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米海軍士官学校でも指導、柔道国際化への井上康生氏の大きな貢献。 米国が日本柔道を受容してきた長い歴史

2021-08-04 09:59:13 | スポーツ

米海軍士官学校でも指導、柔道国際化への井上康生氏の大きな貢献。米国が日本柔道を受容してきた長い歴史


2021.8.4(水)  JPpress    古森 義久  産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授

柔道男子日本代表監督の井上康生氏。東京五輪を最後に監督を退任する(2021年7月31日)

 

 東京オリンピックの前半戦で、国民の大きな関心を集め、報道で最も盛り上がったのは、やはり柔道

だったといえよう。

 

 日本勢は周知のように個人戦で男女合わせて金メダル9個を獲得した。新記録だった。

 

 東京オリンピックでは日本の柔道選手たちの大活躍とともに、柔道の国際普及ぶりに改めて驚嘆させ

られた。日本で生まれてこれほど全世界に広まり、愛されているスポーツはまず他にないだろう。

 

 たとえば今回のオリンピックでは、コソボというバルカン半島の小さな国の女子選手が2人も金メダルを

獲得した。台湾の男子選手も決勝戦まで勝ち上がって銀メダルを得た。コソボも台湾も、日ごろはあまり

国際社会の主舞台に出てこない国や地域である。

 

 主要国の柔道選手の活躍も目覚ましかった。男女混合団体戦で日本を完全に撃破したフランスは、

日本の4倍もの柔道人口を抱えた古参である。イギリスもドイツもブラジルもロシアも活躍が目立った。

アメリカは今回、上位に出てこなかったが、登場選手たちはカナダ、中国、韓国と、文字通りグローバル

だった。今さらながら日本で誕生した柔道の国際化を痛感させられた。

 

ワシントンの柔道場で日本人柔道家が指導

 そこで思うのは、米国の首都ワシントン地区における日米柔道交流の歴史である。日本柔道界が

主導して進められた国際化の典型が浮かび上がるからだ。私自身もその交流に関わってきた。

 

 ワシントン地区の「ジョ―タウン大学ワシントン柔道クラブ」と「海軍士官学校柔道クラブ」には、

もう20年ほどにわたって、ほぼ毎年、日本の柔道家が指導と練習に訪れてきた。米側からの招請と日本側

の国際化の努力とが結びついた結果だった。

 

 ジョージタウン大学ワシントン柔道クラブは米国東海岸で最古・最大の柔道場である。伝統ある町道場

と主要な大学の柔道部が合体したクラブなのだ。海軍士官学校柔道クラブは文字通り海軍士官を目指す

国立の大学の学生たちの稽古の場である。

 

 この両クラブで昨年(2020年)2月から3月にかけて3週間、ロンドン五輪選手だった中矢力氏が指導し

た。米国でコロナ感染が始まった時期とぶつかったが、交流は大盛況だった。中矢選手は、柔道日本男子

監督の井上康生氏が理事長を務める柔道国際交流組織「JUDOs」から派遣されてきた。

 

 JUDOsは山下泰裕氏が始めた「柔道教育ソリダリティー」を前身とする。柔道教育ソリダリティー

からも、山下氏自身をはじめ、同氏の師で世界覇者だった佐藤宣践氏、女子の覇者の塚田真希氏らが

ワシントン地区に派遣されてきた。

 

海軍士官学校を訪問した井上康生氏
 

 JUDOsを率いる井上氏は、2010年秋にワシントン地区を訪問した。

 

 井上氏のワシントン訪問は、日本柔道国際化の象徴ともいえた。とくに海軍士官学校では校長が

井上氏を正式の賓客として迎え、全校学生4500人が集まる昼食会の主賓として紹介した。井上氏が優勝

したシドニー五輪(2000年)の動画を多数、映しながらの歓迎だった。

 

 井上氏は海軍士官学校では3週間の間に数回、柔道の指導にあたった。井上氏から指導を受けたことを

機に同校の柔道クラブは正規の運動部へと昇格した。以後、日本側は「トモダチ作戦(筆者注:東日本

大震災時の米軍による救援活動)に感謝する柔道指導者派遣」を毎年、続けている。

 

 井上氏の海軍士官学校訪問は、日本の柔道界代表の公式の指導としては1世紀ぶりだった。

 

 日露戦争が終わり、日米関係が良好をきわめた1905年(明治38年)から2年ほど、当時の講道館の雄、

山下義嗣師範が海軍士官学校で正式の柔道指導にあたった。時のセオドア・ルーズベルト大統領が山下氏

の柔道に魅せられ、同校に推薦した結果だった。それ以来、日米関係の悪化もあって、日本からの柔道

代表が米国海軍の士官養成の場を公式に訪れたことは105年間もなかったのだ。

 

