答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

〈私的〉建設DX〈考〉その17 〜新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です〜

2024年09月24日 | 〈私的〉建設DX〈考〉
三遊亭圓丈発

「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」

3年前に亡くなった三遊亭圓丈の言葉だそうです。
現代新作落語のパイオニア(同じ「新作」でも圓丈以前と以後では大きく異なっているような気がするので)であり旗頭であり大家として、あとにつづく噺家たちに大きな影響を与え、一部では神のように崇め奉られるほどの存在だった圓丈がどのような意味でそう言ったのか、今となっては定かではありませんが、ぼくはこれを「芸」=「技術」と置き換えることで理解し、耳にするなり、ぼくが求めてきたのはまさにそれなのだと膝を打ちました。

もちろん「芸」は技術を含みはしますが、「技術」のみをもって「芸」だとするのはあまりにも乱暴にすぎる解釈でしょう。技術はあくまでも芸の一部であり、「芸=技術」でもな「芸く技術」でもなく「芸>技術」でなければ圓丈の言葉は生きてこない。しかしぼくは、あえてそれを承知したうえで「芸」=「技術」として、こう置き換えてみることにしました。

「新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です」

ここでぼくが「技術」と呼ぶものは、芸を成立させる重要な要素としてのそれではありません。
もとよりぼくたちは、技術を基とし技術をなりわいとし、技術の対価として報酬を得ています。しかし、他の理工系技術者と土木技術者、特に現場のそれとでは、「技術」の概念が大きく異なります。他産業でいうところの「技術」は、土木現場においては狭義のそれであり、それを含めた、いわばマネジメント的なものを「広義の技術=土木現場技術者における技術」とぼくは定義しています。

「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」
「新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です」

ということで、「私と私の環境」の「今」における「技術」と「発想」、あるいはプロフェッショナルとシロートについて考えていきながら、この本歌取りのようなものに込めた意味を解き明かしていきたいと思います。


圓丈の噺を聴いたことがある人ならおわかりのように、彼の着想や発想、そして筋立てや演じ方は、彼が新作を演じ始めた80年代初頭当時も今も斬新でおもしろく、ときに奇想天外で、そしてときどき破茶滅茶です。ところが彼は、昭和の大名人とうたわれた師匠六代目三遊亭圓生が亡くなるまでは、のちに彼の代名詞ともなる新作を高座にかけることはほとんどなく、もっぱら古典落語を演じていたといいますし、二つ目になるころには既に130本もの古典を覚えていたそうです。そもそも圓生を師として選んだのも、自らがやりたい「新作」のためには古典をみっちり仕込んでくれる人を、という動機からだというのですから、その志と将来の展望からして、その他大勢とはちょいとばかり違います。

もちろん、ぼくが「これだ」と膝を打ったのは、それをぼくが冗談半分でうそぶくところの「ぼくの芸」、つまり講話の際の話し方に活かすつもりは毛頭ありません。念頭に浮かんだのは、デジタルテクノロジーが日進月歩で進化する今という時代に生きていく土木現場技術者が持つ心がまえとして、また、そうあらねばならないという姿として、「プロの技術とシロートの発想」の双方を持ち合わせる者なのです。

ここで注意をしておかなければいけないのは、この組み合わせが固定した順列ではないということです。圓丈の例にならえば、まず「プロの芸」(=古典落語)の習得があり、そのあとに(プラス)「素人の発想」がある、と考えがちでしょうが、そうではありません。
なぜなら、「シロートの発想」は、本来シロートであるがゆえに持てるものなのですから、「プロ」の固定概念にがんじがらめになってしまっては、「シロートの発想」を身につけるのが困難だからです。といっても、それができないわけではありません。そしてそれは、固定概念に拘束されている者にとってこそ必要で、自分自身を変えつづけていくためには、すこぶる付きで役に立つものなのかもしれないのです。

「プロの技術」と「シロートの発想」は、同じ次元で両立してあるものではなく、異なる次元で倒立して並び立っていなければなりません。そうしなければ、同じ身にそれを抱えることは容易ではありません。いくらそうしようとしても、大抵の場合のそれは、「プロ」が「シロート」をスポイルしてしまうことになるからです。その両者を同時にひとりの身の内に抱えてしまうと、ハレーションが起こります。それを治めようとすれば、結局は「シロート」的なものは弾かれてしまわざるを得ないのです。
だからぼくは、「プロの技術」と「シロートの発想」を異なる次元で同時に持つことを薦めます。持つように努力するべきです。そもそも同じ次元で並べ立てようとすること自体に無理があるのですから。

圓丈の作品は、一見して、いやどう念入りに見聞きしても、よほどの達人でもないかぎり、その底に「古典の技術」があるとは想像することもできません。それぐらい自由で独創的で奇想天外で破茶滅茶です。技術の後列に発想を置いていては、そして、積み上げてきたものを一度ご破算にしてしまうほどの大胆さがなければああはならないでしょう。
「プロの芸」と「素人の発想」はあくまで異なる次元の存在としてあり、どちらが優位であるというわけではありません。しかし、それを演じるに際しては「プロの芸」という土台が必要不可欠です。そうでなければ、いかに自由で独創的な発想といえど、その効果が発現することはないからです。同様に、「素人の発想」がなければ、いくら「プロの芸」があったところでどうにもなりません。古典というスキームのなかで落語を演じるだけならそれでよいかもしれませんが(それもまたそうでもないはずですけど)、それを超えたところで表現しようとすれば、片肺飛行どころか、それ以下にしかならないでしょう(それは新作についてだけ言えることではなく、伝統芸能ではない、今に活きた古典落語を演じようとすれば同様なのでしょうけど)。


This is a 椅子

その文脈は、デジタルテクノロジーを抜きにしては成り立たず、しかも既存の発想や固定された概念では、本当の意味でそれを活用することが困難な、今という時代の「私と私の環境」においても通ずるとぼくは考えます。
先端技術を取り入れて自らの仕事に活かそうとするのは大前提です。しかし、そこに発想の柔軟性や、それまでとは異なるアプローチ、すなわち「シロートの発想」がなければ、「仕事の改善」はできても、「仕事のやり方を変える」ことにはつながりません。
デジタルツールを駆使するのは、がんばれば誰でもできることです(「がんばる」のは必須です)。しかしそれは、それまでの延長線上でツールがデジタルに変化しただけのことです。その技術を用いて、個人や組織の仕事のやり方を変えていこうとするならば、見る角度を変えたり、発想に「ひねり」を加えたりが必要です。たぶんそれは、シロート的なものであればあるほど効果が発揮されるはずです。

少し観点を変えてみます。
たとえばここに椅子があったとします。
椅子とは、木製、鋼製など用いる材料にかかわらず、作業や食事、あるいは休息のために座ることを目的としてあるもので、背もたれ、肘掛け、脚の有る無しにかかわらず座面を有するものを指してそう呼びます。
学習や訓練によってそれを学び、しっかりと腹に入れたアナタは、そのことを後につづく者に伝えます。そして、それを刷り込まれたものたちによって、いつしかその形状をもつ物体は、椅子として使用されることがあろうとなかろうと、ただそこにあるだけで「椅子」として認識されます。たとえそれが、「座る」という目的のために使われなくなったとしても、同様です。
いつしかその物体の使用方法は固定され、それ以外に使うことがなくなってしまいます。どころか、その使い方に執着し、それ以外の使用方法を考えることすらしなくなってしまいます。そこに年端もいかぬ幼児があらわれ、椅子を机として使ったとしましょう。ぼくやアナタは笑い、その幼児をこう諭すはずです。
「それは椅子といって座るものなのだよ」
それが固定概念です。

