答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

不「不惑」

2024年11月23日 | ちょっと考えたこと
どうも勘違いをしていたようだ。
『論語(為政)』に記された孔子の言葉、

吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみした)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

における年齢の解釈を、である。
この言葉に対して、ぼくが次のように書いたのはつい一週間ほど前のことだ。

古代中国における平均寿命が、いったい幾つなのか、今となっては知る由も調べようもないが、ごく大雑把な感覚としても、そこにおける70を現代の90と置き換えても、なんら不都合はない気がするし、むしろ、プラス20ぐらいがちょうどよい加減のような気もする。
(中略)
となると、まもなく60と7つを数えるぼくの場合は、「天命を知る」少し前ということになろうか。つまり、そこになってはじめて、自分の人生についての天命や運命がどういうものであったのかがわかる。そして首尾よく80まで生きることができれば耳順、すなわち、他人の意見に反発を感じることなく、素直に耳を傾けられるようになる。

ここでぼくは孔子が引き合いに出した年齢を、寿命、つまり死亡する年齢から逆算した齢だと捉えている。しかし、原典を素直に読んでみれば、それは曲解というものだろう。
孔子は、例えば70歳を例にとると、その齢になって「矩(のり)を踰(こ)えず」、つまり、思ったように振る舞っても道を外れるということがなくなったと言う。それはすなわち、そうなるまでに自分は70年もかかったと述べていると同義だ。そこにおける70歳という数字は、生後何年が経過しているかという絶対値であって、その当時の中国で暮らす人たちの平均的寿命との相対値ではない。どれだけの年月を経たらそうなれるか、あるいはそうなったかについて述べているのであって、世の中の寿命の相場がどうだとか死ぬ年齢から逆算してどうだとか、そういうことを言っているわけではないのである。

ということは、現代における人間の寿命が当時と比べて20年ほど長くなっていようといまいと、たとえば「不惑」における40も「耳順」における60も、2500年孔子が述べた値となんら変わることはない、同じ数字だとして考えなければならない。
といっても、孔子という歴史上に燦然とかがやく巨人がそうだからといって、それをぼくやアナタのような凡夫の身に置き換えることに無理がある。そもそも、誰しもが40歳になれば惑うことがなくなり、50歳となれば天命を知ることなど、できるはずがないではないか。

となれば、凡夫としての正しい在りようはこうだろう。

昔むかし、ロングロング・ずっとずっと・とてつもなく・アゴーの中国に、孔子という偉い人がいてね、
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみした)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず
なんて言葉を残してるんだけど、みんなも、孔子と同じ歳では無理かもしれないけど、そして、結局のところ全部をクリアできないだろうけど、ひとつの指標として心がけるようにしようね。

と、ここまで書いて腕を組んで考えた。
あれ?
となると、一週間前と結論は変わらないのではないのか?

その結論とはこうだ。

う~ん・・・今さらながらではあるがそれは、齢を積み重ねればそうなるという類のものであるはずがない。それに、ぼくの場合においては、天命よりも耳順よりも不惑、すなわち「惑わず」がもっとも困難で、ほぼ実現不可能なもののような気がしてならない。つまり、いかにその基準となる年齢を変えようと、こうなるわけだ。

40にして惑い
50にして惑い
60にしてなお惑い
70になったらなおいっそう惑い
80になってもまだまだ惑う
思い惑い心惑い
戸惑い暗れ惑い
ふらつき
ぐらつき
ためらって
途方に暮れてオロオロする

サウイウモノニワタシハナリタイわけではないけれど、そうならそうで、一生惑うと思い定め、そこに拠って立つのもわるくないかもしれない。

不「不惑」、いや、わるくないと思うよ。

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ぼくと娘とヒノショーヘイ

2024年11月22日 | ちょっと考えたこと
「火野正平に似ている」
これまでに幾度となくそう言われてきた。
以下は、そんなぼくとぼくの家族のあいだで、かつて繰り広げられた「ひの的エピソード」だ。

******

「宅急便が届いちゅうよ」
「誰から?」
「自分がなんか注文したがじゃない?」
「いやー覚えがないなぁ」

大きなその荷物の送り先を確認しようと持ってみると、やけに軽い。
「これだから、Amazonってやつはイヤなんだ」

これまでに、いく度口にしたか知れない独り言をまたつぶやきつつ、送り先を読もうとして愛用の遠近両用メガネをかけていないことに気づく。まこと年寄りというのは面倒くさい。

メガネをかけて仕切り直すと、その大仰な図体に比して異様に軽い荷物は、予想に反してAmazonではなくZOZOからだ。表書きには、首都圏に住む次女の名前が記されていた。

