******揺れて戻ってまた揺れて・・・
いずれにしても、揺れっぱなしになることも、元に戻ったままとなることもありません。
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私は妻と結婚して三十年がたった。
氏によると、これは文章ではなく言葉なのだそうです。理由は、贅肉がつきすぎているから。
妻と結婚して三十年がたった。
結婚して三十年がたった。
三十年たった。結婚してから・・・。
これでようやくアマチュアの域を脱したことになるのですが、まだプロと名乗ることはできないそうです。この程度の文章、つまり「置換」という手法を使うぐらいのことは、できる人が世の中には履いて捨てるほどいるからです。
問題は「結婚」です。俗にすぎる。なので「結婚」という言葉を消して、重みのある文字に替える。
さらに短くするために、また主語を切る。
妻との三十年間の歳月。
これで終わりではありません。
次は、あろうことか、「結婚」に替えて連れてきた「歳月」を切ってしまいます。
妻との三十年間。
最後に「妻との三十年間」の「間」も取ってしまいます。
妻との三十年。
上手いひとは自分で自分の才能に気づいていない自分で上手いと思って驕って書いてるひとはだいたい下手そういうひとが訴えかけてくるのは文章力ではなく言葉なんです
******会社の太ったおじさんに「朱肉あります?」と聞いたら「ごめん贅肉しかない」と返された。私が会社を好きな理由の半分はこのおじさん。(@noriko_uwotaniより)******
*******思うに、人は自分の生まれてくる理由も、目的も、意味も知らない。しかも、自分の存在は他人に一方的に決められる、いわば「お仕着せ」の自分である(体は他人製、名前=社会的人格は他人の決定)。したがって、いくら考えようと、「自分の命の大切さ」だの、「自分の生きる意味」だのを自利で発見できるわけがない。理由も目的も意味も知らず、ただ生まれて来ただけの無価値な存在(存在理由・目的・意味を持たない「価値」など、無い)が、「自分の大切さ」を感じることができるとすれば、それは自分以外の誰かに大切にされたからである。お仕着せの服を着る気になれるのは、似合うと褒められた時だけだ。(P.236)*******
しばらく前から、「浅田次郎」を読み「浅田次郎」を聴いている。小説である。読むのはKindleで聴くのはAudibleだ。
それほど「浅田次郎」まみれになっていると、話の展開がごちゃごちゃになってしまうことがある。つい数日前、「読む」の方の間を少しあけたら、どの物語だったかを判別することができなくなってしまったことがあり、仕方がないのでわかる箇所まで戻って読み直した。
まったくこの老頭児ときたら、聖徳太子の7人にはおよばないが、3人ぐらいなら同時に話を聞いて内容を理解し反応を返すこともできた若いころの頭脳はどこへやら、ポンコツもよいところだ。
なんてこともありつつ、「浅田次郎」を読み「浅田次郎」を聴いている。今読んでいるのは『終わらざる夏(上)』だ。途中、写真見合いで再婚した互いに不幸な過去を持つ男女が出てくるシーンがある。男の方は、この時点ではまだそうとは判別できないが、たぶん物語の重要人物のひとりだろう。
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ひとつずつ、死んだ妻のことを語った。そしてかわりにひとつずつ、別れた亭主の愚痴や、捨ててきた子供の思い出話を聞いてやることにした。
真冬の斐徳は氷点下三十度の下で、暖かい日に雪が降り、ふだんは氷のかけらが舞った。官舎とは名ばかりの、いつ建ったかもわからぬ古煉瓦の廠子の温床で身を寄せ合って暮らした。そんな夫婦の間には嫉妬も愛憎もなく、胸のわだかまりを吐き出し、たがいに忖度し慰め合うことが、いつしか娯楽になった。
(P.210)
