大略すれば、知識には三種ある。
第一は、読んだり聞いたりすることによってうるものである。われわれはこれを記憶して、平素重要な所有物として持っているもので、いわゆる知識の大部分はこの種のものである。 われわれは地球上をくまなく歩きまわって、親しくこれを調査する訳にはゆかない。ゆえに、世界の知識については他人が備えてくれた地図に頼る。
第二種類の知識は、科学的と普通いわれているものである。 観察と実験・分析と推理の結果である。 それは前者より強固な基礎を持っているが、ある程度体験的で経験的なところがあるからであろう。
第三の種類の知識は直覚的な理解の方法によって達せられるものである。第二の形態の知識を重んずる人にしたがえば、直覚的な知識は事実に確実な基礎を有せぬから、あまり絶対的な信頼を置くことはできぬという。しかし、事実としては、いわゆる科学的知識は完璧なものではなくて、それ自身限界を有するものであるから、異変、とくに個人性異変の起った場合には、科学と論理はかねて貯えておいた知識を利用する隙がない、記憶している知識だけでは役に立たぬ。 かかる場合には、精神はあまりにとっさなので過去に貯蔵した記憶の一切を喚起することはできないからである。しかるに一方、直覚的知識はあらゆる種類の信仰、とくに宗教的信仰の基礎を形成しており、最も能率的に危機に応じ能うのである。
禅が呼びさまさんとするところは、この第三の形態の知識であって、それは深く存在の基礎にまで滲透している、というよりはむしろ、われわれの存在の深いところからでてくるものなのである。
鈴木大拙『禅と日本文化』
一章「禅の予備知識」より
二種の知識
われわれが真実を知る仕方に二つの種類がある。その一つはそれについての知識であり、も一つは真実そのものから出てくるものである。「知識」を広義に用いれば、前者を可知的知識、後者を不可知的知識ということができると思う。
知識が主体と客体との関係であるとき、これは可知的であるが、ここでは、主体が知るもの、客体が知られるものとなる。この両立が存するかぎり、これに根拠を置く一切の知識は公共の所有であり、誰でもこれをもつことができるから可知的である。
逆に、知識が公共的でなく、他に分け与えることができないという意味において厳密に個人的となる場合、これは不知的または不可知的となる。不知の知識は内的経験の産物である。ゆえにそれは全く個人的でありしかも主観的である。
しかしこの種の知識の妙な点は、この知識をもった者は、その個人的性質にもかかわらず、その普遍性を絶対に確信しているということである。彼は、誰しも皆これを具有しているが、しかし誰もがこれに気づかぬということを知っている。
相対的と絶対的
可知的知識は相対的であるが、不可知的知識は絶対的であり超越的であって、そして理念の媒介というものを以てしてはこれを伝えることができない。
絶対的知識とは主体者が自己と知識との間になんら介入物を挿しはさまずに己れ自ら掴むという知識である。主体者は自己を知るために主と客といったものに自己を二分しない。これを内的自覚の状態といってよかろう。この自覚は奇妙にも人間の心を不安と怖れから解放する力をもっているのである。
般若直観prajñā/paññā
不可知的知識は直観的知識である。しかし般若直観は知覚作用としての直観とは全然違うものである。知覚としての直観の場合には、見るものと見られるものとがあって、それらは分けられるもので、事実分かれていて、一方が他に対立している。この対立した二つのものは相対性と差別の領域に属するものである。般若直観は単一性と同一性のところにある。それは倫理的直観でもなく数学的直観でもない。
般若直観の一般的性格付けをするならば次のようにいいえる。即ち、般若直観は派生的でなく原始的である、推理しうるものでも合理的でも、媒介によるものでもなく、直接で、無媒介で、非分析的で、最も完全なものである。
認識によるものでなく、象徴的でもなく、目的的でもなく、単にただ現れて出るものだ。抽象でなく具体に、過程・目的としてではなく、事実として究極的で、これ以上のものはなく、還元することのできぬもの、永遠に無に帰するものでなく、無限に含んでゆくものなどである。
純粋自己意識
我々の内部には純粋自己意識とでもいうべき何ものかがある。この純粋自己意識とは、また、純粋経験・純粋自覚直観(むしろ、 般若直観というべきもの)といってもよい。これが我々の、あらゆる経験、あらゆる知識の真の基盤である。
この基盤は概念規定をもっては捉えられない。なぜならば、概念規定とはそれを外部に持ち出し客観化することだからである。 この 「何ものか」 (something)が、 究極の真実であり、「主体性(subjectum)であり、即ち「空」なのである。ここ で最も大切なことは、これが実は自己意識だということである。自己意識といっても、それは相対的な意味のものではない。この自己意識が知である。
知識とは、その一般に用いられている意味においては、主観と客観との関係である。こうしたニ岐の区別が存在
しないところに知識は成立することができない。 この二つのものの対立のないところに、何らかの叡智的なものがあるにしても、これを知識と規定すべきではない。これを知識ときめてしまえば結果は混乱を生じ、どうにも動きのとれぬ矛盾となる。
絶えず代謝してゆく意識の過程の終末において、自己が自分の姿を意識する、この最後のところが最も深い意味における自己の意識だと私はいうのである。これがほんとうの自己意識である。
そこには、主と客との分離はない、主が客であり、また、客が主となるところである。もしここに何らかの主•客の分岐を見出すならば、それはまだ意識の限界ではない。今や我々はこの限界を越え、そしてこの超越の事実を意識している。ここには、自己なるものは何の跡かたもありえず、無自己という無意識の意識があるだけである。それはもはや主•客相対の領域を越えているからである。
これがほかならぬ般若直観である。「分別識•差別的知識」に対する般若である。ここに人間の理解の域を越えた非合理性がある。知は般若の絶対の対象であり、同時に般若そのものでもある。中国の仏教哲学者は同義異語を反復して、これを「般若の智慧」という。 これは一般に解釈されているような般若からはっきり区別された智慧というものをもちたいからである。
鈴木大拙全集第12卷
「胡適博士に答う」より
イメージ図
上図の要素を重ね合わせた図です。
般若
仏教用語の般若とは、サンスクリット語: prajñā、パーリ語: paññāに由来し、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと。 仏教瞑想の文脈では、すべての物事の特性を理解する力であるとしている。大乗仏教においては、それは空の理解であるとしている。(wiki)
二諦(世俗諦・勝義諦)
二諦(にたい)とは、仏教において真諦と俗諦のこと。真諦は勝義諦や第一義諦ともいい、出世間的真理を指す
俗諦は世俗諦や世諦ともいい、世間的真理を指す。真諦および俗諦の意味は緒経論において種々である。(wiki)
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