さては…
「父の日のプレゼントかなー」

勝手に決めつけ急いであけると、贈答用とおぼしき銀色の包みが。
ピンと来た。

「なに?」
妻が訊く。

「ほれ、アレよアレ。この前の父の日の。CMの。動画を。ほれ。見せたやろ。アレ」
「わからん」
「たぶんシャツ」

喜び勇んであけたその中身は、われながらのご名答。バンドカラーのワイシャツだった。

「ほれ、わかるやろ?」
身体に合わせて妻の方を向くと

「あ、ヒノショーヘイか」
気づいたようだ。

そう、さかのぼること3日前の日曜日、父の日のプレゼントだといってメーカーズマークを持ってきてくれた長女が
「こんなんあるで」
と教えてくれたCMのなかで、火野正平が着用していたものと同じバンドカラーのホワイトシャツだ。

たしかにあの日、あの動画を、
「こんなシャツを着てみたくなった父なのであります」
という言葉とともに送ったぼくに次女が返した短い言葉は、
「ええやんか」

そうか…
なんにしても、贈り物、特に思いがけないそれはうれしいものだ。

「着てみて」
妻の口からその言葉が出たそのときにはすでに、着ていたポロシャツを半分ほど脱ぎかけていたわたしが、その贈り物を身につけ、ヒノショーヘイ然とした(つもり)ポーズをとり、写真を撮ってもらうまでにさほどの時間はかからなかった。

もちろん、テーブルの上にはメーカーズマークの瓶と、手にはロックグラス。
ところが、切り撮られた画像に写っているのは、かの稀代のプレイボーイとは似ても似つかぬオジさんだ。

やれやれ…これが現実だ。
気をとりなおして娘たちに画像を送る。

「色気も渋さもナッシング」
自虐的なコメントをつけて。

さっそく返事がやってきた。
長女からだ。

「爆笑」
と一言だけ。

ほどなくして届いた次女からの返信にはこう書かれていた。

「家がおしゃれじゃない」
(ほっといてくれ)
「なんか僧侶感がすごい」
(たしかに)
「日に焼けてみたら?」

すると、また長女から矢継早のLINEだ。

「ちょっと角度とライティングが」
「もう少し遠くから低めに暗く」
「縁側で後ろ姿はどう?」

時は2020年初夏、かくして親父ヒノショーヘイ化プロジェクト粛々と進んでいく。





******

いっとき、娘たちに遊ばれた昔を思い出し、在りし日の火野さんを偲ぶ。
謹んで御冥福を祈り、合掌。
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16.43835616

2024年11月21日 | ちょっと考えたこと
今朝、ブログ編集画面を開くなりまっ先に、左上隅にあるブログ開設からの日数を表示する箇所に目がとまりました。ふだんなら気にも留めないところです。だなのになぜ・・・
理由は、考えるまでもなくすぐに判明しました。









ブログ開設から6000日。
たまさかの、きれいに丸まった数字にふと思いつき、365で割ってみました。
答えは、16.43835616。
かつてのように「ほぼ毎日」となることは二度と再びないでしょうが、もう少しつづけようと思っています。
以上とりあえず、ご報告まで。

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いごっそう〈考〉

2024年11月18日 | ちょっと考えたこと
先日の高知新聞にあった「球児監督 粋な振る舞い」という記事は、安芸球場で秋季キャンプ中の阪神タイガース藤川球児監督(高知市出身)が、地元企業や飲食店の協力を得て、選手や球団スタッフ、報道陣らに高知県地場産のごちそうを提供しているという内容で、その意図について「人をおもてなしする高知の文化は、僕も大切にしているところ。メディアの方々には少しでも楽しんでもらいたいし、選手やスタッフには癒やしの時間になってくれればうれしい」という藤川監督の言葉が紹介されていました。

それ自体はじつにけっこうなことで、文句をつける筋合いのものではないどころか、むしろ拍手をもって称えるべきものでしょう。
ところがぼくは、思わず「?」となってしまった。その原因は記事中、某スポーツ紙記者が言ったというこの言葉です。

「監督のいごっそうな心意気を感じますし、距離感も縮まったように思います」

ソレハイゴッソウデワナイゾ。
思わずそうツッコんでしまったぼくは、ここにおける藤川氏の言葉や行動のどこをどう捉えたら「いごっそうな心意気」となるのか、まったく理解ができません。いや、県外の人である記者さんがそう言ったことについては、単なる理解不足であり、その揚げ足をとって詰めるほどのことではないでしょう。問題は、その談話をチョイスして紙面に載せた記者、あるいは高知新聞の方にあります。

ということで、「いごっそう」について、一文したためてみることとします。
(といっても、別に怒っているわけでもなんでもないので、気軽に読んでください。ま、いわば話のタネとして)



さて、まずは定石どおり、「いごっそう」の定義から始めましょう。わかっているようでわかっていない。少なくとも、どのような概念が通り相場なのか、ひょっとしたら高知県民の多数がよく理解していないのかもしれません。
手当たり次第アトランダムにWEBを探し回ったなかで、見解が似通っているのは、このふたつでした。