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読むなり心があたたかくなったのは、我とわが身のことを思い浮かべたからである。
愚痴や悪口、恨みや憎しみの類は、なるだけ口にしないようにしている。それがキライだからではない。むしろ、どちらかといえば好きな部類に入るだろうという自覚がある。だからこそ、「できるだけ」という情けないカッコ付きではあるが、言わないように努めている。その自制がないと、とめどもなく口をついて出てくる可能性があるからだ。吐き出しつづけるネガティブな言葉が確実に自分の心を蝕んでいくことを、体験的に知っているからだ。夫婦のあいだではなおさらだ。もちろん、互いについての恨みや憎しみをぶつけているわけではない。それがどちらからであるにせよ、片方が他人に対しての悪感情を口に出し、もう一方がそれを同意する。そうすることによって負の感情がエスカレートしていくことがイヤなのだ。
だが、たしかに「十善戒」のうち口業は不妄語、不綺語、不悪口、不両舌であり、意業は不慳貪、不瞋恚、不邪見で、すなわち、嘘をつかないのが善であり、中身のない言葉を話さない、乱暴な言葉を使わない、他人を仲違いさせるようなことを言わないのは善であり、激しい欲を抱かない、激しい怒りを抱かない、誤った見解をもたないのは善であるのだけれど、それらをあえてそう規定しなければならないほど、人間は煩悩にまみれている。まして、わが夫婦のような凡夫、しかも欠陥だらけのそれならなおさらだ。そのような人間が杓子定規に戒にこだわりすぎると、心の内が毒だらけとなり自家中毒となって心と身体を蝕んでいくことも多い。
であれば、信頼のおける者同士の関係で他人に対しての毒を吐くことはときとしてけっして悪とばかりは言えない。人間の感情がもつ毒には、吐き出すことによって中和され、収束に向かう種類のものがたしかにあるからだ。
近ごろよく、そんなことを思うようになった。
だからだろう。
「胸のわだかまりを吐き出し、たがいに忖度し慰め合うことが、いつしか娯楽になった」
このセンテンスがぼくの心をあたたかくしたのは。
いやあ~、それにしても「浅田次郎」。しばらく抜け出せそうにはないなコレは。
Kindle unlimitedを解約した。
月額980(年額11,760)円に見合うだけの本を、そのサービスで読んでいないと判断したからだ(こんな場合、イチイチ計算はしない、あくまでも感覚だ)。
少し考えたのは、「読み放題」で取得していた本が読めなくなってしまうことだが、そこはそれとして解約することに決めた。
解約してからしばらくのあいだはKindle unlimitedが使えていたので、ダメになるまでに読み終わればいいのだからと読みはじめたのがミヒャエル・エンデの『モモ』である。どこをどう勘違いしてたのだろう。これぐらいならすぐに読めるさ、と高をくくっていたが、難解なものではないとはいえ全398ページだ。「すぐに」というわけにはいかず、一度読んだだけで解約期限が来た。いついつ、という提示がたぶんあったのだろうが、そこはまったく気にも留めていなかったので、唐突にそれはやってきた。
ライブラリに残っているのを確認してタップすると、消えたのである。別れは突然に、というやつだ。
そうなると惜しい。じつに惜しい。あきらめるという選択肢はない。
ということで金880円をかけ、あらためて購入。ふたたび読みはじめた。
「おじいさんの名前は、道路掃除夫ベッポです」というセンテンスからだ。
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「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」
(P.54~55)
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ベッポじいさんの言葉によって、おのれの仕事の仕方をかえりみる機会を与えられ、少しばかり反省。
『モモ』、まだ読みはじめたばかりではあるが、正解、かな?
