一昨日の「善光寺と北国街道(2)」で、
「『大門』というからには昔は大きな門があったのか思うが仁王門も
山門もまだ先である。成田山のような『総門』があったのだろうか。」
と書いた。
何とか判らないかとネットで探したら「長野市誌第二編中世」のある
図版にハタと手を打った。中世の善光寺は今より南にあったという図だ。
それは周囲を(土)塀で囲われた細長い伽藍配置で本堂の形は現在と
変わらないが今は無い五重塔がある。南(右)の端の門が南大門である。
これを今の地図に落とすとこんな感じであろう。まさに大門交差点
あたりに「南大門」があったと思われる。
そして当時の町割りでも南大門の前に「大門」の町名がある。その
大門の南に「後町(ゴチョウ)」の町名。今は無き母校の小学校が「後町」
であった。
結論は大門に大門があったのである。その大門交差点を改めて。