もうひとつ例をあげてみましょう。
本末転倒という言葉を知らぬ大人はいないはずです。
言わずもがなを承知で説明すると、物事の根本的なこととそうでないこと、重要なこととつまらないこととの区別がつかずに取り違えていることを意味する四字熟語です。
ところがその由来となると、たぶん知っている方が珍しくなります。
鎌倉時代までさかのぼります。
それまで各仏教の宗派の中心として本山(本寺)が力を持っていましたが、鎌倉時代に末山(末寺)が檀家を増やしたことにより、本山と末山の力関係が逆転してしまいました。 このことを指して「本末転倒」と使われたのが始まりとされています。
現代におけるこの言葉の意味や用法を否定するつもりはありませんが、この由来からは、「本」が根本的かつ重要で「末」が些末でつまらないという判別はできかねます。「末」が「本」に取って代わったとしても、それを悪だと決めつけることはできないような気がします。ひょっとしたらそれは、「本」であることに執着し、固定した概念から抜け出せなかった方に責任があったかもしれないという見方が成り立つこともあるでしょう。あるいは、優れた「末」が時代の流れを読みとった発想によって「本」を凌駕したともとれるでしょう。
しかし、「本末」という固定した順列に拘束された発想からは、そのように「末」を評価することはできないでしょうし、「本末」の関係を捉え直すこともできません。

ここで比喩として取り上げた「椅子」にしても「本末」にしても、ちょっと観点を変えてみてみれば、みなさんの周りには「のようなもの(こと)」がごろごろ転がっているはずです。ただ、それもまた、固定概念に束縛されたままでは見えてこないのはもちろんのことです。「椅子は、どうやって使おうと椅子だし、椅子として使ってなくても椅子じゃあねえか」という物の見方と態度からは、あたらしい何かを生みだすことはできません。”This is a 椅子”は、どこまでも行ってもそうなのだという固定された観念からジャンプすることなしに、「あたらしい技術」を自家薬籠中のものとし、自分自身のために活かすことはできないのです。


ということで、そろそろ結論とします。
繰り返しますが、デジタル技術によって出現したツールを、バリバリと使いこなすことは、がんばれば誰でもできます(がんばるのは必須です)。しかし、その使い方はオカミから義務として与えられたものや、推奨する例として提示されたもののなかだけにあるとは限りません。「自分たちのためにどう使うか」あるいは、「自分たちの目的のためにどう使うか」という発想がなければ、その技術やツールはただの道具にしかすぎません。それを活かすためのキーポイントが「シロート」、すなわち固定概念にとらわれない発想なのです。

「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」

たまさか巡りあったこの三遊亭圓丈の言葉がぼくの胸に響いたのは、だからこそだったのだと思います。そしてぼくはこう置き換えました。

「新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です」

もちろんプロの仕事人である以上、土台や素地としてあるのは前者ですし、優位に立つのもまた同様です。しかし、かといってそれに偏ってしまっていては、「今という時代」の公共建設工事業で競争上の優位性を保っていくことはできません。
拠って立つのが「プロの技術」であるのはまちがいありませんが、それに必要不可欠なものとして、異なる次元で「シロートの発想」を持ち、常に両者を並立させておく。それこそが、デジタルテクノロジーが日進月歩で進化する今という時代に生きていく土木現場技術者が持つ心がまえとして、また、そうあらねばならないという姿としてぼくが想像するものです。

念のために付け加えておきますが、それはけっして若者だけに求められるのではありません。いやむしろ、長年にわたって技術を習得し磨いてきたベテランにこそ求められるものなのかもしれません。経験と、経験によって得られた勘と知識、そこに「シロートの発想」をハイブリッドさせることができたら、そのオジサンやおばさんには、「最強」の冠が与えられるかもしれません。プロフェッショナルだからこそ、シロートに戻ってみる柔軟さと、それをもつための、ちょっとばかりの勇気が必要なのです。



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〈私的〉建設DX〈考〉その16 ~揺り戻し~

2024年09月18日 | 〈私的〉建設DX〈考〉
YAHOOニュース 9/17 6:44配信より
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【シリコンバレー共同】米IT大手アマゾン・コムは16日、従業員に原則として週5日、職場に出勤するよう要請したことを明らかにした。来年1月からこのルールの適用を開始する。アンディ・ジャシー最高経営責任者(CEO)は従業員宛ての書簡で「企業文化と社内チームを強化するため」と狙いを説明した。
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Amazonでは今、少なくとも週3日の出勤が義務づけられているのだといいます。それに2日をプラスする、つまり、コロナ禍を契機として全世界にリモートワークが広がる以前の状態に戻すということ。しかも、職場に各自が作業をするためのデスクを割り当てる制度も復活させるというのですから、

「へぇーあのアマゾンがねえ」
と思わず二度読みをしたことでした。

同じく共同通信が、4月20日に配信した記事には、それについてのわが国の状況が記されています。

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国土交通省の2023年度調査によると、直近1年間に自宅などでテレワークをした会社員、公務員らの割合は16.1%で前年度から2.7ポイント減った。新型コロナウイルスの感染対策として普及したが、同省は「揺り戻しが見られる」と説明。週1~2日だけテレワークする人の割合が増えており、出社と併用した働き方が広がりつつあるようだ。
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なるほど、そうなって然るべきだろうなとは思います。
ぼくのような何かにつけてサボり癖のある人間から言わせれば、「仕事場」としてのオフィスの存在は、「サボりづらい」という一点だけをとっても、こと仕事をこなすということにおいて、その存在価値は大きいからです。
たしかに自身が新型コロナウイルスに罹患し家に隔離されたときや、ここ数年で幾度かあった入院の際には、「週の半分ぐらいはリモートワークでもよいのではないか」と感じたのも事実ですし(もちろん仕事の内容によりますが)、そう思っている人も少なくはないはずです。
しかし、やはりF2Fに勝るものはない。結局はそこに落ち着いてしまうのです。ことは企業や官庁、団体などといった組織のなかだけの話ではありません。それぞれの、取引先あるいは関係者との協議打ち合わせにおいても、オンラインよりも対面コミュニケーションの方が断然強みを発揮します。ですから、この「揺り戻し」には納得できるところが大なのです。

だからといってその動きがさらに加速増大していくと判断するのは早計でしょう。実際Amazonも、「健康上の問題や育児といった個別事情には引き続き配慮する」と表明しているようですし、それは、従業員のことを考えればまことに適切な姿勢だと言えます。

そして、ここで忘れてはならないのが、対面コミュニケーションが抱えるわずらわしさです。F2Fは、その本質に面倒くささを含んでいます。だからこそ少なくない人たちがデジタル(オンライン)を支持し、その潮流に乗っかった。たしかにコロナ禍という契機がなければ、これほど急速な進展は見られなかったのでしょうが、だとしても、多くの人たちがそれを選択した理由のひとつには、「わずらわしさからの解放」があったのではないかとぼくは思っています。

とはいえそれは、まさに表裏一体。対面コミュニケーションの光と陰でしょう。裏がない表はなく、陰があるからこそ光が存在する。ビジネスにおけるコミュニケーションの本質が「協働」であるとすれば、それは、F2Fを基本とするのが自然の流れだとぼくは考えます。

日本社会における「はたらき方」がこれからどうなっていくのか、残念ながら、ぼくにはそんな先のことはわかりません。それを確実に予想できるほどの知見もありません。ただ、今もそうですし、これからも、この「揺り戻し」はつづいていくのだろうとは思います。