3週間ほど前に盤珪禅師のことについて書いた。
キッカケは新聞のコラムからだ。そこには「一切迷ひは我身のひいきゆえに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの」という禅師のことばが表題として紹介されていた。しかし、そのコラムの内容がどのようにしてタイトルに結びつくのかがよくわからなかった。そこで、盤珪永琢という人について検索してみると、Wikipediaに次のような記載があった。
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ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く。
- 禅師いわく、そなたはおもしろいものに生まれついたの。今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじようわいの。
僧いわく、ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。
- 禅師いわく、然らば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。(中略)人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの。
と答えたという。
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新聞コラムに載っていたのもこの逸話だ。これだけでは「一切迷ひは我身のひいきゆえに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの」とどうつながるのか、なんとなくぼんやりとはわかるが、なんだかまだもやもやとしたままだ。かてて加えて、なかの「中略」というやつが、そのもやもやに拍車をかけた。原典に当ってみたいなと思っていると、おあつらえ向きの本があった。『盤珪語録を読む 不生禅とは何か』(横田南嶺)である。しばらく手つかずで置いていたが、3週間ほどが経ったきのう、やっとこさ読みはじめた。
南嶺師はまず、盤珪禅師の生涯をひとしきり辿ったあと、『それがし生まれついて短気にござりまして』という講から語録の解説をはじめる。
あらあらさっそくお目当てに到達だ。うれしいような拍子抜けしたような、とにもかくにも読んでみる。Wikipediaで「中略」されていた部分はこうである。
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何とぞした時も、我でかさぬに、どこにたんきが有るものぞ。そなたが身の贔屓故に、むかふのものにとりあふて、我がおもわくを立たがって、そなたが出かして置て、それを生れつきといふは、なんだいを親にいひかくる大不孝の人といふもので御座るわひの。
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この略された部分も含めたこの箇所全体の意味を南嶺師はこう解説している。
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それならば短気は生まれつきではない。生まれつきであるならば、ここへ出せと言われたら出すこともできるでしょうが、何かの拍子にひょっと出るものならば、生まれつきではない。何かの縁、縁というのは条件です。環境によって、例えば、人に何か言われたというようなことによって、その条件に出会って、あなた自身が短気を出しているのではないか。
ひょっとあなたが出すのだ。その何かをした時、何か言われたり、思いもかけないようなことに出会ったりした時にも、自分でその短気を出さなければ、どこに短気があるか。自分で短気を作り出しているのであって、何か気に食わないことがあったとしても、短気を起こさなければ短気などありはしない。同じことがあっても腹を立てる人もあれば、全然平気な人もあるわけです。短気をあなた自身が作り出しているのだ。あなた自身がどのように作り出しているかといえば、「身の贔屓故に」なのです。
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そして、じつはそこからがこの講話のハイライトだった。
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人々皆親のいみ附てたもったは、仏心ひとつで、よのものはひとつもうみ附はしませぬわひの。しかるに一切迷ひは我身のひいきゆへに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの。我でかさぬに短気がどこにあらふぞいの。
一切の迷ひも皆是とおなじ事で、我まよわぬに、まよひはありはしませぬわひの。それをみなあやまって、生れ附きでもなき物を、我欲で迷ひ、気ぐせで、我出かして居ながら、生れ附とおもふゆへに、一切事に附けてまよはずに、得居ませぬわひの。