(土佐町ウェブマガジン『とさちょうものがたり』より)
「快男児」「酒豪」「頑固で気骨のある男」など。異骨相(いごっそう)。ならびに高知県男性の県民性を指す言葉。

(高知のクチコミナビ「こうちドン」『高知ご当地うらない』より)
このタイプの人の性格
快男児で頑固で気骨のある男で酒豪=いごっそう。あなたはまさに高知県男性の特長そのものです。自分を大きく見せてしまう傾向があるため時に誤解されることもありますが、弱きを助け強きをくじくシンプルな価値判断と、物怖じしないのびのびとしたその性格のおかげで、結局「憎めない奴だなぁ」で済んでしまうのは、あなたが周囲から愛されている証拠です。

両者とも非常に好意的で、「高知男性の典型」として捉えています。多くの県外人が抱く「いごっそう」のイメージも、概ねこのようなものではないでしょうか。
しかし、昭和32年生まれのぼくは、それに真っ向から異を唱えます。
なんとなればぼくには、かつて、ぼくがまだ小さかったころの「いごっそう」は、決して褒め言葉として存在していたのではなかったという、確かな記憶があるからです。少なくとも、「憎めない」とか「愛されている」というキャラクターでないことは確実です。
どこかに否定的な表記はないだろうか。探してみると、メジャーなサイトにそれはありました。他でもない。何かとその内容の信憑性についての疑義が呈されることが多いウィキペディアです。

(ウィキペディア『いごっそう』より)
いごっそう(異骨相)とは、「快男児」「進歩主義」「頑固で気骨のある男」などを意味する土佐弁。ならびに高知県男性の県民性。 

ここまでは多くのサイトと同じ。現代における代表的いごっそう像です。ところが、そのあとにつづく表記は、ちょいとばかり趣が異なってきます。

津軽じょっぱり、肥後もっこすと共に、日本三大頑固のひとつに数えられている。肥後もっこすがやや否定的な意味合いを持つのに対し、いごっそうは、そのように称される本人が威勢を張ることのできる呼称とされる。但し高知市内では想像以上に侮蔑的でネガティブなニュアンスで使われる事が多いため使用には注意を要する。

後半部分に着目してください。
まさに、ぼくの確かな記憶はそこなのです。高知市内だけではありません。ぼくが生まれ育った県東部でも、侮蔑的まではいかなくとも、否定的でネガティブなニュアンスをもった言葉であったことはまちがいないありません。と同時に、その一方では肯定的でポジティブなニュアンスを込めて語られることも多い。これが「いごっそう」という言葉や存在そのものの特徴的なところです。

ここで、日本三大頑固として挙げられている「肥後もっこす」は、1979年に西日本新聞が熊本市に限定して行った調査で、4割程度の人が誇りに思っていると同時に、否定的な回答も同程度あったといいます。わが「土佐のいごっそう」も同様なのではないか、というのがぼくの認識です。
ウィキペディアからの引用をつづけます。

弱者に対して優しく、行動は大胆不敵にして豪快で、己の主義信念を貫くためには時として、自己より優位の権力を持つ者とも係争する反骨精神を有する一方で、気乗りしないことは行動に移さない。
周囲の意見に傾聴せず独断専行し、自説が間違っているとされても考えを改めず議論のための機会を探るといった、議論のための議論を好む傾向にある。自分が考えるように他人が考えたり行動しないと気が済まず、目上の者への気配り、配慮に欠けるという。些末なことは気にせず物事を大きく捉えるため、人間の度量が大きく常識に囚われることもない反面、自分を実際よりもよく見せようとする傾向があると考えられている。
物事を曖昧なままにしておくことを嫌い、白黒をはっきりさせたがる傾向にあり、祖父江孝男著『県民性 - 文化人類学的考察』には、その性質は明治維新における過激な尊皇攘夷運動などにつながったといった指摘がある。

このくだりには、ぼくの「いごっそう」像にかなり近いものがあります。
その像を理解するためのキーワードを文中からチョイスして列記すると、「主義信念を貫く」「反骨精神」「独断専行」「議論のための議論を好む」「白黒をはっきりさせたがる」といったところでしょうか。ただ、「人間の度量が大きく」という表記は、ぼくの抱く像とは正反対で、むしろその心の狭量さが「いごっそう」の特徴だとぼくは考えているのですが。

上田健太郎氏の筆による『いごっそうとはちきんの争い~文化人類学への実験経済学的アプローチ~』という学士論文(2014年)における記述は、より的確です。

高知県の県民性は、男性がいごっそう、女性がはちきんという言葉でよく表される。いごっそうが表す県民性をまとめてみると、行動は大胆不敵にして豪快。はなはだしく頑固、強情で妥協しない。物事を曖昧なままにしておくことを嫌い、白黒をはっきりつけたがる。このような気質が昔からよく言われている。『新・人国記』(朝日新聞社)によると、「がんこで、一徹で、一度こう思いこんだら、はたからなんと言われようとも、金輪際耳をかそうとしない。土佐人の代表的な性格」とある。他に思いつくままに挙げると、わがまま、負けず嫌い、つむじ曲がり、片意地、偏屈、傲岸不遜、大酒飲みなどの特徴がある。

