二つに見えて、世界はひとつ

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新しい世界

2023-01-16 11:47:00 | 仏教の大意
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。



  新しい世界

 日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。

 人々の般若の知恵も
 これと同じようである。

 人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。

 知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。

 やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。

 風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。

 間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。

 このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。
   「六祖壇経」般若第二

 
国宝・一二天屏風(月天)鎌倉時代 京都・東寺

見出し画 
六祖截竹図(りくそせっちくず)
絵画 / 宋 / 中国 梁楷筆
南宋時代・13世紀


達磨「無心論」

2023-01-05 10:07:00 | 仏教の大意
 まえがき 

 真理はものを言わぬ。人の言葉に託して真理をあらわにせねばならぬ。 大道には姿もなく形もない。姿に現して言わぬと人には伝えられない。 今しばらく仮に問う者と答える者の二人を立てて、共に無心の論を談ず。

問い、
「有心か、無心か」

答え、 
「無心だ」

問い、
「無心ならば、誰が見聞覚知し、誰が無心だと知るのであるか」

答え、
「無心であるから、能く見聞覚知する。無心が無心だと知るのである」

問い、
「無心なら、見聞覚知することはできないはずである。どうして見聞覚知することができるのであろうか」

答え
「わしは無心でも、よく見、よく聞き、よく覚し、よく知る」

問い、
「よく見聞覚知できるからには、有心のはずである。どうして無いと言いきるのか」

答え
「ほかでもない、この見聞覚知が、すなわち無心である。見聞覚知を離れて別に無心というものがあるのではない。

 見の場合は、われらは終日見ているが、しかも別に見るということがないのである。それゆえに、見もまた無心である。聞の場合も、終日聞いているが、しかも別に聞くということがないのである。それゆえに、聞もまた無心である。覚の場合も知の場合も同様である。また行ないの場合もまたその通りで、終日何やかや行ないながらを何もしていないのと同じなのである。だから、見聞覚知とはいうが、これらはすべて無心というものである。

 不可得

問い、
「どうして無心であるとわかるのか」

答え、
「ひとつ、くわしく探してみるがよい。 心というものに、どんな姿があるのか。その心はこれといって把握できるものか。心といってもこれといって心なるものがないではないか。

 またそれは内にあるとすべきか、外にあるとすべきか、それともその中間にあるとすべきか。これら3ヶ所に心なるものを探し求めても、得ることができぬものである。またさらにこれをあらゆる所に求めるとしたところでこの心は得ることができないものである。それで無心ということがわかる。

 罪と徳

問い、
「どこを探してもすべて無心だと言われるが、それならば罪とか福とかいうものもないことになる。何ゆえに人は六道輪廻し、はてもなく生死をくりかえすことになるのか」

答え、
「人々は迷妄のゆえ、無心の中で勝手に心をこしらえ、さまざまな業を造り、勝手に執着して有心としてしまうから、六道に輪廻し、はてしなく生死をくりかえすのである。たとえて言うなら、暗がりで切り株を見てそれを幽霊だと思ったり、縄を見てはそれを蛇と思ったりして、こわがっている者のようなものであり、人々が勝手に思い込むのも、こんなことだ。

 そのような者でも、 善知識にお目にかかり坐禅を習い、無心にめざめることになると、一切の罪は滅びるのである。どんな業も根こそぎ消え、生死もたちまちふっ切れてしまう。 ちょうど、暗い場所に日光が射し込むと、暗い場所がすっかり消えてなくなるようなものだ。それと同じように、無心に気付けば、どんな罪も消えてしまう」

 対治の法

問い、
「わたしは愚かゆえ、なかなか納得できません。迷いと悟り、生死と寂滅なども、はたして無心でしょうか」

答え
「まちがいなく無心だ。人々は勝手に心が有ると思いこむものだから、煩悩とか生死とか悟りとか涅槃寂滅などの名ができる。もし無心だとわかるなら、すべての煩悩、生死、涅槃などというものがなくなってしまう。

 それで如来は、心が有ると思っている者のために、生死があると説くのである。菩提(さとり)は煩悩に対してその名があり、涅槃(ねはん)は生死に対してその名を得るのである。いずれも対治の法である。もし、心として別に得るものがなけれは、煩悩も悟りも得ることがなくなるのである。ないし生死も涅槃もみななくなるのである。

問い、
「悟りも寂滅も得られぬ以上、これまで仏たちが悟りを得たというのは、どういうわけか」

答え、
「世俗の表現によって得たというにすぎぬ。真理の世界では何も得ることはない。『維摩経』に、悟りは身体で得ることもできないし、心で得ることもできないと言っている。また『金剛経』にも、少しばかりの法すら得られることはない、仏たちは得ることができぬと知られただけである、と。 それで心が有れば一切が有であり、無心であれば一切が無である」

 無心とは真実心のこと

問い、
「すべて無心であるといわれるが、木も石も無心である。それではわれらも木石と同じではないか」

答え
「われわれのいう無心は、木石のそれとは意味がちがう。そのわけは、たとえば✳天鼓だ。下に伏せてあっても、おのずと妙音を打ち鳴らして人々を感化する。また、✳如意珠みたいなもので。これも無心ではあるが、変幻自在である。われわれのいう無心もこれと同じで、無心といっても諸法の真実をさとり、真の知恵をそなえて、自由自在でその働きは融通無碍である。


問、 
「では、どういう修行をすればよいのか」

答え、
「すべての事に無心であれば、それが修行である。ほかに修行があるわけではない。無心がわかれば一切が寂滅である。これが無心である。
つまり無心とは、妄想の心がないとの意味である。これが真実の心であり、真実の心というものは無心のことだ」



✳天鼓(てんく)
仏教用語の一つ。欲界の6天のうちの、第2天にあるとされる鼓(つづみ)のこと。ひとりでに音を鳴らし、悪行を止め、つつしませるとされている。

✳如意宝珠 にょいほうじゅ
思いどおりに宝を出すといわれる珠のこと。 サンスクリット語のチンターマニcintāma iの訳。 如意宝、如意珠ともいう。 いかなる願望も成就し、意のままに、宝や衣服、飲食を出し、病気や苦悩をいやしてくれるまさに空想上の宝珠であり、また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳(くどく)があると信じられている。

(参)
世界の名著18「禅語録」より「菩提達摩無心論」

鈴木大拙全集第五巻「華厳の研究」p148−152
同 第七巻「無心ということ」

    白隠達磨図

菩提達磨は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。(wiki)