江戸川の土手に上がって日の出を見ることは多々あっても、
晩酌を早く始めるので夕焼けを見ることは滅多にない。
しかし、秋も深まり日の入りが早くなったので久々に夕焼け
を見た。
さて、中山道ウォーク、本庄宿の4回目。旧中山道沿い
の煉瓦造りの繭倉庫跡から北に向かって普寛霊場に着くが、
その入口にびっくり。
真っ赤な文字は「東京各區消防組」と読めるが、さて?
普寛霊場の境内に入り「本庄かるた」を読んで、この謎が
解ける。「火渡りでにぎわう霊場普寛様」。そして、知らず
自撮りとなってしまった。さて、普寛様とは誰ぞ?
以下、口碑を抜粋する。
江戸の中期、武州秩父大滝村生まれの淺見(アザミ)好八
は秩父直神陰流の剣術に優れ、三十四才で人心救済を決し
修験の道に入る。
以降、厳しい修業を積んで神仏両道の奥義を極めた後、
光明院木食普寛と改名、各地の登山道を開く。中でも木曽
の御嶽山、沼田の武尊(ホタカ)山が有名である。
木曽御嶽の登山口は王滝口と命名されその功績を讃えら
れている。そして、この本庄宿の信者、米屋兵衛の家で
七十一才の生涯を閉じた。
「亡きがらはいずこの里に埋まるとも心は御嶽(ミタケ)の
有明の里」と晩年の心境を読んだという。
社務所脇の東屋で久々の休憩。もう午後の1時過ぎだが、
まだ本庄宿を散策中。一服して敷地続きの安陽院へ向かう。
広くすっきりした境内に、本庄で一番大きい木造建築と
いう本堂がデンと構える。
創建は1475年、徳川家光からは二十五万石の御朱印を拝領
したとされる。先ほどの普寛霊場は大正年間に、この安陽院
から移築された。
鐘楼だけは洒落れた現代建築だが、本堂、山門、総門は本庄
市の指定記念物。ここにも新しい毘沙門天が立つ。本堂脇から
入ったので、逆順の総門から出て旧中山道に戻る。
本庄宿散策も終盤、旧中山道を一路西へ。「こだま芸術祭」
に参加している中澤医院跡は、資料館にあった妙薬取次處、
中澤屋孫兵衛の子孫に違いない。
道沿いに立つ大きな石柱。これがお寺さんの入口案内とは
あとで知る。
今日八つ目の寺社、金鑚(カナサナ)神社は、欽明天皇の世
の創建という古い神社。武蔵七党の一つ「児玉党」の氏神、
本庄城主歴代の崇信が厚かったという。
鮮やかな本殿、神楽殿、手水所の荘厳さも目立つが、何と。
言っても高い二本の神木が際立つ。
それにしても境内の奥、拝殿と直角に建つこの黒門の位置
は腑に落ちない。ここも七福神の一つ、恵比寿天。
本庄宿最後のお寺さんは「佛母(ブツモ)寺」。この黒門
の脇の道から行けそうな気もするが、一旦旧中山道に戻る。
理由は次回としよう。