二つに見えて、世界はひとつ

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道元/心身一如

2023-06-07 07:16:00 | 心の哲学/心身問題

 デカルト式の実体二元論とは心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、心的なものと物質的なものはそれぞれ独立した実体であるとし、またその心的な現象を担う主体として「霊魂」のようなものの存在を前提とする説です。

 この実体二元論を採る人の多くは、宗教上の理由や信仰心との関連からこの立場に立っているようです。実体ニ元論に基づけば、肉体が亡びた後も霊魂は生き続けられるという結論が導かれるからです。死後の世界や輪廻転生があると信じる伝統的な宗教信仰者たちにとっては受け入れやすい説です。彼らは次のように考えます。
    
『自分の身の中にひとつの霊があり、それは何かに出会うと、よく好悪を判断し、是非を分別する。痛痒を知り苦楽を知るのもすべてこの霊の力である。しかもこの霊はこの身が死んで滅びるとき、身体を抜け出してまた別の場所で生まれ変わるので、これは永遠の存在なのである』・・・と。

 これに対して真っ向から反論するのは道元です。
  

 このような考えは泥や石を黄金の宝と思うより、さらにひどい間抜けなことです。このような間違った教えに耳を傾けてはなりません。

 仏法では身体と心は「一如」であり、二つでないと説きます。生まれて死ぬ、この事実がそのまま涅槃なのだと自覚しなさい。

 生死のほかに涅槃を説くことはありません。ましてや、心は身体を離れて永遠の存在なのだとまちがった理解をして、それが生死を離れた仏の智恵である、などと考えたところで、そう理解し分別する心は、生じたり滅したりして、まるで不変でありません。なんともたよりないことではありませんか。

  道元「弁道話」より





我思うゆえに我あり

2023-06-07 07:05:00 | 心の哲学/心身問題

ルネ・デカルト (1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。 合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。(ウィキペディア)




 哲学の第一原理


 わたしは、真理の探究において次のように考えた。


 ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、 わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と。


 こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な ことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証と見なしていた推理をすべて偽として捨て去った。


 最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべて そのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。


 すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしはある」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認めたから、 この真理を、求めていた「哲学の第一原理」として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。


 私とは何か

 次に、私とは何であるかを注意深く検査し、何らの身体をも持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの場所もないと仮想することはできるが、そうだからといって私が全く存在せぬと仮想することはできないこと、それどころではない、私が他のものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在することがきわめて名証的に、きわめて確実に伴われてくること、それとはまた逆に、もしも私が考えること、ただそれだけをやめていたとしたら、たとえこれよりさきに、私の推量していた他のあらゆるものがすべて真であったであろうにもせよ、私自身が存在していたと信ずるための何らの理由をも私は持たないことになる。


精神と肉体は別個の実体

 このことからして、私というものは一つの実体であって、この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。そうして、かかる実体の存在するためには、何らの場所をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを、したがってこの「私」なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別個のものであり、なおこのものは身体よりもはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことをも、私は知ったのである。


 「デカルト 方法序説四部」