られないもの」となります。
たしかに過去との比較では、相対的な時間は縮んだ。しかし、技術の道にショートカットがない以上、一つひとつを積み重ねて学ぶという原理は変わることがない。これがぼくの認識です。

さて、従来その学習の時間には、たいがいの場合、現場の実務とは別の時間が割り当てられてきました。
もちろん、現場人にとって学習の基本はオン・ザ・ジョブ・トレーニングです。現場の仕事は現場での労働を通じて学習していくのが基本です。しかし、それだけでは足りません。自らをスキルアップさせるには、そうして身につけた技術や技能の裏づけとなる知識や理論を学習することも必要ですし、それをまた〈現場〉にフィードバックして互いを相乗補完させ高みにあげていくことが求められます。
その繰り返し、これが現場人の学習です。そしてそれらはすべて、〈労働〉としてカウントされなければならないとぼくは考えます。

とすれば、余暇の付与を手段として労働環境の改善を図った労働時間の規制は、同時に〈学習時間の損失〉によって技術者や技能者の成長を妨げる制度となってしまいます。もちろん、どのような場合でも個人差はあります。しかし、少なくとも、成長の度合いが遅くなるのは確実ではないでしょうか。

遅かれ早かれ70歳定年時代がやって来るでしょう。ぼく個人の感覚では、少なくともわが業界ではすぐそこまで来ています。そうなると、昭和の御代から比べると15年も延長されたことになります。それと比例するように老化が鈍化し(どちらが卵でどちらがニワトリか定かではありませんが)、健康ではたらける年代が高くなっています。そもそもその前に、少年→青年→壮年→老年という人間的成長の過程がどんどんと遅くなっています。
であれば、たとえ仕事における成長の度合いが遅くなったとしても、時代の流れとして致し方がないことなのではないか、という見方もできなくはありません。たとえ遅くなったとしても、成長していさえすれば、それはそれでけっこうなことです。

だとしても、ぼくは思うのです。〈働き方カイカク〉という美名のもとに、〈仕事としての学習時間〉を削ることは愚かなことだと。その結果招来されるのが、学ばず成長しようとしない人たちを生産しつづける未来だとしたら、自縄自縛になりはしないかと。

念のために再度申しあげておきますが、ぼくは長時間労働の推奨者ではありません。〈時は金なり〉、仕事においては、いつもこの理を念頭におき、時間を意識していることが必要だという考え方の持ち主です(それをもってぼくの現実を糾弾するのはやめてください。実際がどうかはまた別の話です)。ムダな残業とかダラダラの休日出勤などというものは、昔から嫌いでした。
しかし、若者や業界への新規就労者には、意識をして〈労働としての学習〉あるいは〈仕事としての学習時間〉を与えてやることが必要です。
それを埒の外において、やれ休め、やれ早く帰れ、と喧伝ばかりするのは、ちとピントがずれていると思うのですが、そういう己がそうなのですから、「先ず隗より始めよ」ではあるのです。

以上、以前からもやもやとしていた〈もうひとつの2024年問題〉を考えてみましたが、やはりぼくにとっては、ちょっと背筋が寒くなる話です。貴方は如何でしたでしょうか。

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失敗を隠すな

2024年03月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

  人は失敗を隠す。

 それが人の性分であり特性だ。

 たとえ繕ってそう見えないようにしたとしても、隠していることに変わりはない。
 ぼくなどは特にその傾向が顕著な人間だ。だからだろう、まことに失礼なことだけれど、そうしない人間は一人としていないのかもしれないなどと、つい考えてしまう。

 ところがぼくは、そんな自分を棚に上げ、「失敗を隠すな」と言う。自家撞着もよいところだが、隠さず明かすことの有用性が肌身に沁みているからそう言うのである。また、あえてそう表明することによって、自分が「隠す」ことがらの何割かを「隠さない」に転換させようとする意図もある。そして、そうすることで、「隠す」自分の何割かでもを「隠さない」自分へと変換させようとしてもいる。
 人間というのはよくしたもので、そうこうしているうちに、いつのまにか「隠さない」の割合が以前よりも多くなってきたりする。あくまでも数値という指標がない自己評価なので、その割合の程度がいくらと示すことはできないが、長い年月をかけ、あきらかにマシにはなってきた実感がある。

 とはいえ、いまだに隠す。失敗を隠す。それが人の本性であるかぎり、生半に改善されることはない。すると、そんなこんなを繰り返しているうちに、自分の都合がよいように記憶は塗り替えられ、歴史が改ざんされる。
 と書くと、さも特別なことのように感じるかもしれないが、それはどこの誰の日常どこにでも頻繁に起こり得ることだ。すると、そのあとそれはどうなっていくか。そうこうするうちに年月が経ち、隠したり改ざんしたりした当初は自覚があったそれも記憶の彼方へと消え去って既成事実となり、やがて、隠したことも塗り替えたことも忘れてしまう。そうなると、あとへつづく者たちはおろか、未来の自分にも残らない。

