答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

黒の手帳

2024年12月23日 | オヤジのICT修業
Amazonから届いた黒い手帳の表紙には、右上に金色の字で「2025」とだけ記されている。日本能率協会マネジメントセンター発行の「NOLTY能率手帳A5月間ブロック(黒)」である。
薄い罫線が引かれたページをめくると、そうそうこれこれ、と懐かしさに脳ミソが喜んでいるのがわかる。胸ポケットに差したUniJETSTREAM三色ボールペンを取り出し予定を書き込む。なんだか少しぎこちない。相変わらず下手くそな字だなと呆れ返るが、かまわずつづける。

日本語ワードプロセッサというものがこの世に登場して以来、長いあいだ字が下手なことにコンプレックスを抱いていたぼくは、これ幸いとそれに飛びつき、周りの誰よりも速く打てるように、自在に使いこなせるようにとトレーニングを重ねた。そのうちそれがパーソナルコンピュータに代わっても同様だ。
その甲斐あって、ブラインドタッチが身につき、必要最小限をのぞき、「手で書く」という行為をしなくなって久しい。そのせいで、下手くそだったぼくの字は、それに何重もの輪をかけ、下手くそ極まりないものとなってしまった。とともに多くの漢字を忘れた。となればなおさら、「手で書く」のがイヤになる。それでも、iPadのメモアプリは使っており、書かないわけでもないのだが、紙とはすっかり縁遠くなってしまった。デジタル化のためにはペーパーレスを推進させなければならないという思いが、なおいっそうそれに拍車をかけ、今に至っている。

手書きとタイピングでは脳におよぼす影響がどう異なるかを比較したノルウェー科学技術大学の研究論文がある。36人の大学生を対象に、デジタルペンで単語を手書きする場合と、キーボードでタイピングする場合の脳活動を記録したものだ。

それによって発見されたのは以下の点である。
1.手書きは脳の接続性を広範囲に促進する
・手書きをするときには、頭頂部や中央部の脳領域でシータ波およびアルファ波による広範な接続性が確認された。
・これらの接続性は記憶形成や情報のエンコードに重要であり、学習に有益であるとされている。
2.タイピングでは同様の接続性が見られない
・キーボードをタイピングするというのは機械的で単純な指の動きにすぎず、手書きで必要とされる複雑な運動や感覚入力をともなわないため、脳の接続性は手書きに比べて限定的なものにとどまった。
3.手書きの動きが脳をより効果的に刺激する
手書きは、視覚情報、運動指令、固有受容感覚を統合し、脳の広範なネットワークを活性化させる。
4.学習環境における手書きの重要性
・手書きは記憶や学習を促進する神経接続パターンを形成する。
そのため、教育現場などでは、幼少期から手書きの練習を大事にするべき。
・一方で、デジタル技術も重要であり、手書きとタイピングの使い分けが必要。

以上は、ChatGPT4oに原語の論文を読み込ませて要約したものだが、さらにかいつまんで一言であらわすとこうなるだろう。

「手書きは脳を刺激する」

デジタルでキーを叩く行為は、一定の指の動きにすぎないが、手書きはペンの動きを通じて脳のあちこちを活性化させるらしい。
してみると、今ぼくの目の前にある能率手帳は、単なる手帳、単なるツールのようにみえてそうではなく、自分の脳と心をつなぐ大切なインターフェイスということになろうか。

すっかりキーに慣れ親しんでどっぷりタイピングに染まってしまったぼくの指と脳には、今はまだ、紙への手書きがもどかしい。いつかそれが、かつてのように戻ることができるのか、あるいは、やっぱりタイプだべと、ぽいと放り出すのか、どう転ぶかはわからないが、試してみる価値はありそうだ。

変化とは、いつもいつでも「あたらしい状態をつくりだす」ことだけを意味するのではない。単にいくつかの状態が「ぐるぐる循環する」だけでも、十分に変化と呼ぶに値する。だからぼくは、全面的ではなく一部ではあるが、ぐるっと回って手書きに回帰してみようと思う。ぼくにとってはこれもまた、立派に「変わりつづける」の一貫なのである。
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宗旨替え

2024年11月09日 | オヤジのICT修業
なぜ動画?

