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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

徒然草と地下鉄あるある

枕草子、源氏物語と来たので、勢いで、「徒然草」へ、、、( ˊ̱˂˃ˋ̱ )

徒然草は、吉田兼好 (1283-1350) が鎌倉時代末期に書いた随筆集。全243段の短編随筆がおさめられ、枕草子・方丈記とならんで日本古典文学の三大随筆にあげられています。(^。^)

冒頭文の「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」は、有名な一節ですよね。(^_^)

「徒然(つれづれ)」という言葉は、作品の序文の書き出しである「つれづれなるまゝに」で使われています。
この言葉はやるべきことがなく、手持ち無沙汰なさま、を意味しているそうです。(^-^)

では、代表的な段の現代語訳を見てみましょう。(^-^)

以下、ネットより引用。

(第92段)「ある人、弓射ることを習ふに」

この段では、弓を射る練習から、ものごとの上達のために大切なことが述べられています。

以下内容です。
 
ある人が弓を射ることを習うのに、矢を2本はさんで持って的に向かいました。
これを見た師匠は、初心者は2本の矢を持って的に向かってはならないと言います。
 
これは、2本目をあてにして最初の矢をいい加減にする気持ちが生まれるためです。
毎回この1本で射抜いてやろうと心がけるのが大切なのです。
 
師匠の前で怠けようとは思わないでしょうが、怠けようとする心は自分では認識できていなくても、師匠は分かっているものなのです。
仏道修行をする人は、夕方には明日の朝があるだろう、朝には夕方があるだろうと思って、あとでもう一度丁寧に修行しようと思うことがあります。
 
彼らは、まして一瞬のうちに、怠けようという心が潜んでいることを認識することはないでしょう。
この一瞬において、やるべきことを直ちにすることは本当に難しいものです。

なかなか「深いィ話」だと思います、、、確かに自らを律するための極意と言えますね。(^_^)

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

最近、「地下鉄あるある」に悩まされています。m(__)m

ずばり、「なんで隣にいつもデブが座るのか問題」(マツコ夜ふかし風)!(◎_◎;)

地下鉄車内の話題では、「若者がシートの空間を詰めない問題」をすでに提起しましたが、この「いつもデブが座って来る現象」も悩ましいところです。(°▽°)

馬関が乗る地下鉄で、かなりの頻度で隣席に体格のよろしい方が着座される、、、これがまた、遠慮という概念の欠落した若者が多いので、二重苦です。(^_^)

昨晩の車内でも、「これは貴方に相応しくないのでは?」という小さなスペースに、若いサラリーマン風の巨体が割り込んで来ました。( ; _ ; )/~~~

他人の迷惑も顧みず、両脚を開いてお相撲さんみたいな座り方、、、案の定、イヤホンで独りの世界に没入している。(T . T)

馬関は、デブとは反対側のサラリーマンとの間で挟まれて、両肩が痛いほどでした、、、m(__)m

これを徒然草風に綴ると、こんな感じでしょうか。( ^_^)/~~~

「車内でのデブの行動を恨む前に、なぜ彼がデブなのかを考えるべきだ。欧米企業では、肥満はセルフコントロール能力の欠落の現れとして昇進を阻まれるほど。つまり、デブは自らの欲望のままに食生活を送り、その結果、なるべくしてデブに行き着いているのだ。デブに利他的な行動を求めるのは不可能というもの。期待するだけ無駄であることよ。」

「形代も大なる人に何ぞ問ふ」 祖谷馬関

(注)形代(かたしろ)は晩夏の季語。紙や板などを切り取って人の形に似せたもの。それに触れたり息を吹きかけたりして、災厄を乗り移らせる。祓や祈祷が終ったあと、川や海に流す。流し雛や祭の時の神霊の代わりにする人形も言う。

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