 「隠す」と「隠さない」を比べれば、どちらがより困難だろうか。と考えれば、一見、隠さずに白状してしまう方がかんたんそうに思えたりもする。たしかに、「隠す」にはそれなりの覚悟が必要だし、発覚しないようにとする努力もいるかもしれない。だが、少し考えれば、より困難でエネルギーを必要とするのは「隠す」の方だということがすぐわかる。
 「隠さない」には勇気がいる。自分自身を晒す勇気と、そのことによって起こる不都合への責任を引き受ける勇気だ。それにともなって生まれる覚悟は、「隠す」とは比較にならないほど大きい。それを自分の身で引き受けることへの怖れが、「隠す」という行為を産み出すといってもよい。
 といっても、たいていの場合それは案ずるより産むが易しで、明かすことによって起こる不都合より、隠すことの弊害の方が影響がちいさかったりするのはよくあることだ。大局的かつ長期的な観点からみれば、なおさらだ。

 以上が、ぼくが色んなことを棚に上げておいて「失敗を隠すな」と言う理由だ。

 ところがそれは、あくまでも組織内における組織の構成員としての論理である。組織が成長し、また成熟していく上で、失敗を隠すことによる利益はほとんどないとぼくは信じている。
 組織全体が外の世界に対してどうするかは、また別の論理が存在してしかるべきだ。なかには、包み隠さずどころか、隠しとおして墓場までもっていかなければならない話もあるし、現にぼくは、いくつも腹にそれを入れたままだ。

 それを含みおいてなお、ぼくは言う。失敗を隠すなと。失敗を隠すのが人間の本性であると信じているがゆえに、あえてそう言う。他人に言い、また自分にも言ってきかせる。


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世代交代

2024年03月23日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
 立川志の輔3年ぶりの高知公演を聴いてきた。ぼくにとっては当代ナンバーワンの噺家である志の輔は、御年70歳になったばかり。衰えるどころか、ますます練達の度合いが深まった感がする高座だった。 
 よく言われる説に、落語という芸能は演者が六十代になってからがもっともよいというものがある。ぼくとてそれに全面的な異を唱えることはなく、おおむねそのとおりだとは思うが、あえて当たり前のことをそれらしく言うとそれは人それぞれで、イキがよかった若いころがよかった人もいれば、五十代がよかった人もいたり、老いてわるくなった人もいる。そして、これは落語という芸能の奥深さであると同時に彼の人の凄さだとぼくは思うのだが、昭和の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生などは、残された音源を聴く限り、79歳で没するまでその芸が枯れるどころか、どんどんと熟練上達していったような感を受ける。つまり、それやこれやを押し並べての落としどころが六十代だということなのだろう。

 そこにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
 交代したいならば超えてゆけ、でしかない。

 正直羨ましいなと思う66歳のぼくは、近ごろではそれも少し治ってはきたが、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と、忸怩たる思いをもつこともしばしばだった。
 もちろん、詮無いことだと承知はしている。ぼくがそうすることによって、あとからつづく者の道を塞いでしまっては何にもならないからだ。それゆえ、控える。そういった思考に拠って立てば、自分のエネルギーをフルパワーで出力することは半ば悪である。

 「もうアナタが表に出てる場合じゃないでしょ、そろそろ世代交代をしないと」

 少し年長のある県職員に面と向かってそう言われたのは、今をさかのぼること15年以上も前のこと。ところがその時分といえば、ぼく自身も会社としても、後々の礎となり骨格を形成することとなる取り組みが端緒についたばかりの頃で、内心では、「まだはじまったばかりぢゃないか。それにオレ、まだまだ若いし」とまともに取り合うことなく、曖昧に生返事をしたのを覚えている。
 だが、今になって考えれば、当事者として真剣に世代交代を意識しはじめたのは、あの発言を嚆矢としてもよいのではないだろうかと思うほどに、それはズサッと胸に刺さった。

 そういう意味では、あの発言に感謝するべきだろう。そう忠告した本人は、ただの一般論を述べただけで、ぼくとわが社の行く末を真面目に案じた上での発言ではなかった蓋然性はかなり高い。だいたい、いかにもそれらしい正論を吐くそんな人たちに限って、自分がいない未来に責任をもたないという意味で、自分がいる今にも責任をもっていないに等しいと、捻くれ者のぼくはいつも思ったりする。
 だが、その意図がどうあれ、またそこに意図があろうとなかろうと、人の言動は、受け手がどう入力するかで、その影響力の大小が決まる。繰り返すが、その文脈では、あの発言に感謝すべきだろう。