と思っていたのは初めのころだけで、すぐに、動画でされたそれには心がシャッターをおろしてしまい、まったく脳内に届かなくなってしまった。
チュートリアルというかハウツーというか、どの表現が正しいのかわからないが、動画でツールやアプリケーションの使い方を教える、あ、そうそう教材ビデオ的なものに対してだ。

それでも、先生役が顔を見せて説明する形式なら、すぐ退屈はするが、受け入れられないことはない。しかし、PC画面だけを見せられながら操作手順を説明する類のものは、まったくといってよいほど届かない。

なのに、ぼくが発するその手の疑問や質問に答えるのにも、動画でもって返事をされることがある。

「動画、アップしときましたから」

なんだかなぁ、と思いながら、その労を考えると無下にするのもしのびなく、向き合ってみるにはみるが、やはりダメ。いつもは、変化を是とする自分のことは棚に上げて、ダメなものはダメ、受けつけられないものは受けつけられない、とボヤいていた。

そんなぼくがきのう、ある3Dモデリング関係ソフトの操作手順動画をつくった。キッカケは他でもない。その日の昼間に行われた会で、そのソフトの操作方法におけるある発見を、「こんなんできるんやでぇ、知らんかったやろ」と、ICT推進チームの他ふたりに自慢したところ、そのうちひとりが、「あとで教えてください」と真面目な顔で言ったからだ。

といっても、この時期ともなれば、特定の現場をもたないぼくと異なり、彼らの身は基本的に現場にあるし、多くのことは現場が優先だ。畢竟、現場に直接関係しないことをレクチャーしようとすると、夜となる。しかも、彼我の時間を調整する必要がある。繰り返すが、ぼくの場合はいい。だが、彼らの時間をそのために調整させるのはしのびない。

そうだ。アレがあるではないか。思いついたのは操作説明動画だ。
たしかにぼくは受けつけかねる。しかし彼らは、むしろアレの方が受け入れやすいらしい。ならば、ぼくがつくれば済むことではないか。

思い立ったが吉日だ。
といっても、そのためのソフトや方法を教示してもらうとなれば、たとえそれがオンラインであっても、彼らの時間を奪うことになる。となれば自分で探すしかない。
さっそく、PC操作を動画にするソフトにはどのようなものがあるかを検索し、そのなかから、初心者かつ固いアタマの人間に手頃そうなひとつをチョイスし、試してみた。

とはいえ、すんなりと事が運ぶはずもない。
しかも、悪戦苦闘の末にできあがった動画は、どう考えても10分以内で説明できるような操作に対して、20分近くの「大作」となってしまった。

だがまあいい、この場合、踏み出した一歩に意味があるのだから。と、相変わらず自分に都合のよい解釈を経て、くだんの動画は社内グループウェアにアップロードされた。

その日の夕方。
「あ、アレ、アップしといたから」
と、いかにも恩着せがましい物言いで伝えたあと、
「ところで・・」
と切り出してみた。

「操作画面を動画にするのってどのソフトを使ったらいいの?」

彼が示してくれたのは、ぼくもふだん使っている動画編集ソフトだ。

「え?それでできるの?」
「ハイ、ここでこうやって・・・」

あらま。まずあたらしいソフトの使い方習得に充てたあの時間はなんだったのよ。そう思わないではなかったが、すぐに思い直し、心のなかでこう言い聞かせた。

「だがまあいい、この場合、踏み出した一歩に意味があるのだから」

ということで宗旨替えだ。
この先ぼくの口から、「なんで動画なの?」という言葉が発せられることは、たぶんない。


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受け売りの継ぎ接ぎ

2023年06月01日 | オヤジのICT修業

 

 

 

 

ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』。

わたしは初めて知ったが、とても有名な絵画らしいから見たことがある人も多いだろう。

絵の下に書かれてある文字はフランス語で”Ceci n'est pas une pipe"。直訳すると「これはパイプではない」となる。

ところが、どこからどう見てもこれはパイプだ。いくら、人の感じ方は一様ではなくそれぞれにはそれぞれの見方があると信ずるわたしでも、これがパイプ以外の何かに見える人がいたとしたら「どうかしてるのではないかアナタは?」と言うだろう。

ではなぜ「これはパイプではない」のか。作者の意図はどこにあるのか。マグリットはこう語ったと伝えられている。

******

かの有名なパイプ。こいつのおかげでどれだけいろんな連中から非難されてきたことだろうか。

でも、私のこのパイプに、タバコを詰めることができるかね。できやしない。これは単なる表現だよ、違うかね。だから、もし私がこの絵に〈これはパイプだ〉と書き込んでいたら、私は嘘をついていたことになったはずだ。

