藤原一族、これでメジャーどころは、一巡しましたかな?(^。^)
では、「藤原道長」を今一度、おさらいしてから、次回、その息子の「藤原頼通」になだれ込みましょう。(^-^)
藤原道長、、、言わずと知れた、平安時代の摂関政治に君臨した最高権力者ですが、信心深く、数々の寺院を残しています。(^_^)
まずは、「法成寺」、、、道長の邸宅であった「土御門殿」から東にあたる鴨川西岸に建てられ、現在、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に法成寺跡を示す石標が立てられています。٩( ᐛ )و
晩年、阿弥陀信仰に傾倒した道長は、法成寺内に「九体阿弥陀堂」(無量寿院)の建立を発願し、その後次々と堂舎が建てられたそうです。m(__)m
また、道長は、藤原氏の菩提寺となる「浄妙寺」を宇治市の木幡に建立しています。
藤原北家の重要人物を弔う菩提寺でしたが、1462年(寛正3年)の土一揆で焦土となり廃絶したとみられています。(^。^)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
さて、その道長の権勢ぶりを振り返りますと、、、ネットより引用( ; _ ; )/~~~
関白・藤原兼家の息子に生まれるが、道隆・道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。
しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。
一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。
長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となる。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けた。
寛仁2年(1018年)後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。
立后の日に道長が詠んだ「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」は、藤原氏九条流による摂関政治の絶頂を示すものとされる
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
藤原兼家の五男だった道長が最高権力者にまで上り詰めたこと自体が、ドラマチックですよね!(°▽°)/
そして、藤原道長の功績は、なんと言っても、自分の娘を次々と天皇に入内させたこと。 「藤原実資」は、その様を「一家立三后、未曽有なり」(天皇3代の皇后をすべて自分の娘にした、極めて稀なことだ)と1018年(寛仁2年)、「小右記」に驚嘆の言葉を綴っています。(^_^)
「人の世に狂い咲きたる帰り花」 祖谷馬関
(注)帰り花は初冬の季語。初冬、小春日のころに返り咲く花をいう。桜・桃・梨・山吹・つつじなどに多く見られる現象。思いがけなく、ニ・三輪咲いたけなげな花に、やがて来る厳しい冬を思いやる。
では、「藤原道長」を今一度、おさらいしてから、次回、その息子の「藤原頼通」になだれ込みましょう。(^-^)
藤原道長、、、言わずと知れた、平安時代の摂関政治に君臨した最高権力者ですが、信心深く、数々の寺院を残しています。(^_^)
まずは、「法成寺」、、、道長の邸宅であった「土御門殿」から東にあたる鴨川西岸に建てられ、現在、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に法成寺跡を示す石標が立てられています。٩( ᐛ )و
晩年、阿弥陀信仰に傾倒した道長は、法成寺内に「九体阿弥陀堂」(無量寿院)の建立を発願し、その後次々と堂舎が建てられたそうです。m(__)m
また、道長は、藤原氏の菩提寺となる「浄妙寺」を宇治市の木幡に建立しています。
藤原北家の重要人物を弔う菩提寺でしたが、1462年(寛正3年)の土一揆で焦土となり廃絶したとみられています。(^。^)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
さて、その道長の権勢ぶりを振り返りますと、、、ネットより引用( ; _ ; )/~~~
関白・藤原兼家の息子に生まれるが、道隆・道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。
しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。
一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。
長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となる。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けた。
寛仁2年(1018年)後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。
立后の日に道長が詠んだ「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」は、藤原氏九条流による摂関政治の絶頂を示すものとされる
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
藤原兼家の五男だった道長が最高権力者にまで上り詰めたこと自体が、ドラマチックですよね!(°▽°)/
そして、藤原道長の功績は、なんと言っても、自分の娘を次々と天皇に入内させたこと。 「藤原実資」は、その様を「一家立三后、未曽有なり」(天皇3代の皇后をすべて自分の娘にした、極めて稀なことだ)と1018年(寛仁2年)、「小右記」に驚嘆の言葉を綴っています。(^_^)
「人の世に狂い咲きたる帰り花」 祖谷馬関
(注)帰り花は初冬の季語。初冬、小春日のころに返り咲く花をいう。桜・桃・梨・山吹・つつじなどに多く見られる現象。思いがけなく、ニ・三輪咲いたけなげな花に、やがて来る厳しい冬を思いやる。