 さて眼前の志の輔だ。
 ここにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
 交代したいならば超えてゆけ、でしかない。

 御年70を数え、ますます練達の度合いを深めてゆく芸を堪能しつつ、いまだに正直羨ましいなと思うぼくはしかし、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と忸怩たる思いをもつことはない。
 なぜならばそれは、ぼくの身が置かれた環境に応じてぼく自身が選んだ道に他ならないからだ。
 たしかにそのような需要はあり、それを受けての選択にはちがいなかったのだけれど、その責任を自らの内に引き受けたのは誰あろう、ぼく自身に他ならない。であれば、行くしかないではないかこの道を。ねえ。

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自分事他人事

2024年03月22日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

【サクランボとリンゴ】

 サクランボは冷蔵で保存しない方がよいことをご存知だろうか?

 そもそもサクランボは、急激な温度変化に弱いデリケートな果物なのだそうだ。と聞くと、すぐに冷蔵保存と意識が直結するのが現代人の性だが、あれに限ってはそれをすると逆効果なのだという。したがって、ほとんどの場合、常温で売られており、その保存の基本は冷暗所で常温。というのが、その筋では当たり前のことらしい。
 とはいえ、初夏の果物だ。冷やして食べる方が美味いに決まっている。というのもまたテクノロジーにまみれて生きている現代人の悲しい性だが、さあ、となればどうすればよいのか。食べる1時間ほど前から冷蔵し、頃合いをみはからってやおら食す。これがもっともよい食べ方だという。

 そんなことを知ったのは、一昨年初夏のある贈与がきっかけだった。東北在住の知人から届いたそのサクランボは、梱包をあけて箱の中を見ると、たとえば時間がたって凝固した血液がそうなるように、深く暗い朱色をしていた。アメリカンチェリーのような、と言えばわかりやすいだろうか。だがそれは、アメリカサクランボではなく、れっきとした佐藤錦である。

 これはどうしたことだろう?と訝しがった妻は、あえて贈り主ではなく、箱に書かれた生産者のところに電話をした。事情を説明する妻に、年配男性とおぼしき生産者は、すぐさまその原因が「クール便」であることを特定したという。聞けばそのおじさん(たぶん)は、「冷蔵で送らないでくれ」というのが、発送に際しての基本的スタンスなのだという。とはいえサクランボは傷みやすい。そのため、どうしても遠隔地に送る場合は、冷凍にするか、もしくはそのことを承知してもらったうえで冷蔵保存による輸送を選択する。それ以外は、あえてそうしないでくれと念押しをしているという。ということは、非は運送会社にある。

 ところがその生産者は、それを盾に自分を正当化するどころか、自分事として謝罪をし、なおかつそのあと、何も言わずに別のものを送り届けてくれた。しかも彼は、贈与主である知人にはまったく知らせることなくその一連の行為を遂行した。そんなことがあった後、その生産直売農家が、妻のお気に入りに登録されたのは言うまでもない。
 
 生産直売といえば、別の例もある。これもまた場所は東北、産物はリンゴである。そことの付き合いは長い。といっても彼我の関係は売り手と買い手にすぎず面識もないが、兎にも角にも贔屓にしていたその味があきらかに落ちたのはいつ頃だったろうか。ほぼ時期を同じくして応対も親切ではなくなった。   
 「代替わりをしたんだろうか?」
 さびしそうに妻がつぶやく言葉がぼくの脳内に残っている。
 何年かそれがつづき、彼女は他所に代えることも真剣に考えていたようだが、変更することなしに購入をつづけてきた。まったくダメ、というわけではないからだ。それはそれなりに、フツー以上の品質を保っており、あくまでも元との比較において劣化したというだけで、他人様への贈与として失礼なものではないと判断していたからだ。

 ところが、もうそろそろ、と思っていた矢先の昨年、それがみごとに復活した。といっても、以前好んで取り寄せていた品種ではなくなったのだが、いずれにしても、あきらかに美味くなった。


【かつおのタタキ】

 もうひとつの例をあげよう。地元高知だ。県を代表するといっても過言ではないある人気飲食店のことである。カツオのタタキが看板であるそこは、かつてはどちらかといえば観光客向けではなく、地元民に愛された店だった。だが、今という時代は、そんな店を放ったらかしにしておいてはくれない。おそらくネットの口コミで広がった評判は、いつのまにかそこを超有名店の座に押し上げていた。

 そんな人気店へ久しぶりに赴いたのは昨年秋のことだ。連れは県外から来た客3人。じつはその前夜、魚の旨さには定評がある居酒屋に連れて行ったはよいが、カツオのタタキで失敗していた。火がとおりすぎていたのである。高知県外の方はご存じないかもしれないが、カツオのタタキというやつは鮮度がよい魚を使えばよいというものではない。そこには料理のウデが求められる。「タタキ」という料理において、焼きすぎるなどというのは致命的なウデのなさか、完全な失敗だ。
 このままでは高知県民として遠来の客に申しわけが立たない。そのリベンジとして選んだのが、くだんの有名店だった。