わがまま、負けず嫌い、つむじ曲がり、片意地、偏屈、傲岸不遜、大酒飲み・・・そう、まさにそこです。

あいつは「いごっそう」やネヤ。
あいつは「いごっそう」やキニ。
かつて「いごっそう」は、そのような表現で用いられることが多くありました。
それはすなわち、どちらかといえば異物あるいは異端もしくは異形の人を指す言葉だったろうとぼくは考えます。多数派、あるいは一般的な人ならば、特別にそのような表現を用いずともよいはずですから。
確かに、いかにも土佐人的な者ではあったでしょう。だからそこに、毀誉褒貶が相半ばすることとなります。「ああ在りたい」という憧憬の念に近い感情と、「ああであってはいけない」と侮りにも似た感情がない混ざって「いごっそう」人格への評価があった。それはけっして、今のように持て囃されていたわけではなく、「快男児」とかいう言葉で表されるような単純なものでもありませんでした。ゆえに、それをもって土佐人気質を代表させるのには無理があります。

そうそう、そういえば、20年以上も前のことです。
ぼくの住む村で、小中学生の男性保護者を募って、「いごっそう」を冠した会ができ、その後数年間にわたって様々な活動をしたことがありました。その初回会合、いわゆる顔合わせの席でのことです。会の締めくくり近く、皆を前にして、司会(主謀者)が、こう問うたのです。

「このメンバーのなかで誰がもっとも”いごっそう”と呼ぶに相応しい人かを投票します」

結果は・・・そう、こういう展開となれば読者諸氏は容易に推察できたでしょう。
他ならぬこのぼくでした。

わがまま、負けず嫌い、つむじ曲がり、片意地、偏屈、傲岸不遜、大酒飲み・・・皆の目にそう写っているのかオレは・・・たしかに言えなくもない・・・が、しかし・・・外見はともかく内面では軟弱極まりないこのオレが、よくもわるくもそう呼ばれるのに値するか?

けっしてありがたくはなく、まして誇らしいはずもなく、どちらかといえば「なんだかなぁ」な結果を突きつけられ、しかしその反面で、少しだけ鼻が高くなっているぼくが、そう自問自答しているのを、他の参加者は当然誰も気がつかなかったはずです。

つまるところ、「いごっそう」は昭和後期の土佐人においてマイノリティであった。いかにその存在がいわゆる土佐人的であったにせよ、マジョリティではなかった。だからこそ、どこかしら畏敬の念をもってその存在が認められていた。言い方を換えれば、気質としての「いごっそう」は多くの土佐人男性に内在しているのですが、正面切ってその名乗りをあげられるほど「いごっそう」の価値は低くない。したがって、揶揄や嫌悪、場合によっては侮蔑といったネガティブな反応をすることはあっても、心底で否定的ではない。そんなこんなの感情を含みながら、やがてそれが好漢としてのイメージとなり、ある意味で理想の土佐人像として定着した。これが、いささか強引にすぎるきらいはありますが、ぼくの体験的仮説であり推測です。

ともあれ、されど「いごっそう」。
ある年齢以上の土佐人男性にとって、特別な言葉にはちがいないのです。

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ひとは人生で平均4回しか引っ越ししない、ってホントか?

2024年11月16日 | ちょっと考えたこと
「ねえ知ってる?ひとは人生で平均4回しか引っ越ししないんだって」

というCMをはじめて目にした。
ホンマかそれ。と思ったぼくがさっそく検索したのは言うまでもない。
国立社会保障・人口問題研究所が5年に一度行っている人口移動調査の最新データ(第9回、2023年)の結果によると、日本人の平均引っ越し回数は3.24回。男女別にみると、男性が3.29回に対し女性が3.19回と男性の方がやや高くなる傾向がみられる。
つまり、川口春奈さんには申し訳ないが、「ひとは人生で平均4回しか引っ越ししないんだって」という彼女の言葉は正しくなく、ホームズのあのCMは、「ねえ知ってる?ひとは人生で平均3回しか引っ越ししないんだって」と修正されなければならない(笑)。


(出典:国立社会保障・人口問題研究所 第9回人口移動調査『結果の概要』より)


年齢別にみると、20歳代前半から40歳代前半にかけて急速に増加し、60~64歳まで回数が上昇する。降下するのはそれ以降、すなわち高齢者というお墨付きが与えられたころからである。



(出典:国立社会保障・人口問題研究所 第9回人口移動調査『結果の概要』より)


グラフの分類にしたがってぼくの場合を数えてみると、
5~9歳で1回
10~14歳で2回
15~19歳で2回
20~24歳で2回
25~29歳で5回
30~34歳で2回
と、これまでに都合14回の引っ越しをしている。日本人平均の4倍以上だ。