 井上氏はワシントン市内でも公立の小学校に招かれ、大多数が黒人の生徒たちに柔道の技や精神を

教えた。少年少女たちが熱心に学び、井上氏の体にいつまでもしがみついて離さないという光景が印象的

だった。

 

 また井上氏はジョージタウン大学ワシントン柔道クラブでも大講習会を開いた。2010年11月14日の

日曜、午前と午後の合計7時間、井上氏は全米各地から集まった指導者や選手、一般柔道家たち110人

ほどに、基礎の訓練から得意技の内またや大外刈りを解説した。的確な英語で、ときにはユーモアを

交えての指導だった。

 

 彼が凄みを発揮したのは乱取りと呼ばれる自由練習である。米国側の参加者は技の説明を聞く

だけでなく、みな井上氏との実際の投げ合いに挑みたがる。必死で技をかけて一度でもヒザでもつか

せれば、一生の記念になるというわけだ。

 

 彼はそんな米国人相手の乱取りに、午前と午後のまる1時間ずつ、たっぷり応じたのだった。

1人4分間ほど、屈強ぞろいの相手は懸命に攻め続ける。だが井上氏は軽く受け、ときおりきれいに投げる。

1回が終わると相手は立っていられないほど疲れているのに、彼は休まず、次の相手と組む。1時間続け

ても同じペースで2メートルもの巨漢を鮮やかに宙に舞わせるのだ。

 

 このころの井上氏は32歳、現役からの引退を2年半前に宣言したが、とにかく強かった。しかも、

しっかりと相手と組み、正面から飛び込んで投げる日本伝統の柔道なのだ。

 

東京五輪・柔道混合団体の表彰式後に胴上げされる井上康生監督(2021年7月31日)

 

長い歴史がある米国での日本柔道の受け入れ

 米国の柔道家は一般の職業に就いている人が大多数である。講習会参加も学生、医師、教師、弁護士、

会社員、パイロット、警官など多彩だった。たとえば、同クラブの古い会員であるピーター・ポラック

空軍中佐は1週間前にアフガニスタン勤務からイリノイ州の基地に戻ったばかりなのに、9歳の長女を

連れて特別参加した。

 

 井上氏は米国社会の実に幅広い層と接触したわけだ。それほどの層を引きつけたのは「日本のイノウエ」

の知名度と実績だろう。だがその背後には、もちろん「日本の柔道」という看板があった。日本柔道が

国際化を果たしたからこその看板である。

 

 日本の柔道家の米国・ワシントンへの訪問は、この20年で東京学生柔道連盟や主要大学の選抜選手

たちにまで広がった。東京オリンピックの柔道勢をみても、団長の金野潤氏、コーチの金丸雄介氏、

前述の塚田氏は、みなワシントンで汗を流した。

 

 日本の師範や選手がワシントンで指導することは、柔道の国際化を推進する大きな効果がある。

私自身、ジョージタウン大学ワシントン柔道クラブのコーチの一員として20年ほど受け入れ側へのプラス

効果を目撃してきた。

 

 まず日本の指導者の来訪がわかると、クラブのメンバーほぼ全員に加え、周辺近くの選手や指導者

たちがどっと集まってくる。そして、日本側代表から技術や気構え、マナーを驚くほどの熱心さと

素直さで吸収するのだ。こうして日本柔道が世界に浸透していく。まさに草の根の日本柔道の国際化で

ある。

 

 米国でのこうした日本柔道の受け入れには、実は長い歴史がある。

 

 戦前の山下義嗣師範の実例は前述の通りである。だが戦後も早い時期、前回の東京五輪前の昭和20年代

末期から、当時の学生柔道の一流選手たちが米国に渡り、居をすえて柔道の普及に努め始めたのだ。

 

 たとえば日大卒の米塚義定、慶大卒の宮崎剛、明大卒の篠原一雄という名選手たちだった。それぞれが

米国の各地で柔道を指導し、拡散した。そしてその輪が少しずつ広がっていった。

 

 日本柔道の国際化の歴史は、もちろん米国以外でも戦前にまでさかのぼる。フランス、イギリス、

あるいはブラジルなどで指導にあたった名師範たちの実績は伝説のように語り継がれる。

そんな日本柔道の世界での歴史に新たな光を当てるには、今こそが適切な時期だと思えるのである。

 


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