二つに見えて、世界はひとつ

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そのものズバリ

2022-11-13 12:01:00 | 直接体験

 科学が実在を扱う方法というのは対象をいわゆる客観的方法で観察する。たとえば、この机の上に一輪の花がある。これを科学的に研究するとすれば、科学者はあらゆる角度から分析に付する。

 植物学的、化学的、物理学的にいろいろやる。そしてそれぞれの特殊の研究的立場から花について見出だしたあらゆる事柄を報告する。

 そこでいわく「花の研究はつくされた。別の研究をやってみて何か新しいことが見つけ出されぬ限り、この花について述べることはもはや何も残ってはおらぬ」と。

 実在の科学的取り扱いというもののおもな特徴は、対象を記述すること、それについて語ること、その周囲を回ること、われわれの知的感覚に訴えるものはなんでもこれをとらえて、それを対象から抽出する。そしていっさいのこうした手筈が終わったと考えられる時に、こうした抽象の結果を総合して結論というものを得ることになる。



 しかし、なおここに疑問が残る。「網にとらえた物は果たして完全な物だったのか」ということだ。私は言う。「とんでもない」と。なぜなら、私たちがとらえ得たと思った対象とは抽象の寄せ集めではあるが、″そのものズバリ″ではない。実用的には功利的な目的のためにはこれらのいわゆる科学的公式といったものでも十分過ぎるように見える。

 けれども、いわゆる対象自体は全然そこにはいないのだ。水から網を引き揚げてみて、「ハテ何か網目から逃げ出しているな」と言うことに気が付く。

 しかし、実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやって来る方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。

 禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいっていくのである。
 
 鈴木大拙・フロム「禅と精神分析」より





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