答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「ついで」の「ついで」 ~ モネの庭から(その459)

2023年03月29日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

修繕工事の話をするために事務所へ寄ったついでに、つくってひと月ほどが経ったコンクリート舗装の経過観察も兼ねて庭へとあがる。

もちろん、それは事実にはちがいないが、みなさんご存知のように「事務所へ寄ったついで」や「舗装の経過観察」というのは方便でもあって、わたしの場合、それらの本来業務と「庭へあがる」は不可分なセットとしてある。つまり、こと「モネの庭」に限ってはどのような業務であっても「ついで」がなければならず、その限りにおいて、「それは”ついで”とは呼べないのではないか」という指摘は受けつけない。

 

 

 

 

新緑にかぎらず、目に映るすべての色が若々しく眩いのに、池のまわりを独り歩くおじさんからは「春やなぁ」という月並みなことばしか浮かんでこない。まったく、おのれのボキャ貧がうらめしい。

ん?まぶしい?ということは・・・待てよ・・・そうだ、あそこだ。

思いつきにニンマリとしてボルディゲラの庭まで足を伸ばしてみた。

 

 

 

 

 

池のまわりの小径に淡い黄色の花がたれさがっていた。

なんという色だろうか?クリームレモンという名前が思い浮かんだが、そんな色名称があるのかどうかは定かでない。

なんという花だろうか?ミモザという名前が思い浮かんだが、わたしの知っているミモザの花はふわふわなのに、この花はちいさい。葉は、線形だと表現してもおかしくないほど細い。

 

 

 

 

Googleレンズで調べてみると、「アカシア」という答えが出た。

アカシアか?わたしの知っているアカシアとは似ても似つかないが、スマホの画面に写し出されたいくつかの候補と、目の前の植物の花と葉はソックリだ。

疑問を解決するためにヒゲさんに電話をしてみた。

「今、庭へ来ちゅうがやけんど、ボルディゲラの池のまわりにたれさがって咲いちゅうアカシアみたいな花ってなに?」

Googleの出した「アカシア」という答えに疑念を抱きつつ、平気で「アカシア」という名称が口をついて出てくるのだから、このオヤジあつかましい。

「ああそれ、ミモザです。ミモザ◯△▼」

「あーミモザか」

自らがまず浮かべたミモザという名にも疑念を抱いていたのに、相手がヒゲさんなら一も二もなく信用してしまうのだから、このオヤジ節操がない。

ひとしきり庭の感想を述べたあと電話を切り、さて、と思い起こしてみる。彼がミモザのあとにつけた◯△▼の部分が判然としないのである。たしか・・・プロパガンダ・・・いや、それはあり得ない・・・フロバンダ・・・う~ん・・・そんな感じだったが・・・。

それ以上記憶をたどっても時間のムダだとあきらめて、不完全なまま検索をしてみる。

「ミモザ フロバンダ」

画面に出てきたのは「次の検索結果を表示しています”ミモザ フロリバンダ”」。さすがGoogleだ。瞬時に正解へとみちびいてくれた。フロリブンダ

*****

フロリバンダは、細葉のアカシアで樹形が整いやすい品種です。笹のような葉が涼しげで、枝はしだれています。

(『nae-ya』より)

******

マチガイない。ミモザ・フロリバンダである。ではアカシアとの関係はどうなるのだ?こうなると止まらない。調べてみた。

選んだのはずばりそのもののタイトルを持つサイト。『ミモザとアカシアの違いは?お花屋さんで人気*ミモザの種類を総まとめ』。

******

黄色い花を咲かせるアカシアがヨーロッパに持ち込まれたとき、「これはオジギソウ(ミモザ)に似ているアカシアだな」ってことで「ミモザアカシア」と呼ばれるようになりました。

それがいつしか「ミモザ」と略して呼ばれるようになり、もう黄色い花のアレはミモザ!!ってことになってしまったのです。(カクテルのミモザも、ミモザサラダも、黄色いミモザのイメージから作られていますよね)

******

そこには、「最後にとっておきの、混乱する情報」と前置きをして、「アカシアの花」と呼ばれているものが「ニセアカシア」というまったく別の植物であることが多い旨も記されていた。

******

アカシア蜂蜜のアカシアは黄色いお花のミモザとは関係なく、ニセアカシアの花なのです。

(ちなみに、石原裕次郎のヒット曲「赤いハンカチ」に歌われる「アカシアの花」も、レミオロメンの「アカシア」も、ユーミンの「acacia」も、ニセアカシアのことです)