さて、それを踏まえてここからは、「ぼくとぼくの環境」であるこの業界の構成員たちへ向けて話を進めます。このテキストを『〈私的〉建設DX〈考〉』のひとつに加えたのは、そういった状況下での身の処し方が、その先を大きく左右してくると考えるからです。
一度ある方向へ大きく変動したものが、また元の方向に戻ること。それが「揺り戻し」です。そこにおいて、「揺り戻し」の効能や効果や意味を理解し、実感できるのは、いったん「揺れた」人間(組織)だけです。
「まったく揺れずにいた」、あるいは「ほとんど揺れずにいた」、また嫌々渋々「揺れた」はしたけれど、それが何を生じるか、それによって何が生み出されるかを、自らの頭脳と身体を使って考え実行しようとしなかった人や組織には、「揺れた」ことの効果も、「戻ってきた」場所がもつ意義も、体感として理解することができません。
そして、そういう人にかぎって言うことは決まっています。

「ほらね」

デジタル(その代表のひとつとしてのオンライン)に対する違和感は、齢を重ね、経験を積み重ねた人間なら、程度の差こそあっても誰しもがもっているものでしょう。バリバリのデジタル推進派と目されているぼくだとて、その例外ではありません。いや、考えれば考えるほど、実践すればするほど、その違和感が増大していくとさえ言ってもよい。それがぼくの現実です。

しかしそれは、「揺れない」という選択をする理由にはなりません。むしろ、だからこそ「揺れてみる」をチョイスするのです。言わずもがなのことですが、ぼくたちの「今」は「デジタル」で満ち溢れています。会社のみならず、家庭も社会も、もはやデジタルがなければ成り立っていくことすらできません。そう、ぼくたちは、そこに居ながらにして「揺れている」のです。
そこにおいて「揺れようとしない」態度は、自らへの欺瞞に他なりません。それは、「揺れようとしない」ことによって、自分自身を「揺れない」存在だと欺き、結果として自らを安心させているにすぎないからです。

だからといって、皆が皆、能動的に「揺れる」ことができるかといえば、それは無理筋と言うものでしょう。大抵の場合のそれは、受動から始まります。多くの人は、それに対してまず受け身です。
そもそも人の世は、受け身で何かを感じ、その受動を起点として何かが動きます。オギャーと生まれ落ちたのを皮切りとして、人が置かれている状況や、そこから始まる思考も行為も、じつはそのほとんどがリアクションなのです。
しかし、問題は起点にはありません。その受動をスタートラインとして、いかに能動的に「揺れてみる」かどうか。それがそのまま進むにせよ、元に戻るにせよ、その選択や行動を価値があるものにするかどうかは、一人ひとりの自らのなかにあるのです。

揺れて戻ってまた揺れて・・・
いずれにしても、揺れっぱなしになることも、元に戻ったままとなることもありません。

それが建設DXへのプロセスなのだと言い切ってしまえば、そりゃあんたムチャクチャでござりますがな、などという失笑が聞こえてきそうではあるのですが、DXだとてその埒外に存在し得るはずはありません。であれば、「揺れてみる」しかないのです。今という時代を公共建設工事という業界の構成員として生き抜いてゆこうとするならば。


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〈私的〉建設DX〈考〉その15 ~バランシングバー~

2024年09月10日 | 〈私的〉建設DX〈考〉
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中島 西部邁先生がよく言っていたのは、現代というのは非常に変化が激しいので、まさにサーカスで綱渡りをしているようなものである、と。綱渡りをするときに、非常に重要なのは何かというと、あのバランシングバーである、と。あの棒というのが、死者からやってきた「伝統」とか「基準」というもので、これがあるがゆえに、細い、危なっかしい道を渡ることができる。みんな、バランシングバーには意味がないというふうに思いがちだけど、これが大切なんだと言っていたんです。
(『ええかげん論』土井善晴、中島岳志、P.160)
******

公共建設業におけるDXを考えれば考えるほど、アナログを捨ててはいけないという思いが強くなってきているぼくには、このメタファーが腑に落ちます。

そもそも、デジタルとアナログを二項対立的な図式で語るのが、甚だしく勘違いだったのかもしれません。
きのうはアナログで明日がデジタルという考え方には、基本的かつ大局的なところで賛同しますが、スポット的また局地的にはその逆、今はデジタルあしたはアナログであってもよいのではないでしょうか。いやむしろ、そういう部分がなければならないと思うのです。

大切なのは、双方のあいだを行きつ戻りつ、ちょうどよいのはどこかを探り、そしてそれを固定された不変なものとして捉えることなく、その場その時々で、適解だと思えるものを選択するということ。その判断にとって、デジタルが絶対善でアナログが絶対悪だという固定観念にもとづいた基準が、邪魔でさえあるときもあるでしょう。

などということを言ってしまうと、回りはじめたスピニング・ホイールを逆回転させることにもなりかねません。ですから、今という時代の公共建設業では、取り扱いに十分注意しなければならないのがこの考え方ではあります。

いずれにしても、今このときに渡っているのは、また、これから渡ろうとしているのは、「太く安全な道」ではありません。であれば、ゆらぎながら平衡を探り、重心を移しながら歩きつづけなければなりません。そこでは、ゆらぎすぎて落っこちてしまわないように、平衡をとる棒の存在が不可欠です。

そのバランシングの基準をどこに置くか、どこに置けば平衡が保てるのか。いずれにしても、不変で固定されたものがないのであれば、いかにデジタルテクノロジーを手法として活用するといえども、過去や先人に習うことが捨て置かれてよいというものではありません。いやむしろ、本質的な部分においては、そちらの方がより重要度が高いということも少なくないでしょう。そしてそれは、けっして時代遅れの考え方などではないはずだと、ぼくは思うのです。

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〈私的〉建設DX〈考〉その14 ~ 階上、階下を笑うべからず。

2024年07月09日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

「その13」の次ではない「その14」

いったん「お終い」としてケリをつけたつもりでしたが、案の定、というべきか、いつものように、というべきか、気がつけば、思い出したかのように思索を進めている自分がいます。

とあれば、当然のことですが出力せねばなりません。13回で終わった連続物としての『〈私的〉建設DX〈考〉』とは別に、随時つれづれなるままに綴っていこうと思います。
ですから、便宜上の通し番号(その〇〇)は振っていますが、ここから先は、必ずしも「前項を受けて」とはならず単発です。いや、そうなるかどうかさえ定かではありません。なんとなれば、そう思いついたはよいが今日このテキストを最後にあとはなし、ということにもなりかねないのですから。
ということで、『〈私的〉建設DX〈考〉』、前回までとつながってはいますが、直接的に「その13」を受けてはいない「その14」です。


そんなもん使いものにならないよ

既にあきらかにしたように、デジタイゼーション、デジタライゼーション、デジタルトランスフォーメーションは、必ずしも、多くの人たちが言うように順列でつながり、段階的に上っていくものである必要はありませんし、現実として、そうはならない方が多数を占めるというのがぼくの認識です。
とはいえ、客観的にみて、どれがより高みにあるかと言えば、やはりその順番どおりとするべきなのでしょう。つまり、順列の三段跳びはないにしても、そのステージに上下はある。しかし、上下がすなわち誰にとっても優劣に直結するかどうかについては、一概に評価することはできません。

それを考えさせられたのは、先日遭遇したある出来事からです。トンネルや橋梁点検のためのそのアプリケーションはタブレットで使うものでした。従来は紙ベースの2次元図に手描きでスケッチしていた作業を、端末のディスプレイに表示された2次元CADにペンで描画やメモをすることによって、現場と内業の二度手間を無くし、作業の効率アップを実現させ、生産性向上を図るものです。売りは「紙の操作感」のままデジタル化ができるという、いわば「電子野帳」とか「電子スケッチブック」とでも言うようなアプリケーションでした。