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江戸時代当時としては口語文、文字起こしみたいなものだろうが、やはりこのままではぼんやりとしかわからない。ということで、ふたたび南嶺師に登場してもらおう。
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一人一人、誰しも親から産んでもらったのは、仏心一つである。我々が生れた時は、尊い仏様の心一つを産み付けてもらっているのだ。それ以外の短気だとか、憎しみ、ねたみというものは、親は何一つあなたに産み付けていないのだ。
一切の迷いは、自分自身をことさら可愛がることから生じる。気に入らないものに対する怒り、憎しみ、ねたみというものを自分で作り出しておいて、それを生まれつきの短気だと思うのは、なんと愚かなことではないか。
自分が短気を出さなければ、短気が勝手にあるものではない。自分が勝手に我が身の贔屓ゆえに作り出しているのだ。元来どこにもありはしない。一切の迷いというのもこれと同じだ。自分が短気を出さなければ短気はない。自分が迷いを起こさなければ、迷いはないのだ。
それをみんな勘違いして、生まれつきでないものを生まれつきだと思って、我欲で、自分中心、我が身の贔屓ゆえに迷ってしまう。短気という悪い習慣をつけてしまう。パッと怒ったり、ものを欲しがったりする。そういう悪い習慣をつけて、自分で勝手に短気になったり、憎しみや怒りの心を起こす。それを生まれつきであると思い込んで諦めているから、何事にも迷わずにいることができないのである。
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ということで、もやもやが解決した。
といっても、人一倍強いわたしの「わが身贔屓」が、それしきのことで「出なくなる」わけではないけれど。
『哲学入門以前』(川原栄峰)を読んだ。
いったい、読み始めてから何ヶ月が経過したのだろう。とにもかくにもちびりちびりと、思いついては読み、思い出しては読み、なんとなく読んでみようかと読み、読むのだぞと叱咤して読み、ときには、寝起きの脳にはこりゃムリだわいとあきらめ、またときには、脳をフル回転させながら読み、そうこうしながら、やっとこさ読み終えた。
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猫がお化粧をしたということは聞いたことがないし、蛙が裸をはじいている様子は全くないし、犬が血統を誇ったり恥じたりしている風もないし、蟬が命短い自分のさだめを嘆いているとは思えない。それに、一般に、動物が自殺したということは聞いたことがない。ところが人間は化粧して、着物を着て、自慢したりはずかしがったり、劣等感にとらわれたり、自分を疑ったり(考えたり)、極端な場合には自殺したりする。人間だけは「自分で自分を」見ることができるからである。サルトルはこのような人間のあり方を「対自」存在といい、これ以外の猫、犬、蛙、蟬その他山川草木日月星辰すべての在り方を「即自」存在と呼ぶ。(P.220)
犬、猫、蛙、蟬などに比べれば、たしかに人間は「対自」的にあるということはよくわかるけれど、しかし人間だけのいわば内部のこととして考えたら、これはなかなか由々しいことである。(P.221)
対自という以上は、人間には「自己」が二つある、ということになる。(中略)たしかに「自分で自分を見る」という場合、見る自分と見られる自分との二つが考えられる。(中略)私は嘘つきだと言う場合、そう見られた自分はたしかに嘘つきだが、そう見ている自分は嘘つきではないのである。このように人間は、自分について何々であると言うとき、そのことにおいて、それと同時に、その何々ではなくなる、という妙なことがあるのであって、これはなにも嘘つきの場合だけとはかぎらない。(中略)私は無知であると自分を見ている自分はもはや無知ではないのである(P.224)
自分で自分を見るーー対自。私は嘘つきである、私は無知である、(中略)などなど。これはいつでも「私は何々である」という形をとる。この「何々」をPと略記することにしよう(述語“プレイデイケイト“の頭文字P)。そうすると、私が私を見て、「私はPである」と言うーーこういうことになる。そして私を見て私をPだと認めて、それを誇ったり、はじたり、あわれんだり、自慢したり、後悔したり、疑ったりしているのが人生であるが、そうしているその私の方は決してPではない。この、私をPと見ている私の方を今かりにEと略記する。(P.225)
「私はPである」というのは、正確には「私はPのひとりである」と言い直した方がよい。(P.226)
そうだとしたら、Pは「ほんとうの私」ではないと言わざるをえない。私に無縁ではない、私がそのPなのだから、たしかにPは私に関係はある、私はPであるのだから。しかしそのPは、「ほんとうの私」からはずれている。ほんとうの私は、「私はPである」と言っている私、言いつつある私の方、つまりEの方だ。
