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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

秀吉の愚行と秀次の怨霊

京都検定対策を進めていて、ふと背筋の凍る思いがしました。(°▽°)

話題は「豊臣秀吉公」にまつわるのですが、太閤秀吉による築城の経過を確かめていた時のことでした。(^。^)

秀吉は、1586年2月に、政庁兼邸宅として「聚楽第」と呼ばれる巨大な城づくりに着工し、僅か一年半後の1587年9月に完成させ、妙顕寺城から移りました。(^-^)

1588年5月には後陽成天皇の行幸を迎え、また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われたのです。(^_^)

1591年12月、家督や関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと、聚楽第は秀次の邸宅となり、翌1592年1月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えています。(^。^)

しかし、1595年7月、秀次は、秀吉によって高野山に追放され、切腹させられたのです。m(__)m

その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるため、1598年8月から聚楽第を徹底的に破却したのでした。( ; _ ; )/~~~

なんと聚楽第は竣工から破却まで、僅かに8年弱という存在期間だったのです。!(◎_◎;)

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聚楽第を破却した豊臣秀吉は、御所に参内するための便宜上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城」(後に北政所が居住)が設けられました。(^。^)

実は、これと並行した、もう一つの物語、「伏見城築城」がありました。(^_^)

1591年に聚楽第を甥の豊臣秀次へ譲ったあと、翌年に秀吉は風光明媚な伏見の「指月」に穏やかな隠居所として屋敷を建てていたのですが、1594年頃には「指月伏見城」としての威風を構えたのでした。(^-^)

しかしながら、1596年閏7月、巨大な「慶長伏見地震」が発生し、この指月伏見城は御殿が倒壊するなど大被害を受けたのでした。(≧∇≦)

そこで、秀吉は同じ伏見の「木幡山」に場所を移して、新たな「木幡伏見城」を築くよう命じのでした。(^。^)

当時、諸大名は文禄・慶長の役のため朝鮮半島で戦い、長引く遠征に伏見築城が加わるのは、大名たちにとって重い負担だったと言われています。m(__)m

このように臣下の渋々の働きによって完成した「木幡伏見城」も、1600年8月、関ケ原の戦いを前に東西両軍の攻防の舞台となり、主要な建物が焼失、鳥居元忠らが自刃しました。( ; _ ; )/~~~

その後、1603年には、徳川家康が、再建された新たな伏見城で征夷大将軍の宣下を受けましたが、1623年の徳川家光の将軍宣下を最後に3代目の伏見城は廃城されたのでした。(^。^)

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冒頭、背筋の凍ると申し上げたのは、「聚楽第→指月伏見城→木幡伏見城」の流れに見られる、恐ろしいまでの因果応報です。(≧∇≦)

一説に、世継ぎの誕生を諦めた秀吉でしたが、後年、側室の茶々との間に「秀頼」が生まれたことから、甥の秀次の存在が次第に疎ましくなり、秀次を自害に追いやり、聚楽第をも破壊せしめたのでした。( ; _ ; )/~~~

この秀次自刃からの年表を確認してみましょう。(°▽°)

1592年、秀吉が朝鮮出兵
1594年、指月伏見城 完成
1595年、秀次切腹→聚楽第破却
1596年、慶長地震→伏見城倒壊
1598年、木幡伏見城で秀吉死去
1600年、西軍攻撃→伏見城炎上
1602年、家康が伏見城を再建
1603年、伏見状で家康将軍宣下

この流れは、秀吉に翻弄され無念の死を遂げた秀次の怨霊によって招かれたに違いありません。(°▽°)

飛ぶ鳥を落とす勢いで天下への道を駆け上った豊臣秀吉でしたが、ご覧のとおり、朝鮮出兵による侵略行為や、秀次を陥れその命を奪った愚行から、神仏の怒りに触れたかのように天下人の座から転げ落ちて行きました。(T . T)

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奢れる者は久しからず、盛者必衰の理、とは、平家没落に始まり、建武新政、室町幕府滅亡、本能寺の変、そして、秀吉没する、、、と、このような歴史が明らかに示していますね。(^。^)

「慢心に潜む邪鬼かな破芭蕉」 祖谷馬関

(注)破芭蕉(やればしょう)は晩秋の季語。芭蕉のみずみずしい大きな葉が秋の風雨にさらされ、葉脈に沿って裂けている状態をいう。
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