ところが、たぶん満を持して行ったであろう開発者のプレゼンテーションは、その場にいた聴衆から、ケンもホロロの冷ややかな反応で迎えられてします。

「そんなもんは使い物にならないよ」

ハッキリとそう指摘する人もいました。
ぼくもまたご多分に漏れず、「今さら、紙をデジタルにしただけでは、この業界が抱える問題解決にはつながらない」などと思ったものです。
しかし、それはどうなのだろう?一概にそうとも言えないのではないだろうか?
徐々にそういった考えがアタマをもたげてき始め、確信めいたものに変わると、すぐに出力をしたのです。

「これってニーズがあると思いますよ」


4階建ての般若心経

理由はこうです。
現に今、点検作業に従事する大多数が行っているのはアナログきわまりない作で、そこにおいては、そのアプリケーションを必要とする人は多いだろうし、そういう意味では、かなりの需要が見込まれるのではないか。

しかし、そのすぐあとで、こう付け足すのも忘れませんでした。
とはいっても、その作業を行うのが調査点検業者なのか施工業者なのかはともかく、どちらにしても圧倒的な人手不足のなかにあり、それが解消される見込みは絶望的なほど薄い。であれば、そのニーズはすぐに頭打ちとなり、今後はそこを突破するもの、つまり省力化に直結するようなものを開発していかないとダメだと思う。

プレゼンの主さんは素直に聞いてくれました。あまつさえ、感謝の言葉さえ返してくれたのです。
それを聞いたぼくは、後段は要らなかったなと、少しばかり後悔しました(あくまでもその時点の評価として、ですが)。4年ほど前に読んだ『真釈 般若心経』(宮坂宥洪著、角川ソフィア文庫)を思い出したからです。


著者はそこで、般若心経を四階建ての建築物に見立て、解いていきます。
1Fは出発地点で「幼児レベルのフロア」。2Fが世間における自己形成の段階、すなわち「世間レベルのフロア」、3Fは般若心経におけるキーパーソンである舎利子がいるフロア(とはいえこれは、人間としては最高段階といってもよいほどにかなりのハイレベルです)。そして最上階である4Fは般若心経の語り手である観音様(観自在菩薩)レベルのフロアだというものです。
そのモデルを前提として、宮坂氏はこう説きます。

******
階上は階下なくして存在しません。二階や三階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。
******

階上にいて階下を否定するのは容易いことです。しかし、もしも階上に行けたとして(ぼくがそうであると言っているわけではありません)、それはすなわち、そこに到達していない者を否定できるということとイコールではありません。いや、それをするということは、かつて階下の住人であった自分自身を否定すると同義であるとさえ言えるのではないでしょうか。


階上、階下を笑うべからず

話を戻します。
単純なデジタル化(アナログからデジタルへの移行)は否定の対象となってもかまわないとぼくは考えます。しかし、そのデジタルスケッチブック(のようなもの)は、仕事のやり方を変えるまでには至らないかもしれませんが、少なくとも業務プロセスの改善につながるものでしょう。しかも、その部分においては、かなりの効果が見込めるとぼくは思います。であれば、「その次の段階」に至ってないからといって、その先においてそれがダメなものであるとは限らないし、「階下」にいる人たちにとっては、むしろ有用なものでありつづけるのかもしれません。そして、その存在と「次の段階」が並立してあっても、何らの不自然さもない。どころか、それを突破口にして、仕事のやり方が変わることも十分にあり得ることです。

今日のぼくには無用なものでも、きのうのぼくには有用だったと同様に、今日のぼくには効果が見込まれないものであっても、今日の誰かや明日の誰かには大いに効果があるのかもしれない。
であれば、「階上、階下を笑うべからず」。きのうのぼくを否定しないためにも。そもそもが「階上」であるかどうかすら怪しいぼくの場合はなおさらなのです。



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〈私的〉建設DX〈考〉その13 〜 余録です

2024年07月05日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

余録です。

結局のところ、(デジタル化を手段として)「変わりつづける」ことで、「あらたな仕事のやり方」を見つけ(それもまた「変わりつづける」のですけど)、組織の文化を変えていくことが、ぼくの考える(中小建設業の)建設DXなのです。
という締めくくりでこの連投を終えたあと、手にとった本は南直哉『刺さる言葉』でした。
といっても、何の関連もありません。ただの思いつきです。しかも、初読ではありません。二度目です。
思うところあって、初読再読を含め、直哉さんに浸ってみようかと考えていたからです(と思い立ってから3冊読んだあと、ミシマ社の「利他本」を2つ読んでいるのですから、相変わらず移り気ではありますが)。

読み始める、すぐに出会ったのがこんな文章でした。

******
「好きでやっている坐禅は凡夫だな。しなければならなくてやっている坐禅も素人だ。するのが当たり前になった坐禅が本物だ」
「するのが当たり前になった坐禅」、これこそが生き方にまで練り上げられた坐禅であり、そうなっていくことを修行というのでしょう。
 習慣を持っている人は強い。その人は生き方の形を持っています。どうしてそれが必要なのか。それは、我々がそもそも、「自分でありたくて」自分なのではなく、「自分でなければならなくて」自分なのでもなく、「自分であることになっている」時、はじめて自分を受け容れられているからだろうと、私は思います。(P.15~16)
******


そう。そうなんだよな。と激しくうなずくぼくは、直哉さんが禅道場で修行中に、ある老僧から告げられたというその言葉を、脳内でこんな風に変換していました。

〈変わる〉のが好きなやつは変人です。
しなければならなくてやむを得ず〈変わる〉のは、まあフツーのひとでしょう。
〈変わる〉のが当たり前になったとき、それをして本物と呼びます。
「〈変わる〉のが当たり前になる」、これこそが生き方にまで練り上げられた〈変わるという方法〉であり、そうなっていくことを目指すべきでしょう。
習慣を持っている人は強い。その人は生き方の形を持っているからです。
どうしてそれが必要なのか。それは、ぼくたちがそもそも、「自分でありたくて」自分なのではなく、「自分でなければならなくて」自分なのでもなく、「自分であることになっている」とき、はじめて自分を受け容れられているからです。
だから〈変わる〉を習慣にする。〈変わる〉を形にする。
それをぼくは〈変わるという方法〉と呼びます。

あらま、これでは凡夫よりも素人よりもわるい、いわば盗人ではありませんか。
しかし・・・これほどぼくの今の想いを的確にあらわした表現は、たぶんない。
思わぬ僥倖に、「さてこの偶然を、如何にして必然とせむ」と思案するぼくなのでした。

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〈私的〉建設DX〈考〉その12 〜 結(のようなもの)

2024年07月03日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

引き裂かれた自己と向き合う

あらためてことわっておきますが、ぼくは、デジタル化をすればそれですべてが上手く行くなどという、能天気な考えの持ち主ではないし、デジタル化の行く末にあるのがバラ色の未来だとも思っていません。心の底を吐露するならば、むしろ懐疑的な想いのほうが強い。
しかしぼくは、こと土木という仕事においてはデジタルに賭けてみようと思い、それを実践するという道を選びました。
であれば、そこにおいてのぼく自身は、引き裂かれた己と向き合うことを余儀なくされてしまいます。