******

ミモザアカシアの花の下でひとしきり調べたあと、♪アカシアの花の下で・・・♪、裕次郎の往年の大ヒット曲を脳内で口ずさみながら歩き出そうとすると、年配夫婦とその娘とおぼしき3人づれの会話が耳に入る。

「コレ、なんていう花やろね?」

すかさず脇から口をはさむわたし。

「ミモザです」

「え?私の知ってるミモザとちがう」

「はい。ミモザ・フロリバンダっていう種類なんです」

「へ~、そうなんですね。ありがとうございました!」

 

まったくもって付け焼き刃もいいところだが、なんだかとてもよいことをしたような気分になって、意気揚々と引き上げる、「ついで」の「ついで」の帰り途。

 

 

 

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チューリップ頬ふくらませ笑ってる ~ モネの庭から(その458)

2023年03月13日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

仕事柄というやつなのだろう。

休日であっても思いつきで行動することがあまりない。

たいていは前日までに決めた予定に概ねもとづいてやることを決めている。

天気予報を見ていくつかのパターンを想定し、そのなかからチョイスすることもよくあることだ。

と書けば、なんだかいかにも融通の効かぬカタブツを想像するかもしれないが、それはあくまで自分ひとりだけで行動できる場合であり、それに自分以外の誰かがからんでくるとなると、頑なにその予定を主張するわけではない。他者の考えや予定と自からのそれとを天秤にかけ、どちらかよい方を選択することとなる。それが自分自身がしたいことや行きたいところと合致すると、元々立てていた予定などはあっというまに雲散霧消してしまう。そりゃそうだ。人間は他者との関係性のなかで生きる動物であり他者を尊重することなしに自らを主張するのみでは人間関係などは成り立たない。と、口ではエラそうに言いつつも、あからさまに本音を言ってしまえば、自分が「やりたいこと」がイチバンである。となると渡りに船だ。乗らない手はない。

ということで、令和5年シーズンがオープンしたばかりの「モネの庭」へ。

「モネの庭」の春は早咲きのチューリップからである。

 

 

 

 

 

 

 

心なしか、よい写真が撮れているような気がして、下手な俳句などひねってみる。

 

チューリップ 頬ふくらませ 笑ってる(保人)

 

気分だけはゼッコーチョーだ。

春なのである。

 

 

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梅にメジロ ~モネの庭から(その457)

2023年02月15日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

3月1日の開園に向け、メンテナンス作業も大詰めの「モネの庭」。

わがチームはといえば、請け負った作業がほぼ終わりあとは片づけを残すのみとなったので、仕上げを覧じるべくできあがったモノをながめていると、かたわらにある梅の木にメジロがとまった。

ほう、いいじゃないか。独りほくそ笑んでいると、わたしを見つけたムッシュ・シュバリエ・ヒゲの川上さんが近づいてくる。

ちょうどいい。少し気になっていた部分について打ち合わせをしていたが、どうもメジロが気になって仕方がない。

と、わたしの視線に気がついたヒゲさんが、梅の木を見上げてつぶやく。

「呑気なもんですねえ」

え?オレか?と一瞬ドキリとしたが、どうやらメジロを指しての言葉だったらしい。

協議が終わり、立ち去っていく彼の背中を見送ったあとわたしは、待ちきれなかったようにポケットからアイホンを取り出し、枝から枝へと飛び移るメジロを一心不乱に撮りまくる。

やれやれ。本当に呑気なのが誰なのか。言うまでもなく聞くまでもない。

空のあおに梅花映え、そのあいだをメジロの緑がアッチへ行ったりコッチへ来たり。

梅にメジロ。さやかに見える春の気配だ。

 

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名残りの 〜 モネの庭から(その456)

2022年12月10日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

もう数輪しか残っていないという意味から言えばまさに名残りの睡蓮なのだけれど、名残りという言葉の儚さからは程遠く、でーんとして自らの存在を主張する花。

どっこい生きている。

 

 

 

 

 

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小首を傾げ 〜モネの庭から(その455)

2022年04月06日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

この首の傾げ方が so cute だと言えば

いい歳したおっさんが何をほざいてんだと笑われるかもしれないが

本当にそう思うのだものしょうがないではないか。

これをして

チューリップは花が重いからややもすればそうなるのだと言う人もいるだろうが

それを言っちゃあおしめえよ

身もふたもないとはそういう表現を指して言う。

 