******

つまり、彼が描いたのはまぎれもなくパイプだけれど、それはあくまでも絵画という手法を用いて表現されたパイプ、すなわちパイプのイメージに過ぎないのであって本当のパイプではないということらしい。

ナルホド。だから「これはパイプではない」なのか。とあれば仰るとおり。全面的に同意する。

同様の意味をもつ言葉に、「地図は現地ではない」というのがあるらしい。発信者はアルフレッド・コージブスキー。「ある物から派生した抽象またはその物への反応はその物それ自体ではない」という自らの見解を要約して、その言葉を述べたという。

******

地図はそれがあらわす現地そのものではない。

しかし、もし正確であれば、それは現地に似た構造を有しており、そのことがそれの有用性を生み出す。

*****

このふたつから、わたしがすぐさま連想したのはBIM/CIMのことである。

その連想にもとづき、「パイプ」や「地図」を「3Dモデル」もしくは「構造物」と置き換えてみた。

まずマグリットの方からいく。

「私がつくったこの3Dモデルの構造物に、クルマを走らせることができるかね(仮想体験は別、あれはあくまでも疑似体験にすぎません)。できやしない。これは単なる表現だよ。だから、もし私がこの3Dモデルに〈これができあがる構造物だ〉と書き込んでいたら、私は嘘をついていたことになったはずだ」

次にコージブスキーだ。

「3Dモデルはそれがあらわす構造物そのものではない。しかし、もし正確であれば、それはできあがる構造物に似た構造を有したモデルであり、そのことがそれの有用性を生み出す」

ひょんなことから出会った『イメージの裏切り』という絵と、それに関連して知った「地図は現地ではない」という言葉。それをつなげた結果、(わたしが考える)BIM/CIMの本質(のようなもの)と有用性をかなり的確に表現した文章ができあがった。

よいではないか。

そう独り言ちるが、なんてったって受け売りだ。しかも継ぎ接ぎである。エラソウなことを言えた義理ではない。

 

今年もまた、BIM/CIMをテーマにいくつかのセミナー講師を頼まれている。そのなかで、この受け売りのツギハギが重要なピースのひとつとなりそうだ。締めのひと言かもしれない。いや、きっとそうなる。マチガイナイ(たぶん)。

 

 

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ちょっと nova した "Galileo Galilei"

2023年02月17日 | オヤジのICT修業

 

調べ物をするために拙ブログ内を検索(15年もつづけてきた結果、ここは私論とその歩みのデータバンクとなっている)していたら、14年前のきのう2月16日、『367年後に「名誉回復」をしたということ』という小文を見つけた。同じく14年前のその前日2月15日に配信された共同通信の次のようなニュースに触発されて書いたものである。

******

「ローマ法王庁(バチカン)は15日、イタリアの科学者で天文学の父とされるガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)をたたえるミサを死後367年たって初めて、ローマのサンタマリアデリアンジェリ教会で行った。」

「ガリレオは望遠鏡を製作し、木星の惑星や月の海を発見。その観測を基にコペルニクスによる地動説を支持したため、宗教裁判によって晩年軟禁生活を送った。死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬られることも許されなかった。」

******

それを受け、51歳のわたしはこう書いている。

「死後367年たって解ってもらえる人もいるんだ、しかも、後世だれでもが常識であると認めたことを唱えたのに尚かつ、である。ひとはどうして解ってくれないんだろう、などとそんな思いをもつのは、ワタシの甘えにしかすぎないのだ。と、思っても所詮凡人にしか過ぎない自分は、367年とまではいかなくても10年20年というサイクルでは考えるようにしたいな、とポジティヴになった。20年先には死んでいるかもしれないが、それはそれ。」

そういえばそうだった。ブログをはじめてまだ一年も経たないこのころは、「ワタシ」という一人称表記をしていたのだ、と少しおかしかったが、それは今日の拙文の内容とはなんの関係もないので置いておく。

話は「ガリレオ」である。じつは昨年9月の松江遠征から、拙講のネタとして「ガリレオ」を使っている。しかもそれは、「自作の望遠鏡で木星の惑星や土星の輪っか」を発見したという歴史的事実をもとにしているものだ。

それを書いたことを失念していたわたしが、たまさかかつての拙稿に遭遇し、「お」と目を見張って「へー」と感心したのもムリはない。

当時ガリレオがつくって観測に使ったのは30倍の望遠鏡で、今では小学生でもつくることができそうなものだ。その程度のもので彼は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストという衛星を発見するなどの大きな成果をあげることができた。それを元にしたわたしのネタとはこうだ。

