高校同期生の物故者法要のあと長野駅前に泊った翌日、北国街道を
「少しだけ」歩く。午後からは雨の予報に長くは歩けないだろう。
ホテルの部屋で朝ドラ「おむすび」を観てから出発。まずは前回の
ゴール、長野駅脇の線路に突き当たったところの反対側からスタート。
メトロポリタンホテルの奥が線路
その逆側、長野駅前からの道が合流する末広町交差点
本堂までは約2キロ(十七丁)、やがて右手に「刈萱山西光寺」。
通称「かるかやさん」。出家した父(刈萱道心)を追って高野山に入った
子の石童丸。息子と判っても名乗れない父。父はやがてここ西光寺を興し、
仏の啓示で石童丸がここに辿り着いた時、父は没した後という悲劇。
長野駅前の石堂町は石童丸から来ている。
善光寺大地震で五重になった九重の供養塔、信州最古という芭蕉碑
など久しぶりにじっくりと廻ってから先に進む。大きな新田町交差点
を西へ行くと長野県庁、奥は裾花川を挟んで旭山。
東へ行くと市役所、交差点に近い信越放送ビルは元「丸光百貨店」。
いろいろな思い出がある。その脇に小学校の同級生の八百屋があったが
区画整理で今は無し。
先に進んだ左手が長野県庁東門への道(寿町通り)。その県庁の
すぐ手前に十九まで住んでいた懐かしいところ。信濃毎日新聞本社、
産業会館などがあるオフィス街だった。
ここまでの緩やかな上りが善光寺までけっこうな急坂となる。
若い頃は気にならず歩いていたが、今はけっこうシンドイ坂である。
車道を減らして広い歩道に、北国街道は善光寺参道でもある。
この広場は昔何だったのだろう?思い出せない。その一角に1998年の
長野冬季五輪の聖火台などがメモリアル・モニュメントとして置かれる。
この小道の突き当りが母校、後町(ゴチョウ)小学校の跡。十年ほど
前に138年の歴史を閉じ、今は県立大学の後町キャンパス。見えている
渡り廊下など小学校時代をほゞ踏襲した建物配置である。
奥の高い黒いビルは県立大ではなく、長野と言えばの北野建設。
後町小の鉄筋コンクリート化と解体・県立大の建設を一手に引き受けた
建設会社である。
坂の奥、善光寺山門が見えて来る。この先の左手が北野文芸座で
歌舞伎などが行われる。
善光寺がいよいよ近づくところ、新旧混合の街並みが急坂の両側に
続く。大門交差点の手前、残り「五丁」は山門までの距離か。
続きは次回としよう。