心身二元論
デカルトは、精神と身体の両者を、区別される2つの実体でありながら、相互作用が可能な関係にあるとする「心身二元論」を打ち立てました。この二元論は、「心身問題」として2つの問題を提起することになります。精神を物質からの独立の存在としてどのように認めるのかという問題と、非物体である精神が、どのように物体である身体を動かすのかという問題です。
実体二元論の代表例であるデカルト二元論の説明図。デカルトは松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとした。
1641年の著作『省察』より。
つぎは心身一如による精神と身体の相互作用のイメージ。
道元は言います。
全身、これが光明です。
全身、これが全心です。
全身、これが真実体です。
全身、これが唯一の表現です。
道元:正法眼蔵第7「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」より
金剛力士像
デカルトと道元の違い、これはまた同一律と自己同一律の違いでもあります。
同一律は A=A B=B
精神=精神 身体=身体
自己同一律は A=B
全身=全心
似たようにみえますがかなり違います。同一律は思考の論理であり自己同一律は直覚を含めた論理です。デカルトの心身二元論と道元の心身一如を比べるとその違いは一目瞭然です。
デカルトは精神を身体の中にある物質のようなものと考えているのが図からわかります。そして松果腺において独立した実体である精神と身体が相互作用するとしましたがそんな場所で見れるはずがありません。
見るならここ、「表現する芸術の場」。ここが精神と身体の相互作用する場所だと思います。彫刻、絵画、音楽、ダンス、スポーツ、演劇、小説、もちろん哲学もです。日常の生活においても、むしろ相互作用でないのをさがすほうが困難ではないでしょうか。学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。
また道元に戻ります。
思慮分別を用いない
ブッダの教えを学ぼうとする人は、つぎのことを知らなければなりません。
仏道は思慮・分別をはたらかせたり、あれこれ推測したり想像したり、知覚や知的に理解することの外にあるということを。
もし仏道がこれらのうちにあるのなら、わたしたちは常にこれらの中にあり、これらをさまざまに使いこなしているのになぜブッダの教えを理解できないのでしょうか。
教えを学ぶには思慮分別等を用いてはならないのです。
ですから聡明であるとか、学問を先とせず、意識的なことを、観想を先とせず、これらすべてを用いることをしないでそして心身を調えて仏道に入るのです。
ただただ、わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れるのです。そうして仏の働きに従うのです。その時、なんの力もいれず心も用いずに、生死を離れて仏になるのです。
道元「学道用心集」・正法眼蔵「生死」より
まちがった道
多くの人はいくら教えを聞いても二種の根本を知らないから間違った道に進むのである。二種の根本とはなんであろうか。そのひとつは清らかなる本体である。これは人々の本心である。これを人々は忘失している。
もうひとつは輪廻の根本である、思慮分別の心を自分とする思いである。だから思慮分別の心を用いて修行したところで、それは輪廻の原因となるばかりであり、本心に至ることはないのだ。
それはまるで砂を炊いて飯をつくろうとするようなものである。いくら炊き続けても熱砂となっても飯にはならないのだ。
楞厳経 巻1ー13
✳追記
心と体のような関係を華厳宗では相即即入といいます。心と体が互いに対立せず,とけあって自在な関係にあることです。経典で色即是空や不二、不一不異、一如などと説かれているのと同じです。
相即相入(そうそくそくにゅう)
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相即相入」の解説