家財道具をほとんど持たず、関西から関東を経由して東北へと移動した20歳代後半がもっとも多いのは、今となっては懐かしい思い出でしかないが、ぼくの人格形成に引っ越しが影響を与えたと思われるのは、もっとも回数が多いそこではなく、保育園から小学校時代における、いずれも父の転勤に伴って強制的に移動させられた3度のそれだ。

よかったのかわるかったのか。どちらの側面もあり一概には言えないが、今のぼくをかたちづくっているものに、その引っ越しの影響がまちがいなくあることを思えば、総論的にはポジティブに解釈するべきだろう。

抗いようもない転居は、年端もゆかぬ子どもにはけっこう辛く悲しい。別れがあれば出会いがあると気分を変えてのぞみはするが、人の移動が少ない田舎のことなれば、移ったら移った先で待ち受けているのは、皆がみな、ウエルカムな人ばかりではない。そこでどう立ち居振る舞い、自己をどう処するか。
それが人格形成期である少年時代に何度かあったことが、その後の人生に影響をおよぼさないはずがない。

「ねえ知ってる?ひとは人生で平均3回しか引っ越ししないんだって。でもね、じっちゃんは14回も引越してるんだよ」

そんなこと、自慢にもならないけど、話のタネぐらいにはなるはずだ。全貌をあきらかにするには、3日3晩にわたってぼくと飲み明かさなければならないけれど。


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人間は考える葦であった

2024年11月15日 | ちょっと考えたこと
******
 たとえば、かつて編集者のみなさんと会食中に、お定まりのダイエット談義となり、ついつい話の流れで「デブ」という言葉の語源に及んだことがあった。
(中略)
 しかし、このごろではどうなるかというと、考える間もなく一斉に、ロボットの知識を頼るのである。つまり、考える前に調べてしまう。
 デブの語源までとっさに教えてくれるとは思えぬが、どうやら進化を遂げたロボットは、世の中の疑問のたいていをたちまち解いてくれるらしい。
 はっきり言って、つまらん。それではまるで、ろくに考えもせずにクイズの解答を見てしまうようなものではないか。あるいは卑近なたとえをするなら、翌日の新聞でレース結果を見て、同時にあっけなく散財を知るようなものではないか。
 科学者はどうか知らぬが、文科系の思考回路を持つ人々は、結論に重きを置かないものである。むしろ、前述のごとく議論の経緯を楽しみ、結論を見ることは何につけても虚しいとさえ思う。
 しかし、文明の利器は誰彼かまわず結論を提示してしまうのである。むろん便利にはちがいないが、その便利さによって社会が一元的に使用すれば、人間は考える楽しみを失ってしまう。
 そしてもうひとつ、これは私たちにとって肝心なことだが、世界中の人々が一元的にこの方法をとれば、伝統的な教養主義に支えられてきた日本は、まっさきに脱落し、堕落してしまうと思うのである。
 札幌からの帰り途、窓側の席でぼんやりと雲海を眺めながら、何を調べるでもなく誰に訊ねるでもなく、そんなことを考えた。
 人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である。
(『見果てぬ花』浅田次郎、小学館文庫、P.046~048)
******

奥付を見てみると、2021年とあるから、浅田次郎がこのエッセイを書いたのは、ChatGPT3.5が公開される2年前。「デブの語源までとっさに教えてくれるとは思えぬが」という当時の彼の想像はいともかんたんに裏切られ、「とっさに教えてくれる」時代は、それからわずか2年後に訪れた。
そして今、それにどっぷりと浸かっているぼくがいるわけなのだが、一方で、そのおじさんは、

「人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である」

という締めくくりの一節に胸を射抜かれ、がっくりと首を垂れたりもする。

そう。自分の頭で考えてこその人間。すなわち、あらゆる物事を前にして、考えることをしようとしない者は人間と呼ぶに値しない。

「人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である」

くだんの一節を反芻したあと、自分で自分にそう言い聞かせ、「いったい何をやっているんだオマエは?」と問いかける。

しかし・・・

そうやって数十秒がすぎた後、おもむろに起動したChatGPT4oに
「デブという言葉の語源はどこにあると思う?」
と問いかけ、しばしチャットを繰り返すのだから、いやはやまったくこのオヤジ、なんと言ってよいのやら、どうにもこうにもならないのである。



ちなみに、冒頭の引用文でぼくが略した箇所はこう。

******
 私が「development」の略語説を唱えると、ある編集者は江戸時代の文献にも「でっぷりと肥えた」などの表現はある、と反論した。またある人は、「double chin」すなわち「二重アゴ」だろうと主張した。さらには、「出不精」を略して「デブ」だという説も現れた。
 議論を戦わすこと数時間、結論は出なかったのだが、たいそう充実したひとときであったと記憶する。もっとも、結論を見る必要はない。想像に満ちた時間は楽しく、なおかつ十数年もの時を経て、本稿の創造にもこうして益するのである。
******

