アメリカン・ブディスト・アカデミーにおいての講演(1958年 春)より、この時大拙八十八歳。
外なる自己と内なる自己
われわれには、外なる心と内なる心、もしくは外なる魂と内なる魂があると言えます。
われわれの外なる自己は意識の表面で働いている浅薄なものであり、この浅薄さは二つに分れるところから来ています。われわれが「これが私の自己である」とか 「これが私の内なる自己である」と考えるとき、その自己は必ず二つに、自己とそれに対立するものに、分割されます。われわれが自己を意識すれば、必ず考える自己と考えられた自己ー主観と客観ーが出て来ます。われわれの意識の中には常に主観と客観が現前しています。
主観と客観は、分れる前は、まだ主観も客観もないところから出現します。われわれが自然に見るこの世界は、知的に再構成されています。つまりそれは真実の世界ではありません。
われわれは感覚と感覚の背後に働いている知性によって世界を作り変えてしまっているのです。われわれはこの世界を再構成するにとどまらず、われわれの造作が真実のものであると思い始めるのです。
ふつうわれわれは外なる心もしくは外なる自己にもたれており、内なる自己に、内奥の自己に依っていない。内奥の自己は、相対的意識の測り知ることのできない深淵の底に沈んでいます。
この自己は普段は意識の表面上を動いているさまざまなものの幾重もの層の下にうまく隠されています。ふつうわれわれはこの表面上のものを真実の自己だと思っているのですが、実際はそうではありません。
真実の内なる自己を覚醒させるのは難しいことです。真宗の教えでは、その内なる自己を覚めさせるために、アミダの名を、ナムアミダブツを 称えるのです。しかし単にナムアミダブツというだけでは、内なる自己は覚めません。 ナムアミダブツは本当に信じて至心に称えるのでな ければならないのです。
至心になること
われわれはアミダの誓願の成就を信じきって、至心にその名を称えるのです。信頼して至心にその名を称えれば、一度だけでよいのです。ところが、ふつうわれわれの称名は至心になっていません。われわれは、自分は至心でありアミダか何かを完全に信じていると思っています。しかし、本当の信仰、本当の至心はまったくそういう意識を持たないのです。至心が自らを意識しているかぎり、それは純粋ではありません。だから至心は、「私は至心だ」とは言わないのです。
そのような態度がほんのわずか、たとえ目につかぬほどの微々たるものであって も、無意識の深層に残るかもしれません。無意識は意識ではあり得ないが、そこにはまだ何がしかの意識が潜在しています。そしてこの意識が無意識の中に残存しているがゆえに、時おりそれが不意に出現して、「どうしてだろう、私はこんなに至心であるのに、人は私の言うことを信じてくれぬ」と言うのです。もしこんな感じ方をするとすれば、至心になりきっているときでも、われわれはまったく至心でないのです。そういう意識を残しながらアミダの名を称えても、浄土に生まれることはできません。
自己を忘れること
それゆえ、ナムアミダブツを称えるとは、完全に自己を忘れることでなければなりません。ナムアミダブツと言っていることすら意識しないのです。しかし、 この 私がナムアミダブツと一体になり、名号を称えている当人であ
ることを忘れるとしても、まだ充分でありません。名号そのものが名号を称えている、ナムアミダブツがナムアミダブツを称えている、と感得するとしましても、も し意識が残存しておれば、それはまだ至心ではありません 。
至心とは完全に自己を忘れることです。しかし同時に、単なる忘却ではありませ
ん。通常われわれは多くのことを忘れながらいろんなことをしているのですが、その種の忘却ではありません。宗教的忘却、霊性的な無意識への転入――― それがいか なる忘却であり、いかなる無意識であるかは、自分自身で経験するしかないのです。
ー中略ー
形而上学的に言えば、そういう瞬間はわれわれが本当に至心を経験する時であり、
キリスト者なら「自己の放棄」と言うだろうところを経験する時であります。自己 の放棄は相対性の放棄であり、それは主観も客観も至心も至心ならざるものも知ら ない内奥の自己へ参入することです。至心を意識すれば、われわれはふつうまた至心ならざるものをも意識します。なぜなら両者は互いにからみあっているからです。
至心と至心ならざるものの相対が超えられるとき、アミダはわれわれの内なる自己 にはいり、この自己と一体になります。言い換えれば、この自己は自らをアミダの中に
見出すのです。そして、自己をアミダの中に見出すとき、われわれは浄土にいます。
私の結論は、アミダはわれわれの内奥の自己だということです。そしてその内奥の自己を見出すとき、われわれは浄土に生まれるのです。
鈴木大拙 「真宗入門」第2章「内なる自己のさとり」より 春秋社
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