ズィクル
「ズィクル」とは「(口に出して)言う」、「記憶する」、あるいは単に「想起する」などを意味している。コーランにおいて信仰者たちは、「何度でも繰り返し神を思え」と命ぜられている。これ自体には特に神秘主義的なところはなく、単なる崇拝行為の推奨である。しかし初期のスーフィーたちは、これを神の名や宗教的文言、例えば「神に賞賛あれ」(Subhan Allah)、「神以外に神は無し」(La illaha illa Allah)といった定型句を繰り返し唱えるという修行へと発展。
ひとつひとつの語に全感覚を傾け、神経を集中させて機械的なイントネーションと共に反復し続ける。このズィクルという修行とその影響に関するガザーリーの以下のような記述がある:
Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。
この(啓示)に至る道は、まず現世の絆を完全に断ちきり、心をそれから解放し、家族・財産・子供・国家・知識・権力・名声への煩わしさから解き放つことである。このようにしてスーフィーの心は、それが存在しようがしまいが何の相違も感じないという境地に到達しなければならない。
次に、どこかふさわしい一隅に一人坐す。孤独を守り、宗教実践も必要最低限に留めなくてはならない。コーランを復唱したり、その意味について考えたりすることは厳禁である。宗教に関わる学問書や伝承の書などを読んでもいけない。そうした類いのことに心奪われるのを避けなくてはならないのである。むしろ、神以外の何ものも心の中に入り込まないように心がけねばならない。
次に、坐したまま神の名を唱える。「アッラー、アッラー」と口に出してくり返し唱え続け、やがて舌を動かそうとする自己の努力が消え、あたかも言葉だけがひとりでに舌の上を流れるような状態になるまで心を集中し続けるのである。
次に、運動の痕跡が舌から完全に消えているのに、心はズィクルを続けているような状態になるまでこの行を続ける。するとその言葉のイメージ・文字・形が心から消え、言葉の観念のみがあたかも心に癒着したかのようにそれから離れることなく残るようになる。スーフィーはこの地点まで自己の意志と選択によって到達し、さらにサタンのささやきの誘惑を退けてその状態を維持することができる。
しかし神の慈悲を得られるか否かは、自分の意志や選択ではどうにもならないことなのだ。なすべきことをなしたあとは、かつての預言者たちや聖者たちがそうであったのと同じように、もはや神の開示を待つ他にすべきことは何一つ残っていない。
そこでもしスーフィーの期待が真実であり、彼の願いが純粋であり、その修行が健全であり、さらに自己の欲望が心を乱したり雑念が彼を現世の絆に引き戻したりすることがなければ、「真実在」の光が心の中に照り輝く。この光は最初は稲妻のようにすぐ消える。ある時はまた戻ってくる。光はしばらく続く時と、瞬間的な時とがある。持続する場合でも、長い時もあれば短い時もある。それは、次々に幻影として現われてくるときもあり、一度で終わるときもある。
「ガザーリーの祈禱論」p83〜84大明堂発行
「イスラムの神秘主義」p64平凡社
こうしてスーフィーはファナーへと移行する。
9世紀のスーフィーたちはインド人の調息の行を知っていて、それをおおいに用いた。
別のあるスーフィーは、この主題を下記の一文に要約している:
自己を忘れること
ズィクルの最初の段階とは、自らを忘却することである。ズィクルの最後の段階とは、礼拝の際に礼拝行為をする自らを忘却し、礼拝行為を意識することもなく礼拝の対象に没入することである。このように没入する者は、礼拝する自分に再び戻らず永遠に没入することになる。これを「消滅からの消滅」(fana al-fana).と呼ぶ。
ファナー(消滅)
ファナーについてガザーリーは、次のようにいう。
「スーフィーの目には一者以外には何ものもみえないし、また自己自身すらみえない。彼らはタウヒード(唯一性)の中に没入しており、そのために自己自身さえ気付いていない。その時、彼らはそのタウヒード体験の中で、自己自身から死滅している。自己をみ、他の被造物をみることからも死滅している。」
ガザーリーはその心理的特徴について、「畏怖の念で潰滅している状態」、「心は歓喜に満ちあふれ、それは身も心も崩れるばかりに強いもの」、「神の真性が完全に啓示され、・・・あらゆる存在の形式が心の中に開示されるほどに心が拡げられる」「太陽の灼光」のごときもの、と説明している。
••彼の心は歓喜に満ちあふれる。それは身も心も崩れるばかりに強いものである。彼は、その歓喜と喜悦の重みに自分が耐えているのを知り、驚嘆する。これこそ、直接体験によってのみ知られるものである。
••神の真性が完全に啓示され、その結果、全宇宙を包含し、そのすべてを知り尽くし、あらゆる存在の形式が心の中に顕示されるほどに心は拡げられる。この瞬間、全存在があるがままに顕示されるため、心の神秘の光が明るく輝く。これこそ、以前光のヴェールともいえる壁龕により妨げられていたものである。
••いまや神がその僕の心の世話役となり、叡智の光で心を照らし出すにいたる。神が僕の心の世話を引き受け、神のめぐみがその上に満ちあふれ、光がさし込んでくると、心は開き、神の国の神秘が顕示される。
一なる真実在以外には何ものも現われてこないこの神秘的観照は、時にはしばらく続く。しかしまた、時には電光石火のごとく瞬時の出来事に終わる。そして、これが普通の場合で、永く続くことは稀である。
「ガザーリーの祈禱論」p45〜46
ニルヴァーナとファナー
以上の引用は、ニルヴァーナを目指したブッダの八道説と多くの点で類似しているように思われる。スーフィズムの理論と実践が、少なからぬ範囲に渡り仏教の影響を受けていることは、誰であれその論拠を研究した者ならば決して否定出来るものではない。ニルヴァーナとファナーの歴史的な接続点については未だ推測の域を出るものではないが、しかし大いにあり得ることではある。
R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」
岩波「イスラム教入門」ほか
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