 ところが、その目論見はみごとに外れる。新鮮で焼き加減も上々。あいかわらずウデはたしかだ。だが、あろうことか、薄すぎる。かつては1.5~2センチほどはあったものが、おおよそ1センチほどになっている。心なしか枚数も一枚少ないような気がする。
 きっとよほどの事情があるのだろう。そう考えたぼくは、当日夜のゼロ次会でもその店を選んだ。アテはもちろんタタキである。連れは地元民ではないが、その店を訪問した数はおそらく両手の指で余る。これまでの味と品質を熟知しているといっていい。

 だが、期待に反して結果は同じだった。そしてそれから約1ヶ月後、これまた県外からの来客を連れて行った妻が、帰ってくるなり同じことを告げた。それで容疑は確定だ。


【自分事他人事】
 
 これらの例から考えさせられることは色々さまざまある。だが、ぼくが言いたいことはひとつ。信頼とはなんぞや、である。

 まずサクランボの例は、信頼や信用はどうやって築き上げられるのか、について教えてくれる。食べ物に限らず、商品を売る場合にもっとも上位にくる価値は何かと問われれば、品質であるというのが一般的な解だろう。だがぼくは、そうとばかりも言えないぞという考えの持ち主だ。もちろん、箸にも棒にもかからない場合は論外だが、ある一定以上の品質さえ備えていたら、あとは売り手の人柄とか人間性、俗に言う「よい人」かどうかが大いに左右すると思っている。
 そんなことを言うと、ママゴトじゃねえんだから、という向きもあるかもしれない。だがそれは、立派にビジネス戦略として成立するものでもあるとぼくは信じている。何よりそこには、自分の商品にまつわるすべてを自分事として捉え責任をもつという一貫した姿勢がある。そこから生まれた信頼があるかぎり、今後、たとえ大儲けはできなくても、商売は安泰だろう。昨今流行りの「持続可能な」という冠をつけたビジネスにとっては、もっとも大切なスタンスではないだろうか。

 「リンゴ」の場合は、品質の劣化に対応のわるさが重なるという救いがたいパターンだ。だが、買い手は見放さなかった。そうするうちに、何が要因でそうなったかはわからないが、品質が復活したことによって顧客をつなぎとめることができた。品質劣化の根本原因が解消されたかどうかは読み取れない。だが、たとえそれが解決したうえでそうなったとしても、その生産直売農家の商売は危ういとぼくは思う。その商売におけるスタンスは、「サクランボ」とは正反対に位置しているような気がするからだ。

 では「タタキ」の場合はどうだろうか。これはもう、考えられるかぎり最悪のパターンである。品質が落ちたのではない。だが、サイズという要素が味と食感を大きく左右することを知ってか知らずか、たぶん、承知の上で薄くした。そこには、「これぐらいなら」という自分都合にもとづいた判断があるのではないか。そして、ぼくがなんとしても救いがたいなと感じるのは、そこに欺瞞があることだ。顧客を欺いている。百歩譲って、コスト的にやむを得ない事情があったとしても情状酌量とはならない。それならば、理由を説明して価格に上乗せするべきだろう。たとえそのことによって客が離れていったとしても、そうするしか道はない。

 「リンゴ」と「タタキ」に共通するのは、自分事にしない姿勢だ。食うのは他人。つくる自分の都合が何より優先する。つまり他人(ひと)事なのである。ぼくがここで言う「自分事」とは、「他人(ひと)の事」を「自分の事」だと考え行動できることを指している。そういう意味で、あくまでも「他人(ひと)事」としか捉えられないスタンスとは決定的に異なっている。
 仕事というもの、さらに広く言えば人間というものが、人と人との関係性のなかでしか存在しないことを思えば、この姿勢のちがいは、ビジネス社会をどのように泳ぎきっていくか、あるいは、人としてどう生きていくかを決めてしまうほど重い。

 たぶん自分にはない責任を「自分事」として引き受けたサクランボ農家と、あきらかに自分にある責任を、「他人(ひと)事」であるかのように商売をするリンゴ農家や居酒屋。おそらく、その信頼と信用を築き上げるには、三者三様に並大抵ではない努力と苦労があったにちがいないと推察する。
 だが、漫然と手をこまねいていてはそれを継続することができない。どころか、崩れるのはあっという間でもある。もちろん他人事ではない。公共建設業と生産直売農家や飲食業をいっしょくたにはできないだろうが、という向きもあるだろうが、これらを自分事としてとらえることができなければ、明日はわが身だ。まちがいない。


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