とはいえぼくという人間は、それがデジタルであるかないかにかかわらず、テクノロジーというやつを全肯定できない心持ちを常に自らのなかに抱えながら土木「工学」と向き合ってきました。土木には、「工学」としての側面とそれだけでは測ることができない部分とがあるというのが、土木屋としてのぼくのスタンスです。
ですから、マシンやツールやテクニックやらの、テクノロジーにばかり目が向いていきがちな同業者の話には、表面上嬉々として付き合ってはいますが、心のなかではこう思うのです。

「つまんねえなあ」と。

つまり、DXうんぬんの前に、ぼくは引き裂かれた自己と向き合い、その内なる葛藤と付き合ってきました。そういう意味では、今さら・・・ではあるのです。


初期設定は「変わる」

その個人的事情のみを尊重すれば、はたして今回ぼくが考察してきたような、DXへ向かうことを前提に組織がよくなろうとすることがよいのかわるいのか。たとえ世の流れがそこに向かって流れているにせよ、それを全面的に是とすることには少しばかり抵抗があるのも事実です。そもそも、変えなくてよいものまで変える必要はないのですし、変えてはならないものをもちつづけるというマインドは、個人としても組織としても大切なことです。

ただ、何度も繰り返しますが、世の中の初期設定は「変わる」なのです。そしてそれは、どこまで行っても変わらない。変えようとしても変えようがない初期設定なのです。

とはいえ一人ひとりの人間にとっての「変わる」は、その理とはまた別のところにあります。それが厄介なことなのか、だから人間というやつはおもしろいのか、その判断はそれぞれにお任せするとして、世の中の諸行が無常であろうとなかろうと、少なくない人たちは「変わる」を怖れ、「変わる」を拒み、「変わる」に抗う。

渡る世間は偶然に満ちあふれています。「DXに至る3つのプロセス」として挙げた、メタモルフォーゼ、コペ転、ラテラル思考のいずれの例も、ひょっとすれば結果論としての大成功なのであって、端から企図したものではなかったのかもしれません(テクノロジーの進化ではフツーにあることです)。

いや、それらの成果を貶めるつもりは毛頭ありません。しかし、もともとの設計どおり、当初の計画どおりに進むプロジェクトなどはひとつとしてないのです。
綿密に計画し、大胆に実行し、詳細に検討して修正し、また実行する、という繰り返しのなかで、たまさか見つけた偶然をその後に活かす。大切なのは、そこに主体的な関与があるかどうかです。なければその「玉」と成り得るかもしれない偶然は、そこらに転がっている何の変哲もない「石」としか認識されないでしょう。であれば当然の帰結として、その偶然に潜んでいるヒントやパワーが活かされることはなく、進化への必然に昇華する途は閉ざされ、すぐに見向きもされない存在となるでしょう。いや、そもそもその存在にすら気づかない人たちが多いのかもしれません。


「変わる」を意識し「変わる」を模索しつづける

ここで映画『山猫』でマルチェロ・マストロヤンニが言った「変わらずに生き残るには変わらなければいけない」という言葉が意味をもってきます。
それは、「変わる」を意識するということです。
まずは、人間は「変わる」ものだという認識をもちつつ、一方で「変わる」ことに対する心理的抵抗があるのもまた当然のことだと理解する。
だからこそ、「変わらずに生き残るには変わらなければいけない」。そう自戒しながら「変わる」を模索しつづける。
そして、「変わりつづける」が習い性となるまでそれを繰り返す。

ここで重要なポイントは、その「変わる」が組織や個人の内側から起動しなければならないということです。
経産省や国交省や各自治体がどう言おうと、そして彼らの企図するものがなんであろうと、正解は「おかみ」が与えてくれるものではありません。
たしかに、上や外から否応なしにかけられる圧力は変化への近道ですし、そこに乗っかっておきさえすれば、表面上の変化は達成できます(それさえ拒むのであれば論外です。他産業ならいざ知らず、こと公共建設工事をなりわいとするならば、「おかみ」の意向を無視するのは自殺行為です。ちょっと哀しくはあるけれど)。しかし、それではいつまで経ってもどこまで行っても、本質的なところで仕事のやり方を変えることはできません。主体的な「変わる」を身につけていない変化は、真の意味での「変わる」ではないし、何よりそれは、たのしくないことこの上ない。

繰り返しますが、「変わりつづける」ことから「あらたな仕事のやり方」を模索し、それを我がものとするのが目的です。そこにおいて「あたらしい技術」はツールであり手段でしかありません。それが基本です。
しかし、今に生きるぼくや、今からを生きるあなたが、デジタルを無視して社会や仕事を営むことなど、到底できるはずがありません。であれば、その先のトランスフォーメーションを目指して徹頭徹尾思い切りデジタルを活用し、「変わる」を模索しつづけるしかないではないかとぼくは思うのです。


お終い

そうそう、近ごろのぼくは、いっときサッパリ読む気が起こらなかった本を、また読めるようになりました。なんだったらたのしくてたまらない。
そのキッカケは、ここ数年ほぼ一辺倒だった電子書籍ではなく、「紙」の本が与えてくれたものでした。以来、「紙」「紙」「紙」です。
なんとなくではあります。意図してそうなったものではありません。

たぶんそうやって、デジタルにまみれた自分と、アナログで生きてきた自分との平衡を内側から保とうとしているのでしょう。
デジタルネイティブの若者や少年少女はともかく、デジタル化など少年漫画雑誌のなかの夢物語でしかなかった時代に少年だったぼくには、やはりどこかにデジタルとは相容れない部分が残っています。
それが、引き裂かれた今のぼくをかたちづくっているひとつの要因です。もちろんもうひとつは、主体的にデジタルたらんとしてきた自分です。どちらも紛うことなきぼく自身です。
その繰り返しが習い性となったころ、個人や組織の仕事のやり方が変わっている。たぶん、地方のちいさな建設会社のDXなどというのは、そのようなものなのではないかと思うのです。

(お終い)


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〈私的〉建設DX〈考〉その11 〜 テセウス・パラドックス

2024年06月30日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

パンドラの箱

ぼくたち公共建設工事を生業にしている者の大元締めは、言わずと知れた国土交通省です。その国交省が「インフラ分野のDX」を推進しているのですから、同業者同士の会話のなかで「建設DX」が話題にのぼることが少なくないのは当然のことでしょう。

しかし、そのなかで、何故だか誰もが触れたがらないところがあることを、はたして皆さんは認識しているでしょうか?
その呼称は各企業で色々さまざまでしょうが、いわゆる総務部門のデジタル化についてが、ぼくたちがDXの話をするときに話題の中心となることは、ほぼないのです。

なんてことを言うと「オレたちゃ技術系だから当然でしょ」という答えが返ってくるのかもしれませんが、それだけでしょうか?
ひょっとしたら、そこがあまりにも旧態依然すぎて、アンタッチャブルなものになっているからなのではないかと、ぼくは推察します。アンタッチャブルと言っても、神聖にして侵すべからずという意味のそれではなく、半ば「どうしようもねえや」という、お手上げの心にもとづいたものとしてのそれです。誤解を恐れずに表現すると、その「時代遅れ」について、とても他人さまに言えたものではないと恥部にも似たような感覚をもっている。そしてそれは、自らの組織が特にそうであって、他所はそうではない。今という時代にそのような「時代遅れ」がそうそう存在するはずもないと思っている。

しかし、最近になって種々聞いてみると、どうもその「時代遅れ」は、全国の中小建設業に共通するものであって、どこかの誰かやどこかの組織だけのものではないようです。なのですが、それに関する情報やつながりは極端に少なく、だからこそ自分のところが特別だと錯覚し、皆が劣っている(と思い込んでいる)自分を隠そうとする。だから触れたがらない。自らが「技術」という分野で先端を志向する者であればあるほど、また、それへの自信が強ければ強いほど、その意識は強いのかもしれません。

