三遊亭圓丈発
「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」
3年前に亡くなった三遊亭圓丈の言葉だそうです。
現代新作落語のパイオニア(同じ「新作」でも圓丈以前と以後では大きく異なっているような気がするので)であり旗頭であり大家として、あとにつづく噺家たちに大きな影響を与え、一部では神のように崇め奉られるほどの存在だった圓丈がどのような意味でそう言ったのか、今となっては定かではありませんが、ぼくはこれを「芸」=「技術」と置き換えることで理解し、耳にするなり、ぼくが求めてきたのはまさにそれなのだと膝を打ちました。
もちろん「芸」は技術を含みはしますが、「技術」のみをもって「芸」だとするのはあまりにも乱暴にすぎる解釈でしょう。技術はあくまでも芸の一部であり、「芸=技術」でもな「芸く技術」でもなく「芸>技術」でなければ圓丈の言葉は生きてこない。しかしぼくは、あえてそれを承知したうえで「芸」=「技術」として、こう置き換えてみることにしました。
「新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です」
ここでぼくが「技術」と呼ぶものは、芸を成立させる重要な要素としてのそれではありません。
もとよりぼくたちは、技術を基とし技術をなりわいとし、技術の対価として報酬を得ています。しかし、他の理工系技術者と土木技術者、特に現場のそれとでは、「技術」の概念が大きく異なります。他産業でいうところの「技術」は、土木現場においては狭義のそれであり、それを含めた、いわばマネジメント的なものを「広義の技術=土木現場技術者における技術」とぼくは定義しています。
「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」
「新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です」
ということで、「私と私の環境」の「今」における「技術」と「発想」、あるいはプロフェッショナルとシロートについて考えていきながら、この本歌取りのようなものに込めた意味を解き明かしていきたいと思います。
圓丈の噺を聴いたことがある人ならおわかりのように、彼の着想や発想、そして筋立てや演じ方は、彼が新作を演じ始めた80年代初頭当時も今も斬新でおもしろく、ときに奇想天外で、そしてときどき破茶滅茶です。ところが彼は、昭和の大名人とうたわれた師匠六代目三遊亭圓生が亡くなるまでは、のちに彼の代名詞ともなる新作を高座にかけることはほとんどなく、もっぱら古典落語を演じていたといいますし、二つ目になるころには既に130本もの古典を覚えていたそうです。そもそも圓生を師として選んだのも、自らがやりたい「新作」のためには古典をみっちり仕込んでくれる人を、という動機からだというのですから、その志と将来の展望からして、その他大勢とはちょいとばかり違います。
もちろん、ぼくが「これだ」と膝を打ったのは、それをぼくが冗談半分でうそぶくところの「ぼくの芸」、つまり講話の際の話し方に活かすつもりは毛頭ありません。念頭に浮かんだのは、デジタルテクノロジーが日進月歩で進化する今という時代に生きていく土木現場技術者が持つ心がまえとして、また、そうあらねばならないという姿として、「プロの技術とシロートの発想」の双方を持ち合わせる者なのです。
ここで注意をしておかなければいけないのは、この組み合わせが固定した順列ではないということです。圓丈の例にならえば、まず「プロの芸」(=古典落語)の習得があり、そのあとに(プラス)「素人の発想」がある、と考えがちでしょうが、そうではありません。
なぜなら、「シロートの発想」は、本来シロートであるがゆえに持てるものなのですから、「プロ」の固定概念にがんじがらめになってしまっては、「シロートの発想」を身につけるのが困難だからです。といっても、それができないわけではありません。そしてそれは、固定概念に拘束されている者にとってこそ必要で、自分自身を変えつづけていくためには、すこぶる付きで役に立つものなのかもしれないのです。
「プロの技術」と「シロートの発想」は、同じ次元で両立してあるものではなく、異なる次元で倒立して並び立っていなければなりません。そうしなければ、同じ身にそれを抱えることは容易ではありません。いくらそうしようとしても、大抵の場合のそれは、「プロ」が「シロート」をスポイルしてしまうことになるからです。その両者を同時にひとりの身の内に抱えてしまうと、ハレーションが起こります。それを治めようとすれば、結局は「シロート」的なものは弾かれてしまわざるを得ないのです。
だからぼくは、「プロの技術」と「シロートの発想」を異なる次元で同時に持つことを薦めます。持つように努力するべきです。そもそも同じ次元で並べ立てようとすること自体に無理があるのですから。
圓丈の作品は、一見して、いやどう念入りに見聞きしても、よほどの達人でもないかぎり、その底に「古典の技術」があるとは想像することもできません。それぐらい自由で独創的で奇想天外で破茶滅茶です。技術の後列に発想を置いていては、そして、積み上げてきたものを一度ご破算にしてしまうほどの大胆さがなければああはならないでしょう。
「プロの芸」と「素人の発想」はあくまで異なる次元の存在としてあり、どちらが優位であるというわけではありません。しかし、それを演じるに際しては「プロの芸」という土台が必要不可欠です。そうでなければ、いかに自由で独創的な発想といえど、その効果が発現することはないからです。同様に、「素人の発想」がなければ、いくら「プロの芸」があったところでどうにもなりません。古典というスキームのなかで落語を演じるだけならそれでよいかもしれませんが(それもまたそうでもないはずですけど)、それを超えたところで表現しようとすれば、片肺飛行どころか、それ以下にしかならないでしょう(それは新作についてだけ言えることではなく、伝統芸能ではない、今に活きた古典落語を演じようとすれば同様なのでしょうけど)。
This is a 椅子
その文脈は、デジタルテクノロジーを抜きにしては成り立たず、しかも既存の発想や固定された概念では、本当の意味でそれを活用することが困難な、今という時代の「私と私の環境」においても通ずるとぼくは考えます。
