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騒げば騒ぐほど遠のく五輪メダル リオで日本が結果を残せた理由②

2016-08-30 02:02:59 | リオオリンピック

①のつづき

騒げば騒ぐほど遠のく五輪メダル リオで日本が結果を残せた理由②


かよ うな選手団本部を改革したいと思っていた私にとって、1989年 のJOC独立は希望あふれる出発だった。当面は、長野五輪招

致に専念せざるを得なかったが、その成功後、1992年のバルセロナ五輪は新生JOC最初の夏 の五輪であり、その本部構成はまさ

に選手のための機能集団とするべく考えられたものになった。

 
  日本の選手団本部役員は、いわゆる名誉職である団長、副団長、総務主事、その他役員と実務を司る事務局で構成される。対組

織委員会対策、他国選手団対策な どの実務は本来「Chef de Mission」と言われる団長がすべて司ることになっている。

しかし、日本語での団長はあくまでも名誉職であり、かような実務を団長に任せることはでき ない。バルセロナ五輪の団長が時のJOC

会長、古橋廣之進(水連会長)であったと言えば納得いただけると思う。「フジヤマのトビウオ」に資格認定交渉や選 手村配宿交渉を託

すことができようか。

閉会式に先立って、大会を総括した日本選手団の橋本聖子団長(右)と山下泰裕副団長=8月21日、メインプレスセンター(リオ)

 
 そこで機能集団とするために本部員以下で構成する本部役員会を作り上 げた。まず私自身をActing Chef de Mission(団長代

行)にして、組織委員会や他国NOCそして国際オリンピック委員会(IOC)との交渉を選手団代表としてすべて取り仕切った。そこ から

本部員に選手のための労働を託していった。いわゆる「チーム」を作ったのである。これによって、逆にその「チーム」を支援しようと実

際に仕事をする役 員が出てくるようになった。

役員と選手の壁が消え、日本代表選手団が風通しの良い機能集団に変わろうとしていた。
 
  これがなぜ重要かというと、選手やコーチたちと本部の信頼関係が築けるからである。本部に行って相談すれば大丈夫という安心感

が競技に及ぼす影響は大き い。体調の悪い時にリラックスして話せる本部と、体調が悪いなどと言えず「頑張ってきます」としか言えな

い本部の違いと言ったらわかりやすいだろうか。
 
  また、日本選手団を編成する場合、JOCは選手団編成委員会を設けて、各競技団体の代表と折衝する。五輪憲章とIFの規定に基

づき組織委員会が決めたエン トリーフォームに基づいて選手数と役員数が必然的に決まるために、その枠内での交渉となる。

選手数が決まれば役員数が決まるが、この役員の人選は競技団体 に任される。そしてここに日本独特の慣習があり、それが選手サ

ポートの弊害になっていた。五輪選手団に入るという名誉を得たい役員が山ほどいる競技団体で は、選手のためではなく、役員のた

めの論理を働かせるからだ。競技団体に長年尽くしてきてくれたのだから、褒賞として今度の五輪の総監督に推すなど、まさ に年功序

列というべきか。あの選手の専属コーチを選手のために役員枠に入れてあげようという発想には決してならないのである。
 
 当然ながら、実際に困るのは選手である。その選手を助けるために私が できたことは、枠外役員交渉である。

枠外役員、いわゆるExtra Officialである。組織委員会は選手村に入れる役員数を上回る必要な役員については、各NOCとの交渉

に付す。これは1984年のロサンゼルス五輪 から出てきた概念であり、1998年のカルガリー冬季五輪から資格認定カード(ADカー

ド)とともにしっかりと定義づけられた。そこで、本当に役に立つ役 員に対してADカードを出すために組織委員会と交渉するのである。

それによって「選手のための役員」を帯同することができる。この交渉によって、私が取得 したExtra OfficialのADカードの数は常に

他のNOCを上回った。本来ならば、本当に必要な役員を選手と同様に選考するシステムがあればいいのだが、それが できないときの

苦肉の策であった。
 
 しかし最も大切なのは、選手団本部が選手のための機能集団であるとJOCに根付かせたことである。
 
  こうした選手団本部の変革がすぐに奏功したのが、競泳女子200メートル平泳ぎの岩崎恭子の金メダルではないだろうか。

ロサンゼルス五輪で日本を一人で背 負って戦った長崎宏子が果たせなかった夢を、14歳の無垢なアスリートが誰の注目も浴びずに

やってのけた瞬間だった。選手団本部が機能集団化することで選 手と本部の垣根が取り払われ、信頼関係が生まれる。

選手は自分に集中しながら、選手村生活を快適に送ることができる。バルセロナの選手村の風通しの良さが 起こしたとも言える奇跡

だった。

バルセロナ五輪の競泳女子200メートル平泳ぎで優勝、史上最年少で金メダルに輝いた岩崎恭子=1992年7月27日

 
あれから24年もたったリオ五輪。12個の金メダルを獲得した。バルセロナの4倍ということになる。日本選手団本部の改革が浸透して

きた証と見る。
 
 私は「メダル、メダル」と騒げば騒ぐほど、メダルが遠のく気がしていた。

なぜか。メダルの先にあるものを目指さなければメダルは手元に来ないからだ。JOCは必ず大会前に金メダル獲得目標を掲げる。

しかし、それが達成されたことがあるのは1964年東京五輪だけだ。
 
  時の強化本部長の大島鎌吉日本選手団団長は「15個の金メダル」を約束した。そして、16個を獲得した。大島は後にオリンピック

平和賞を授与されるほど、 スポーツで世界平和の構築を掲げるオリンピック精神を持った哲学者であり実践家でもあった。彼の金メダ

ルの先には平和があった。

メダル争いまで進んでいく選手の肉体的、精神的疲労は大変大きなものです。

また、これから十代のオリンピック選手がどんどん生まれてくると思います。

選手たちはメンタル面でもとても強靭ですが、オリンピックという特殊な環境では平素の自分にヒビが入るとも限りません。

選手たちが快適に試合に臨み実力を十分に、またそれ以上に出せるように

選手を支える役員で固めてもらいたいですね。

改革は大分されているようですが、JOCは更なる合理的な改革のアイデアを考えてもらいたいと思います。

日本の躍進の為に縁の下の力持ちになろうという精神をもてば

名誉だけの役員など恥ずべきものだと自覚できるのではないか。


 春日良一(スポーツコンサルタント)

スポーツコンサルタント。1955年、長野県生まれ。上智大文学部哲学科卒。日本体育協会で国際畑を歩み、国際オリンピック委員会(IOC)との折 衝窓口として活躍。89年、日本オリンピック委員会(JOC)に移り、長野冬季五輪招致活動や五輪マーケティングに携わる。体協、JOC在籍中に五輪等日 本代表選手団本部員を通算5大会経験。95年独立し 有限会社ゲンキなアトリエを設立。代表取締役に就任し、 国際スポーツ交流イベントやアスリート支援等を手掛ける。五輪批評「スポーツ思考」をウエブで発行。