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Blog☆HiloⅡ

東日本大震災から10年を経てその復興は?

2011年3月11日の東日本大震災から10年が経過します。
トップの写真は陸前高田市のかさ上げ工事についての記事です。
当初の構想から何度も変更を重ねるうちに月日が経ち,その間に他の町へ移転した住民の多くは再び戻ってきていないそうです。
陸前高田市によれば,土地の所有者の行方を探すことに手間取ったり多くの問題があったようです。
しかし,その間行政,コンサル,住民が同じ方向を向いて計画を進めていたかというと,この記事を読む限りそうではなかったようです。
高台移転という理想的な復興事業が終わってもそこに戻ってくる住民が少なくては何のための復興事業だったのかということになります。
ゴーストタウンになるのではないかと危惧している人もいます。
ボクは当初から防潮堤とか高台移転に疑問を持っていました。
そう思ったきっかけはハワイ島ヒロの街です。
ヒロの街がかつて大きな津波に襲われたことはよく知られています。
街にはパシフィック・ツナミ・ミュージアムがあって,当時のことを知ることができます。

ヒロの街は1946年のアリューシャン地震津波と1960年のチリ地震津波で壊滅的な被害に遭いました。
このためヒロのダウンタウンの一部はゴルフ場、公園、駐車場となりましたが,ミュージアムがあるのは海抜数メートルの海とは道路を隔てただけの場所です。
ミュージアムの周辺はダウンタウンとして残っています。

ヤシの木の向こうはすぐに海です。
ただし,地震が起こった際には山側に逃げることが徹底されています。
陸前高田市だって同様に考えることができたと思います。
従前に沿った形で街を再生し,山に逃げる避難路を整備する。
ただし学校や役場などは高台に作り直す。
それなら2~3年で復興できたはずです。
ところが市は高台移転や防潮堤の建設を選択して莫大な予算をつぎ込みました。
そのお金で街を再生すれば住民は自宅やお店を公費で元通りにすることができたんです。
自宅やお店は元の場所に再生して,地震が来たらすぐに逃げる。
そのための避難ルートはしっかり整備する。
もし100年後に津波で街が流されたって住民に被害が出なければいいんです。
公費で賄って再建すれば住民の負担はゼロです。
今回の復興に要した費用と10年の歳月を考えたらどちらがいいか一目瞭然です。
復興はスピードが勝負だということです。

「もはや戦後ではない」この言葉をご存知ですか。
1956年の経済白書に記載された言葉です。
死者だけで300万人といわれた大戦からわずか10年で日本は立ち直ったんです。
それが今の時代に津波からの復興になぜこんなに時間がかかるのか。
住民のことを第一に考えずに役人や識者が机上で理想論ばかりを議論してきたからこんなことになったんでしょう。
トップの記事を読んでも役人や識者の言い訳や責任逃れのようなことが記載されています。

阪神・淡路大震災から26年を迎えた神戸市でも同じことが起きていますねココ
こうしたことを検証すれば復興に時間をかけてはいけないということがよくわかるとおもうのだけど。

* 「もはや戦後ではない」の本来の意味はそうではないと話す人もいますが,多くの国民は額面通りに受け取りました。
  ボクはそれでよかったと思います。
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