山陰の妙好人
浅原才市(あさはら さいち)は1850年(嘉永3年)島根県の生まれ。浄土真宗の妙好人のひとり。
昭和の妙好人といわれ、町の人々に慕われ尊敬されました。船大工や下駄職人で生計を立てていましたが、晩年に五千とも一万とも言われる句を書き綴りました。
ある日、才市老人がアミダ様と顔を合わせました。不思議なことにそのアミダ様の顔をよく見るとそれは才市自身の顔でした。
才市は言いました。
〇わしが親さま、
見たことあるよ。
よくよく見れば、
わしが親さま、
なむあみだぶつ。
〇あなた顔見りや、
ふしぎなあなた。
あなた顔見りや、
あなたわたしで、
わたしもあなた。
なむと、あみだわ、
あなたとわたし。
〇わたしや、
あなたに拝まれて、
「助かってくれ」と
拝まれて。
ご恩うれしや、
なむあみだぶつ。
〇聞いた聞いた
いいこと聞いた。
凡夫が仏になると聞いた。
〇風と空気はふたつなれど、
ひとつの空気、
ひとつの風で、
わしと阿弥陀は
ふたつはあれど、
ひとつお慈悲の
なむあみだぶつ。
〇ええな、
せかい虚空がみなほとけ。
わしもその中
なむあみだぶつ。
〇如来さんよい、
わしがなむなら、
あなたはあみだ。
わしとあなたで、
なむあみだぶつ。
浅原才市
浅原才市は「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介されました。
✧Shin and Zen
(浄土真宗と禅宗)
禅宗と真宗には共通点があります。禅宗でも真宗でも共に求めるものは、私が「エンライトンメント」と呼ぶもの、日本語でいう「悟り」です。真宗では悟りではなく、ただ「信心」(faith)と呼びます。しかし、「信心」も「悟り」も同じことで、呼び方が違うだけです。
仏教語の定義では、信心とは、自分以外の何かではなく自分自身を信ずること、それが信心であり、悟りなのです。知的な用語を使えば、自分自身を信ずることは、認識論的には「悟り」であり、宗教的には「信心」です。
このように信心は、悟りもそうですが、自己を直接、直感的に把握することです。自己がとらえにくいことは、初めに話したとおりです。このとらえがたい自己は、科学的には把握できない。ただ直観的、それもふつうの直観ではなく、私が他のすべての直感と峻別する「般若智」という超越的な直覚によるのです。
つまり、物事の全体性を全体として把握する。次から次へと個別的に把握するのではありません。この種類の直覚には自己を把握する力があり、自己が把握されるのです。それを、ある資質の人は「信心」と呼び、別の資質の人は「悟り」と呼ぶのです。
一般に、真宗はアミダ仏による救済を目指すと理解されています。アミダ仏が悟りを得て創った浄土へと導かれる。真宗信者は、浄土へ着いたその瞬間に悟りを得るのです。もはや「信心」とも信仰とも呼ばず、「悟り」と呼ぶのです。
アミダ仏が我々を浄土へ導く目的は、一人一人に悟りを得させるためで、浄土では、そこに生まれた瞬間に悟りが得られるようになっているのです。
相対的、限定的なこの世にいる限り、すべて因果律に縛られています。しかし、浄土へ行けば、因果律は無効になって消滅します。この有限の世界が境界線をすべて突破して制約を打破すれば、そこは無限の世界となって、制約はすべて取り払われる。これが悟りの体験です。
しかし、真宗の人たちは、この世にいるあいだ、自己を限定的な見方に閉じ込めています。そう信じている限り、この限定的な世界からは出られません。しかし死後、つまり生死の束縛から解放されると浄土に生まれる。そうすると、有限の世界は無限の世界へ溶け込み、悟りが可能になるのです。それを真宗では「信心決定」と呼んでいます。
相互融合
(con-fusion)
ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。
この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。
このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。
この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」
この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。
ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。
そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。
これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。
アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より