先端技術を取り入れて自らの仕事に活かそうとするのは大前提です。しかし、そこに発想の柔軟性や、それまでとは異なるアプローチ、すなわち「シロートの発想」がなければ、「仕事の改善」はできても、「仕事のやり方を変える」ことにはつながりません。
デジタルツールを駆使するのは、がんばれば誰でもできることです(「がんばる」のは必須です)。しかしそれは、それまでの延長線上でツールがデジタルに変化しただけのことです。その技術を用いて、個人や組織の仕事のやり方を変えていこうとするならば、見る角度を変えたり、発想に「ひねり」を加えたりが必要です。たぶんそれは、シロート的なものであればあるほど効果が発揮されるはずです。
少し観点を変えてみます。
たとえばここに椅子があったとします。
椅子とは、木製、鋼製など用いる材料にかかわらず、作業や食事、あるいは休息のために座ることを目的としてあるもので、背もたれ、肘掛け、脚の有る無しにかかわらず座面を有するものを指してそう呼びます。
学習や訓練によってそれを学び、しっかりと腹に入れたアナタは、そのことを後につづく者に伝えます。そして、それを刷り込まれたものたちによって、いつしかその形状をもつ物体は、椅子として使用されることがあろうとなかろうと、ただそこにあるだけで「椅子」として認識されます。たとえそれが、「座る」という目的のために使われなくなったとしても、同様です。
いつしかその物体の使用方法は固定され、それ以外に使うことがなくなってしまいます。どころか、その使い方に執着し、それ以外の使用方法を考えることすらしなくなってしまいます。そこに年端もいかぬ幼児があらわれ、椅子を机として使ったとしましょう。ぼくやアナタは笑い、その幼児をこう諭すはずです。
「それは椅子といって座るものなのだよ」
それが固定概念です。
もうひとつ例をあげてみましょう。
本末転倒という言葉を知らぬ大人はいないはずです。
言わずもがなを承知で説明すると、物事の根本的なこととそうでないこと、重要なこととつまらないこととの区別がつかずに取り違えていることを意味する四字熟語です。
ところがその由来となると、たぶん知っている方が珍しくなります。
鎌倉時代までさかのぼります。
それまで各仏教の宗派の中心として本山(本寺)が力を持っていましたが、鎌倉時代に末山(末寺)が檀家を増やしたことにより、本山と末山の力関係が逆転してしまいました。 このことを指して「本末転倒」と使われたのが始まりとされています。
現代におけるこの言葉の意味や用法を否定するつもりはありませんが、この由来からは、「本」が根本的かつ重要で「末」が些末でつまらないという判別はできかねます。「末」が「本」に取って代わったとしても、それを悪だと決めつけることはできないような気がします。ひょっとしたらそれは、「本」であることに執着し、固定した概念から抜け出せなかった方に責任があったかもしれないという見方が成り立つこともあるでしょう。あるいは、優れた「末」が時代の流れを読みとった発想によって「本」を凌駕したともとれるでしょう。
しかし、「本末」という固定した順列に拘束された発想からは、そのように「末」を評価することはできないでしょうし、「本末」の関係を捉え直すこともできません。
ここで比喩として取り上げた「椅子」にしても「本末」にしても、ちょっと観点を変えてみてみれば、みなさんの周りには「のようなもの(こと)」がごろごろ転がっているはずです。ただ、それもまた、固定概念に束縛されたままでは見えてこないのはもちろんのことです。「椅子は、どうやって使おうと椅子だし、椅子として使ってなくても椅子じゃあねえか」という物の見方と態度からは、あたらしい何かを生みだすことはできません。”This is a 椅子”は、どこまでも行ってもそうなのだという固定された観念からジャンプすることなしに、「あたらしい技術」を自家薬籠中のものとし、自分自身のために活かすことはできないのです。
ということで、そろそろ結論とします。
繰り返しますが、デジタル技術によって出現したツールを、バリバリと使いこなすことは、がんばれば誰でもできます(がんばるのは必須です)。しかし、その使い方はオカミから義務として与えられたものや、推奨する例として提示されたもののなかだけにあるとは限りません。「自分たちのためにどう使うか」あるいは、「自分たちの目的のためにどう使うか」という発想がなければ、その技術やツールはただの道具にしかすぎません。それを活かすためのキーポイントが「シロート」、すなわち固定概念にとらわれない発想なのです。
「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」
たまさか巡りあったこの三遊亭圓丈の言葉がぼくの胸に響いたのは、だからこそだったのだと思います。そしてぼくはこう置き換えました。
「新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です」
もちろんプロの仕事人である以上、土台や素地としてあるのは前者ですし、優位に立つのもまた同様です。しかし、かといってそれに偏ってしまっていては、「今という時代」の公共建設工事業で競争上の優位性を保っていくことはできません。
拠って立つのが「プロの技術」であるのはまちがいありませんが、それに必要不可欠なものとして、異なる次元で「シロートの発想」を持ち、常に両者を並立させておく。それこそが、デジタルテクノロジーが日進月歩で進化する今という時代に生きていく土木現場技術者が持つ心がまえとして、また、そうあらねばならないという姿としてぼくが想像するものです。
念のために付け加えておきますが、それはけっして若者だけに求められるのではありません。いやむしろ、長年にわたって技術を習得し磨いてきたベテランにこそ求められるものなのかもしれません。経験と、経験によって得られた勘と知識、そこに「シロートの発想」をハイブリッドさせることができたら、そのオジサンやおばさんには、「最強」の冠が与えられるかもしれません。プロフェッショナルだからこそ、シロートに戻ってみる柔軟さと、それをもつための、ちょっとばかりの勇気が必要なのです。