そして、ChatGPT4oの回答は次のようなものだった。

******
「デブ」という言葉の語源については、確定した由来がはっきりと示されているわけではありませんが、いくつかの説があります。主な説としては以下のようなものがあります。
  1. 擬音語からの派生
    太っている様子やどっしりとした動きを表現する擬音語「でぶでぶ」「どぶどぶ」などから「デブ」が派生したという説があります。体が重く、動作がゆっくりになる様子を擬音で表現し、それが「デブ」という言葉に転じたと考えられています。
  2. 子ども言葉の影響
    日本では、子どもが使いやすい簡単な言葉が愛称のように広まることがあります。「デブ」という言葉も、そのような音の響きから自然と使われ始めた可能性が指摘されています。音の響きが軽く、覚えやすいため、口語として広まったと考えられます。
  3. フランス語からの影響
    一説には、フランス語の「デブ(debu)」が由来とも言われています。「debu」は「重い」や「重量がある」といった意味があり、太った様子を表す言葉として日本に取り入れられた可能性がありますが、この説には確証がありません。
いずれにしても、「デブ」という言葉は口語として定着しやすく、音の響きやリズム感が印象に残りやすいことから広まったと考えられます。
******


「人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である」

エブリバディ・さあ・れっつ・シンキングだ。
かつて、人間は考える葦であった、とならないように。


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惑い惑わされて

2024年11月14日 | ちょっと考えたこと
孔子の時代ですら50才で天命を知るくらいですから、いまの長寿時代なら60才くらいで不惑、70過ぎてからようやく天命を知るのかもしれません。わたしも70代に向けて迷走、道草を楽しみたいと思います。

ぼくよりひと回りほど年下の敬愛してやまない知人が、フェイスブックに投じた文章に、我同意せりとついつい膝を打った自分自身に思わず苦笑。
それが20年も前ならば、「チャンチャラおかしいや、老兵は消え去るのみだ」と鼻で笑っていたかもしれないことを思えば、まことに身勝手なことこの上ない。
しかし、恥かきついでに言わせてもらえば、その位置に立たなければわからないことが確かにある。年齢と、それを重ねたことによってちがってくる感覚や自己評価などは、その最たるものかもしれない。

ちなみに、孔子が七十余年の生涯を閉じたのは、今からざっと2500年も前の昔だから、ロングロング・ずっとずっと・とてつもなく・アゴーである。
そんな気の遠くなるほど遠い昔に彼いわく。

吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみした)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

わたしは15歳で学問を志し、30歳になると、独立した立場を得た。40歳になると、迷うことがなくなり、50歳で天から与えられた使命を知り、60歳になると他人の言葉を謙虚に受けとめられるようになり、70歳になると、思ったように振舞っても道を外れるということはなくなった。

ここから
15歳を「志学(しがく)」
30歳を「而立(じりつ)」
40歳を「不惑(ふわく)」
50歳を「知命(ちめい)」
60歳を「耳順(じじゅん)」
70歳を「従心(じゅうしん)」
というようになったのは有名だが、現代日本の一般的には、「不惑=四十にして惑わず」以外の言葉はあまり知られていないような気がする。というのはさておいて・・。

古代中国における平均寿命が、いったい幾つなのか、今となっては知る由も調べようもないが、ごく大雑把な感覚としても、そこにおける70を現代の90と置き換えても、なんら不都合はない気がするし、むしろ、プラス20ぐらいがちょうどよい加減のような気もする。

孔子より1200年もあとの唐代に生きた詩人杜甫の作『曲江』にはこうある。

酒債尋常有行處
(しゅさいじんじょうゆくところにあり)
人生七十古来稀
(じんせいしちじゅうこらいまれなり)

ここから「70歳=古稀」となったのも、これまた有名な話だ。
そうすると、知人の言葉とピタリと重なってしまう。
となると、まもなく60と7つを数えるぼくの場合は、「天命を知る」少し前ということになろうか。つまり、そこになってはじめて、自分の人生についての天命や運命がどういうものであったのかがわかる。そして首尾よく80まで生きることができれば耳順、すなわち、他人の意見に反発を感じることなく、素直に耳を傾けられるようになる。

う~ん・・・今さらながらではあるがそれは、齢を積み重ねればそうなるという類のものであるはずがない。それに、ぼくの場合においては、天命よりも耳順よりも不惑、すなわち「惑わず」がもっとも困難で、ほぼ実現不可能なもののような気がしてならない。つまり、いかにその基準となる年齢を変えようと、こうなるわけだ。

40にして惑い
50にして惑い
60にしてなお惑い
70になったらなおいっそう惑い
80になってもまだまだ惑う
思い惑い心惑い
戸惑い暗れ惑い
ふらつき
ぐらつき
ためらって
途方に暮れてオロオロする

サウイウモノニワタシハナリタイわけではないけれど、そうならそうで、一生惑うと思い定め、そこに拠って立つのもわるくないかもしれない。
 
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Take it easy

2024年11月07日 | ちょっと考えたこと
長いあいだ稿を投じなくても、このブログのアクセス数には、更新の有無によってそれほど大きな差異があるわけではない。具体的には100uuほどもなく、数十といったところか。いや、日によっては、何もしていないのに、毎日更新しているときより多いアクセスだということもある。という事実から、ここを目当てで訪れてくれる方たちの数を大まかに推定することができるのだが、だからといってがっかりするどころか、相も変わらず付き合ってくださる奇特な方たちに対しては感謝の念しか湧いてこない。

