自燈明・法燈明の考察

創世記(ジェネシス)について考える事

 関東方面もここ最近になり、梅雨らしくなってきました。とは言え、伊豆方面では線状降水帯が確認され、新島でも昨日はもの凄い豪雨であったと聞きます。昔の日本の梅雨という季節は、私の記憶が正しければしっとりと雨の降るもんだと記憶していますが、近年では梅雨時期もそうですが、台風にしてもかなり荒れている様に感じます。

 先日我が家の子供に「SDGs(継続可能な開発目標)」について質問されたので答えはしましたが、最近、「エコ」「地球に優しい」なんてキーワードで様々な事が語られています。しかし今の大量生産・大量消費が基本となっている文明では、人類が地球に生きている事自体、他の生態系や生息環境に多大な影響を及ぼす事になっていて、いくら世界で「環境保全」を語ったところで、文明の基本的な思想が間違えているのだから、人類よがりで「地球環境に優しい」と言っているに過ぎません。

 私が危惧しているのは、このままいけば人類という種族自体も、この社会を維持する事が困難になってしまうのでは無いかという事なのです。


 さて、今日の記事ですが「創世記」について少し考える処を書いてみたいと思います。この創世記は旧約聖書の最初の書であり、天地創造やアダムとイブと言った、人類の始まりについて書かれているものです。
 私はそもそもが仏教を信じている立場であるので、この旧約聖書については明るくありません。なのでここでこの創世記自体を深く語る事も出来ないのです。

 では何故、取り上げたかと言えば、やはり「人類の始まり」としての物語に興味があるからです。

 でも私自身、この旧約聖書をそのまま鵜呑みにして、この人類は唯一絶対の神が作り出したとか、そんな事は信じていません。むしろ私は非ヤソ教徒なので、この旧約聖書に書かれている物語も、何かしらの伝承が変化して出来上がったのでは無いかと考えているのです。

 人類創成の話は何も旧約聖書にのみある訳ではなく、世界各地の民族の神話の中に様々な記述が見受けられます。日本神話でも「国生み・神生み」という話もありますし、インドにおいてもヴェーダ神話において宇宙の創造が書かれていたりします。
 これらに共通しているのは、人智を離れた存在によってこの世界は創り出され、人類もその中から創造されたというディテールです。このディテールは世界の多くの宗教の根底に存在すると思います。

 では仏教ではどうかと言えば、この人類の創成という事については何ら論究はしていません。大乗仏教では、この世界は人々の心の中から作り出され、一人ひとりの心とこの世界の関連性について論究しているのかな、と個人的には考えています。要は自分達の創造自体、自分の過去からの行い(カルマ)によるという考え方で、そこに人智を超えた神という存在を、そもそも置く事はしていません。

 そもそも人類は、自分達の起源というものは知らないのです。
 今の科学では「ミトコンドリア・イブ」という説もあり、人類の根源にはある女性が関わっていて、それはアフリカ大陸に由来のあるというものです。でもこれは単純に「一人の女性から誕生した」というものではなく、ある共通の女性が人類の始まりに関係していたというものです。

 人類が最古の文明と認めているのは「シュメール文明」です。これは今から6、000年以上昔に、メソポタミア地方(現在のイラク近辺)に突如発生した文明で、その興りについても様々な学説は存在しますが、いまだ確定されていません。

 果たして人類は何時頃発生したんでしょうね。
 ダーウィンの進化論を元にすれば、人類は猿や類人猿と共通の祖先から生まれたと言いますが、近年ではこのダーウィンの進化論も、正確ではない事が言われています。

 どちらかというと、人類はどこかのタイミングで外的影響により遺伝子が変化して誕生したという事の方が正しいのでは無いでしょうか。ここで言う外的影響とは人類以外の何物かの遺伝的な介入によって作り出されたという事を指します。
 こんな事を言うと「ほれ!オカルトマニア」と後ろ指を指されそうですが、私自身、創価学会という宗教団体と四半世紀関わり、その後に宗教を離れて十年以上、様々な情報を読んだり思索を進めてきた中で感じたのは、どうも「人類の持つ宗教心」には、何かしら「作為的」な部分を感じてしまいます。

 人類とは地球上の生物の中では賢い生物だと思います。自分を客観視できる能力を持ち、文字や言葉、そして文明を構築しても来ました。他の動物にはなく、人類のみが持ちえたこの能力ですが、どうも「宗教」というキーワードに対する脆弱さは目も当てられないほどだと思うのです。
 世界の歴史の中で見える多くの「愚行」の根底には、常に宗教が関係し、仏教という極めて内省的な思想でさえ、何か御すがり信仰として捉えてしまう。

 要は人類をうまくコントロールする為に、実は遺伝子レベルでこの「宗教」に対する姿勢「宗教心」を、人類は埋め込まれていやしないか。その様に感じてなりません。

 そうなると、やはり人類の「創世記」という事について思いを馳せる必要もあるのではないでしょうか。ここでいう「創世記」とは、単なる旧約聖書の中にある物語の事ではなく、人類とは何故この地球上に生まれてきたのか。またシュメール文明以前には、どの様な事をしていたのか。などなど。

 ある学者が言っていましたが、今の人類の進化に関する論理は「信念体系」でしかないという事。この世界に過去の痕跡として残っている遺跡の2~3%程度しか調査されていないのに、今の考古学の語る歴史はその程度の調査で打ち立てられています、つまりまだ未調査の部分も多くあり、その事から「信念体系」と、いまだ事実すら確定していない状況だと揶揄していました。

 いま人類社会は一つの岐路を迎えている様です。だからこういった事についても、人類は真摯に目を向ける必要があるのではないでしょうか。


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