先日、連携して通年授業を行っている安芸高校で、生徒によるその成果の発表会がありました。そこで「ほぉ」と意外だったのは、複数の生徒から「たのしかった」という言葉が出たことです。
たのしい。
現代日本において、若者に何かを伝える場合や、何かを協働する場合には、特に念頭においておかなければならないキーワードでしょう。それが良いのかわるいのか、また、そういう態度で物事にのぞむのが好きか嫌いか、それは別の話です。とにもかくにも、今という時代の日本においてはそうなのです。
しかしそれならば、何も意外に思うことはありません。
「ふむふむそうかそうか、そりゃよかったぢゃないか」と微笑んでいればよいのです。ぼくが意外だったのは、「本当にそうだったのか?」という疑念を払拭できなかったからでした。
最後にひと言、と教員に促され皆の前に立ったぼくは、その言を受けて話をすることにしました。当然のことながら、「キミらそんなんちゃうかったやん」などと無粋な言葉は吐きません。
「そこ、すごく大事です」
「そこ」とはもちろん、何かについて「たのしい」と感受したところです。その「何か」は各人各様です。なかには、年長者からすれば「そこかい」と鼻で笑うようなところもあるにちがいありません。しかし、何かを実行するときに、そのなかに含まれる何かに「たのしい」を感じることができるかできないか、それはその後の展開を大きく左右する心持ちとなります。
しかし、じつのところを言うとぼくの感覚では、そこは「たのしい」ではない。さりげなく言い換えをしたのはそう言う理由からでした。
「おもしろいと感じられるかどうか、そこが大事。仕事も勉強も同じことです」
論をそう展開したぼくは、どちらも面白いことばかりではない、とつづけます。そして、「仕事ならばむしろ辛いことの方が多いかもしれない」と、まだ社会人の仲間入りもしていない若者たちにとっては冷たく非情かもしれないけれど、至極当たり前の現実を突きつけ、こう言いました。
「だからこそ大事なのが、おもしろいを見つけること。それを見つけられるか、られないか」
と言いながら向いた先には、同行したMくんの姿がありました。
「好きこそものの上手なれ。だよな」
無言で大きくうなずいた彼は、苦手なこととなると絵に描いたように辛そうな表情となるのに対し、自分が好きなことに対しては嬉々として、それこそ寝食を忘れてしまうほどに取り組むという、わかりやすいことこの上ない人です。
去る1月24日、通常国会の施政方針演説で総理大臣が目指す国家像として掲げた「楽しい日本」というキャッチフレーズにぶったまげたのは、かねてよりぼくの内にあった、昨今流行りの「たのしもう」また「たのしくなければ」という風潮に対する少なからぬ拒否反応のせいだったにちがいありません。
かといって、流行りに乗せられやすいぼくのことですから、それを使わないことがないではありません。子どもたちを前にして、ついついそれを口に出してしまうこともよくあることです。
とはいえ好んで使おうとしてはいません。
「たのしい」は、どこか刹那的で享楽的です。少なくともぼくはそう受け取ることが多いがゆえです。
「たのしい」を否定しているわけではありません。
さすがに、「たのしくなければ仕事じゃない」とまでは言いませんが、「たのしい」仕事であるに越したことはないのですから。
しかし、思い起こしてみてください。
その「たのしい」は継続したでしょうか?
すぐに飽きはしなかったでしょうか?
ですから「おもしろい」なのです。
たとえばあなたが駆け出しのころのことを思い出してみてください。
最初は先輩や上司の言うとおりに動くだけです。そうやって経験を積んでいくある日、ある方法を思いついたとします。ただ、すぐにそれを実行できるかどうかはその環境次第でしょう。いつかそのうちにできるときがやってきて、その自分なりの工夫を仕事に取り入れてみる。
そしてそれが上手くいったとする。そうなると「おもしろい」がやってくる。
そうなると、次も上手くかというと、そうは問屋が卸しません。失敗するときもあるでしょう。しかし、成功するか失敗するか、どちらに転ぶかは、局面ごとには重要であっても、長期的また本質的には必ずしもある局面での失敗は、さほど重くはありません。いやむしろ、後々思い返せば、あそこで失敗したことがよかったと思えることも少なからずあります。何よりも、自分のアタマで考え、自分の身体で実行する。これが大事です。
方法を思いつくかつかないか。またそれを実行しようとするかしないか。その起点が「おもしろそう」です。重要なのは、自分の仕事のなかに「おもしろさ」を見出すことです。「たのしい仕事」を探すのではなく、仕事のなかに「おもしろい」を見つけることです。
「たのしい」の反対は「苦しい」あるいは「辛い」です。「うれしい」ならば「かなしい」でしょう。ぼくが言う「おもしろい」は、それらの全てを包括しています。包み込んでなお「おもしろい」。
では「おもしろい」の対語はというと、「つまらない」です。じつはこれが最もわるい。とはいっても、現実では、「つまらない」局面は必ず訪れます。それに心と身体が絡め取られないためには「おもしろい」を方法とすることです。「おもしろい」を見つけ出すを方法とすることです。それが「おもしろい仕事」です。
それが「好き」に昇華すればしめたものです。「好き」は上手にたどり着くためのスタートラインですから。嫌いだけれど努力する。たしかにそういう人はいるでしょう。誰しにもそういう場合があるでしょう。しかし、「嫌い」が心の底にある限り、その労はつづかず、やがて圧し折れてしまいます。
ここで勘違いしないでほしいのですけれど、何もぼくは「好き」なこと「好む」ものを仕事にせよ、と推めているわけではありません。「嫌いの思い込み」を排除し、「好き」を見つける、それが肝要なのだと言いたいのです。
以上が生徒たちを前にして話したかったことでした。
「あらあら、じゃあオマエ、結局しゃべってなかったのかよ」と笑わないでください。
ぼくが実際に口に出すことができたのは「おもしろいを見つける」と「好きこのものの上手なれ」までです。あとは今、あのときを振り返り、ようよう言語化したというのが偽らざる事実です。それさえも、まだまだ舌足らずのような気がしますが、とにもかくにもそういうことです。
なので、たぶん次からはきちんと言えるでしょう。
いや言えるかな。
う〜ん・・・
ともあれ、そういうことです。