原宿に行きたい なおみ
二度目の全米オープンを制した大坂なおみ選手を起用
した日清食品の広告が物議を醸している。
今のタイミングでのこの広告は「空気が読めない」と
批判されても仕方ない。2年前、最初に全米オープンを
制した時の凱旋会見で語った言葉を使ったという。
毎試合、人種差別の被害者の名を書いたマスクをして、
抗議の意志を示した今回の全米オープン大会が始まる時
に出した広告だが、なおみは既に、前の試合ボイコット
という抗議を示していたのである。
大坂なおみは言う。
「アスリートは発言するたびにスポンサーを失うことを
恐れていると思う。私にとっては本当にそう。なぜなら
私のスポンサーの大半は日本企業だから。
彼らは私が何を話しているか理解できず、気を悪くして
いるのかもしれない」
(今朝の朝日新聞「ニュースQ3」から)
さて、お約束の「伊能ウォーク」の本部隊員であった
畑中一一氏の2年間のウォーキングの回顧録である。
新聞で伊能ウォーク本部隊員の募集を見た畑中一一は
当時大手ゼネコンの大阪支店勤務、定年も近かった。
必ずしも選ばれるわけではないと応募し、最終選考会
である東松山スリーデーマーチを歩いた。「来年1月に
本当に来れますか」と聞かれたのはその最終日だった。
妻は糖尿のある夫の体を心配したが子供たちは賛成。
一番心配した会社も、定年までの残り期間を有給扱いに
すると言って賛成してくれた。
こうして2年間で日本を一周する「伊能ウォーク」の
16人の本部隊員となった畑中一一は、出発地の東京へ
向かったのである。
正味574日間、各県でのウォーキング大会を入れ、
総計1万1千余キロのウォーキングの様子を雑誌に投稿
し続けた中畑が、踏破後にそれらを加筆して出版した
のがこの本である。
本部隊員の平均年齢は60歳強。最高齢は77歳で
最年少は大手パソコンメーカーを退職してまで参加した
32歳のOL。畑中はちょうどその平均の年齢だった。
ステージ毎の数ヶ月の間、本部隊員が泊まるのは多く
の場合大部屋である。最初の頃は一日の疲労と、初めて
顔を合わせる者同士の緊張でギクシャクしたという。
さもあらん、特に年配者は自分の生活スタイルが身に
沁み込んでいるので、それがぶつかり合う訳である。
あるステージだけ歩く、ある県だけ歩く、ある日だけ
歩くという様々な参加者、総称して「追っかけ隊」の
毎日の受付も本部隊員の仕事である。日によっては何千人
となる時があった。
そして、伊能ウォークであるから日々の地点の緯度と
経度の測定も任務の内である。もちろん今の時代GPS
計測である。
東京ー札幌、青森ー長野、長野ー大阪、大阪ー鹿児島、
そして最後の沖縄ー東京という5つのステージ。長い
日本列島の二回の四季の中、雨もあれば雪の日もあった。
辛い峠越えも多々、という平均23キロのウォーキング。
本部隊員の一人は仕事に呼び返されて離脱し、畑中も
第1ステージで足裏のヘルペス、第4ステージで持病の
糖尿の兆候が出てそれぞれ一時戦線離脱した。
畑中が一番感動し、一人一人の名前や団体名を克明に
書いているのは「人」との出会いであった。
まずは、各地で歓迎の催しをしてくれた人々。幼稚園
や小学校の幼い子供たちが地元の踊りや太鼓演奏をして
くれたこと。婦人会や自治体が名産の料理を振舞って
くれたこと。特に四国で猛烈な歓待ぶりにびっくりした。
出発式や到着式、あるいは県境での引き継ぎ式での
各首長の挨拶の中には感動ものの名スピーチがあった。
畑中の人望であっただろう、様々な知り合いが各地
で出迎えてくれたという。まずは雲の上の人、勤め先の
ゼネコンの元会長の顧問も神戸で待っていた。
もちろん勤めた大阪、神戸はもちろん赴任したことも
ない各地の支店からも盛大な出迎えを受けた。
故郷福井県を通った時には伊能隊のコースからは少し
離れた生まれ故郷の武生市から友人たちが大挙迎えて、
そして見送ってくれた。
仲良く歩いた「追っかけ隊」の人々も、思わぬ所で
再び会うことも多かった。
日々の行程を記す傍ら、こういった人との出会いと
感動に多くのページを割いているのが、この回顧録の
素晴らしいところである。
そして何よりも、畑中の体を心配していたあの妻が、
あちこちで「追っかけ隊」として一緒に歩くように
なり、多数回参加者として表彰されたこと、そして
一緒に日比谷公園にゴールしたことがが一番の感激で
あろう。
畑中一一、「ひとたらし」である。
「伊能ウォーク全記録」から畑中一一氏の資料を2つ
紹介しよう。講談社の著作権があるが二十年近く前の
発行と言うことでご容赦願おう。
本部隊員モノローグから