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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

源氏物語と飛香舎

昨日、清少納言の「枕草子」に触れましたが、ことのついでに、よく比較対象とされる、紫式部の「源氏物語」も垣間見てみましょうか。(^。^)

まず、清少納言と紫式部は、平安時代の同じ時期に摂関政治の主、藤原氏に仕えた女流文人であったという点を確認しておきたいと思います。(^-^)

以下、ネットより引用。

藤原道隆の娘:定子の家庭教師についたのが清少納言、藤原道長の娘:彰子の家庭教師をつとめたのが紫式部です。 道隆と道長は兄弟でもあり、同時に天皇に次ぐ地位を争うライバルでもあった。 そのため、清少納言と紫式部もライバル関係にあったとよく言われていました。 ただ、2人が実際に対面したことはありません。

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なーんだ、二人の直接面会はなかったのですね、、、ん?、けど、不仲だとか、顔は合わせてないとか、そんなこと、どうして分かるんでしょうか?(°▽°)

以下、再びネットより。

清少納言と紫式部は犬猿の仲だったと言われていますが、それは、式部が書き残した『紫式部日記』なる作品があるからです。m(__)m

この日記の面白いところは2つ。
宮中の生活がわかるところと、悪口が盛りだくさんなところです。

最も有名なのが「清少納言について」で、「清少納言は自慢げで偉そうにしている人。すごく賢いとアピールしてるくせに、漢字はよく見ると間違いもあるわ。こんな風に自信家な性格だと絶対見劣りしてひどい未来が待っていることでしょうね。常に「面白いことはないか」とちょろちょろ探し回って、やだやだ。誠実さを失った人の人生なんてろくなものじゃないわ。あ~可哀想に。」

と、『紫式部日記』には、いろんな人が出てきますが、特に清少納言についてはアタリがきつめです。

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こりゃ、悪口も激烈ですな!!(◎_◎;)

次に、面会問題、、、これは、歴史を辿ると「直接面会はなかった」と断言できるそうです。(^-^)

なぜかというと、紫式部が中宮彰子に仕え宮中に入ったのは、清少納言が引退した5年後。
つまり、紫式部と清少納言は直接面識がなかったと考えられるわけです。

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さて、超大作の「源氏物語」のさわりとして、光源氏誕生を語る「桐壺の巻」の概要を見てみましょう。(^_^)

以下、ネットより引用。

ある天皇の治世に、一人の更衣が帝の寵愛を受けていた。
他の女性たちの嫉妬もあって病気がちになるが、天皇の寵愛はどんどん深くなる。
若宮が誕生すると、第一皇子の母・弘徽殿女御はこの若宮が皇太子になるのではないかと疑った。頼る術のない更衣は一人辛い思いをする。
その更衣の部屋は「桐壷」である。

馬関は、この「桐壺」という部屋が気になって調べてみました。(^。^)

実は、かつての内裏には、「宮中五舎」という、女御や更衣などの居住した五つの殿舎があり、昭陽(しょうよう)舎・淑景(しげい)舎・飛香(ひぎょう)舎・凝花(ぎょうか)舎・襲芳(しほう)舎と呼ばれていました。(^-^)

現在の京都御所でも五舎のうち飛香舎だけは復興されています。
ちなみに、紫式部が仕えた中宮彰子は飛香舎に住んでいたそうです。(^_^)

この飛香舎は「藤壺」とも呼ばれ、ここで女御入内の儀が行なわれ、また后、女御の御在所となりました。(^-^)

そう言えば、「源氏物語」には、「桐壺」に似た「藤壺」なる人物が登場しますね。(^。^)

「藤壺」は、「源氏物語」の登場人物。先帝の第四皇女。桐壺帝の女御となり、のち、中宮となる。桐壺更衣と似ているため寵愛をうけたが、光源氏との物のまぎれにより冷泉帝を産み、生涯の心痛の種となる。桐壺帝の崩御後、東宮となった冷泉帝の安泰を願い出家。物語中の理想的人物の一人。

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千年にわたり世界中で愛読されてきた日本文学の最高峰「源氏物語」、、、様々な研究や想像が行き交い、今なお我々の暮らしに息づいているとは、もの凄い作品ですね。( ^_^)/~~~

「千年を超えて飛ぶ香や藤の花」 祖谷馬関

(注)藤は春の季語。藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。
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