 

どうやらガリレオには、木星には衛星があるはずだという仮説があらかじめあったわけではなく、その前年にオランダで発明された望遠鏡という最新技術を使い、おもしろがって(たぶん)天体観測をしていた結果、あたらしい星をハッケンしちゃったらしい。

ポイントは「わかっていた」からやったわけではない、というところだ。「わからない」けど「やった」ことで、あたらしい星を見つけるという成果が生まれたというところである。

「あたらしい星」のことをイタリア語ではnovaと言う。

novaはラテン語で「あたらしい」。

Inovationという語に含まれるnovaがそれである。

ちょっと「あたらしい」ことをやってみた。

ちょっとnovaしてみた。

そしたらnovaをハッケンしちゃった。

そしてInovationが起きた。

まずスタートは「やる」である。「あたらしいことをやる」という行為からはじまっている。それによって生まれた成果は、あらかじめ想定していたことではなく、まして「わかっていた」ことでもない。

まずやってみる。わからなくてもやってみる。肝心要の部分はそこである。

そしてそのあと、サン=テグジュペリが言ったという次の言葉をつづける。

「答えはわからない。必要なのは前に進む力をつくりだすこと。答えはそのあとでついてくる」

 

以上、ちょっとnovaした”Galileo Galilei”。わたしの「BIM/CIM話」の小ネタである(といってもまだ二度しか披露しておらず未だ完成形ではないが)。

いかが?

 

 

 

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あいもかわらぬ

2022年12月11日 | オヤジのICT修業

 

今年一年は、自らの講演テーマがBIM/CIMであることが多かった。ある時は先方の指定で、またある時は自分自身の選択でと、その割合は半々ぐらいであったろうか。とにもかくにも、2022年は「BIM/CIMについて語るひと」だった。

そんな年の暮れ。早くも半年ほど先のオファーがちらほらと届きはじめている。さて来年は・・・と考えていた矢先、ある発注機関から年明けオンラインで、という要請があった。小規模建設業者に向けたDXやi-Construction関連の催しだという。もちろん、ことわる理由はない。

「内容は?」と問うと「お任せです」という。

さて・・・首をひねって考えた。

だが・・・いくら考えたところで、その分野におけるわたしのネタがそうそうあるわけではない。

ということで、BIM/CIM話とすることにした。

なんとなればBIM/CIMは単なる便利ツールなどではなく、建設DXの根幹をなす、いわばプラットフォームのようなものであるのだもの(たぶん)、さまざまなアプローチによる考察がなされてしかるべきだ。そのなかのひとつとして、わたしのような地域の小規模建設業の視点からのそれが重要なのは言うまでもないが、残念ながら、小規模建設業の現場に拠って立ってそれを語ることができる人は、ごくごく少ない。

であれば、やはりわたしはそれを語る。

ま、それしかできないというウワサもあったりするかもしれないのだけれど。

 

 

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トップランナー

2022年12月06日 | オヤジのICT修業

 

ICTトップランナー意見交換会というやつに参加させてもらった。といっても、その模様をオンライン配信するために意見を開陳した6社6名とは異なり、ただの見学者としてである。

だが、そんなわたしの想いを知ってか知らずか、司会者がわたしを指名し意見を求めた。話題がiPhone LiDARの活用法について移ってからである。たぶん、その場に参加していた半数ほどがまったく試していない未知の分野だったゆえの見学者登場だったのだろう。わたしの意思はどうあれ、ライブ配信のビデオが流れている最中だ。断るわけにはいかない。あくまでも現時点でとことわって、私見とわずかばかりの実例を披瀝させてもらった。

そんなこんなもありつつ、会のさなかにトップランナーという位置づけについて考えてみた。

そもそもわたしとわが組織が、その道のトップランナーという呼称に相応しいかどうかは疑問である。数年前なら、いやいやそれに値するほどのことはしていませんよ、とアタマから否定していたはずだ。だが今はちがう。ひょっとしたらそうなのかもね、などという感覚ではいる。ほんの少しばかり先を走っているようだ、と感じることが多々あるし、そう評されることも多いからだ。

「とりあえずは大きな流れの中で流れ、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つ」(川俣正)