ではEとな何か?私はPであると言っている私とは一体何なのか?(中略)これは無限につづく。だからEとはPであるという形では絶対に答えられない。それもそのはず、Eはいつも答える側にいるのであって、答えられる側にはいないのである。本質を規定するとき、いつも規定する側にいるのであって、規定する側にはいない。(中略)別の言い方をすると、常に主体の側にいて、決して客体にはならない。Eはそのようなあり方をしている。決して「何々である」のではない。(P.227)
自分の目を見たことのある人は絶対にいないはずだ。目で見るのであって、目を見ることはできない。(鏡に映して見てもそれは自分の目の「鏡に映った映像」であって自分の目そのものではない。それを見るには自分の目で見るよりほかないが、しかし、見ている目を見ることはできない。(P.228)
決して客体になることのない絶対の主体、「私はPである」と言うとき、いつも言う側にいて、言われる側にはいない「私」、これをどう言い表したらよいのか、全く困ってしまう。(中略)むしろこの「私」(E)があるからこそ、「自分を」見たり、問題にできるのである。だからナッシングどころか、これは必ず「ある」のにちがいない。サムシングとして、何かとして、Pという形や語で言い表わされうるものとして、「ある」わけではないが、しかしやはり「ある」。都合のいいことに、日本語には同じ「ある」という語に、「・・・である」という用法と、「・・・がある」という用法の二つがある。だから、Pの方はいつも「私はPである」という形でいい表わせるのに対して、絶対的な主体としての私(E)の方は「私がある」という言い方で言い表わすことができる。「私がある」「われあり」少し大げさに言うと、この「私がある」「われあり」のありつまり「存在」「有」こそは、古今東西を通じて哲学の最も根本的な問題なのである。(P.229)
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『哲学入門以前』を読んだ。
ほほ〜ナルホドね、とうなずきつつ読んだ。ときにはアタマを抱え、うんうん唸りながら読んだ。
といっても、読み終えて何かがわかったわけではない。
川原先生いわく、
「哲学とは本のことではなく、文字のことでもない。哲学とは、ひとりひとりのこの私が事柄の深みに身を沈めることであり、跳躍し、飛躍し、超越することである」
まことそのような気はするけれど、このわたしは、たぶんどこまで行っても「哲学入門以前」はおろか、その「以前」にもたどり着くことができず、身を沈めたまま跳躍することもできないのだろう。
だが、とにもかくにも読み終えたというとりあえずの充足感はある。
うん、それでいいのだ。
立川志の輔がいくつかの新作を創作するにあたっては、小説家清水義範の作品をもとにしているのはファンのあいだでは有名な話らしい(『バールのようなもの』『バス・ストップ』『みどりの窓口』など)。
ということで、清水義範を読む。手始めに選んだのは『国語入試問題必勝法』だ。そのなかに『ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮』という短編が収められている。ブガロンチョというデタラメな食材を使った架空の料理をつくるというバカバカしい話を、大真面目に書いているところがやたらとたのしい短編だ。
その冒頭、ルイ十四世の料理人であったシャルル・マルクナールの逸話を紹介したあと(これも作り話なのだがこの時点ではまったく気づかない)、2つめのエピソードに移る。
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時代は変って十九世紀末、のちに印象派とまとめて呼ばれる画家たちがポントワーズの森にピクニックをしたことがある。そのピクニックには趣向があって、それぞれ、弁当に自分の美意識を盛り込んでそれを競おう、ということになっていた。そこである者は七色のサンドイッチを持ってくる。ある者は果物とパンと干し肉を銀の皿に盛って暗い影におく(これはコローだろう。多分)、ある者は踊り子に料理を運ばせた(これはドガ)。
ところがモネの弁当はどこにも取り柄のない、パンとチーズの塊を竹の皮に包んだだけのもので、みんな、どうしたことかと注目した。
食後、モネはその竹の皮をさりげなく小川に流した。と、その皮の表には、赤々と太陽が描かれており、それはまるで森の落日が川面に反映しているかのように美しいものであったという。
さすがは「印象ー日の出」の画家であると言うべきであろう。
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ほぉー。読むなりすぐさま蛍光ペンを入れた。もちろん、いつかネタにしてやろうという魂胆からである。
だが、その目論見は次の逸話を読み、あえなく崩れることとなる。
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ロシアのピョートル大帝は若い日、ドイツ、オランダ、イギリスなどへ渡り自ら造船術を習ったりしたことで有名だが、そんな時、ドイツのザクセン地方で一日乗馬を楽しみ、夕刻になってしまったことがある。腹がへったなあ、何か食べるものはないだろうかと思っていると、近くの農家で農夫がさんまを焼いていた。そのうまそうな匂いにひかれて、そのさんまを買い求めて食べてみたところ、空腹だったこともあり、実にうまい。この世にこんなうまいものがあっただろうか、という気がするほどである。
