祖師西来意そしせいらいい
九月一日、
師は私に話された。
黄檗希運禅師画
達摩大師が中国に来られてこのかた 、説かれたのはただ一つの心だけであり、伝えられたのはただ一つの法だけである。
その伝え方は、仏(心仏)によって仏を伝えるという方式で、 それ以外の仏を取り出すことはなく、また法(心法)によって法を伝え るという方式で、それ以外の法を取り上げることはなかった。
その法とは言い表わしようのない法であり、その仏とは把握しようのない仏である。つまり本源清浄心なのである。このことだけが唯一真実の教えであり、その他の教えは真実ではない。
般若とは智慧であるが、その智慧とは、ほかでもない、姿かたちのない本源の心のことである。しかし凡夫は道を目ざすことなく、ただおのれの六情のみをほしいままにし、かくて六道の世界を歩むのみである。
黄檗伝心法要[六]
無心の法門
無心とは、一切の心がないことである。 そのあるがままの本体は、内は木や石のように、動かず揺がす、外は虚空のように、塞がれることも妨がられることもなく、何かの働きの主体でも客体でもなく、顔かたちもなければ、得ることも失うこともない。
しかし道をめざす人たちは、 この「無心の法門」に入ろうとせぬ。虚空に落ちこんで、自分の足場がなくなりはしないかと恐れるからである。そのため崖を望んでは退き、誰もみな一様に知的解釈ばかりを求める。このように知解を求めるものは数知れずいるが、 道を悟るものはめったにおらぬ。
伝心法要[二]
本源清浄心
ほかならぬこの本源清浄の心こそは、生きとし生けるものや、もろもろの仏たち、さては山河大地や形あるもの形なきものの一切とともに十方世界にあまねく、 すべて平等であって、彼我の差別相はない。
この本源清浄の心は、つ ねに完全な輝きに満ちて、あまねく一切を照らす。しかるに世の人はこの内なる光に目ざめず、ただ見聞覚知を認めて心となし、見聞覚知のために覆われる。それゆえに精明なる本体そのものを観ない。
ただ直下に無心ならば、本体は自から顕現すること、 あたかも虚空に昇った大日輪が、あまねく十方を照らしてさまたげることのないようなものである。
されば、ただ見聞覚知のみを認める者たちは、その拠りどころとする見聞覚知を取り払われてしまうと、おのが思念の路を絶たれて、途方に暮れることになろう。
ほかならぬその見聞覚知の場そのものに、おのが本心(本源の心)を認めよ。しかしながら、本心そのものは見聞覚知に属するのでもなく、かといって見聞覚知と離れてあるのでもない(不即不離)。
要は、おのが見聞覚知に立って解釈を試みようとせぬこと、また、その見聞覚知について見解起こしてはならない。また想念を働かせてはならない。
また見聞覚知を離れて心を求めてはならない。また見聞覚知を捨てて法を取ってはならない。つかず離れず、居すわらず執着しなければ(不即不離、不住不著)、縦横自在にていずこも道の場である。
伝心法要[三]
自己を忘れること
凡人は外のものを取るが道を求める人は内の心を取る。そして外も内も忘れてしまう。外のことを忘れるのはまだしも簡単だが心を忘れるのは至難のわざである。
多くの人は心を忘れることができない。虚無に落ち込んでしまうと恐れるからである。ところが「空」には無なるものはなく、あるのは万有あるがままの世界なのである。
伝心法要[五]
黄檗希運、おうばく きうん、生年不詳 -(850年))は、中国唐代の禅僧。黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師として知られる。
見出し画
山梨県向嶽寺の赤達磨。鎌倉時代の作で国宝に指定されています。
❴参】
上の記事に関連し、14世紀イギリスのキリスト教神秘主義的書物「不可知の雲」から、仏教との類似を指摘される文章です。
不可知の雲
•••おそらくそのとき神はときおり神との間に介在する「不可知の雲」を突き破って霊の光を放射し人の語ることのできない神の秘密の一部をあなたに示すであろう。
•••それ故に、あなたが持っているなにかある被造物に関する知識、特にあなた自身に関して所有しているすべての知識と感情を捨てなさい。なぜなら、一切の被造物にたいする知識と感覚は、すべて自己にかんする知識と感覚に依存しているからである。
そして自己を忘れることにくらべれば、他の被造物を忘れるほうが比較にならないほど容易なのだ。
あなたがこの試行に熱心にとりかかれば、すでに他の全被造物とその働き、およびあなた自身の活動を忘れてしまったあとでもなお、あなたと神とのあいだに、あなた自身の存在の赤裸な知識と感覚が残っていることを見いだすであろう。
あなたが観想活動の完成を感じるに先立ち、この自己にたいする知識と感覚を根絶することが必要である。
(43章)
•••これを「無」というのは誰であるか。それは、外的な人であって、内的な人ではない。内的な人は、それを「万有」と呼ぶ。(68章)
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