小首を傾げたチューリップ

わたしは好きだな。

 

 

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価値観 〜モネの庭から(その454)

2022年04月05日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

たぶん夫婦なのだろう

年配
と言っても
わたしよりはちょっと下だろうか

そんなカップルの会話

 

女:「あらステキ」

男:「うん、でも今日はちょっとキタナクテ残念やね」

女:「あら、これがいいのよ。散るサクラ」

男:「無言」

 

わかんないんだろなあ
笑うわたし

けど
女はイヤな顔をしてるふうもない

それでいいのだ
(たぶん)

いいのかわるいのかよくわからないけど
それでいいのだ
(たぶん)

 

 

 

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チューリップを撮る 〜モネの庭から(その453)

2022年03月24日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

とはいえ、脇役は脇役だ。

それぞれの花を愛でる人には物語があり、どんなにちいさく地味な花であろうとも、それを好きなひとにとっては、この上もないものである。

にしてもだ。

どれが主でどれが脇か、もちろん、そのような区別で花のよしあしや好き嫌いが決められてよいというものではない。しかし、庭園という施設にとって、その立ち位置は明確である。

オープンまもない「モネの庭」にとってのそれは、誰がなんと言おうとチューリップだ。そして、わたしもまた、チューリップ目当てで訪れるその他大勢のひとりではある。

それがあるからこそ、ことさらに「脇」を見ようともする。そういう天邪鬼な鑑賞の仕方がよいのかわるいのか。白黒をはっきりとさせるような事柄でもないだろう。

主役がいて脇役がいて。

脇がよいから主が映える。

それぞれの植物に、それぞれの立ち位置と役割を与え、意図をもってそれらを配置する。それが庭師の業であり、それを愛でるのもまた、庭を見る者のたのしみのひとつである。

さてチューリップだ。

 

 

 

 

 

 

この花は、なんといっても群像が似合う。群像の花だと言い換えてもいい。

群れて咲く花を遠巻きに見て、また近くに寄っても、ひとつ一つの花がどうのこうのではなく、群れて咲く全体を愛でるというのが一般的なチューリップ鑑賞作法なのではないだろうか(あくまでも想像ですけど)。

しかし、それが「撮るひと」としての視点が入ると、チト変わってくることとなる。群れのどこかに、自らを主張しているような個がないか。あるいは対として、またグループとして、彩を放っている塊がないだろうか。そう探しはじめると、「わたし(たち)を撮って」と言わんばかりの個体やグループが必ずあらわれてくるものだ。そしてそれは、撮る方向や光の射しようで、まったく変わったものとなってきたりもする。

そこからだ。チューリップを撮るという行為のおもしろさがはじまるのは。

とはいえやはり、チューリップは群像の花である。群れとしてあるがゆえの個体やグループであるところにおもしろみがある。

その点、おなじ花を撮るという行為ではあるが、睡蓮を撮るのとでは、大きく趣きが異なっている。

どちらがよいとかわるいとかではないが、どちらが難しいかと問われれば、わたしにとってそれはチューリップである。

睡蓮は、どのように扱ってもそこそこには撮れるが、チューリップはそうはいかない。感情を移入できなければ、見るも無惨。目の前にはうつくしい花が咲き揃っているのに、撮ったものはじつに味気ないものになっていたりする。

 

 

 

 

 

 

あらあら、ついエラそうに写真論(のようなもの)を語ってしまった。

ま、いいさ。所詮は、どこまでいってもシロートの手なぐさみの域を出ることはないのだろうけれど、出力しようとして、初めて自分の内面にある気づきにカタチを与えてやることができる。出力しようとしてあらためて気づくこともある。

もちろんそれはチューリップという花に限ったことではなく、写真を撮るという行為に限ったものでもない。

とはいえ今は、

チューリップ、あゝチューリップ、チューリップ。されど、チューリップだ。

 

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木瓜(ぼけ)の花咲く。 〜モネの庭から(その452)

2022年03月23日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

春も盛り。

木瓜(ぼけ)の花咲く。

 

