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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

🌊 隠岐に流刑の両天皇 ⛵️

中世の流刑は、遠島とも言い、流される先は、佐渡や隠岐、壱岐、果ては喜界島など様々な離れ島がありました。(≧∇≦)

鎌倉時代には、後鳥羽、それに後醍醐、二人の天皇(上皇)が島流しの刑に処されています。m(._.)m

「後鳥羽天皇」の在位は1183~1198年、上皇となってからの1221年に、源実朝の暗殺によって源氏の直系が途絶えた際、鎌倉幕府の討伐を狙い「承久の乱」を起こしましたが、これに敗れ、流島先の隠岐で最後を迎えました。(≧∇≦)

源平合戦の最中、安徳天皇が都落ちした後の京で三種の神器を持たずに即位した後鳥羽天皇は、相撲や水錬から管弦にいたるまで多才多芸、文武両道だったそうで、特に、和歌への情熱は深く、「新古今和歌集」の編纂を藤原定家等に命じました。(^-^)

「後醍醐天皇」の在位は1318~1339年、鎌倉幕府打倒の意思を固め、「無礼講」なる講書・酒宴の会合に人々を結集して倒幕の秘計を進めましたが、1324年(正中1)、六波羅探題に知られ、側近の多数が逮捕されました。「正中の変」(^_^)

1331年(元弘1)4月、再び、討幕計画が幕府に密告されたため、天皇は笠置に立てこもり、諸国の武士に蜂起を呼びかけましたが、天皇は捕らえられ、1332年隠岐に流されました。「元弘の変」(^。^)

しかし、1333年、反幕勢力の力が強まると、天皇は隠岐を脱出して京都に帰り、鎌倉幕府は滅亡しました。
天皇は、幕府の擁立していた持明院統の「光厳天皇」を廃し、建武新政を行いましたが、やがて足利尊氏と対立し、吉野に逃れました。(^_^)

これにより、第三代室町将軍・足利義満が朝廷を統一するまで、日本には南北2つの朝廷が並立することとなったのです。(ToT)/~~~

後鳥羽天皇と後醍醐天皇、、、年齢はおよそ百歳も違い、皇家の系図では、五世代の隔たりがありますが、朝廷復活を願う情熱、討幕への執念には相通ずるものを感じますね。( ^_^)/~~~

    「討幕の夢破れたり後鳥羽院
                    末裔を借り御魂現る」

by 祖谷馬関

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