とはいえ、デジタル・トランスフォーメーションが「デジタルテクノロジーを活用して仕事のやり方や企業文化を変えていこう」とする試みの結果としてあるのであれば、総務部門だけが埒外に置かれていてよいはずがありません。いや、むしろそこは企業の足元や根っこ。建設業にとっては、利益や成果や問題課題、よいもわるいもすべてを生み出す「現場」を下支えする重要な存在であるはずです。建設企業は各個人や各現場、各部署が統合してあるものですから、それがDXを志向していこうとするとき、技術系だけがICT活用に邁進する一方で、アナログ上等を放っておいてよいはずがありません。

いやいや「インフラ分野のDX」の文脈からすれば、そこは関係ないでしょ。あくまでもそこは、それぞれの「お家の事情」。どうあろうと勝手になさいよ。

はい。そういう考え方もわからないではありません。しかし、「インフラ分野のDX」を実現しようとするのは各建設企業です。その内部に、デジタル・アンタッチャブルを抱えておいたままでのそれは、あきらかに片翼飛行であり、不完全なものだと言わざるを得ません。

といってもそれは、「現場」で生きるあなたたちが、主体として関わるものではありません。あくまでも主体は経営層であり、そこに携わる職員たちです。
とはいえそれに、「知らぬ顔の半兵衛」を決めこむのもちがうとぼくは思います。規模が大きな会社ならいざ知らず、ぼくやあなたが所属するちいさな組織なら、それに傍観者であることは、デジタル化を通じて「よくなろう」とする自らを否定することに他なりません。

しかし、ここでも事はそれほど単純ではありません。相手はなかなかに手強い。「変わる」ことへの抵抗は、半端なく強い。それが事務系の特性と言ってもよいでしょう。さもありなん、です。なんとなれば、だからこそアンタッチャブルになっているのですから。


とはいえ、ひとは変わります。変わるのが人間という生き物です。人間の細胞は3ヶ月もすれば、それまでとはまったく別のものに入れ替わるとされています。
なのに、多くのひとは変わりたがらない。変わるということに抵抗しようとします。年齢が高くなればなるほど、その仕事をしてきた年月が長くなればなるほど、「変わる」を選択しようとしなくなります。
どうしてなのでしょうか?
いや、ぼくとてそのひとりなのですから、それは理解できなくもない。しかし、その心理がどうあれ、ひとは変わります。変わるのが人間という生き物です。


テセウスの船

「テセウスの船」というパラドックスをご存知でしょうか。
テセウスはギリシャ神話の英雄です。なぜか日本ではメジャーとはいえないのですが、アテナイ建国の偉大な王として有名であり、怪物ミーノタウルス退治など数々の冒険譚の主人公でもあります。
帝政ローマの著述家プルタルコスは、次のように書き記しています。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

ここでは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問が投げかけられるとと同時に、その逆として、置き換えられた古い部品を集めて別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船と呼ぶに相応しいかと問いかけています。
 これがテセウス・パラドックス、別名「同一性のパラドックス」。つまり、ある物体を構成するパーツがすべて置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という逆理です。
 
この場合、どちらか一方が完全なる真で、もう一方がまちがいだという断定はできません。だからこそパラドックスとして成立するのですが、多くのひとは、部品がすっかり入れ替わってしまったその船を、「同じ船」だと認定するのではないでしょうか。
なぜならばそこには、構造と情報が変わらずに残っているからです。

これを、一定期間が経過すればすっかり細胞が入れ替わってしまうぼくたち人間の身体に置き換えてみましょう。
人間の場合は考える余地もありません。細胞があたらしいものになったからといって、ちがう存在になったとは誰ひとりとして考えません。
情報、すなわち意識や記憶は連続しており、細胞の容器である身体構造も変わらず残っているからです。

物質的な存在として考えればそれは、あきらかに変化したものであるにもかかわらず、変わらずに連続する情報や構造、この自分が自分であるというアイデンティティー(同一性)が、「変わらない」という錯覚を引き起こし、「変化への抵抗」を生じさせるもととなります。

だってオレは変わらずオレだもの・・・


ゆく河の流れは絶えずして・・・

しかし、残念ながらそれは誤った認識です。
「同じ川に二度と入ることはできない」
ヘラクトレイスの言葉です。川の水は常に流れ、あたらしい水が絶え間なく流れ込むため、次に入ったときには、既に以前の川はどこにも存在しないという意味をあらわしています。
なんてことを、ついついギリシャつながりで書いてしまいましたが、なにも古代ギリシャにその範を求めずとも、本邦古典には、もっとすぐれた表現があります。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

諸行無常の真理を見事に言いあらわした『方丈記』冒頭における鴨長明の名文です。

事ほど左様に、変化は避けられないものであり自然なことです。
なのにひとは、連続して在る自分に執着し、変化に抵抗しようとする。
「変わらない」自分という錯覚が、変化を拒む心理を生み出しているとしたら、まずは「変わる」のが自然なのだと認識することからスタートすることを、ぼくは勧めます。
「変わらない」を前提とするから「変わりたくない」となる。だから少々辛くもなる。しかし、「変わる」を前提とすれば、「変わる」ことへの抵抗は少なくなり、辛さもやわらぐのではないかとぼくは思っています。
「変わらない」自己など、そもそもどこにも存在しないのですから。



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〈私的〉建設DX〈考〉その10 ~ 後方2回宙返り1回ひねり

2024年06月27日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

「のぞかない」測量機の誕生

かつて、近年のレベルやセオドライト(トランシット)はもちろん、かの日本測量界の父である伊能忠敬が使っていた象限儀に至るまで、測量機は「のぞく」ものというのが相場でした。

【のぞく】(デジタル大辞泉より)

1.物陰やすきま、小さな穴などから見る。
2.装置を用いて物体を見る。
3. 高い所から低い所を見る。
4. ひそかにようすをうかがう。また、隠しごとや秘密にしている物などをこっそりと見る。
etc・・・

言わずもがなですが、この場合の「のぞく」は2。望遠鏡を覗くの「のぞく」です。
コペ転の起点となったのは2012年、株式会社トプコンが自動追尾・自動視準のトータルステーションPSシリーズを発売したことでした。これが「のぞかない」測量の萌芽です。

さらにトプコンは、2014年、建設現場における杭打ちや墨出し作業を「誰でも簡単に1人で素早く」行うことをコンセプトに開発した「杭ナビ」(LN-100)をリリースします。専用機として特化した杭ナビには視準するレンズがなく(ということはすなわち、「のぞいて」指示する人が要らない)、操作はレーザーを受信するプリズム(ターゲット)の持ち手がAndroid端末で行うという画期的な測量機でした。しかし、その画期性がすぐに発揮されたわけではありません。

杭ナビというツールをデジタライゼーションへと展開させたのは、株式会社建設システムが開発した端末アプリ「快測ナビ」とのマッチングです。快測ナビは、3次元設計データを活用し、それまでの線的管理から面的管理を可能にしました。データさえ準備しておけば、あらかじめ計算しておかなくても、現場空間のどこにでも位置出しができることで、杭ナビが本来目指していたであろうワンマン測量を現実にしたのが「杭ナビ+快測ナビ」のコンビであったと言えます。このツールの誕生で、杭ナビの利用用途は一気に拡大し、あっというまに土木現場のスタンダードと言ってもよいぐらいに普及しました。


