自己同一律はわたしたちが実生活において普通に使っている論理であり特別なものではありませんが説明しようとするとなかなかうまく説明できないものです。以下の寓話で示されているのが自己同一律です。
キンスカの木
むかし、インドのバーナラシーの王様に4人の王子がいました。ある日、仲のよい4人がいつものようにいろんな話をしている時、「キンスカの木を見たことがない。ぜひ見てみたい」ということになりました。そこで、何でも知っている年老いた執事に、キンスカの木を見に連れて行ってほしいと頼みました。
すると執事は「ああ、そうですか。キンスカの木でしたら、あの森の奥のほうに大木がございます。わたしがご案内いたしましょう。ただし、わたしの馬車は2人乗りですから、おひとりずつ、わたしの都合のよい時にご案内いたしましょう」と言いました。
こうして4人の兄弟は、年老いた執事に連れられて、「キンスカの木」を見に行くことになりました。ただし、見に行ったのは同じ季節ではありませんでした。
まず長男が連れて行ってもらったのは、冬の終わりのころでした。黒っぽい大きな枝一面に赤い小さなつぼみがいっぱいならんで春のおとずれをまっていました。
次男が連れて行ってもらったのは、春のはじめのころでした。手の形をした赤い花が咲きほこっていて、藤の花のようにたれ下がっていました。
三男が連れて行ってもらったのは、夏のはじめのころでした。青々とした葉が下から上まで生いしげっていました。
そして、四男が連れて行ってもらったのは、秋のはじまりのころでした。葉はすべて落ちて、大きなつつのようなさやが実を結び、枝一面にぶらさがっていました。
画 登光の仏教紙芝居より
4人は「キンスカの木」について、それぞれ感想を言い合いました。長男は「キンスカの木は黒くて大きくて、まるでもえた柱のように赤いはんてんがいっぱいついていたよ」と言いました。
すると次男は「ちがうよ。真っ赤な肉のかたまりのようだったよ」と言いました。ところが三男は「変だなぁ!ぼくが見たのは菩提樹のように青々と葉っぱが生いしげる大きな木だったよ」と言いました。最後の四男は「みんなが言っているのとぼくが見たものはちがうよ。葉っぱは1枚もなく、さやの形をした実のようなものでおおわれていたよ。ネムの木のようだなと思ったけどね」と言いました。
4人は同じ案内で、同じ森の同じ木を見てきたのに、答えがどれも違っていたので不思議に思いました。「どうしてなんだろう。父上に聞いてみよう」と、4人は一緒に王様のところへ行きました。
王様は4人の顔を見て、
「おまえたちが見てきたものは、どれもみなキンスカの木なのだよ。しかし、学習の仕方がまちがっている。王子たちよ、ただ自分で見ただけでは自分の考えが中心になって、物事を正しく判断できないのだ。おまえたちを案内した執事は、おまえたちより、よくキンスカの木を知っている。いわばおまえたちの先生だ。
ならば、『この木はいつもこのすがたをしているのですか?』と聞くようにしなければならない。おまえたちは季節によって変化するキンスカの木のすがたを理解していなかったのだ。
ジャータカ248
類話
相応部経典 六処相応 毒蛇品204「 キンスカ」(サンユッタニカーヤ35・204話。)
同一性
生命あるものは何物であれ一つの有機体であり、決して同じ存在状態にとどまっていないのがまさにその有機体の本性といってよいだろう。
樫の実であるドングリは、いやその外皮を破って若々しい葉をつき出しはじめた樫の幼木でさえも、堂々と巨大に大空にそびえたつまでに成長した樫の大木とはまったく違ったものである。
とはいえ、 この変化のさまざまな局面を通じて、成長といった意味での連続性と明らかな同一性のしるしが存在しており、それ故にこそわれわれは、なにかある一つの植物 が、生成のさまざまな段階を経てきたことを知るのである。
鈴木大拙禅選集
「禅仏教入門」7より
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