桃知さんに教わったその言葉を戦略として採用してから15年近い歳月が流れた。

というと体裁はよいが、そのじつは、いち早く大きな流れを察知するように努め、その流れの中で足掻くことで、そこで泳ぐノウハウを身につけていくというスタイルをとりつづけてきたに過ぎない。その意味から言えば、「それ以上のスピードで流れ」たことがどれほどあるか。「独自性を保つ」に至っては言うもおこがまし。

もしもトップランナーであるとしたら、それはスピードランナーであるがゆえにそこに在るというポジションではなく、いつも早く走りはじめているがゆえにそうなっているに過ぎない。しかもそれはロケットスタートなど夢のまた夢、先ゆく人からはかなり後方というポジションである。それでもなおその後ろには大多数がいるゆえにトップランナーと呼ばれているに過ぎない。

となるとやはり、わたしとわたしの組織はトップランナーという呼称に相応しくはないという結論にならざるを得ない。

もっとも、大切なのは何のために何をやっているのか、また何をやろうとしているのかなのであって、トップランナーであるかないかなど、そもそもどちらでもよいことなのではあるが。

 

 

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スキャンエックスのウェビナーで11月16日(水)16時からしゃべります。

2022年10月28日 | オヤジのICT修業

 

 

 

スキャン・エックスのゲストウェビナー。『小規模建設業でBIM/CIMをたのしむ!』。

10月13日の前編では、「ずっと見てたけどアンタは最後の数分しか出てこなかったじゃないか。金返せ(無料やけど)」と数人の知り合いからクレームが入ったが、後編はみっちり90分、一人舞台でやらせてもらうことになっている。

11月16日(水)、16時から17時30分まで。

お申し込みはコチラから。

↓↓

https://scanx.jp/news/2022octnovwebinar

 

というお知らせでした。

御用とお急ぎでない方はぜひ。

 

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ScanX無料WEBセミナー『小規模建設業でBIM/CIMをたのしむ!』(前編)

2022年10月11日 | オヤジのICT修業

 

間際の告知となってしまい申しわけないが、あさって13日(木)、ScanX無料WEBセミナーにゲストとして参加する。

タイトルは『小規模建設業でBIM/CIMをたのしむ!前編』。「前編」というからにはもちろん「後編」があって、わたしはその後の方を主に担当するのだが、その予告も兼ねて、家入龍太さんがメインスピーカーを務める前編に出演するという段取りだ。

 

 

主催者さんのサイトにある「お知らせ」から、その内容を転載してみる。

******

小規模建設会社でも、楽しみながら3次元計測、点群解析ができます。

無理なくBIM/CIMを取り入れるヒントを、建設ITジャーナリストの家入さん、各講演でも人気の高い高知・礒部組の宮内さんをお招きしてお話いただきます。

******

当日参加できない人には後日動画視聴という方法もあるらしい。

申込みまた詳細は、ScanXさんのサイトから。

https://scanx.jp/news/20220916?fbclid=IwAR3UFAr2WPPWA15YXr_k2ECDpPENbsNgxEhe85zkkyqjy6vZ9ZrBC3BJ3g4

受付はあした(12日)の11時まで。

繰り返すが、間際の告知になって申しわけない。

興味がある方はぜひ!

 

 

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かわいくないヤツ

2022年10月03日 | オヤジのICT修業

 

モネの庭で測量をしていた。

 

 

 

 

 

iPhoneLiDARで地形をスキャンし、取得した点群データ上で面積を測ったり必要な断面を抽出したりするのである。従来型の呼称を当てはめれば、スキャンが測量で点群データ化以降は設計というところだろう。

スキャニングしたデータがふたつに分かれているのは、一回で取ろうとしてデータ容量がオーバーになったためだが、PC上でこれを合体させればよいだけのこと。なんの問題もない。

ちなみに、これが帰ってソフトの上で合体させたデータである。

 

 

 

 

場所はといえば、水の庭である。

園路と園路のあいだには池があり、池には睡蓮が咲いている。

先週末に打合せで行ったときは夕方であり、その前は台風通過から4日後。睡蓮たちは、ほとんどその姿を見せてはいなかった。

ところがどっこい、今日はまったくちがっていた。

空は澄み渡り、といってもその半分近くは白い雲が占めているが、こと池を愛でるという行為においては、それが絶好のロケーションとなる。そう水鏡だ。そして空の青と雲の白が反射すると、睡蓮の色自体がじつに明るく華やかなものとなる。

