数年前なら斜にかまえ、興が乗らない顔をして見ていたはずのバーチャルリアリティー(VR)を、高校での授業に使おうと思い立ち、ある現場の点群データと完成モデルに遊び心満載のアセットを加え準備は万端。いざVRアプリケーションという段になって、どうやってもログインできずに悪戦苦闘。すぐに質問するのは傍迷惑だと思い、自己完結を目指してみたが、どうにもならずに、とうとうヘルプミーを発信。それでも上手くいかずに1日半もの時間を費やしたあげく、ふと、「コレってブラウザのせいか?」などと初歩的でシンプルきわまりない原因に思い当たったのがきのうの夕方。一夜明け、仕切り直しとばかりに、なぜだか固執してしまっていたEdgeを普段づかいのChromeに変えて再チャレンジしてみるとなんのことはない、ぴんぽーんの大正解。そのあとも数々の右往左往と行きつ戻りつがあった末に、なんとかものにすることができたのは、時計の針が午の正刻を指そうとしていた頃でした。
ことはVRだけにとどまりません。近ごろのぼくは、デジタル方面におけるテクニカルなこともできるだけ他人に聞かず、まずは自分でなんとかしてみようという、かつてのスタイルに戻しています。
ここ数年は、「それはオレではない」とか「そこまでやってはいけない」とか、一歩も二歩も引いた立ち位置と態度を意識的にとっていたのですが、そうすることはもう止めにしました。
そうしないと、この流れの速さについていけない。それがその理由です。
「とりあえずは大きな流れの中で流れ、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つ」
桃知さんに教わったその言葉を組織、あるいはその構成員である自分の戦略として、誰に頼まれたわけでもないのに勝手に採用してから17年の歳月が流れました。
川俣正が言ったというその言葉は、「大きな流れの中で流れる」と「それ以上のスピードで流れる」のふたつのキーワードをもっています。
「大きな流れ・・・」は意識しさえすれば誰でも実践可能です。たしかにその「意識」は、口で言うほどかんたんなものではありませんが、とはいえそこには越えようがないほど高いハードルはありません。
しかし、「それ以上のスピードで・・・」は、意識的であるだけではものにすることができません。弛まぬ学習と実践の繰り返しがなければ、「それ以上」に流れていたつもりのスピードは、気づかぬうちに鈍化してしまいます。ややもすればとか、えてしてとか、往々にしてとか、そんな生易しいものではなく必至、必ずそうなります。
いや何もいい歳をした者が率先垂範でそれをする必要はないだろう、年寄りならではの立ち位置や態度があるだろう、という考えは真っ当です。役割分担という考え方から見ても、まったくもって正しいことこの上ないと言ってもよいでしょう。ビッグピクチャーから判断することのみを自らの役割とするならば、テクニカルな部分にはあえて目をつぶるのもアリでしょう。そこはオレではない、と開き直るべきかもしれません。
だからこそ、ここ数年のぼくは、そちらの方を目指してきもしました。そして今も、それを捨て去るつもりは毛頭ありません。しかし、だからテクニカルな部分から目を背け、そこを自分の守備範囲外としていては、自らのスピードが鈍化しているのはおろか、流れの速さそのものを感知することもできなくなってしまうのではないか。いや、すでに感知することができなくなっているのかもしれない。ぼくの内にその懸念が芽生えはじめたのは、それほど前のことではありません。
「歳をとったからもういいや」を厳として戒めてきたのは、他ならぬぼく自身です。そしてそれは、お節介きわまりないのですが、多くの「歳をとった」他者へ向けても繰り返し伝えてきました。
歳をとったらとったなりに、幾つになっても「初心」というものがなければなりません。それは、若いころの初心、すなわち字義どおりの初心とは異なります。その都度、初めて出会うこと、初めて習うものがあるならば、とりあえずそれは乗り越える対象として接してみる。そうすることなく、それに目を背けたりスルーしたりするのは、少なくともぼくの流儀には反しているはずです。
できるかできないかは、その時々の結果次第です。ただ、最低限の心がけとして、乗り越えようとしなければならないはずです。
67歳を目前にし、期せずして決意表明のようなものになりました。1年後にどうなっているのかはわかりません。エラそうなことをほざいたのはよいけれど、いつものように道の途中で圧し折れたりヘタりこんだりしているのを発見したならば、どうか嘲り笑ってやってください。それもまた、「老後の初心忘るべからず」のための原動力になるはずです。どうぞ御遠慮なきように。