一般的にいえば春の花であるボケが春に咲くのは、なんの不思議もない。

ところが、わたしの記憶では、モネの庭の池へと上がる坂道沿いにあるそれは冬に咲く、いわゆる寒ボケだ。

他の花が咲かない時季に咲くから「ぼけ」。

そう教わったのは、たぶんこの庭にかかわりはじめてすぐの頃だったから、かれこれ20年ぐらいにはなっているはずだ。

「呆け」という字を当てるのか、あるいは「惚け」なのか。いずれにしても、「とぼけた花」だから「ぼけ」。いかに花の名前を記憶するのが苦手なわたしでも、これは一回で覚えた。それだけ、嘘か本当か判別できないそのネーミングの由来が印象強かったということだろう。

ところがだ。

その寒ボケが、「春うらら」でもなく、「もうすぐ春ですよ」でもなく、すでに春本番といってよい今咲いているとは。

さっそく、ヒゲさんに電話をしてたずねてみた。

すると、彼が笑って言うことには、ここのボケは、正真正銘筋金入りの「ぼけ」らしく、11月に咲いたり、1月に咲いたり、3月に咲いたりと、その開花時期が一定ではないらしい。しかも、おなじ木が年に何度も花をつけるという。いわば、ボケ界のトップ、ボケキングのようなものらしいのだ。

そう聞いて、いま一度赤い花をじっと見つめる春の昼下がりに、思わず口をついて出たメロディーが春日八郎『裏町夜曲』。

 

♪おまえもボケなら俺もボケ ボケを承知で・・・♪

 

このおっさんもまた、正真正銘筋金入りの「ぼけ」である。

 

 

 

 

 

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道ばたのちいさな白い花 〜モネの庭から(その451)

2022年03月22日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

さて天の邪鬼のつづきである。

早くチューリップを見たい。

だが、その気分のままであの丘に向かったのでは、見えるはずのものが見えないという思いもあったのだろう。いや、あったにちがいない。

あっちの花こっちの花。とりわけ、ちいさな花たちの一つひとつに気を配りながら歩いた。

だとしても、好みは好み。

好きなものが変わるわけではない。

最初のヘアピンカーブの脇にあった花に目が止まる。

スノーフレークだ。

立ったまま撮る。

しゃがんで撮る。

座って撮る。

そうこうしているうちに、たくさんの人が通り過ぎて行く。

「スズランよね」

「あらま、かわいらしいスズラン」

「スズランっていいわね」

 

いやいやこれはスズランではない。

正しくはスプリング・スノーフレークなのだよ。

喉元まで出かかった言葉を、ぐっとのみ込み、ちいさな花を撮る。

 

スプリング・スノーフレーク

花言葉は

「純粋」

「純潔」

「汚れなき心」

 

それをして、無いものねだりという。

きのうと同じ結論で申しわけないけれど。

 

 

 

 

 

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無いものねだり ~モネの庭から(その450)

2022年03月21日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

社休日に出勤するということが、ほとんどなくなった今日このごろ。

どうしても雑音が入らないところで済ませておきたい案件があり出社すると、予想されたことではあったが、4名がデスクにすわりPCに向かっていた。

「おはよう。えらい多いな」

と笑ってひと言。

マイデスクに向かい、あとは「オレに話しかけるなよなオマエらオーラ」を全開させながら、ただひたすら黙々と作業をつづけた。

昼餉は妻がつくってくれた小ぶりの握り飯ふたつきりだ。

といっても、食う間を惜しんだのは、そうまでして仕事をしようと考えたわけではなく、昼の一時間ほどを、たぶん見頃になっているであろうチューリップを当てにしたモネの庭行きに当てようという魂胆だった。

駐車場に着くと、なんなんだこれは、というほどの大賑わい。

イベントがある日をのぞけば、3月にこれほどの人出だった記憶はない。

「そこしか空いてませんけど」

忙しいときの常で臨時の駐車場係になった庭のスタッフがそう示してくれたが、丁重にことわり、坂の下へクルマを止め、歩いて庭へと上がった。

繰り返すが、そこに来園したひとたちと同様に、わたしのお目当てもチューリップだ。

しかし、結局終わってみると、わたしの心をもっとも惹きつけたのは路傍に咲くユキヤナギ。

わが身のことを、ことさらに天の邪鬼とかヘソマガリだとかは思わないが、なぜか結果はそのようになることが多い。

ユキヤナギの花言葉は、「愛橋」「愛らしさ」「静かな思い」。

これをして無いものねだりと思えば苦笑するしかない。

とまれ、そのあと帰社してからの作業がバリバリと音を立てて進んだのは、申し添えておかねばなるまいが。

 

 

 

 

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