今回の高知公演で志の輔が高座にかけた噺は、ひとつが新作でもうひとつは古典だろうというぼくの勝手な思い込みに反して、2題ともが新作。といっても、立川志の輔ファンなら誰でもが知っている(とこれまたぼくが勝手に断じている)、『親の顔』と『メルシーひなまつり』だった。そのうち『親の顔』は、テストで5点という点数をとった息子金太と共に学校に呼び出された親父と息子と担任教員とのあいだで繰り広げられる、テストの解答をめぐる珍問答がたのしい噺だが、そのなかで、最初に登場するのが次のような問題だ。
先生「この問題なんか非常にわかりやすいんですが、太郎くんと次郎くんが草刈りをしてですね、太郎くんが2分の1、次郎くんが3分の1、草はどれだけ残るでしょうか?という問題にですね、オタクの金太くんは・・・」
読むなりすぐさま通分を開始し、六分の六から太郎くんと次郎くんの合計をマイナスしたアナタは、残念ながらアタマが固い。その設問への金太の答えはこうだ。
「やってみなきゃわからない」
その答えに、「間違えるにも程があるだろう」と横から口を挟む親父に対して、息子が理由を答える。
金太「だって太郎くんと次郎くんが仲がいいんだか悪いんだか、わかんないじゃん。仲がよかったらさ、早く遊びに行きたいからさ、もうガムシャラに草刈るからさ、あっというまに草はなくなるよ、でも、仲が悪かったらさ、なるべく自分はやらないで相手にやらせたいと思うからさ、見てるばっかりでぜんぜん草は減らないよ。だからさ、仲がいいんだか悪いんだかわかんないときはさ、とりあえずいっぺんやってみなきゃわかんないと思ってさ」
親父「先生・・・これ、あってるんじゃないですか?・・・あゝ・・・あってるけども正解じゃないと、そういうこってすよね、じゃあ正解は何?ってオマエ、お父っつぁんなんか問題を読んでる途中でぴーんときたぞオマエ、何ってオマエ、草はどれだけ残るでしょうか?って訊いてるんだろうよ、正解は・・・残さずやれ。っていうのが正解だろ・・・ねぇ先生?」
子が子なら親も親。ここらあたりが噺のタイトルが「親の顔」である所以なのだが、今日ぼくが書き留めておきたいと考えたのはそこではない。金太の答えである「やってみなきゃわからない」と、そう考えた理由が、ぼくたちの生業としての建設業とは切り離すことができない「工程(計画と管理)」というものを、まことに的確に言いあらわしているからだ。
そう、何事も「やってみなきゃわからない」。これは、現在過去未来と変わることがない道理である。
金太に与えられたテスト問題を例にとってみよう。太郎が2分の1で次郎が3分の1。このままでは加減の計算ができないから、2×3=6に分母を統一すると、太郎は6分の3で次郎は6分の2。計算できる準備がめでたく整ったところで、二人が草を刈った割合を合計すると、6分の5となる。100パーセントに充当する6分の6から、その数字をマイナスすると残りは6分の1。算数の問題の解答としてはこれが正しい。
だが、人の世はすべてが割り切れるとは限らない。どころかむしろ、割り切れないのが人の世だと断定してもマチガイではない。金太はそれを悟っているからこそ言う。「やってみなきゃわからない」と。
なぜならば、太郎と次郎の仲がどうであるかという不確実性によって、状況はまったく変わってしまうからだと。ならば下手な考え休むに似たりだ。わからないことに頭を悩ませるより、まずやってみる方が手っ取り早い。なので、必然が帰着するところとして、「やってみるしかない」だろうということになる。これが道理であり真理である。
なのにぼくたちは、工程を計画し、それにもとづいて作業を実行する。そもそも、割り切れないものを割り切ろうとすることに無理があるにもかかわらず、その無理筋を通すのだもの、実行において問題が生じるのは当然の帰結である。
ならば、工程計画は無駄かつ無用なものなのか。答えはNOだ。不確実きわまりないプロジェクトを成功裏に完了させるためには、工程を真面目に計画することが必要不可欠だ。それを如実にあらわすのが、ドワイト・D・アイゼンハワー(第二次大戦中の連合国遠征軍最高司令官)の言葉だ。
Plans are worthless,but planning is everything.
計画そのものに価値があるのではなく、計画を立てることにすべての価値が詰まっている(おじさん意訳)
この辺境の土木屋がそう言ったとしても、「またまた捻くれたことを・・」と一笑に付されるのがオチだが、あの「史上最大の作戦」の計画責任者が語ったと聞けば重みがちがう。
真剣に考え緻密に計画すればするほど、次から次へとリスクや問題課題が浮かび上がってくる。それをクリアする方策を考えることで、計画はさらに練り上げられたものとなる。その繰り返しがアイゼンハワーが言うところのプランニングであり、そのプロセスを省略すればするほど、問題解決の処方箋から遠い位置に身を置くことになる。
かといって、すべてにおいて完璧な計画を立案することは不可能に近いし、そもそも計画立案作業は、時間的な制約をともなうことがほとんだ。となると、どこかで必ず実行段階へと移行しなければならない。
そこでまた、真面目で細やかなプランニングをしているかどうかが効いてくる。不確実性きわまりないのがプロジェクトだ。その遂行においては、たとえ完璧だと思える計画だったとしても、100パーセントそのとおりに推移することなどあり得ない。そんなとき、プランニングをどう捉え、どのように行ったかが物を言う。
修正力に差が出るのである。その差がマネジメントの優劣であり、よいマネジャーであるかどうかの分岐となる・・・・・・。
眼前で熱演する志の輔の姿を思い浮かべつつ、そんなことなどを考える帰路。
「金太、それはちがうのだよ。合ってるけど、そうではないのだよ」
大人として、また人生の先輩として、そんなことを優しく諭してあげたくなった辺境の土木屋、66歳と3ヶ月。おあとがよろしいようで。