だが・・・カメラがない。

そう・・・Myカメラを持ってきていない。

もちろん、iPhoneで撮るという選択肢はある。

しかし・・・iPhoneか・・・わたしはあの鮮明すぎる色合いを、諸手を挙げて好きになれない人なのだ。

だがまあよいか。せっかくだから何枚か撮っておこう。

すべての作業が終わってから、おもむろにiPhoneを池へと向け、一枚一枚また一枚。

 

 

 

 

 

ほ~・・・そうかそうか。

撮り方さえ気をつければ、これはこれでけっこう使い途があるのだ。

今さらわかったことではない。

とうにわかっていたことなのだが、こと睡蓮に限っては、iPhoneというチョイスをしたくなかっただけである。

 

これひとつでほとんどのことが出来るようになるのがこれからの土木施工管理だ、なんてことをわたしが言い始めたのはいつ頃からだったろうか。それほど前ではないはずだ。

そんなわたしの近ごろときたら、その手にはいつもiPhoneが握られている。

と、思わず知らず、その重宝さとは裏腹な心が持ちあがった。

 

チッ、なんでも出来てかわいくないヤツだ。

池の前で独りごちた。

 

 

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老年ライダー

2022年07月27日 | オヤジのICT修業

 

砂防工事現場にて、取り合わせというかすり合わせというか、工事の主たる構造物である砂防ダムではない箇所の構造物の変更を提案するために、現況地形を iPhone LiDAR でスキャニングした。すでに、着手前あるいは施工中に幾度も、地上レーザー型スキャナで点群データを取得しているのだが、さらに細かい地形を拾いたいため、小回りが利く LiDAR に目をつけたというわけである。ことほど左様にぼちぼちと、オヤジの LiDAR修業はつづいている。

ふと思い立ち調べてみると、仮面ライダーの最初のシリーズ、いわゆる「初代」の放送がはじまったのは1971年の4月だという。既に中学生だったわたしは、とたんに人気沸騰したそのテレビドラマを見るには見たが、さほど夢中になるでなく、ましてや、当時子どもたちの間で大流行した「ヘンシン」などというポーズなどやるはずもなかった。そう、「世代」ではないのである。したがって、仮面ライダーという言葉の響きに懐かしい思いを抱くこともない。

だが、それから51年が経った今、何を勘違いしたのか、ライダーになろうとしているわたしがいる。もちろん仮面ライダーにではない。さしずめそれは、老年LiDAR とでも呼べばよいか。

何故 LiDAR なのか。発注者の意向がどうのこうのと言うものではない。杜の都のわが盟友ヒゲブチョーの言葉を借りると、それは「ICT、使い方ぐらい自分で決めようぜ」の一環だ。オカミが推奨する手法やツールを使えば成果があがるのではない。だいいち彼らは、それによって成果が上がるか上がらないかについて承知しているわけではないし、一部の優秀な人たちはそのことを十分把握してもいる。それなのに未だに多くの施工者は、正解が上から降りてくるという思い込みを持ちつづけている。

考えてもみてほしい。どんな機械でもどんなツールでもどんな手法でも、成果が上がる上がらないは、それを使ったこと自体に起因するのではなく、ツールを上手に使ったという事実が成果に結びつくのである。勘違いしてはならないのが、その「上手」はけっして技術や技能というテクニカルな意味での「上手」ではないということだ。いや、テクニカルな優劣は確かに存在するし、それがまったく意味をなさないかというとそうではなく、テクニックを習得しなければ壁を超えられないこともざらにある。ここでわたしが言いたいのは、本質はそこにはないということだ。人真似や他人からの受け売りを、それぞれちがった自らの環境や目的にフィットする方法に翻訳することができるという意味での「上手」、つまり、自分のアタマで考えたことを自分の手足を使って実施し、その結果をまたアタマにフィードバックして考え行動するという繰り返しのなかから、自分の組織に落とし込んでいく。ここで言うところの「上手」はそういう意味である。

そういう文脈において、LiDARは一例に過ぎない。だいいち、LiDARにどれほどの可能性があるか、わたしにはわからない。ただわたしの経験と勘が、コイツは使えるんじゃないかと囁いているに過ぎない。しかもそういった囁きの類が外れたことはゴマンとある。

だがやってみようと思っている。まずやってみようとしている。この稿を書こうとした発端が、仮面ライダーとLiDARの単なる語呂合わせ、つまりオヤジギャグだとしても、そしてそれが毎度まいどのわるい癖で、大げさになってしまったというのが事実ではあるが、それを差し引いてもなお「老年LiDAR」、わるい思いつきではない。

 

 

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