「ひねり」を加えることで次元が変わる

しかしあくまでも、ここまではツールの進化であり、それを使う側にとっては「あたらしい技術」の導入です。そこに「ひねり」を加えて、「あらたな仕事のやり方」を導き出した企業がありました。徳島県牟岐町の地元ゼネコンである株式会社大竹組です。
大竹組では、専門的知識が必要ではないこのツールの特性に目をつけ、測量=技術者の仕事、という固定観念を捨てました。「杭ナビ+快測ナビ」による測量作業を若手の軽作業員に担当させることにしたのです。現場技術者は多忙で、その業務の内容は多岐にわたります。やることは他にいくらでもあります。従来は、残業をすることでこなしていた書類作成などの内業を、軽作業員が測量をしているあいだに済ませることで、技術職員の時間外労働削減を実現することができました。


あれはぼくが中学3年生の夏でした。
ミュンヘンオリンピックの体操競技(鉄棒)で塚原光男が演じたその技を、テレビの画面を通して見たとき、驚きのあまり目が点になってアタマがぶっ飛んだのを、きのうのことのように覚えています。のちにムーンサルトと格好のよい名前で有名になったその技を、そのときの実況アナウンサーはたしかに「月面宙返り」と呼んだはずでした。
技の正式名称は「後方2回宙返り1回ひねり」。ポイントは最後の「ひねり」です。
今でこそ、クルクル回ってキリキリひねるのは体操という競技のあたりまえになっていますが、人間が空中で自らを「ひねる」というその行為は、全世界の体操関係者以外のひとたちを、「アッと驚くタメゴロー」状態にしたものでした。

これを書きながら、この「のぞかない測量機」の一連の経緯に対して、何かよい比喩はないだろうかとアタマをひねっていたぼくの脳裏に浮かんだのが、52年前の塚原光男の勇姿と「後方2回宙返り1回ひねり」という技の名前でした。

1回目の宙返りはLN-100という測量機の誕生です。
2度目はそれに快測ナビというアプリを加えたことです。
そしてそれに「ひねり」を加えたのが、作業員にそれをやってもらうというコペ転的発想です。
繰り返しますが、ポイントは最後の「ひねり」です。「ひねり」を加えることで異なる地平がひらけます。「ひねり」が次元を変えたのです。


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〈私的〉建設DX〈考〉その9 ~ ライダー・・・へんしん!!

2024年06月26日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

勝負の分かれ目は・・

前回の締めくくりでぼくは、DXへと至るプロセスとして提示した3パターンのうち「メタモルフォーゼ」を、ローカルで生きる中小建設業が「建設DX」を考えるうえでの対象外としました。

どう足掻いても、たとえば「ケータイからスマートフォン」というイノベーションなど起こしようがないぼくたち小規模建設業者には、そのイノベーションが実現したことによって手に入れたデジタルテクノロジー(ツール)を自分のものとして、どのように活用できるかが勝負の分かれ道だと考えるからです。
しかし、そのデジタルツールの使途として当初の想定にはなかった活用方法を考え出し、自分たちの仕事のやり方を変え、さらにそれを発展させていくということは、ローカルかつ小規模な企業や、そこではたらく個人であっても、十分に実現可能なことです。

ぼくが、ぼくやあなたのような地元建設業者にとっての在り方であり、またDXへの向かい方だと考える「コペルニクス的転回」や「ラテラル思考」は、そのようなアプローチのことを言います。言い方を換えればそれは、切り口を換えることであったり、斜め上からの発想をする、ということでもあります。


アイホンライダー

2つほど例を挙げましょう。
まずひとつ目はライダーです。仮面ライダーではありません。iPhoneLiDARです。
といっても、今日びのわが業界で、「ライダー」という言葉の響きから仮面ライダーを想像するものなど、ごくごく少数派でしょう。そもそも、頭の「ラ」にアクセントをつけるライダーに対し、LiDARの読みは今風にアクセントがない平板なものですから、まちがいようがないのですが、そこはそれ、昭和という時代に少年期と青年期をすごした身であれば、ライダーといえば仮面ライダーであり、畢竟、LiDARという語感にも、ついつい過ぎし日の郷愁を感じてしまうおじさんなのでした。
余談です。元へ戻ります。

そもそもLiDAR技術は、環境を3Dでマッピングするためにレーザーを使って物体の距離や形を計測するものです。
アップルはこれを12Pro以降のiPhoneに搭載し、拡張現実(AR)技術や高度なカメラ機能、詳細な3次元マッピングなどを実現することから、利便性を向上し利用価値を高めようとしました。

これによって、物体との距離を正確に計測することが可能となりました。
たとえばそれは、ARアプリケーションの精度と反応速度の向上につながり、仮想オブジェクトを現実世界に配置することが可能となったことにより、ゲーム、教育、インテリアデザインのアプリケーションでよりリアルな体験を提供できるようになりました。(1)
また、写真撮影においては、より強いボケ効果をつくりだすことに成功し、低照度下でもオートフォーカスの速度と精度を高めることが、被写体と背景との距離を正確に測定できる機能によって実現しました。(2)
(なんと、当時世間を驚かせたiPhone12Proの写真は、LiDAR技術がその素となっていたんですねえ)
物体や空間を正確にスキャンできる機能は(今のところスキャニングする人間のテクニックに左右されるところが大ですが)、現実世界を3次元化したものを、さまざまなコミュニケーションに利用することが可能となりました。(3)


ライダー変身!

本邦の建設業で着目されたのが(3)の機能です。
そもそもLiDAR技術は地上型や車載型のレーザースキャナで点群データを取得する方法と同じです。であれば、ポケットに入れた「ケータイ」がスキャナに早変わりすることが可能です。

たしかに、遠距離になると精度がわるくなったり(今のところ約5mが限度です)、使用者のテクニックに依存するところが大であったりと、問題は多々ありますが、1千万円のレーザースキャナのある部分を、20万円のスマートフォンができると思えば格安ですし、なによりそもそもそれは、普段は電話機あるいはカメラ、もしくはインターネットへのでもあり、様々なアプリケーションを使うためのデバイスなのです。その機能のひとつとしてスキャナを使う。そう考えれば安いものではないでしょうか。

いつ、どこの誰が、とは特定することができませんが、この国に住むどこかの誰かが、これを自分たちの仕事に活用することを思いつきました。iPhone LiDARで現況地形や構造物をスキャンし、生成された点群データを数量計算や出来形管理に用いる。あるいは、LiDARで手軽に取得した3次元モデルによって現地現物の情報を共有し、課題の抽出や問題解決を図る。

これがラテラル思考に当てはまるのか、あるいはコペルニクス的転回なのか。厳密に言えばどちらでもないのでしょうし、そうやってカテゴリーを分けることに特段の意味があるとも思えません。しかし、とりあえずぼくはこれを、ラテラル思考の範疇に入れたいと思います。そのベースにはスマートフォンという技術革新を積極的に活用し、あらたな手法を開拓することによって、仕事のやり方を変えていこうという姿勢があります。そのうえで、建設業界の問題解決へ、ひとつのあたらしいアプローチを提示し、業務プロセスの変革をもたらす可能性を示しましたということは、DXへ至る道の一環として評価するべきでしょう。

ただ、それでDXが実現できたわけではありません。
とはいえそこには、あたらしい視点があります。ちがうアプローチがあります。これに、さらなる「ひねり」を加えるか、あるいは切り口を換えるか、はたまた斜め上を行く発想を取り入れるか。いずれにしても、その試行錯誤の繰り返しが「仕事のやり方」を変えていきます。それを繰り返すひとや組織の「仕事のやり方」が変わっていきます。
そして、その先にあるのがDX(のようなもの)の実現なのではなかろうかと、

ライダー・・・・へんしん!!