そこからわかるのは、検索ワードからここへ辿り着いている人が、比較として多いということだ。16年半に渡って有象無象を書き散らかしてきた結果、けっして爆発的とはならないものの、それなりにヒットする記事がこの場所にはあるということの表れだ。ひとえにそれは、長いあいだの積み重ねと蓄積の所以であり、その内容とは無縁のものだが、それもまた、継続の賜物だと思えばわるい気はしない。

かといって、ぼくが主として伝えたかったことのデータベースとしてここが存在し、それを見つけたどこかの誰かが訪問してくれているわけではない。そうなったら本望、あしたにでも止めて悔いはないのだが、世の中それほど甘くはなく、その数々の検索ワードのラインナップは、ぼくの想いなど露ほども斟酌してくれたものではない。

数日前の検索からのアクセストップは、こんなタイトルの記事だった。
つづいてはこれ。
時折り、思いついては書いていた与太ネタのひとつ、ハゲネタだ。
意識的に書くスタイルを変えた近ごろは、めったにアップロードすることがない種類の記事である。

ふむ。あってもいいよな、こんなのも。
今さらながらではあるが、そう思った。
いかに意識的にスタイルを変えたとしても、もともとキライではないのだし、バカバカしいものがあった方が肩の力も抜けるというものだ。


と書いた刹那、脳内に流れ出したのは、テイク・イット・イージー(イーグルス)のメロディー。ほぅ、わるくないじゃないか、と頷いて、ついでだとばかりにChatGPT4oを起動して、訳詞をつくらせてみた。

道を走りながら どこへ向かうのか
自分でもわからないけど まぁいいさ
君も知ってるだろう? 急いで生きる必要はない
だから深呼吸して 気楽にいこう

気楽にいこうよ
背中に重荷を背負わずに
そう 流れに身をまかせて
気楽に生きていこうよ

街で出会うのは 色とりどりの顔
けど僕はまだ 道に迷ってる
それでも大丈夫さ まだまだ先はある
だから肩の力抜いて 気楽にいこう

気楽にいこうよ
背中に重荷を背負わずに
そう 流れに身をまかせて
気楽に生きていこうよ

いつかどこかで 辿り着けるだろう
それまで僕は ただ走り続けるだけさ
だから自分を信じて 心軽く
そうさ 気楽に生きていこう

気楽にいこうよ
背中に重荷を背負わずに
そう 流れに身をまかせて
気楽に生きていこうよ

どう転んでも気楽には生きられない我が身なのだもの。せめて気分なりと。

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他者と生きる

2024年11月06日 | ちょっと考えたこと
ひとの行為が意味をもつためには、誰かの反応が必要です。
誰かの反応があったとき、自分の行為が他者にどのような影響を与えたのかがわかり、その結果として自分にとっての意味が生まれ、そうやって生み出された行為の意味は、それへの反応、またさらなる反応という反応のキャッチボールが、次の行為、次の反応を引き出し、あらたな意味が付与されながら変化していきます。
それはすなわち、あるひとの行為がもつ意味は、他者の反応に依存しているということに他なりません。そこにあるのは相互作用です。そのなかでひとは、自分の行為の意味を見つけたり、自分の行為に意味を見出したりするのです。

たとえば誰かに喜んでもらおうとしたとします。「喜んでもらう」ためにしたその行為は、自分自身の存在意義を他者との関係性のなかで見出すためのひとつの方法であり、他者をおもんばかったり、他者に忖度したりするのと同様に、他者を喜ばせようとすることは、自己の存在を確認しながら他者とのつながりを強めていくということでもあります。ですから、他者のために何かをするその行為に、自らの喜びが生まれるのです。

かといって、その「他者のため」が打算的なものかというと、そうでもありません。たしかに、そこには「自分のため」があり、それを完全に排除することはできませんが、まず「他者のため」という思いの発動を起点として行為が生じている限り、「他者のため」が「自己のため」と不可分であることを、それほど苦にすることはないでしょう。
行為の先に自分に返ってくるものがあるとすればそれでよし。たとえ返ってこなくてもそれでよし。行為の結果ではなく、行為そのものに意味があるのですから、結果としての見返りは、副次的な産物でしかないと思い定めるべきでしょう。

ひとは他者との関係性のなかで生きています。他者の存在がなければ生きてはいけません。したがって、貴方やぼくが直面する問題のほとんどは、人間関係によって生じます。人間関係そのものと言っても過言ではないでしょう。局所的また部分的には、それをスルーすることもできなくはありませんが、そこを無視したままでは、問題を解決することはできません。

