生成AIは嘘をつく。
嘘ではない。ちょっとでも生成AIをかじった人なら誰でもが知っている。
たとえば、ChatGPT(3.5)に「三方良しの公共事業」について質問すると次のような答えが返ってきた。
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「三方良し」は、公共事業やビジネスにおいて、関係者すべてに利益をもたらすことを指す言葉です。具体的な公共事業において「三方良し」を実現することは、関係する全ての当事者にとって良い結果をもたらすことを意味します。以下はその詳細です。
当事者一:市民・利用者
- 公共事業が提供するサービスや施設が市民や利用者にとって便利で質の高いものであること。
- 安全性やアクセシビリティの向上、環境への配慮が考慮されていること。
当事者二:事業主・実施者
- 事業主や実施者にとって、プロジェクトが経済的に持続可能であり、収益を上げる機会を提供していること。
- プロジェクトが効率的かつ適切に遂行され、リソースの無駄がないこと。
当事者三:社会・環境
- 社会全体に対してプラスの影響をもたらすこと。例えば、雇用の創出や地域経済の振興。
- 環境に対する負荷を最小限に抑え、持続可能な開発を促進すること。
「三方良し」の概念は、公共事業が単なる一方的な利益追求ではなく、広く社会全体に良い影響をもたらすことが期待される考え方です。このアプローチは、事業が短期的な利益だけでなく、長期的な社会的・経済的な利益をもたらすよう計画・実行されるべきであるという視点を強調しています。
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全体としてはまずまずの解答だ。特に結論はよくできている。
だが、その前提となる三方、つまり「当事者」の区分が、いわゆる「三方良しの公共事業」で提唱されているものとは異なる。
関係者には言わずもがなのことだが、おさらいをしておくと、「三方良しの公共事業」における三方とは、「住民」「行政」「企業」だ。それに対し、ChatGPTの返答では、「市民・利用者」「事業主・実施者」「社会・環境」となっている。その呼称を統一して対比すると、「住民」「行政・企業」「社会・環境」となるだろうか。それが異なっているという点だけを見れば、ChatGPTの答えは明らかに誤りだ。
だがぼくは、ほぉと感心した。ナルホドと膝を打った。他でもない誤答である部分に対してである。
推測するに、その根拠は近江商人の「三方よし」だろう。その理念のなかで三方とは、「売り手」「買い手」「世間」である。対比しやすいように上の引用を並べ替えると、「事業主・実施者」「市民・利用者」「社会・環境」となる。「事業主・実施者=売り手」「市民・利用者=買い手」「社会・環境=世間」とすると、その推測が的を射ているような気になるのは、ぼくだけではないのではないか。
もとより、公共事業の「三方良し」は近江商人の「三方よし」を完コピしたものではなく、その発想および構成とネーミングを「近江商人の三方よし」からいただいたものだ。その起源は、TOC(制約理論)を公共事業の問題解決に応用しようとしたところにある。
だがぼくは、それを承知しているにもかかわらず、あえてそこに「近江商人の三方よし」の本質をリンクさせようとした。TOC普及ムーブメントの一環という位置づけでは、「三方良しの公共事業」を理念として「私と私の環境」を変える、つまり、公共事業(の構成員)が信頼の再構築を図るための理念には成り得ないと考えたからである。平たく言えば、「広がりをもつことができない」ということだ。
だからぼくは、「近江商人の三方よし」の底流にある利他の精神を、公共建設工事というぼくたちの仕事に当てはめようとした。それが、ぼくの意図をはるかに超えるほどにピタリと符合したのは、公共建設工事という業種の本質が、そもそも「利他の精神」を内蔵しており、それを切り離して語ることができないほど重要なものだったからである。
ただ、そんなぼくでさえ、「住民」「行政(=発注者)」「企業(=受注者)」という区分けを疑うことはなかった。束縛されていたと言ってもよい。そもそも「三方良しの公共事業」が産声をあげた18年前から、それぞれの事業や工事において「発注者」と「受注者」はパートナーであると唱えられていたにも関わらず、また、ぼくも一貫してそう説きつづけて来たにもかかわらず、その組み合わせを三方のひとつにしてしまうということは、発想すらしなかった。
だからぼくは、ほぉと感心した。ナルホドと膝を打った。
そうすれば、三方のうちの二方が「じつはパートナーなのですよ」というまわりくどい説明よりも、ひょっとしたらスンナリと腑に落ちてくれるのかもしれないのではないか。それやこれやを考えていくと、まちがいなくこれは、今後のぼくの理論展開において大いなるヒントになる。そう思った。
もとより、生成AIに意思はない。意志もない。拠りどころとする理念もない。
文章生成AIは、インターネット上に散らばる膨大な数のデータを基として与えられた文字列につづく文字列を生成する変換器にすぎない。
だから平気で嘘もつく。
だが、「ウソとハサミは使いよう」と言うではないか(言わないけど)。
その活用において重要なポイントのひとつは、「インターネット上に散らばる膨大な数のデータを基として」いるという点にある。たとえその生成された文字列に事実と異なる部分があったとしても、そこから得るものが何もないとは限らないのである。
ちなみに、語呂のよさだけで思いついた上記「ウソとハサミは使いよう」というテキトーな言葉をテーマにエッセイを書いてとChatGPTに依頼すると、次のような文章が返ってきた。所要時間は数秒である。
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You
「ウソとハサミは使いよう」というテーマでエッセイを書いて
ChatGPT
タイトル
ウソとハサミ:使いようを知る知恵と創造性
はじめに
「ウソとハサミは使いよう」という言葉には、単なる欺瞞や傷つけることを指すものではなく、知恵や創造性を活かすために必要な柔軟性を意味しています。本エッセイでは、この言葉が持つ深い意味を追求し、ウソとハサミが人生においてどのように使いようがあるかを探求します。
第一章: ウソの芸術とコミュニケーション
ウソは時にはコミュニケーションの手段として使われることがあります。社会の中で円滑な関係を築くためには、相手の気持ちを考慮し、時に真実を控えることが必要です。しかし、これは悪意をもって欺くことではなく、相手を思いやり、共感する手段としてのウソの芸術があるのです。
第二章: ハサミの力と磨き方
ハサミは切ることのできる鋭さを持っていますが、同時に造形する力も秘めています。芸術家はハサミを使って紙を切り裂き、美しい作品を生み出します。人生でも同様に、厳しい決断や断捨離が新たな可能性を切り開くことがあります。ハサミの力を使うことで、過去の枷から解放され、新たな展望が広がります。
第三章: 創造性の源としてのバランス
ウソとハサミを使いようとする際に重要なのは、バランスです。無分別に使うことはトラブルのもとになりますが、適切に使うことで人生に深みを与え、成長を促進します。ウソとハサミの使い方を知り、調和を保ちながら自分らしい人生を築くことが肝要です。
結論: ウソとハサミの使いようを知る知恵
「ウソとハサミは使いよう」という言葉は、人生において必ずしも悪ではなく、むしろ知恵と創造性の源となり得ることを教えています。ウソとハサミを使いこなすことで、人はより豊かな人間関係を築き、新たな可能性を切り開き、自らの創造力を発揮することができるのです。
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如何だろうか。これが生成AIというやつだ。どう感じるかは人それぞれだが、ぼくはしばらく遊ばれてみようと思っている。