そして後年、大帝となったピョートルは王宮でさんまを求めるのだが、王にただ焼いただけの魚を出すわけにもいくまいと、さんまのボルシチとか、ムニエルとか、サバイヨン・ソースかけ、とかになって出てくるので、あの思い出の味とはまるで違っていた。そこで王は言う。
「このさんまは一体どこでとれたものだ」
「はい。バルト海で」
「それはいかん。さんまはザクセンに限る」
******
やられた。
そうだったのか。
元ネタは言わずと知れた『目黒のさんま』。パロディーと呼ぶのも憚られるほどそのままだ。いわば「目黒のさんまのまんま」である。しかしそのあとを読み進めると、それが作者のテクニックが稚拙であるがゆえにそうなったのではなく、むしろ精緻な構成ではないかということに思いが至る。
冒頭に、いかにもありそうな話をひとつ。印象派の画家たちを登場人物とした2つめは、若干の引っかかりと疑念を抱く部分(コローとかドガとか)を入れつつも最後をきれいにまとめ、ミエミエのパロディーである3つめで「じつは全部ウソなのよ」と明かす。三段落ちだ。もちろんそれは、その後の本編への導入として練り上げられた構成、つまりマクラである。これからデタラメな話をするからね、という前置きである。
******
作るものは、「ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮」を中心に、オードブルとサラダ。これにワインとフランスパンを加えれば立派な晩餐になる。
******
で、そのあとにつづく本編は、どこまでも嘘っぽい話を徹頭徹尾それらしく描写する。これぞナンセンス。バカバカしくておもしろい。
清水義範。しばらく就寝前のお供にしようと思っている。
またまた志の輔落語のマクラから。
またかとお思いだろうが、二度あることは三度ある。だいいち笑いの基本は三段落ちだ。オチはなくても、二回で止めるとおさまりがわるくていけない。
ということで、本日のお題はライオンだ。
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「きのう動物園いったんですよ」
「ほぉーほぉー動物園」
「いろんな動物みてましたらね、不思議ですねえ、あのライオン」
「え?」
「ライオン」
「おぉーおぉー百獣の王ライオン」
「あれ他の動物に比べて体のわりには頭デカいでしょう、あれなんであんなに頭がデカいんでしょうねえ?」
「え?」
「いや、ライオンってなんであんなに頭がデカいんですかねえ?」
「ライオンってなぜ頭がデカいってオマエそんなのちょっと考えればすぐわかるだろオマエ。ライオンの頭がなぜあんなに大きいかというとな、アレ、檻から出られないように大きくなってるんだ」
「ははぁナルホドね、出られませんわねえ・・・・じゃあなんですか?ライオンっていうのは檻ができたあとから生まれた動物なんですか?」
「そりゃそうだろオマエ、檻もないうちからライオンが生きててごらんよ、アタシたちの祖先はみんな食われて今ごろ誰もいないよ」
「はぁーナルホド、言われてみりゃそうですよね」
(「キリン」へとつづく)
******
たのしい小咄を紹介したあとに、野暮を承知で自説を述べる。
言わずもがなであるが、笑いどころは「みんな食われて誰もいないよ」と落とすところだ。しかし、立川志の輔の演出がすばらしいのはそのあと、「言われてみりゃそうですよね」というセリフを加えてバカバカしさを増幅させているところだろう。
先月までの数カ月間、ほとんど落語を聴かずに、やれ講談だ、やれ浪曲だと回り道をして、また落語に帰ってきた今日このごろ。もちろん、講談にしても浪曲にしても、よい芸を見聞きするのはたのしいもので、その点においてどのジャンルがよいとかわるいとかはないのだが、ことわたしのなかでは、やはり落語は別格だ。たとえどんな名人であろうが人間国宝であろうが、ほとんどの場合においてその噺が「毎度バカバカしい」という意味で、卓抜した芸能なのである。
きのうのつづき。
志の輔のマクラである。
「暮れにね、動物園行ったんすよ。はじめて生キリン見ちゃって」
「なんだその生キリンっていうのは」
「いやだから、テレビとか写真とかじゃなくてホントにホンモノのキリンを、もう目の前で見ちゃったの」
「すごいじゃないか」
「ええスゴイ。首が長いってわかってても、あの柵のところでこう見るでしょ、どこまでいってもどこまでいってもどこまでいっても首ですよ、ええ、あんなに首が長いとは思いませんでした、ねえ、ご隠居さん、なんでキリンってあんなに首が長いの?」
「なに?」
「キリンってなんであんなに首が長いの」
「キリンがなんで首が長いってオマエ、アタマがあんな高いところにあるんだもの、しょうがないだろ」
「・・・ああ、つなぐしかないのか・・・」
これは何度か聴いているが、何度聴いてもおかしい。
以上、立川志の輔のマクラである。