だからといって、全面対決正面突破で白黒をはっきりすることを奨励しているわけではありません。
他者の存在は、自分が何ができて何ができないか、あるいは、何がわかっていて何を理解できていないかを教えてくれるものです。そうやって認識した自らを成長させ、また成熟させるためには、他者の反応や承認が不可欠です。他者は、たしかに自分以外のものではあるのですが、自分と切り離すことができるものではありません。だから、時としてその存在が苦々しく腹立たしく、その関係が悲しく辛いのですが、それらの想いは、すべて逆転の可能性と共にあることも事実です。
だからこそ、自身の重心を一点に定めることなく、他者と平衡を図り、折り合いをつけ、落としどころを探るという行為が必要不可欠なのだとぼくは思うのです。


花森安治実用文十訓(その十)に曰く、「一人のために書く」。
以上、その「一人」が自分であってもいいじゃないか、の巻でした。

恐惶謹言(笑)。


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仙人

2024年11月05日 | ちょっと考えたこと
一部の人たちから「師匠」と呼ばれるようになって久しい。
もちろんそれは、いわゆるニックネーム、愛称のようなものであり、当然ながら、ぼくのことを本当に師であると思い定めてくれた人は、そのうちのごくごく僅かな人たちにすぎない。

呼ばれはじめた当初は、なんだか尻がこそばゆく、ついつい苦笑いを浮かべてアタマをぼりぼりと掻いていたものだが、いつしかそれにも慣れ、今では「師匠」と呼ばれると、「ハイ」と返事をしてしまう。いやはやどうにも困ったものだが、それはそれで御愛嬌の部類だろうと観念している。

そんなぼくを「仙人」と呼ぶ人がいる。はじめてそう呼んだのは、とある地方自治体の土木部幹部だった。
いくらなんでも「仙人」はないだろうと、聞こえないフリをしていた。その後もそれはつづいたが、ぼくのどこをどう見たらそのような表現となるのかを確かめたことがついぞないまま、その人とは疎遠になった。

2人目があらわれたのは、つい先日のことだ。それも、「土木」という名詞を先につけ、「土木仙人」とその人は言う。

あらためて辞書で意味を引くと、仙人とは道教由来の言葉。俗界を離れて山中に住み、不老不死で神通力を持つ人を指すという。これまでのぼくの理解にまちがいはない。
やはり、世俗にまみれたぼくに対しては、断じてあり得ない表現だ。
他にも「無欲で世事に疎い人」という意味があるらしい。それは初めて知ったが、これもまた、世事には敏感に反応するし、いつまでたっても我欲の塊であるぼくとは、対極をなす人のことを指している。
しかも、ぼくの頭部には毛がなく、ヒゲも薄い。仙人といえば、白髪白鬚と相場が決まっていることを思えば、ビジュアル的にも正反対にあると言わざるを得ない。
してみるとやはり、「仙人」はない。

ところで、余人は知らず、ぼくが「仙人」と聞いて実際に名前が出てくるのは李鉄拐、鉄拐仙人しかいない。中国の代表的な仙人である八仙のひとりだが、ぼくの彼に対する知識やイメージは落語『鉄拐』の主人公としてしかない。

噺のあらすじは・・・

******
上海屋唐右衛門(とうえもん)は唐土のとある横町で異国相手に手広く商売をしている大店。新年の祝いには各国の出店から人が集まり、余興を楽しむ。
珍しい芸を探せとの命を受けて番頭の金兵衛が旅に出たが山中で仙境に迷い込み、鉄拐と名乗る仙人に遭遇。一息吹けば分身が口から出る一身分体の術を持つと聞いて連れ帰る。
宴当日、豆粒大の鉄拐が現れるとやんやの喝采。大評判になり、あちこちからお座敷が掛ると、俺も一山当てたいという御仁が出て来る。見つかったのが、いくら飲んでも酒が出るという瓢から馬を出せる張果老。

人気が下火になり、妬んだ鉄拐は張果老の宿に忍び込んで瓢から馬を吸い取った。ところが馬を腹から出す術を知らず「馬上の鉄拐」を吐き出せない。
それならと見物を吸い込んで胎内興行に切り替えたところ、「痛い!中で酔っ払いが喧嘩だ」。大きく咳払いをしたら酔っいた二人がころっと出た。誰かと思えば酒豪の双璧李白と阿淵明だったとさ。
(東京のイベント情報『古典落語演目「鉄拐(てっかい)」』より)
******

あらすじだけでもわかるように荒唐無稽でじつにバカバカしい噺だ。晩年の立川談志が、「粗忽長屋」「居残り佐平次」「芝浜」「二人旅」と並んで「これが俺の落語だ!」と選んだうちのひとつだというから、よほど気に入っていたのだろう。いかにもナンセンスや非常識、そしてイリュージョンを好んだ談志らしい。

と、そう考えると、「仙人」と呼ばれるのもわるくはないと思え始めた。
そうか、鉄拐がいるではないか。バカバカしくてナンセンスな仙人ならば、望むところだ(なれるはずはないけれど)。



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