往年の藤岡弘の勇姿を思い浮かべつつ、ぼくは思うのでした。


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〈私的〉建設DX〈考〉その8 ~ ラテラルで行こう

2024年06月24日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

ラテラル思考とは

ラテラル思考、といってもピンとこないひとは、またオマエわけのわからない言葉をひねり出したな、と思われるかもしれませんが、残念ながらそうではありません。

ラテラル(lateral)とは「横に向かった」「水平な」という意味で、論理を縦方向に深く掘り下げるロジカルシンキングに対して、発想を横にひろげる、つまり、常識や既成概念や固定観念に固執せずに自由な発想でアイデアを生み出す思考法のことです。その起源はけっこう古く、今から60年以上前、マルタの医師であり心理学者でもあるエドワード・デボノが提唱した考え方で、一般に、ラテラルシンキングまたは「水平思考」と言います。

ぷっ、じゃあなぜ、わざわざラテラル思考と呼称を変えたんだよ、と口に含んだコーヒーを吹き出しかけたそこのあなた、いやいや、有り体に言えば特段の意味はなんにもない。ひとえにぼくの感覚でしかありません。ですが、そこは大切にしましょう。なので断固としてここでは、ラテラル思考という表現を採用することとします。

では、ラテラル思考によってデジタル・トランスフォーメーションに至った例としてはどのようなものがあるでしょうか。

クラウドファンディング、ストリーミング、フードデリバリー・・・なんて言葉が次々と脳裏に浮かびましたが、行きがかり上とはいえ、メタモルフォーゼでApple(iPhone)、コペルニクス的転回ではAmazonといった雲の上の世界的巨大企業を例に挙げてしまったのですから、ここはひとつ和製で行きましょう。

「和を以て貴しとなす」です(意味がちがうけど)。2013年創業の日本発フリマアプリ「メルカリ」です。


メルカリにおけるラテラル思考

「メルカリ以前」、中古品のリサイクルやリユースは、主に次のふたつの経路でやり取りされていました。リサイクルショップとオークションサイトです。リサイクルショップはアナログです。実店舗で買い取って再販売するので、空間や時間の制約を受け、商品の取り扱いに限界がありました。
「ヤフオク」に代表されるネットオークションはデジタルですが、操作がやや複雑で初心者にはちょっとばかりハードルが高く、入札期間が必要で落札価格が不確定でした。

それを縦に深堀りしていけば、いろんな改善方法はあったはずですし、実際、それらを運営する企業も、その制約に対して手をこまねいていたわけではないでしょう。例えばリサイクルショップのオンライン化や、オークションサイトの機能を強化するなど、さまざまな方法が実行されていたはずです。
メルカリの画期性は、それを縦に掘り下げることをせず、水平に思考を展開したことにあるとぼくは考えます。

まずそのポイントのひとつは、ユーザー中心であったということ。誰でもがかんたんに使えるスマホアプリを開発し、物品の売買を手軽に行えるプラットフォームを提供した。
出品や購入がいくつかのステップで完了するシンプルな操作性と、写真を撮って商品の情報を入力するだけで手続きが完了する出品、購入もワンタップで完了します。即時購入即時売却です。これによって、時間や場所にしばられずに利用できて誰でもかんたんに売買することが可能となり、複雑さや時間や空間の制約を排除することに成功しました。
そして、匿名配送や安全な決済システムを導入して、取引の安全性とユーザーのプライバシーを確保、取引後の評価システムによって安心できる売買コミュニティーがかたちづくられました。

というふうに見ていくと、メルカリの成功のもとにあったのがラテラル思考であり、その成果はまさに、デジタル・トランスフォーメーションと呼ぶにふさわしいものだったということがわかります。


肝はデジタルツールへの向き合い方

さて、DXへと至るプロセスの3パターン、(1)メタモルフォーゼ、(2)コペルニクス的転回、(3)ラテラル思考について、代表例だと思われるものを挙げながら考察してきましたが(いささか強引にすぎる展開になった感もありますが、そこはしょうがない奴だなと笑ってご容赦のほどを)、こうして並べみると、「メタモルフォーゼ」だけが、その難易度において突出していることに気づきます。
世界規模のイノベーションなのですから、それはあたりまえのことですが、あくまでも、ここで生きつ戻りつしながら考察しているのは「建設DX」、しかも地域で生きる中小レベルの建設企業にとってのそれなのですから、メタモルフォーゼ的DXは、その範囲外とした方がよさそうです。

つまり、「スマホ」を例にとれば、スマートフォンというイノベーションを起こすのではなく(もっともそれは、やろうと思ってもできないことではあるのですけど)、そのイノベーションが実現したことによって手に入ったデジタルテクノロジーをどうやって活用していくかを、たとえばコペルニクス的転回的発想であったり、またたとえばラテラル思考的考察であったりを駆使しながら実践していくことが、ぼくやあなたのような地元建設業者にとっての在り方であり、またDXへの向かい方なのだとぼくは思うのです。

たとえばスマートフォンというイノベーションも、「カメラにもなりインターネットもできる便利な携帯電話」だという扱いしかできないのであれば、それはまさしく、「猫に小判」であり「豚に真珠」。どうやってもその先へと進むことはできません。
肝心なのはデジタルツールへの考え方であり向き合い方です。

そこで、〈その2〉で提示した「あらたな仕事のやり方/あたらしい技術」(「あたらしい技術」という分母をいくら大きくしたところで、分子である「あらたな仕事のやり方」がちいさいままでは、その効果は部分最適にとどまり、企業全体の成果とすることはできない )という分数モデルと、その「習いが性となる」まで思考や実践をつづけることが意味をもってきます。


以下おふざけです

ここで思いつき・・・

みなさんお気づきのことでしょうが、この稿における各例の詳細については ChatGPT 4o のサポートを借りて書いています。
さて今日はここらでよしとするか・・・
と今日のテキストを投稿するにあたり、浮かんだタイトルが「ラテラルで行こう」でした。なんのことはありません。あの『イージーライダー』の挿入歌であるステッペンウルフの名曲『ワイルドで行こう!』(原題:Born To Be Wild) の語感だけのもじりです。

とそこで、あるアイデアを思いつきました。
替え歌をChatGPTにつくらせてみよう!

う~ん
われながらじつにくだらない。
くだらなさすぎてニヤニヤが止まらないぐらいくだらない思いつきです。

では本日の締めくくり。
『ラテラルで行こう!』


******

発想のエンジンかけて
新しい道を見つけよう
冒険を求めて
ラテラルに進もう

さあ、友よ、やってみよう 
この世界を愛で包み込み 
すべてのアイデアを一斉に放ち 
新たな空間へ飛び出そう

新しい視点が好きだ 
新しいインスピレーションが 
風と共に走り 
その中にいるこの感じが

さあ、友よ、やってみよう 
この世界を愛で包み込み 
すべてのアイデアを一斉に放ち 
新たな空間へ飛び出そう

本当の創造の子供のように 
俺たちは生まれながらにしてラテラルだった 
どこまでも高く登れる 
決して終わりたくはない

ラテラルで生まれた 
ラテラルで行こう

発想のエンジンかけて 
新しい道を見つけよう 
冒険を求めて 
ラテラルに進もう

さあ、友よ、やってみよう 
この世界を愛で包み込み 
すべてのアイデアを一斉に放ち 
新たな空間へ飛び出そう

本当の創造の子供のように 
俺たちは生まれながらにしてラテラルだった 
どこまでも高く登れる 
決して終わりたくはない

ラテラルで生まれた 
ラテラルで行こう
ラテラルで生まれた 
ラテラルで行こう

******


お粗末 ^^;


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